7               〃           6章
更新日時:
2005/11/18
俺の髪に触れている彼女の綺麗な指先が、徐々に下にズレていく。
顔に触れて、最後は俺の体へと進んでゆく。
彼女の指が通り過ぎていった後には、俺の心の声が置き去りになる。
その声は・・・『桜じゃない。』っていう俺の叫び。
 
果帆が入院して、桜とさよならをしたあの日から、俺の心は動きを止めた。
俺と桜が付き合うことは、絶対に桜のオフクロさんが許さない事はわかっていた。
オフクロさんが、桜に2年前のオヤジさんの死をどう話していたかは、桜にも詳しくは聞いていないのでハッキリとは、わからないけど、俺たちが悪者になっていた事は予測がついた。
それは、桜が俺の事を知って、病院の前で泣いた時。
桜は、亡くなったオヤジさんに向かって謝っていた。
きっと、うらまないといけなかった人物に心を許してしまったから。
だから、桜はオヤジさんに謝り、そして俺との接触を避けたんだと俺は理解した。
2年前の真相を知っていたはずのオフクロさんが、桜に話していた嘘。
だけど、俺たちを恨む事で、それをバネにしてオフクロさんは、桜とまだ小さい果帆を抱えて、この2年間必死で生きてきたんだと思う。
俺たちを、恨む事で生きてこれたのかもしれない。
そんな思いでいるオフクロさんに、俺たちの事を認めてほしいなんて言えないし、認めてもらえるわけがないのは、初めからわかっていた。
だけど、わかっていても俺は桜を忘れる事ができなかった。
桜からの連絡をずっとずっと待っていたんだ。
あのパーティーの夜も、桜からの連絡を受けて、桜に逢うまで何があったか、記憶にない。
とりあえず、無我夢中で会場から脱出して、無我夢中で車を走らせた事しか覚えていない。
そして、彼女の顔を見た途端、俺は我慢できなくて彼女を抱きしめた。
一応、オヤジさんには断ったけど。
本当は、桜の顔に触れて・・・いや、桜の唇に触れて、桜の体温をもっともっと感じたかった。
だけど、俺が桜にせまればせまるほど、桜が傷つくのはわかっていたから、俺は必死で我慢した。
その時、俺は実感した。
俺の中で桜の存在が大きくなっているって事に。
だから、俺は桜との事を、ちゃんと終わらせようと、桜に頼んで『さよなら』をした。
それなのに・・・。
 
俺は、左腕を両目のあたりに当てて目をつぶる。
そして、あの時の事を思い出していた。
 
あの時・・・桜と最後のキスを交わした時。
俺は最後にずっとずっと桜に触れたかった思いを、心から消す為に、桜にキスをしたんだ。
それで、俺は本当に終わったと思っていた。
俺の心の中から、桜が消え去って、明日からまた、今までの俺に戻れるって、本気でそう思っていたのに。
桜の存在は、忘れる所か、どんどん俺の中で大きくなっていき、俺を苦しめていった。
自分の手を見れば、桜に触れた時の温度や手触りを鮮明に思い出す。
鏡やガラスに映った自分の姿を見ると、目は自然と自分の唇にいってしまって、桜と最後に交わしたキスが、鮮明によみがえり、当たり前の事ながら、俺は桜にたまらなく逢いたくなったりする。
ハッキリ言って、重症。
俺自身、ビックリしてる。
こんなに桜に執着し、そして桜を求めていたなんて!
今までいろんな女を抱いてきた。
モデルや女優といった大物もいるけど、ありさみたいに普通の女性だけどスタイルもいい大人の女。
過去の女なんて数え切れないくらいいた。
だけど、誰一人として俺の心に残った女はいない。
桜を除いては・・・。
なぜ、桜なのか。
色気もまだないただの高校生の桜に、こんなにも心が動かされているのが、俺自身も不思議だった。
だけど、ただ一つわかるのは・・・桜じゃなきゃダメだって事!
ありさに触れられて、それを強く実感した俺は、さらに自分が嫌になる。
桜を忘れるために、ありさを抱こうとしている俺。
ありさを抱いて本当に桜を忘れられるのか。
そんなわけがない。
今の時点で既に桜とありさを比べているのに、このまま進んでも俺はもっともっと桜とありさを比べるだけ。
自分自身で、自分を泥沼状態に陥れている事に気付いて、俺は思わず思ってしまう。
 
何やってんだよ、俺。
 
そして、少しため息をつく。
その時、かすかな音が玄関から聞こえた気がした。
それは、扉が閉まる音に似ていた。
不思議に思った俺の目は、自然と玄関に向く。
だけど、リビングと玄関をつなぐ廊下の真ん中には、閉まった扉がある。
その扉のガラスになっている部分が、扉の上半分の為、俺の位置からは、ガラスの部分はかなり上にあって、扉の向こうの状態は全く見れなかった。
仰向けになったまま顔だけを、右側に向けている俺の姿に、ありさは両手を俺の顔に合わせて、横に向いていた俺の顔を、正面に戻す。
 
「どうしたの?」
 
そういいながら、俺の唇に口づけをする。
俺と唇が触れた瞬間、ありさは舌をからませてくる。
俺は、思わず彼女から唇を離してしまう。
 
「どうか・・・した?」
 
俺の行動に彼女が驚くのはわかるけど、一番驚いたのは実は、俺自身だった。
だって、さっきまで俺はたくさんありさとキスを交わしていた。
キスをしながら、『桜とは違う。』って桜と比べたりはしたけど、自分から離すなんて、しなかった。
だけど、今は自分で気付かないうちに離していたんだ。
 
なんで?
 
自分でもわからなくて、考え込む俺にありさは、また俺に唇を重ねてくる。
俺もさっきの事が知りたくて、抵抗しないでありさの行動に身をまかせた。
俺とありさの唇が重なる。
そして、ありさがまたさっきと同じキスをしようとした時、今度は、彼女の両肩をつかんで、後ろに突き放した。
すると、自然と俺の唇と彼女の唇は離れる。
 
「ち、ちょっと!!一体、どうしたのよ!」
 
わけがわからない彼女はちょっと怒り出す。
俺はというと、どういうわけか、急に『彼女から離れたい!』という衝動にかられた。
だから、俺は彼女に何も答えずに、とりあえず俺の上に乗っかってる彼女を、俺の右側に降ろしてどかした。
そして、俺は上半身を起こして、フロアーに座った。
 
「悪い・・・気分が乗らねぇー。」
 
俺は、それだけ言うと、その場から立ち上がり、リビングの奥にあるソファーをめざし、そこに腰を降ろす。
目の前にあるテーブルに、散らかっているものの中からタバコを手に取ると、ライターで火をつけ、1回吸って吐く。
1回タバコを吸うと、気持ちが落ち着いた俺は、そのままタバコを吸いながら、ソファーにユッタリと身をまかせる。
何回かタバコを吸っているうちに、いっぱいいっぱいだった俺の頭が少しずつ、ゆとりを取り戻していった。
そして、気付いた。
どうして、ありさのキスを受け入れられなくなってしまったのか。
それは、きっと桜を求めているから。
ありさに触れているうちに、桜への思いがつのり大きくなった俺は、いつのまにか桜の面影をみてありさに触れるようになっていた。
だから、さっきのキスでいうと、桜と交わしたキス以上の事は、体が勝手に拒否するんだと思う。
それくらい、俺の体も心も脳も全て、俺は桜におかされていたって事・・・。
 
「ホント・・・重症だな。」
 
真実に気付いた俺は、タバコを吸いながら、そういうと「フッ。」と笑ってしまう。
そんな俺の姿を、訳が分からないありさは、放心状態で見ていた。
だけど、笑いながらタバコを吸っている俺の姿を見ているうちに、ありさも正気を取り戻し、乱れた服装を直しながら俺の側まで歩み寄ってくる。
 
「雪・・・何かあったの?」
 
彼女の言葉に俺は、「いや。」と言いながら首を振る。
 
「別に何もないよ。」
 
彼女に目を移し、右手で髪をかきあげ、彼女にごまかし笑いをする俺。
だけど、そんな俺の演技なんて、俺の事を知り尽くしている彼女にきくわけもなく、
 
「ごまかさないでよっ!」
 
と叫ばれ、簡単に見破られてしまった。
だけど、ありさに本当の事なんて言いたくない俺は、あくまでシラを切る。
 
「ちょっと、疲れてんだ。
悪いけど、帰ってくれ。」
 
俺はそう言うと、顔を天井に向け頭をソファーのヘッドレスの上に乗せて、足を伸ばし、腰をズラして座る。
はたから見たら、行儀が悪い座り方だけど、座っている俺としては、かなり体がリラックス出来て楽(ラク)な格好だった。
ありさをほったらかしにして、俺はそんなスタイルでのんきにタバコを吸う。
こんな姿を見せられて、ありさが納得するわけがない。
帰る所か、彼女はさらに驚く言葉を俺に投げかけてきた。
 
