太陽が夕日になりかけた外を見ながら、俺は一人長い長い廊下を歩いていた。
それは、決して軽快ではない。
どちらかといえば・・・重い足どりというか・・・。
ここは、病院の中でも、特別な場所だから、人通りはほとんどない。
シーンと静まり返ったこの空間が、俺の心を余計に寒くした。
「結局、どーしたらいいんだ・・・。」
肩を落とし、思いっきり「はぁー。」と、深い深いため息をつきながら、力なく歩く俺。
女を愛す事を知らなかった俺が、女を愛した。
女を抱きたいと思わなかった俺が、抱きたいと思った女。
抱けば抱くほど、もっと抱きたくなるくらい、愛おしくてたまらない女・・・。
そんな女にやっと逢えたのに。
なのに、俺は、そいつを今は心から、求める事が出来ない。
数時間前までは、あんなにお互いが愛に溺れて、幸せな時間を過ごしていたっていうのに。
今もまだ、俺の手や体に、アイツの熱さが残ってる。
でも、その全てが、まるで、夢だったような感じがしていた。
そう、俺が見た、都合のいい夢。
いっそうの事、夢であってくれた方が、まだましだよ。
そうなら、こう思って諦めもつくだろ?
『俺は、幻を抱いたんだ。』って・・・。
『初めからそんな女なんて存在しなかったんだ。』って・・・。
受け入れがたい現実を突きつけられた時、どれだけの人が、その現実を受け入れる勇気を持っているんだろうか?
フッと俺はそんな事を考えた。
人は利口だ。
たくさんの知恵を持ってる。
現実から回避して、円満に生きる選択を選ぶ事なんて、容易じゃないのか?
さとりの父親の事は、俺やオヤジの考えすぎって事もある。
あくまで可能性があるだけで、その可能性はとても高い・・・ってわけではないだろうし・・・。
なんて、自分の頭の中で、都合いい結末を用意しようとしたけど、そんななんの解決にもならない答えで、納得がいくわけないんだ。
現に今の俺は、さとりと陸(リク)パパとの、つながりが気になって、アイツを抱いていた記憶を、『錯覚だ』と思いたがってるんだ。
俺は右手を、自分の目線の高さまで上げた。
その手を見て、さとりの事を思い出す。
アイツの体に触れ、アイツの中を掻きまわし、そして、何度もアイツをイカせた。
この手を見ると、鮮明に思い出した。
さとりの中の熱さとか、やわらかさ。
そして、何度も俺の手にまとわり付いた、さとりの愛液のねばっこさとか・・・。
アイツを抱いた事は錯覚であり、夢だと思いたいのに、俺の脳も体もこんなにも鮮明に覚えている。
俺の中で、さとりの存在が、とんでもなく大きいのだと、実感させられた気がした。
さとりの感覚を連想させた俺の手は、今度は、さとりの顔を浮かばせた。
そんなのを思い出したら、さとりに逢いたくてたまらなくなるに決まってる。
そして、俺は思ってしまった。
逢ってアイツをこの手で抱きたいと・・・。
そう、思わずにはいられなかった。
今の俺が、さとりを抱く事はたぶんできないとわかってはいるけど、でも・・・アイツを求める思いは、少しも衰えていなかった。
だた、それでも、今アイツを抱けないのは、やっぱり、恐いんだろうな・・・。
さとりが、血のつながった姉貴かもしれないと思うと・・・怖気づいてしまうよ。
そうかも?って漠然と思っていた時は、勢いでさとりを抱けたけど、こうやって色々陸(リク)パパの遺留品とかを見るとさ。
知りたくもない真実に確実に近付いてる気がして、腰がひけるというか・・・。
怖気(オジケ)づいてしまう。
かっこ悪いかもしれないけど、俺は臆病者だ!!
それを実感して、俺はまた、打ちのめされる。
「はぁ・・・・。」
さっきよりもさらに深いため息をついて、情けない声を出した。
その時だった。
「たぁーかし!!」
一瞬、何かが聞こえた気がした。
ん??俺、呼ばれた?