「もしかして・・・好きな人が出来たの?」
 
「うっ・・・ゴホゴホゴホ。」
 
いきなり核心を突かれた俺は、ごまかす余裕もなく、むせてしまって、自分でも呆れるくらいバカ正直に反応してしまった。
咳き込む俺にありさは、
 
「えっ?ず・・・ぼし?」
 
とさらに聞き返す。
その反応に、『俺が人を好きになったら、そんなにおかしいのか?』と突っ込みたくなるが、そんな事より今はごまかさないといけないんだと、すぐ我に返る俺。
 
「そんなわけないだろ?」
 
と慌ててごまかしてはみるが、もちろん彼女の脳裏に残るわけもなくて、右から左へただ通過して蒸発していった。
さらに、詳しく知りたい彼女は、俺の側まで歩み寄ってきて、俺の足に手を置き、必死に聞いてくる。
 
「ねぇー、誰なの?
朱音(アカネ)さん?美月(ミヅキ)さん?
それとも、典子(ノリコ)さん?」
 
彼女は、どうしても誰かを突き止めたいようで、俺と関係のあった女性の名前を、必死で思い出し口にする。
だけど、俺はそんなありさの姿を見て、彼女が愛おしいとか、本当の事を言わなくて申し訳ないとか、そんな感情は全く感じなかった。
俺の心からフツフツと湧き上がってきた思いは、ただ一つ。
『ウザイ!』
ただそれだけ。
怒りたい気持ちを抑えながら、
 
「もう、いいだろ?
いいから、帰れよ!」
 
と言いながら、タバコを吸って怒りを抑える俺。
だけど、ありさはそれでも止めない。
 
「えーっと・・・あと、誰がいたっけ。
あっ!女優の涼星 南々(スズボシ ナナ)。
彼女じゃないの?ねぇ、そうでしょう!」
 
まるで尋問(ジンモン)を受けているような状態に嫌気がさした俺は、必死で耐えていたけど、とうとう爆発してしまった。
 
「うっせぇー。」
 
俺はそういうと、持っていたタバコを灰皿に、強くこすりつけながら、さらに、
 
「いい加減にしろよ。」
 
と添える。
俺は、昔からの癖で、怒鳴る事があまり得意じゃない。
得意じゃないという言い方はおかしいか。
正確には、そんな必要がなかったから、怒鳴るタイミングがわからないんだ。
俺は、昔のトラウマから、「人」に対して興味がない。
相手がどう思っていようが、どうでもいいし、俺の言葉や行動で相手がどう思おうが、どうでもよかった。
だから、相手に腹が立つ事もそうそうなかった。
そのせいか、俺はホントに腹が立つと、今みたいに、低いトーンでキツイ口調になる。
そして、鋭い目つきで相手をにらんでしまう。
よく秋に、「お前が怒ると、すっげぇーこえーよ。」と言われたっけ。
そんな事を思い出していた俺に、突然彼女が触れてくる。
触れてきた先は、俺の胸。
ブラウスのボタンははだけて、ただ上に羽織っているだけの状態の俺の左胸に彼女は、自分の右手をあわせる。
意図がわからない俺は、とっさに声が出ない。
ただ、彼女をみつめるだけ。
俺の視線に気付いた彼女は、触れた手はそのままで、顔だけを俺に向ける。
 
「ここに・・・誰がいるの?」
 
そういった彼女の声は今までに聞いたことがないくらい、悲しい声だった。
いつも気丈な彼女からは、考えられないような声。
それを聞いた瞬間、俺は彼女を傷つけている事を知った。
だけど、それは本当の恋人同士なら、俺もわびなければいけないと同時に、彼女が納得いくまで腹を割って話すのが、すじだと思う。
だけど、俺たちは・・・。
 
俺は、彼女が触れている手を左手でつかむと、俺から離し下に降ろす。
そして、彼女の手をつかんでいた左手も離す。
 
「お前に、言う義理はない。」
 
俺の言葉に、彼女は何かを言いかける。
それを、俺がさえぎった。
 
「俺たちは、契約を結んだはずだ!
忘れたのか?」
 
彼女の口が閉じる。
そう、俺たちは最初に契約を結んだんだ。
彼女は、女性という理由で、上司に見下されていた。
だから、どうしても、上司を見返してやりたいから、薬品の契約を取りたい。と俺に頼んできた。
薬品の契約を結んでくれたら、俺の条件を飲むと彼女は言った。
それが、丁度・・・2年前だった。
俺は、桜のオヤジさんの事もあって、仕事にのめり込んだけど、それだけでは癒されずに、女に癒しを求めていた。
その時既に、何人か体だけの関係の奴はいたけど、多くいて不自由な事はないから、ありさにその話を持ちかけた。
ありさは、それに乗ってきた。
だけど、俺は『愛』なんて信じなかったし、束縛されるのもごめんだったので、ありさに条件を出したんだ。
『愛はなしで、俺に干渉しない事。』
それを、破った時は契約破棄にしよう。ってな。
今のありさは、思いっきり契約違反だ。
 
俺にするどい指摘をされた彼女は、黙って立ち上がると、側に置いていた荷物を手に取り部屋を出て行こうとする。
その姿を見た時、俺は一つの答えを出した。
 
「ありさ・・・もう、やめよう。」
 
俺の言葉に彼女は勢いよく振り返る。
今度は彼女の目を見て、俺は言った。
 
「契約は打ち切り。
もう、ここへは来るな。
それに、病院にも来なくていい。」
 
それには、彼女も納得がいかない。
今度は俺の側にすごい勢いで戻って来る。
 
「嫌よ!絶対に嫌っ!」
 
俺の手に触れ、必死で抵抗する彼女。
だけど、俺は彼女から手を離し、彼女を真剣に見た。
 
「お前のいう通り、俺の心には忘れられない奴がいる。
だから、もう他の女は抱けないんだ。
そんな俺と一緒にいても、仕方ないだろ。」
 
だけど、彼女は首を振る。
 
「それでもいい。
薬品の契約も、いらない。
心もいらない。
抱いてくれなくてもいいから。
ただ、側に雪がいてくれるだけでいいの。
わがまま言わないから・・・お願い。」
 
やっぱり・・・。
俺はそう心の中でつぶやく。
ありさが、桜の存在を必要以上に聞いてきた時点で俺は、もしかしたらありさは俺の事を本気で好きなんじゃないか。って、思ったんだ。
だから、契約を解除する事を申し出た。
まあ、桜のこともあったし、もう誰とも関わるつもりはなかったから、自然と交流はなくなるとは思ったけど、さっきのありさの反応をみたら、あやふやで終わらない方がいいと思ったんだ。
けど・・・予感は的中したか。
 
ありさの気持ちを知っても、今の俺にはどうする事もできない。
俺は、ソファーから立ち上がると、俺の前で座り込んでいるありさの腕をつかんで、立たせる。
そして、彼女のカバンを持つと、彼女の手を引いて、玄関とリビングを結ぶ扉を開けて、彼女を扉の向こうに出すと、持っていたカバンを彼女の手に握らせた。
 
「薬品の契約を打ち切られると、困る患者がいるんだ。
そのまま継続させてもらう。
どうしても嫌だというなら、契約解除を申請する用紙を送ってきてくれ。
じゃ、元気でな。」
 
俺はそう言って、扉を閉めた。
もちろん、扉に鍵なんて付いてない。
入ってこようと思えば、ありさは簡単に入ってこれた。
だけど、彼女は戻ってはこなかった。
納得したのかはわからない。
だけど、しばらくその場に立ち尽くしていたけど、10分も経たないうちに、玄関が閉まる音が聞こえた。
 
「はぁ〜。」
 
と思いっきりデカイため息をつきながら、俺はソファーに向かって思いっきりダイブする。
うつぶせになってソファーに横になり、肘置きに顎を乗せる。
ありさを傷つけて、ホントはこういう時は彼女の心配をしなきゃいけないのは、わかってる。
彼女に悪い事したな。って反省するのが普通だって事も!
だけど、こんな時でも、俺の頭は桜の事だけだった。
 
「桜に逢いてぇー。」
 
そう叫んで俺は寝返りをうって、仰向けになる。
また、天井を見る。
両手を上にかかげる。
まぼろしの桜を両手でつかんでみる。
その手を、額に乗せて俺は、つぶやいた。
 
「桜・・・。
俺を救ってくれ。」
 
そうやって、俺は手の中にいるはずもない幻の桜に、助けを求める。
少し時間が流れた。
静まり返った部屋が、徐々に乱れた俺の心を落ち着かせてくれた。
俺の気持ちが落ち着きだした時、その静けさが突然聞こえた大きな音で、消えてしまった。
それは、玄関のドアが乱暴に開けられる音だった。
何事かと思って上半身を起こした俺の目に、今度はリビングと玄関の間にある扉を、乱暴に開ける秋の姿が見えた。
 
「な・・・んだっ?」
 
すっごい勢いで入ってきた秋に、驚きながらも聞いてしまう。
のん気な俺の態度に、さらに腹を立てた秋は、俺の所まで猛ダッシュしてくると、俺の腕をつかむと、俺を強引にソファーから立たせる。
その時、丁度優歌さんが秋を追って俺の部屋に入ってきた。
秋と俺の姿を見て、優歌さんは慌てて秋の腕をつかむ。
 
「ちょっと、秋さん!落ち着いてよ!」
 
だけど、秋は優歌さんの腕を振り払い、「いいから、向こういってろ!」というと、今度は俺の胸ぐらをつかんだ。
 
「おいっ!一体、何なんだよ!」
 
と聞く俺の声なんて、完全に頭に血がのぼっている秋には、届かなかった。
 
「お前、桜ちゃんに何て言ったんだ!」
 
「さ・・・く・・・ら・・・?」
 
俺は一瞬耳を疑う。
そして、半信半疑で秋に聞き返す。
 
確かに今、秋のやつ『さくら』って言ったよな?
けど、何で今桜の名前が出てくるんだ?
 
予想外の展開に、俺は頭と心がついていかない。
戸惑い黙る俺に、今度は秋の右ストレートが俺の左頬を襲う。
そんな物がくるなんて、予測もしていなかった俺は、もちろん、もろにくらってしまう。
ジャストミートした俺の体は、後ろに吹っ飛ばされ、反対側の壁に背中を打ち付けて、そのままそこで尻もちをついた。
 
「いってぇ〜。」
 
といいながら、俺は左手で左唇をさわる。
思いっきり左頬の内側と唇を噛んでしまったから、口の中は血の味で充満するし、唇は切れてそこからは、血がにじむし、半端じゃないくらい痛かった。
 
「雪くん!大丈夫?」
 
俺の側にかけよってきた優歌さんは、殴られた俺の顔に触れようとするが、その手を俺が右手で払いのけた。
俺の見ている先は、目の前の秋だけだった。
 
「テメェー!ふざけんなよっ!
いきなり殴りやがって!」
 
と言いながら立ち上がる俺に、秋は冷めた目で、俺を見る。
 
「お前が何度も桜ちゃんを泣かせるからだろ!
前といい、今日といい、もっと方法があるんじゃないのか!」
 
その言葉を聞いた瞬間、秋に対して向けられていた怒りが、急にピタっと動きを止める。
 
コイツ今・・・変なこと言わなかったか?
確か・・・『今日』って。
 
「今日って・・・なんだよ!」
 
不思議でたまらない俺は、秋に聞いてみる。
だけど、今度は俺の言葉に驚いた顔をしたのは、秋と優歌さん。
黙ったまま二人は、お互いを見合う。
そして、口を開いたのは、優歌さん。
 
「さっき、桜ちゃんが来たでしょ?」
 
「はぁ?」
 
とバカ面で聞いてしまう俺。
そして、さらに、
 
「桜が来るわけないだろ?
ここの場所知らねぇーんだから。」
 
と言って俺は笑いとばす。
だけど、それを聞いた秋も優歌さんも、俺とは正反対で真剣で険しい顔つきになる。
その顔が、尋常じゃないだけに、俺の笑いも自然と消えてしまった。
 
「なんなんだよ!」
 
たまらず、秋に聞く俺。
だけど、それには答えずに、反対に秋が俺に質問をしてくる。
 
「本当に、お前、桜ちゃんに逢ってないのか?」
 
俺の質問に答えろよ!とツッコみたいが、この二人のただならぬ雰囲気が、俺にその言葉を言わせまいとしていた。
俺は、仕方なく秋の問いかけに答える。
 
「ああ。病院でさよならしたっきり、桜には逢ってねぇーよ。」
 
「いったい、どういう事なんだ?」
 
秋は、今度は優歌さんに聞く。
 
「そんなはずは!
だって、私、ちゃんと桜ちゃんに、ここを教えたんだから!」
 
「教えたって・・・何でっ!」
 
思わず叫んでしまった俺。
だって、何でさよならしたはずの桜に、ここを教えたんだ?
それより、なんで優歌さんと接してるんだ?
不思議でならない俺は、優歌さんにくってかかる。
すごい剣幕で聞いてくる俺にビビリながら、優歌さんは口を開く。
 
「果帆ちゃんの支払いが気になる。って今日夕方病院を訪れてきたの。
それで、秋さんの家に招待して、話をして、そして、雪くんに逢ってほしい。って私が、頼んだのよ。
そしたら、桜ちゃん、『逢う。』って言ってくれて、私がここを教えたの。
だから、さっき桜ちゃんがここに来たはずなんだけど。」
 
「いや・・・誰も・・・。」
 
『来てない』って言おうとして、俺の口は止まる。
 
まてよ!
そういえば、ありさを抱こうとして、フロアーで彼女と抱き合っていた時、玄関のドアが閉まる音が聞こえた気がしたよな?
って事は・・・。
 
「うそ・・・だろ?」
 
俺がそう口にした瞬間、体から血の気が失せていった。
それだけじゃない。
立っている足にも力が入らなくなって、俺はたまらずその場に座り込んでしまった。
心臓がバクバク物凄い速さで動き、手だって震えてしまって、頭の中も真っ白になった。
震えた手で口を抑え慌てふためく俺の様子に、秋が疑いを持つ。
 
「お前・・・何か心当たりがあるんじゃないのか?」
 
そんな秋の言葉なんて、耳には入らない。
全く、反応をみせない俺に、秋は俺の目の前に来て座り込むと、
 
「おいっ!雪!」
 
と叫び俺の両肩に、両手で触れようとする。
だけど、俺の肩に触れるちょっと手前で、秋は伸ばしていた手を止めた。
それを見ていた優歌さんがたまらず、「秋さん?」と秋に聞いてくる。
その瞬間、また秋は俺の胸ぐらをつかんだ。
強くひきつけられた俺は、自然と秋に目がいった。
俺を、さげすんだ目で見る秋の目を見た時、俺は全てを見透かされた気がして、たまらず目をそらした。
それを見た秋は、俺を思いっきり後方におしやって、つかんでいた胸ぐらを手から離した。
そのしぐさは、まるで俺を突き放したかのように思えた。
そして、俺に低い声で一言、こう言った。
 
「お前・・・最低だな。」
 
って。
その言葉は、俺の心に突き刺さった。
首をガクと落として、頭を両手で抱える俺の姿を見ていた優歌さんは、サッパリ意味がわからなくて、秋に真相を聞いてくる。
 
「秋さん・・・どういう事なの?」
 
中腰で俺の目の前にしゃがんでいた秋は、腰を降ろして俺の目の前に座った。
そして、優歌さんの方に振り返る。
 
「コイツ、製薬会社のありさって女とやってたんだよ。」
 
「えっ?」
 
まだ、意味がわからない優歌さんは、座っている秋の近くまで歩み寄ると自分も座る。
 
「どうして・・・そんな事がわかるの?」
 
優歌さんの質問に、秋はまた俺の胸ぐらをつかんだ。
 
「こうやっただけで、コイツの体から、彼女の香水の香りがするんだよ!
彼女の匂いはキツイからさ。
一度かいだら、忘れないよ。」
 
それを聞いた優歌さんは、少し考えて驚きの顔をみせる。
そりゃ、そうだろう。
誰だって驚くよな。
俺だって驚いているんだから。
だって、桜が泣いていたのは、俺がひどい言葉を投げかけたからなんかじゃない。
それは・・・。
 
「まさか・・・ありささんと雪くんがやってるのを、桜ちゃんが見たって事?」
 
「十中八九、そうだろうな。」
 
それには俺は答えられず下を向いたまま。
変わりに答えたのは秋。
 
「そんな!!どうしてっ!」
 
優歌さんがそう叫んで、俺の元へ近寄ろうと立ち上がった。
そんな彼女の腕を、秋がつかみ彼女を踏みとどまらせる。
 
「離してよっ!」
 
俺を殴りつけたい優歌さんは、秋の腕を振り払おうと必死で抵抗するが、秋の腕は取れない。
それどころか、「いいから、座れ。」と強引に、秋の側に座らされた。
 
「どうして、雪くんをかばうのよ!」
 
秋の行動が納得できない優歌さんは、秋にくってかかる。
「まー、落ち着けよ。」と秋はいうと、少し笑った。
 
「コイツは、あの女とやってないよ。」
 
その言葉に、優歌さんも「えっ?」というが俺も言葉にはしないものの、顔を上げて秋をみる。
その俺の顔を見て秋は、
 
「『なんで、わかったんだ?』って顔して、俺を見るなよ。」
 
といいながら優しく笑うと、俺の頭に右手を乗せて、ポンポンと俺の頭を叩いた。
 
「桜ちゃんが目撃してしまった。って知ってお前の取り乱しようを見たら、お前がどれだけ桜ちゃんに惚れているのか、一目瞭然だよ。
そんな男が、他の女抱けるわけないだろ?
やる前にリタイアしたんじゃないのか?」
 
それには、俺は答えない。
ただ、秋のこの子ども扱いをしているかのようなしぐさが、どん底に落ちた俺の気持ちをやわらげてくれていた。
俺は、黙って秋にされるがまま、じっとしていた。
 