そう思って足を止め、ユックリと振り向こうとした時、いきなり俺の上げていた手が、バシと音を立ててつかまれた。
「なっ!何??」
驚きと戸惑いで俺は、自分の手を見る。
俺の手は、俺よりも遥かにデカイ手に、握りつぶされていた。
スッポリ、その手に隠された俺の華奢(キャシャ)な手。
俺の目の前にある手は、存在自体も大きかったけど、何よりそこから感じるオーラがとても強くて、頼れる気にさせる物だった。
その手のあまりにも大きな存在感に俺は、ただ見とれてた。
数秒間の沈黙が流れ、その手の持ち主が、先に口を開いた。
「夕日に照らしながら、手を見つめちゃって。
まさか、彼女とのセックスを思い出して、酔いしれてたとか?
『あー、この手で何度イカせたんだろう?』とか、『あー、彼女の中、気持ちよかったなー。』とか、そんな事思ってたんだろ?」
ニヤニヤと笑いつきでそう言った人物は俺の手から、自分の手を離す。
俺はと言うと、ドンピシャ過ぎて、気のきいたセリフも、ごまかすセリフも当然の事ながら浮かんでこなかった。
「あぁ・・・いやぁ・・・・。」
目を泳がせて、大焦りの俺の姿に、その人物は、
「ぶっ!!お前、素直過ぎだよ!!」
と噴出し笑いをしながらそういって、空いた手で、俺の頭を乱暴になでた。
グシャグシャと俺の髪を、なでまわす彼に俺は、慌てて、体を後退させて、その人の手から逃れた。
そして、すぐさま、自分の手で、髪を触る。
「春(シュン)ちゃん・・・乱暴すんなよ!!
セットが乱れるだろ!!」
俺は、少しブーたれながらそんな事を愚痴り、そして、髪を両手でパッパと整えなおした。
今、俺の前に現れたのは、さっき、院長室で一緒に話しこんでた春(シュン)ちゃん。
オヤジと、とても仲が良くて、俺が部屋を出て行くとき、まだ、オヤジと話てたんだけど・・・。
なぜ、ここにいる?
そんな疑問を思うけど、ちょっと考えたらわかったよ。
どうして、春(シュン)ちゃんが、ここに来たのか。
それは、とても、簡単な事だった。
「オヤジが今からオペで、相手してもらえないからって、俺の所にきたんだろ。」
この回答、絶対あってると思った。
今日、非番な春(シュン)ちゃんは言えば、暇なんだよ。
で、相手してほしいオヤジがいなくなっちゃうから、俺を追ってきたんだろ?
ホント、暇な人だ。
っていうか、暇なら、オヤジを助けてやれよ。
一人で、何かと忙しくやってるオヤジをさ!!
ちょっと、怒りが込み上げてきた俺は、たまらず、春(シュン)ちゃんに一言文句をプレゼント!!
「暇してるなら、患者診ろよ。
オヤジを含め、聖(アキラ)ちゃんたちだって、忙しくしてんだろ?
前々から、思ってたんだけど、春(シュン)ちゃんだけ、休み多くないか?
もっと、働けよ!!」
そう言いながら、俺は思わず、「ホントに!!」と怒ってしまった。
だって、マジで、春(シュン)ちゃんは、休み過ぎなんだよ。
院長になるはずだった人物とは到底思えない程・・・医者としての自覚が無さ過ぎる!!
腕は確かにいい。
脳外科医として、とんでもない腕を持ってるのも、知ってる。
向こうのスクールでも有名だからね。
脳と心臓のスペシャリストがいる梅澤病院は、日本の救いだ!と言われるくらいなんだから。
でも、いくらいい腕を持ってても、姿勢がね・・・。
医者としての姿勢が、どうも俺は納得いかない。
認められないんだ。
だけど、こんなガキに指摘された本人はというと、弁解するでも、怒るでもなくなんと・・・。
「休みが多いのは当たり前!
だって、俺、医者が本業じゃねぇーんだもん!