「お前に1つだけ、教えてやるよ。」
 
秋の言葉に俺は秋に目をやる。
 
「愛は奪うだけが、方法じゃないんだよ。
時には、努力して手に入れなきゃいけない時だってあるんだ。」
 
俺は秋の言っている意味がわからなくて、黙って秋の次の言葉を待った。
 
「桜ちゃんのお母さんが、俺たちの事をうらんで生きてきたってのは、大体想像はつくし、絶対に桜ちゃんとの交際を認めないってのも、予測はついてる。
だから、雪は、桜ちゃんを強引に奪おうとしたんだよな?」
 
「えっ?ちゃんと、選ばしてたじゃない!」
 
病室でやったやりとりを思い出した優歌さんが、秋の言葉を否定する。
だけど、秋は「それは、表向きはね。」と答えると、俺から手を離し、またフロアーに腰を降ろす。
 
「お前は、自分と家族のどちらかを選べ。と桜ちゃんに言って、彼女が迷えば奪うつもりだったんだろう。
というか・・・迷う事を願った。
もしくは、1%にも満たないかもしれないけど、自分を選んでくれる事にかけたんじゃないのか?
お前はいつだって、そうやって勝者と敗者を作って生きてきたんだもんな。
だけど、今回はそんな物、作る必要がないんだよ。
お前が選ぶ道は、もう一つあったんだからさ。」
 
「もう1つ?」
 
俺の問いかけに、秋はうなずく。
 
「それが、『努力して手に入れる』っていう愛だよ。」
 
そして、秋は俺の左手を取ると、今度はそれをポンポンと叩いた。
 
「お前という男を、オフクロさんに認めてもらうんだよ。
そして、桜ちゃんをどれだけ愛しているか、オフクロさんに立証するんだ。
そしたら、オフクロさんだって納得して二人のこと許してくれるはずだろ?」
 
「そんな・・・簡単にいくわけないだろ。」
 
何を言い出すかと思えば・・・。
呆れて物が言えない。
俺は、秋に即答した。
だけど、秋は「だから、諦めるなって。」というと、
 
「お前は医者で、オフクロさんは患者なんだぞ。
こんな好条件ないだろう?
医者と患者は切っても切れない関係なんだからさ。」
 
そして、「なっ!」と笑う。
俺は、少し秋の言った言葉の意味を考えてみた。
って事は・・・。
 
俺の中で一つの答えが出た。
俺はそれを秋に言おうとして、アイツに目を向けた時、秋は「そう!」と言って笑う。
 
「お前が、オフクロさんを治すんだよ。
この手があれば、やれるよ!」
 
確かに、秋の案は間違ってない。
俺も桜も幸せになれる提案だと思う。
だけど、今の俺たちには・・・もうそれは、役には立たないだろう。
だって・・・。
 
俺は秋に向かって素直に「ありがとう。」と礼を言う。
だけど、すぐその後で、「もう、遅いよ。」と付け加えた。
 
「なんで?」
 
と聞く秋に俺は、当たり前の答えを返す。
 
「桜は、ありさとの事を見たんだ。
俺の事、許すわけないだろ。」
 
って。
だけど、秋は、「そんな事か。」となぜか、たいした事がないような口調でいうと、
 
「それは、大丈夫だろう。」
 
と簡単に答えた。
 
「なわけ、ないだろ!」
 
とさらに即答する俺。
俺の突っ込みに優歌さんも「そうよ!」と同意して秋に、反発する。
だけど、追い込まれている秋は、別に焦る風もなく、座ったまま腕を上に伸ばして「う〜ん。」と伸びてかなりリラックスしている。
 
「桜ちゃんだって、お前と同じ気持ちだったと思うよ。
さよならしたけど、やっぱり忘れられないって。
だから、優歌にお前の事を聞かされて、ここへ来たんだろうからさ。
お前さ、桜ちゃんに自分の気持ち、ちゃんとはまだ伝えてないだろ?」
 
そう言われて俺は、ストレートに桜に気持ちを伝えていなかった事に気付いた。
こんなに好きなのに・・・俺、バカじゃねぇーか。
と自己嫌悪に陥った俺は、秋の問いに答えない。
一人落ち込んでいる俺の姿をみて、「フッ。」と笑う秋。
 
「桜ちゃんに、本当の気持ちぶつけてみたら?
言ってみなくちゃ、開ける道も開かないぞ。
お前の気持ちを聞いても、桜ちゃんがさっきの事を許さないって言って、受け入れてもらえなかったら、俺がなぐさめてやるからさ!」
 
そして、秋は笑うと、「行って来い!」と俺の足を軽く「ポン。」と叩いた。
 
秋の言葉で、俺は自分の気持ちと向き合ってみる。
桜は、許してくれないかもしれない。
だけど、今逢わなければ、100%俺たちは終わってしまう。
だったら、ダメもとでトライしてみる価値はあるよな?
それに、このまま諦めて桜を追いかけなければ、俺は一生後悔し続けて生きていく事になる。
今でも、あの時さよならした事をひどく後悔して、生きてる気がしなかった、この2週間だったのに、これよりもっと辛い気持ちで、俺は一生過ごすんだ。
思っただけでも「ゾッ。」とした。
 
よしっ!
 
俺は、覚悟を決めて立ち上がると、優歌さんに桜がどこへ行ったかを聞いた。
 
「たぶん、家に帰ったと思うけど。」
 
との答えで、俺は桜の家に向かう事にした。
テーブルをあさって、車のキーを探し当てると、それと携帯電話を持って、俺はリビングを出て行こうとする。
その時、俺の携帯がなった。
 
「この音って・・・。」
 
優歌さんの声に、俺は携帯電話の液晶をみる。
彼女が思った通り、発信先は病院からだった。
俺は電話に出た。
 
「はい。えっ?今からバイク事故の患者が搬送されてくる?
それで・・・。」
 
俺は詳しく状況を聞いた。
聞く限り、ついてすぐに手術になりそうだった。
看護師がいうには、今病院にいる外科医は、緊急手術をしていて、誰も手があかない。
早急に戻って来てほしいという事だった。
俺は、仕方なく桜の元へ行く事を諦めた。
 
「わかった、すぐに戻る。」
 
俺がそう言っている途中で、秋が俺の携帯をぶんどった。
 
「お前、何して・・・。」
 
と言っている俺の事なんて、完全に無視して秋は、電話で話を始める。
 
「もしもし、秋だけど。
雪は、大切な用事があって、そっちには行けない。
今日、海が当直だから、今すぐアイツを探してくれ。
執刀は、海にやってもらう。
俺も、今からそっちに戻るから、準備を頼んだよ。」
 
秋はそういうと電話を切った。
 
「はい、携帯!」
 
秋は、そう言って俺に携帯電話を差し出す。
俺は受け取りながら、「お前・・・正気か?」と口にしてしまう。
だけど、秋は、
 
「何が?」
 
とキョトンとして答える。
 
「何が?じゃねぇーよ!
海は、2年もメス持ってねぇーんだぞ!
そんな奴に、執刀される患者の身にもなれよ!」
 
熱くなっている俺に対して、それでも秋は冷静に「大丈夫だって。」と笑ってる。
 
「あの日・・・果帆ちゃんが運ばれてきた時さ、海が桜ちゃんに2年前の話しただろ?」
 
なぜ、今秋がそういう話を言っているのか、わからない俺は、ただうなずいた。
 
「その時に、桜ちゃんに『外科医に戻ってほしい』って頼まれたんだって。
それから、アイツこの2週間、感覚を取り戻す為に必死で頑張ってたよ。
4、5日前から簡単な手術や夜の急患は、アイツに診させてた。
見てて、流石だな!って思ったよ。
スクールで、お前の次に好成績で卒業したんだもんな。
やっぱ、アイツも腕はいいよ。」
 
俺は驚いて声がでなかった。
海が、そんな事してたなんて・・・。
何もいえない俺に、秋はさらに続ける。
 
「だから、こっちの事は心配するな。
お前は、桜ちゃんの所に行け!」
 
俺は素直に頷くと、止めていた足を動かしリビングから出て玄関に向かう。
その時秋が、「あっ!」と叫んで、靴を履いている俺の元に走ってくる。
 
「今の患者は大丈夫だけど、他何かあったら、連絡するから、電波の届くところにはいろよ!」
 
秋の言葉に俺は、「わかってる。」と笑顔で答える。
そして、ドアノブに手をかけた時、秋が「あっ!雪、もう1つ。」と俺に声をかける。
「ん?」と振り返る俺に、秋は自分の車の鍵を渡した。
 
「お前の愛車はうるさいだろ。
ほら、キーチェンジ。」
 
言われるがまま俺は、ズボンのポケットから鍵を出すと、秋のキーとチェンジする。
 
「いろいろ・・・ありがとうな。」
 
と素直にお礼を言う俺に、秋は笑顔で、
 
「健闘を祈るよ。」
 
と言ってくれた。
俺はその言葉を背中で聞きながら、ドアを閉め、部屋を出た。
 
 
私は、一ノ瀬さんに抱きついて、しばらく泣いていた。
だけど、ここに長く居れば、もしかしたら雪に逢うかもしれない!
そう思ったら、私は1秒でも早くこの場から立ち去りたくなった。
それで、まだまだ泣きたい気分を、必死で抑えて、一ノ瀬さんに、『果帆を迎えに行かないといけないから。』と嘘をついて、その場を後にした。
マンションから飛び出した私は、今度は家路を急いだ。
周りの音なんて、今は耳に入らなかったし、周りの景色なんて、目にもとまらなかった。
とにかく、今は家に帰って1人になりたかった。
その気持ちは、進めば進むほど大きくなって、早足だったのが、いつの間にか猛ダッシュしていた。
家のマンションに着き、エレベーターを押してみる。
だけど、エレベーターが降りてくるまでは、まだまだ時間がかかりそうだった。
私は、待っていられなくて、隣にある階段をかけあがる。
玄関の前までくると、カバンのポケットから、鍵を抜き取り、慣れた手つきで鍵を開けて中に入る。
扉を閉めたと同時に、鍵も閉め誰も入って来れないようにした。
その瞬間、急に私の体から力が抜けてしまい、私は靴を履いたままで、両膝を廊下について膝まづいてしまう。
私は、さっきからある物に苦しめられていた。
 
「もう・・・ヤダ・・・。」
 
とうとう私は耐え切れなくなって、そう口にしてしまう。
と同時に、私の目から止めどなく涙が流れる。
一ノ瀬さんと別れてから、ずっと私を苦しめていたある物とは・・・。
ほら!今も耳に残ってるの!
ありささんが、雪の名前を呼ぶ声。
雪を感じている声。
そして、雪がありささんを呼ぶ声。
その全てが私の耳から離れなくて、何度もリピートするの。
そして、何を見ても、その景色に映し出されるありささんと雪の二人のシーン。
忘れたいのに、忘れられない。
途方にくれる私は、ただその場でしばらく何もかも忘れて泣いていた。
 
どれくらい泣いていただろう。
急に、玄関のインターホンが1回鳴った。
振り返ればすぐ目の前に、ドアはあったけど、今は人と話す気にもなれないから、居留守をする事にして、私は泣きすぎてシャックリが出るのを必死で耐えて、息を潜めていた。
だけど、その人は、何度も何度も根気よくインターホンを鳴らす。
急ぎの用事かな?と思って私は出る事にするけど、いつも液晶モニターで確認してからドアは開けているので、一応穴から外を確認してみる。
だけど、丁度その人が立っている位置が穴から見えないズレた所みたいで、顔は確認できなかった。
仕方なく少しだけドアを開けた。
10センチくらいの隙間から、立っている人物を見る。
 
「!!」
 
ビックリして声が出ない。
だけど、反射的に私は、すぐに開けたドアを閉めようとドアを手前に引いた。
だって、目の前にいたのは、雪だよ!
今一番逢いたくない人なんだから!
なんで、彼がここいるのかなんて、今はどうでもよかった。
ただ、今は『逢いたくない!』って思いでいっぱいだった。
だけど、私の行動に、目の前の彼は、「待ってくれっ!」といいながら、私が閉めようとしてさらに細くなったわずかな隙間に、素早く右足をはさませた。
ドアは、「ガン!」と音を立てて、数センチ開いたままになる。
 
ちょっと!!なんで、足はさむのよぉ〜。
 
心の中で半泣き状態の私は、とにかく扉を閉めたくて、今度は両手でドアノブを握ると、思いっきり手前に引っ張った。
だけど、そんな私の力も彼にかかれば、たいした事がないみたいで、彼は悠々と今度は右肩をその隙間に入れてきた。
私と彼との顔が近付く。
その状態で彼が、
 
「話を、聞いてほしいんだ。」
 
と真剣な眼差しで言ってくる。
その言葉よりも、彼の顔が近くにある事に、ドキドキした私は、思わず両手を離して数歩後ろに下がってしまう。
私が、ドアを離したせいで、彼の前にあった障害はなくなり、彼は自分が入れるくらいドアを開けると、中に入ってきて扉を閉めた。
私の方に振り返った彼は、
 
「桜・・・俺。」
 
と何かをいいかけようとしたけど、それよりも先に私が彼に自分の思いをぶつけてしまった。
 
「なんでよっ!」
 
私はそう叫ぶと同時に、彼の胸を右手で「バシ!」と叩いた。
一度、彼に思いをぶつけてしまったら、もう止める事ができなくなった私は、手も口も止まらなくなった。
 
「『女は駒』なんでしょ!
だったら、私みたいな駒にならないような子供に、かまわないでよ!
どうして、『自分か家族を選べ』なんて言ったの!
どうして、いつまでも、私の心に居座るのよ。
なんで・・・。」
 
私はそういいながら、両手で彼の胸を何度も何度も叩いた。
いつの間にか、胸は熱くなって声もだんだん叫ぶような大声を上げていた。
そして、もちろん大粒の涙が私の瞳からこぼれていた。
そんな私の攻撃に彼は抵抗する事無く、攻撃を受け、私が浴びせる言葉に、「うん。」と彼は優しい声で返事をするだけ。
たったそれだけなんだけど、まるで優しく抱きしめてもらってるような気持ちになるくらい、だんだん私の心は彼で満たされていった。
本当はもう1言、彼に言いたい言葉があった。
だけど、それは・・・どうしても言えなかった。
だから、私は仕方なく彼の胸に当てていた両手を彼から少し離した。
その時、彼が私の右手と左手をそれぞれつかんで力強く引っ張った。
私は彼の胸の中に引き寄せられた。
その時、彼の胸に顔がくっついたせいで、私はある匂いをかいでしまった。
 
これは!!
 
そう思った瞬間、私の頭の中に、またさっきのシーンがよみがえった。
たまらなくなった私は、さっき必死で耐えたもう1つの事を彼に言ってしまった。
 
「どうして・・・ありささんを抱いたの!」
 
って。
私に接触している彼の体からは、ありささんの香水の香りがした。
彼とありささんが、あれだけ密着していたんだから、彼女の香りが移るのは当たり前。
だけど、その香りをかいで、思わず勢いで彼に、『どうしてありささんを抱いたの?』と言ってしまった私は、即後悔する。
だって、恋人でもなんでもない私が、彼にそんな事、言う権利もなければ、聞く権利だってない。
私は立ち入った事を口にしてしまったと、すぐに気付いて「ごめんなさい。」と謝ると、彼の胸から離れようとする。
だけど、いつのまにか私の背中に回されていた彼の腕が、ギュッと私を抱きしめる。
そして、唇を私の右耳辺りに近づける。
 
「なんで、桜が謝るんだよ。」
 
久しぶりに近くで聞いた彼の声に私はドキドキと嬉しさとで、「だって・・・。」としか答えられず、あとは硬直状態の私。
一方、彼は「俺こそ、ごめんな。」と謝ると口を開く。
 
「ありさと、あーいう事をしてたのは、桜を忘れたかったからなんだ。」
 
彼の言葉に、固まっていた私の体は動き、彼から少し離れて彼を見上げる。
さっきまで、私の側にいた彼も顔を上げると、私を真っ直ぐに見た。
 
「『桜とは、つきあえない。』ってわかってたし、強引に桜を奪っても、結局は桜を苦しめてしまうって思ったから、桜の事諦めようと思ったんだ。
ちゃんと、桜と『さよなら』したら、俺も桜を忘れられるんじゃないか。って思ったんだ。だけど・・・。」
 
そして、彼は苦笑いを浮かべると、
 
「忘れる所か、桜の事ばっかり思い出すんだよな。」
 
と言ったかと思えば、急に彼は自分の左手を私の右頬にあてた。
 
「な・・・に?」
 
不思議がる私に、彼は「い・・や。」と言いながら、とても優しく笑った。
彼の私を見る眼差しを見ていると、さらにドキドキしてしまった私は、彼から目をそらしてしまう。
 
「それで、ありさとの事だけど・・・。」
 
彼の言葉に、私はまた彼に視線を合わした。
まるで、彼女の名前を口に出せば、私が彼を見る。とわかっていたのか、私が彼に視線を合わしても、気にする様子もなく、私をみつめたまま言葉を続けた。
 
「ありさが突然今日来たんだ。
アイツを見た時、『ありさを抱けば、桜を忘れられるかもしんねぇー。』って本気で思ったんだよ。」
 
そして、彼は私の頬から手を離すと、今度は私の右手を取ると、自分の左頬に私の右手を押し当てた。
 
「ありさに触れた時の俺の手から感じる体温や感触が、桜と違う。
もちろん、こうやって、触れてる桜の手の体温と、ありさが俺に触れた時の温度は違う。
それがさ、ありさに触れれば触れるほど、桜の記憶が薄れる所が、強くなって鮮明によみがえってきたんだ。
それで・・・思い知らされた。」
 
雪はそう言うと、握っている私の手を離し、今度は包み込むように、私を優しく抱きしめ、今度は自分の顔を私の左頬にくっつけた。
そして、ホントにうっとりしてしまうくらい甘くて優しい声で、彼はこう言った。
 
「桜じゃなきゃダメなんだ。」
 
って。
その言葉に、私はうれしさのあまり、自然と笑みがこぼれてしまう。
だけど、次の瞬間、私は現実に引き戻された。
そう・・・いくらお互いが思っていても、私たちは一緒に居る事はできない。
 
「ごめんね。雪。」
 
私は彼にそういうと、彼と触れている顔を離そうとする。
その瞬間、「桜!」と呼ぶ彼の呼びかけに私は動きを止める。
 
「おふくろさんの事は、関係ない。
桜は俺の事どう思ってる?
桜の本音が聞きたいんだ。」
 
彼はそういうと、さらに付け足す。
 
「やっぱり、さっきの事・・・許せない?」
 
そう言った彼の声はとても力がなかった。
彼自身も、さっきの事を後悔してるのかもしれない。
だけどね・・・。
 
私は「ううん。」と首を振りながら答えた。
 
「確かに、見た時はショックだった。」
 
それには、彼はまた「うん。」と返事をして私の言葉を真剣に聞いてくれた。
今度は私が彼に本音をぶつける番。
私は、ゆっくりと自分の気持ちを、言葉にした。
 
「だけど、私も雪と同じ気持ちだから・・・もういいの。」
 
そういって、私は少し左側を向く。
彼はそれを感じて、くっつけていた顔を少し離す。
すぐ側で、私と彼との目が合う。
私は、彼に優しく笑いかける。
 
「私も、雪じゃなきゃダメだから。」
 
私の言葉に彼は、今までに見せた事がないくらい、とても嬉しそうな笑顔を見せて笑うと、また私を強く抱きしめる。
 
「これから、ずっと一緒にいよう!」
 
それには、私は即答える。
 
「無理だよ。」
 
って。
だけど、雪はニッコリ笑うと、「大丈夫。」と自信満々に答えた。
 
「桜のオフクロさんが、俺の事許してくれないなら、『認めてもらう』よ。」
 
「みと・・・める?」
 
首をかしげる私に、彼は「そっ!」と軽く返事をする。
 
「俺がオフクロさんの病気を治して、医者として人間として、俺という人物を認めさせる。
それで、桜の事をどんなに思っているかも理解してもらって、二人の事認めてもらう。」
 
そして、さらに、「どう?すごい提案だろ?」と嬉しそうに笑ってるし。
だけど、それって・・・。
 
「雪ばっかりに、責任がかかってない?
私は?私はする事ないの?」
 
身を乗り出して彼に聞く私に、彼は優しく私の頭をなでる。
 
「桜は、俺の側で、ただ俺を信じてくれてたらいい。
絶対に、オフクロさんを助けてやるから。」
 
それ以上、彼は何も言わなかったけど、彼の目を見れば、その先に彼が言いたかった言葉は何となくわかった。
きっと、彼はこう言いたかったんだと思う。
『今度こそ、桜の家族を救ってみせるから。』って。
 
私は彼の左手に、ソッと触れて握る。
彼も、訳がわからないなりにも、私に握り返してくれる。
私は手をみつめながら、「信じるよ。」とつぶやく。
そして、今度は、彼の顔をじっとみつめて、ハッキリと言った。
 
「雪の腕も、雪の心も全部、信じてるから。」
 
その言葉に、雪は「桜。」と私の名前を呼ぶと、私を強く抱きしめるものの、すぐに離してキスをした。
それは、唇ではなくて、私の頬や額や目や耳たぶや・・・とにかく、色んな所を、「チュチュ。」と軽いキスをしまくる。
 
「ゆき〜、くすぐったいって!」
 
なんて言ってみても、当然無視。
彼のキス攻撃は止まらない。
最初は抵抗していた私だけど、だんだん彼の唇の感触を感じる事を、当たり前だと感じ始めた私は、されるがまましばらく彼の攻撃を受けていた。
すると、突然彼はキスをしながら、「桜。」と私の名前を呼ぶ。
 
「何?」
 
その私の言葉が合図だったかのように、額にキスをしていた彼の唇が、また私の耳の側に来た。
そして、キスを止めて、私の顔を自分の胸に押し当てて、しっかりと抱きしめる。
 
「どう・・・したの?」
 
キスの嵐にも驚いたけど、こんなに強く抱きしめられるのも、かなり驚いてしまう。
ビックリしている私に、彼は耳元で囁いた。
 
「桜・・・愛してる。」
 
「えっ!」
 
思わず彼の顔を見上げてしまう。
そして、さらにこんな言葉を言ってしまった。
 
「ホント?」
 
って。
それには、雪も「はあ?」と間抜け顔で言うもんだから・・・ムードぶち壊し。
 
「はぁ?とか言わないでよ!」
 
と怒る私に、
 
「普通、ホント?って聞かねぇーだろ!」
 
と雪も反論。
しばらくお互いにらめっこ状態。
だけど、先に折れたのはやっぱり雪。
 
「俺が悪かったよ!許して下さい。」
 
彼は、わざと面倒くさそうでいて、いい加減な口調で言うと、今度は悪ガキみたいな笑いを浮かべる。
 
「よしっ!じゃ、仲直りのキスしよっ!」
 
やっぱりね〜。
 
私は心の中でそう思って思わず頷いてしまう。
雪が、簡単に自分が悪いなんて、冗談でも言わない人だもん。
絶対、目的があると思っていたけど。
 
そうこう思っているうちに、彼の唇が私の唇をふさぐ。
彼とは、何度もキスを交わしたはずなのに、私はまた彼の唇が触れた瞬間、ドキーンとして一瞬固まってしまう。
だけど、すぐに正気を戻した私は、彼の唇に触れることが出来たうれしさで、思わず力を入れて自分から彼に迫ってしまう。
その時、「いっ!」と苦しい声を出したかと思えば、雪が私から唇を離す。
彼を見ると、左唇を押さえながら、かなり痛がっている彼。
 
「もしかして・・・私が噛んだとか?」
 
かなり不安がってる私に、雪は「違う違う。」と右手を振る。
 
「ここに来る前に、秋に殴られた。」
 
「秋さんに〜?なんでぇ?」
 
と聞く私に、「でっけー声出すなよ!」と言いながらも雪は、簡単にさっきあった事を話してくれた。
 
「って事は・・・。
お母さんを救って認めさせるって提案は、秋さんだったの?」
 
かなり驚きながら言ってる私に対して聞かれた本人は、あっけらかんとして「うん。」と答えると、さらに、
 
「俺がそんな事考えつくわけないだろ?」
 
となぜか偉そうに言ってるし。
だけど・・・もう1つ不思議な事が。
 
「秋さんはなんで、ありささんとの事を気付いたの?
雪・・・言ったの?」
 
それには、雪は「ううん。」と首を振ると、自分の胸をさす。
 
「むなぐらつかまれた時、ありさの香水が俺の体からしたんだって。
で、バレた。」
 
それを聞いて、さらなる疑問が出現する。
 
「ち、ちょっと待ってよ!
体に香りがついてる事知ってたのに・・・最初に私を抱きしめたの?」
 
彼は、何も言わずに私を見ていた。
 
「ねぇ!」
 
とさらに、聞く私に雪は、「だってさ。」と口を開く。
 
「桜、ありさとの事で、俺を責めたかったはずなのに、何も言おうとしねぇーんだもん。
俺は、桜とやり直そうと思ってココに来たんだ。
だけど、桜が思ってる事言わなかったら、俺たち始められないだろ?
だから、桜には辛かったかもしれないけど、この体で桜を抱きしめてみました。」
 
雪はそういうと、私の右頬に触れた。
 
「怒った?」
 
私は首を振る。
 
「秋さんと違って、恋には不器用で、それでいて真っ直ぐで正直で。
そういう雪が、私は大好きだから。
雪らしいと思ったよ。」
 
そう言って笑う私に雪は、
 
「桜ってさ、たまに果帆と接してる時みたいに、優しく俺を包み込んでくれるよな?
そんな桜が、俺はすっげぇー好きだよ。」
 
お互いがそう口にしたあと、どちらからともなく、お互い歩み寄り唇は重なる。
軽いキスをしたり、雪から力強いキスをもらったり、私から彼にドキドキしながらキスをしてみたり。
時には、「クス。」とした笑い声を、出しながら楽しんでキスしたり、私たちは今まで我慢していた分、じっくりお互いの存在を確認し合って時間を過ごした。
どれくらい、そんな事をしていただろう。
しばらくして、雪の方から唇を離し、キスは終わった。
だけど、彼の唇はまた私の顔中を動きまわる。
 
「もう〜、また?」
 
ちょっと、呆れてる私に雪は、少し笑いながら、「桜。」と私の名前を呼び、今度は唇に軽くキスをする。
 
「な〜に?」
 
少しおちゃらけていう私に、雪は私の唇に、軽いキスを何度も何度もした。
そして、唇を離した数秒に一言話し、またキスをして離したら一言話す。
それを何回か繰り返して、言った彼の言葉をくっつけると・・・。
 
「桜をもっと感じたい。」
 
だった。
それが、何を意味するか。
もちろん、わかってる。
そして、今私自身もそれを、望んでいるという事も、わかっていた。
だって、私の心臓がこの上なくドキドキしてるんだもん。
でも、それは彼に抱かれる事と、彼も同じ事を考えていたという嬉しさからだった。
だけど、彼にそう言われて、「うん。」と答えるのもはずかしかった、私は彼の首に腕を回して彼に思いっきり抱きついた。
きっと、これで彼ならわかってくれると思ったから。
案の定、彼は何も言わずにただ、「よいしょ。」と声をあげると私を抱き上げた。
 
「初めて桜を抱き上げた時の事が、すっげぇー昔の事のように思える。」
 
「ホント。」
 
と私も同感。
さらに、雪は笑いながら、靴を脱ぐと廊下にあがる。
 
「で?桜の部屋はどっち?」
 
そういいながら、雪は首を左右に動かす。
左右に扉が1つずつある。
 
「どっちか当てて!」
 
笑いながら言う私に、雪は「えっ?マジ?」とかなりあせってる。
 
「こんな時にクイズはねぇーだろう。」
 
とぶつくさいいながらも、真剣に「どっちだ?」と考えている雪。
そして、雪は「こっち。」と右のドアを開けた。
部屋を見て彼が言った最初の言葉は・・・。
 
「果帆のやつ・・・散らかし放題だな。」
 
とため息交じりの言葉。
そう、彼が開けたのは果帆の部屋だったのでした。
 
「って事は、こっちが桜の部屋か。」
 
と雪は左の扉を開ける。
 
「へぇー、綺麗にしてんな。」
 
そういいながら雪は部屋の中に入っていく。
 
「ねぇー。」
 
私は雪に声をかける。
「ん?」と答える彼にちょっと気になったことを聞いてみた。
 
「前から気になってたんだけど、どうして果帆の事呼び捨てなの?」
 
それには、雪は「ん?」とさらに険しい顔になる。
 
「だって、最初『果帆ちゃん』って言ってたじゃない。
でも、いつのまにか『果帆』って。
気にしなくてもいいんだろうけど・・・何か気になって。」
 
「あ〜、それはたぶん。」
 
雪はそういいながら、私をベットの上に降ろした。
 
「桜が頼りないからさ、果帆を俺が守ってやんなきゃ!って思って。
まっ、父親気分だったから、そう呼んだんじゃねぇーかな?
実際、今も果帆の事は、自分の子供みたいに思ってる。
桜は果帆の母親代わりなんだから、俺は父親代わりで丁度いいんじゃねぇ?」
 
「それって・・・なんか、変じゃない?」
 
と突っ込む私に雪は「そうか?」とあまり気にしてない様子。
まっ、本人がそれでいいなら、いいか。と私も軽く思ってしまう。
 
「けどさ、俺あんまり『さん』とか『ちゃん』とか付けて呼ばないからさ。
果帆も最初はそういうつもりはなかったかもしんないけどね。」
 
付け足して雪は笑ってる。
だけど、笑いながら、「あっ!一人いた!」と急に叫びだす。
 
「何が?」
 
と聞く私に、
 
「俺、優歌だけ、『優歌さん』って呼んでるわ。」
 
って。思わず「なんで?」と聞いてしまう。
 
「秋にも呼び捨てするな!って言われたけど、優歌さんにも言われたの。
年上だから『さん』付けろ。ってな。」
 
彼はそういうと、ベットに座っている私に、優しく口づけをする。
自分の左腕を私の肩に回して、そのまま私をゆっくりとベットに倒す。
私が、ベットに横たわったと同時に、彼は左腕を抜き、今度は私の髪に優しく触れる。
そして、手が触れている方とは逆の右頬に優しくキスをする。
私は、どうしていいかわからなくて、ただ彼にされるがまま。
 
もう〜、わかんないよ〜!
 
と心の中でパニックの私。
そんな私に気付いたのか、私の髪に触れていた雪の手が、無造作に置かれていた私の右手に触れた。
指を絡ませて握る彼に、私も答える。
すると、さっきまで私の首や胸にキスをしていた彼の唇が、また最初の場所の左頬に戻って来た。
そして、キスをやめると私を見る。
 
「じゃ、今度は桜がしたいようにしていいよ。」
 
といって、私を抱きかかえると、彼はゴロンとベットに横になる。
今度は彼が下で、私が彼の上というか・・・彼の上に乗っかってる。
 
これって・・・私が攻めるって事?
そんなの無理だよ〜!
 
今度は半泣き状態の私。
何も言わないけど、かなり顔が泣き顔になっていたようで、その顔に雪は「プッ。」と噴出して笑う。
 
「なんて、顔してんだよ。」
 
という彼に、「だって〜。わかんないんだもん!」と意味不明な答えをしてしまう私。
だけど、彼は優しく笑いながら、私の顔を自分の胸にあてると、「聞こえる?」と私に聞いてくる。
そう言われて、私はとりあえず耳をすましてみた。
 
「!!」
 
思わずビックリして、頭を上げて彼を見てしまう私。
だって、彼の心臓の音が異常なほど、速いんだもん!
私の態度に彼は、さらに笑いながら今度は自分の左手を私の頬にあてる。
 
「どう?」
 
彼の手の感触を感じた私は、またもや驚きの顔で彼を見てしまう。
私の顔に彼は、「すごいだろ?」と言ってる。
だって、今触れてる彼の手は、小刻みに震えてる。
なんで?不思議だけど、彼の体の事が心配になる私は、
 
「具合・・・悪いの?」
 
と聞いてしまう。
それには、「な、わけないだろ!」と冷たく否定されてしまう私。
 
なによ!せっかく人が心配してるのに!と怒る私に彼は、「俺も一緒だよ。」と言う。
その言葉の意味がわからなくて、「な・・・に?」と彼に聞き返してしまう。
 
「俺も、どうしていいかわかんねぇー。」
 
彼はそういうと、苦笑いを浮かべる。
 
「ずっと、桜を抱きたい。って思ってた。
でも、いざ抱くとなると、心臓はバクバクなって、落ちつかねぇーし、手だってこんなに震えて、力が入んねぇーし。
それに・・・。」
 
彼はそういうとまた私を自分の方に、引き寄せて抱きしめた。
 
「こうやって、桜が側にいて、抱きしめたい時に抱きしめて、キスしたい時にキスできて、桜を近くに感じれたら、もういいや。って思ってしまうんだ。
やることなんて、どうでもよくなってる自分に今気付いた。」
 
そして、今度は私の顔を覗くように彼は自分の顔を近づけてくる。
それを感じた私は、彼の方をみる。
 
「桜もまだ気持ちが乗り気じゃねぇーみてーだし。
桜が、俺に抱かれたい。って思うまで、待つよ。」
 
なんていいながら、いじわるな笑いをする雪。
さっきは、余裕がない。と言ってるように思えたけど・・・余裕があるじゃない!と思ってしまう私。
そう思う反面、私は子供だな〜。って思って自己嫌悪に陥ってしまって、思わず彼に強く抱きついてしまう。
 
「なんだよ。」
 
と聞かれても答えられない私は、「ううん。なんでもない。」と首を振る。
だけど、まだ彼にしがみついている私に、彼は「はぁ。」とため息を吐く。
 
「私って魅力ないのかな〜。とか思って落ち込んでんのか?」
 
とまた面倒くさそうにいう雪。
そんないいかたしなくても。と思うけど・・・当たってるだけに否定は出来ない私は、「う・・・ん。」と力のない返事をする。
それには、さらに雪が深いため息をつく。
 
「そんなに、ため息つかなくてもいいじゃない!」
 
と反論してしまう私。
だってさ・・・ひどいでしょ。
自分は、女なれしてるかもしれないけど、私は初めてだし、何もわかんなくて。
あ〜いってもらっても、結局は私がもっと、ありささんみたいに、積極的に雪にせまってたら、絶対にやってたわけだし。
そう思うと、やっぱり落ち込むよ。
今度は私が「はぁ。」とため息。
その姿に、雪は「わかったわかった。」と私の頭を優しくなでる。
 
「ホントの事言うよ。」
 
その言葉に、私は顔を上げて聞き返す。
 
「ホント・・・の事?」
 
「うん。」と彼は答えると、また私の頭を優しくなでた。
 
「さっき言った言葉に嘘はないよ。
だけど、桜を抱かなかった、本当の理由はある。
というか、もともと、桜をベットに誘ったのは俺だけど、やるつもりは初めからなかったんだ。」
 
彼の言葉に、私は彼の胸の中で、「えっ?」と驚いてしまう。
それを聞きながら彼は続ける。
 
「さっき、言ったろ?
オフクロさんに認めてもらうんだって。
だから、それまでは桜とそういう事はしない。って決めてたんだ。
だけど、我慢できなくてさ・・・で、負けてここまで連れ込んじゃったけど、さっき桜の胸にキスした時にさ、ブレーキがかかった。
すっげー震えてる俺にも、びっくりしたけど、このまま抱いたら桜が苦しむから止めようって。」
 
そこまでいうと、急に彼は「よいしょ。」と言って、私を抱き上げ、自分の顔の位置まで私を抱き上げた。
私の顔と彼の顔が、思いっきり近付く。
驚く私に、彼は黙って額をあわせる。
 
「俺が桜のオフクロさんの反対を無視して、桜とつきあおうとしなかったのは、反対するオフクロさんと俺との板ばさみになって苦しむ桜をみたくなかったからなんだ。
桜にそんな思いさせたくなかった。
だから、今桜を抱いたら、俺はすっげぇー満たされるけど、桜はその一方でオフクロさんに後ろめたさがあって、辛くなる。
桜を抱くのは、オフクロさんの病気を治してからのご褒美にしとく!」
 
彼はそういって額を離すと、私をまたいたずらっ子みたいな目で見る。
 
「覚悟しとけよっ!」
 
それには、私も素直に答える。
 
「頑張ってよ!・・・なるべく早くね。」
 
そう言ってちょっと恥ずかしくなった私は下を向く。
そんな私に彼の顔が近付き、「頑張るよ。」といいながら、軽いキスだったけど、私にくれた。
 
「あ〜・・・眠い。」
 
と彼はいうと、今度は私をベットに転がすと、自分も私の横に転がる。
だけど、すぐに私に抱きついてきた。
自分の顔を、私の胸に押し当てる。
足は、私の上に乗っけるし・・・まるで、私は抱き枕状態になってしまった。
 
「このまま・・・寝ていい?」
 
そういいながらも、すでに半分寝ている雪。
私は、子供みたいに甘える雪がかわいくて、彼の頭を優しく両手でなでてあげる。
 
「いいよ。」
 
そういう私に、「サンキュ。」と言って一瞬静かになった雪だけど、急に何かを思い出したのか、「あっ!」と叫んで顔を上げて私を見る。
 
「なっに?」
 
こっちがビックリしてしまって、目をまんまるにしてしまう。
 
「果帆は?アイツ、どこにいんの?」
 
さすがに、父親代わりというだけあって、果帆の事を思い出したか。
偉い偉い。
 
と心の中で彼を褒める私。
 
「果帆は今日はお母さんの所。
まだ、小さいから1ケ月に1度だけ、病院にお泊りさせてもらえるの。
だから、明日の昼前に私が迎えにいけばいいの。」
 
それには、「そっかー。」とホッとして、雪は起こしていた顔を「バタン。」とまた私の胸に、倒した。
 
「ねぇー。」
 
と声をかける私に、またうたた寝状態の雪が、「うん?」と答える。
 
「一ノ瀬さんが言ってたけど、雪ずっとお酒飲んだりして、ここんとこあまり寝てなかった。って言ってたけど、ホント?」
 
「う・・・ん。」
 
と言いながら、かなり意識はもうろうとしているようで、それっきりしばらく答えなかったけど、ちょっとずつ、途切れながら彼は口を開いた。
 
「ほとんど寝てなかった。
夢の中に桜が出てきそうで、恐くて眠れなかったのと、あと自分の事を考えて、眠れなかった。」
 
「自分の・・・事?」
 
聞く私に、彼はまたゆっくりと答える。
 
「俺の女癖の悪さは、桜はすでに知ってるだろうけど、俺いままで本気で人を好きになった事なんてなかった。
っていうか、好きってどういう事かわかんなかったんだ。
俺、両親に愛されてなかったからさ。
愛を知らずに育ったから、そんなもの知らなかった。
自分が何でこんなに、桜を求めているのか、最初は全くわからなかったんだ。
そんな自分の気持ちに、すげぇーとまどったよ。」
 
黙って聞いている私に、さらに彼は続けた。
 
「秋はさ、オフクロがすっげぇー気にいってて、アイツはすごい愛されて育った。
オヤジは、家族には執着はなくて、ほとんど家にはいなかった。
俺はジイさんに、育ててもらったようなもんなんだけど、すごいスパルタで、抱きしめてもらった事とか、褒めてもらった事なんてなかったな。」
 
そこまでいうと、「暗い話してごめんな。」と謝る。
「ううん。」と言いながら彼の頭を優しくなでる私に、雪は、
 
「桜を感じてると、心が落ち着くんだ。
とくにここは居心地がいいしな。」
 
というと、もう何も言わなくなった。
私は、しばらく彼の寝顔を、顔を横に向けてみていたけど、いつのまにか私も眠っていた。
 
 
フッと目が覚めた。
側にある目覚まし時計を見る。
夜中の1時。
いつのまにか、こんなに寝ていた。
目覚めた瞬間は、わかんなかったけど、頭が動き始めて、寝る前に雪と一緒だった事を思い出す。
あたりを見渡す。
だけど、雪の姿はない。
あれは・・・夢だったの?
不安がよぎる。
その時、キッチンから「カタン。」という音が聞こえた。
私は、ベットから飛び降りると、勢いよく扉を開けて、キッチンへと急いだ。
なだれ込むようにキッチンに入ってきた私に、「おわっ!」と本気で驚く雪。
 
「夢じゃなかったんだ〜。」
 
とホッとして、私はそのまま雪に抱きつく。
 
「よかった・・・ホントによかった。」
 
そう言いながら彼にしがみつく私を、雪は優しく抱きしめてくれる。
 
「大丈夫。ずっと桜といるから。」
 
雪はそういって、私の額に優しくキスをする。
キスをされて、私は彼の顔をジックリ見て、さっきまでと違う彼に気付く。
 
「何か・・・あったの?」
 
私の鋭い指摘に、彼は「えっ?」と驚く。
さらに、「なんで?」と聞く。
 
「だって、何か顔つきが違うもん。
急患とか?」
 
それには、雪も「すげぇー。」と感心する。
 
「当たり!さっき、秋から連絡があってさ。
入院中の患者で、ちょっとよくないらしくて、俺の担当患者だから、一応連絡が来たんだ。
いますぐどうこうって事はないだろうけど、念には念をって事で、戻ろうかと思ってさ。
桜とも一緒にいたいけど、患者にもしもの事があったら、悔やんでも悔やみきれないだろ?
で、戻ろうとしたんだけど、すっげぇー眠くてさ。
それで、勝手にコーヒーを飲んでた。
ごめんな。」
 
「それは、いいんだけど。」
 
そういう私に、雪は残っていたコーヒーを一気に飲むと、「はい。」と私にカップを渡す。
 
「ごちそうさま。」
 
そして、私から離れると、玄関に向かって歩いていく。
私は、カップをキッチンに置くと、慌てて彼の後を追う。
ホントは、「行かないで。」と言いたい。
だけど、それは言っちゃいけないし、電話番号だって聞きたいけど、言い出せないし・・・。
靴を履いている彼を見ながら何も言えない私に、履き終えた彼は振り返る。
 
「『行かないで。』って止めてくれねぇーの?」
 
笑いながら言う彼の言葉に私は驚いてしまう。
時々、私の心が読めちゃう彼に、私は心の中で降参する。
 
「何言ってんのよ!」
 
っていいながら、彼に抱きつく。
彼の左手が優しく私の頭に触れる。
 
「俺とつきあったら、こんな呼び出しは当たり前だから、桜に辛い思いさせるかもな。」
 
ちょっと悲しそうにいう彼に、私は攻める言葉はいえず、
 
「言葉のわりには、病院に行くのうれしそうじゃない?」
 
と悪ぶってしまう。
「そうか?」という彼に、
 
「普通は、オフに呼び出されるのは嫌でしょ。
自由がないとかで。
でも、雪ってそういうのないよね。なんで?」
 
それには、雪も「う〜ん。」と考える。
 
「俺、人が救えるのがうれしいんだ。
オヤジさんを救えなかった事で、余計に1人でも多くの人が救えたらいいな。って思うしな。
俺、死ぬまで医者でいたいと思ってるよ。」
 
彼はそういうと、私に軽いキスをする。
 
「電話は出れないかもしれないけど、留守電に入れてくれたらいいし、メールもいつでもしてきて。
俺もするから。」
 
つられて「うん。」と言いかけて、「いやいや。」と一人突っ込みをしてしまう。
 
「番号知らないよ!消したもん。」
 
それには、勝ち誇ったような笑みを浮かべる雪。
 
「さっき桜のカバンからちょっと、携帯を借りた。
俺の携帯とメールアドレスと、あと緊急の場合は俺の病院の部屋あったろ?
あっこに直通の番号も入れてあるから。
あと、桜の番号とメアドは、こいつにインプットしたから。」
 
と自分の携帯を見せる。
ホント・・・油断もすきもないんだから。と呆れる私に彼は、
 
「じゃ、いってきます。」
 
と声をかける。
 
「気をつけて、いってらっしゃい。」
 
私はそういって、彼の唇に触れて彼に、いってらっしゃいのキスをする。
彼は、笑って手を振ると、玄関を出て行った。
ドアを閉めて、鍵を閉めて私はドアにもたれかかる。
まだ彼の感触が残っている唇に、右手で触れてみる。
彼とこんなに心が通じ合えたのに。
もう不安になる事はないはずなのに。
だけど、私の心の中で、小さな不安はあった。
それが、まるで墨汁のように、一滴は小さいけど、それがどんどん大きく広がっていくような不安。
その不安が何なのかわからない。
だけど、私は心から強くこう思った。
ずっと、この幸せが続きますようにって。
 
☆☆☆6章 END☆☆☆
 
 
 
 
 



前のページ 目次 次のページ


HOME