俺の本業は、医者とモデルなの。
二束のわらじは、平等に履かないとね!!」
って・・・コイツ、開き直りやがった!!
コイツが、こんなんだから、オヤジに負担がかかるんだ。
ダメだ・・・。
だんだん、ムカついてきた。
春(シュン)ちゃんは、人としてはすごくいい人で、俺もオヤジの次には好きな人なんだけど、でもこういう所は嫌い。
こういうって、医者としてちゃんと働かない所な・・・。
そのしわよせは、オヤジに来るわけで、『俺のオヤジ』をいじめるやつは、許せねぇーんだ!!
って事で、俺は春(シュン)ちゃんと、とっとと、おさらばしたくて、早々にこの場を去ることを決意する。
「悪いけど俺は、暇な春(シュン)ちゃんに、かまってられないからさ。」
俺はそう言って右手をあげて頭を軽くさげると、早足で春(シュン)ちゃんの横をすり抜ける。
あと、もうちょっとですり抜け完了の所で、俺の左手はガシとつかまれた。
「えっ?」
と思った瞬間に、俺の腕は、すごい力でひっぱられ、体は半歩、後退させられてて、気付けば俺の横には過ぎたはずの春(シュン)ちゃんの顔があった。
「なんだよ!!」
迷惑そうに、ため息を吐きながらそう言った俺に対して、春(シュン)ちゃんは全然気にせず普通の顔!
「何だよじゃねぇーの。
俺も暇だけど、お前だって暇だろ?
どうせ、今から家に帰ったって、また彼女とのセックスを思い出して悶々(モンモン)とするだけだろ?
だったらさ、俺につきあえよ!」
だけど・・・。
「イヤだ!!」
ハッキリ、キッパリそう言った俺だったけど、春(シュン)ちゃんは負けじとまだ言ってくる。
「そういわずに、なっ!」
ホントにしつこいな!!
イライラしてきた俺は、力任せに腕を引っこ抜くと、つかまれていた春(シュン)ちゃんの腕を振り払う。
そして、春(シュン)ちゃんの耳元に口を近づけて、大声で叫んだ。
「そんな暇あったら、働けっ!!」
俺の大声に、当たり前の事ながら、春(シュン)ちゃんの耳は、キーンとなったようで・・・。
「おわっ!!」
と春(シュン)ちゃんは叫ぶと、その場にしゃがみこみ、片耳を抑えてうなりだす。
「大げさだなー。」
といいつつ笑って思う。
ざまーみろ!!って。
さーって、これで、しばらく静かになるだろう。
そのうちに、退散退散!!
俺は、「ほんじゃね。」としゃがんでる春(シュン)ちゃんの肩を、ポンと軽く叩くとその場を去ろうとする。
けど・・・。
「もう〜!!いい加減にしろよ!!」
完全に噴火した。
だって、また、春(シュン)ちゃんは、俺を引き止めたんだから。
「なんなんだよー!!
しつこい・・・っ・・・。」
俺は、思わずそこで、言葉を止めてしまった。
なぜ止めたかって?
それは・・・そこから先は、言えなかったんだ。
恐くて・・・。
何度も引き止める春(シュン)ちゃんに、いい加減ムカついた俺は、春(シュン)ちゃんをにらみつけて文句を言い出したんだけど、伏せていた顔を上げて、俺を見た春(シュン)ちゃんの顔がさ・・・恐かったんだ。
さっきまでの、おちゃらけてる春(シュン)ちゃんの顔じゃなくて。
とても真剣な顔だったから・・・言い返せなかったんだ。
黙る俺に春(シュン)ちゃんは、つかんでた俺の手を離しながら口を開く。
「何度も言ってるだろ?
今日、俺は、休みだって。
休みの日まで、働く義理はねぇーだろ。」
物言いは、いつのも春(シュン)ちゃんだった。
声のトーンも、そんなに変わらないかな?
でも、目が・・・。
俺を見てる目が、とても真剣で、冗談をいえるような雰囲気ではなかった。
「よいしょ。」
と声をあげながら、春(シュン)ちゃんは、膝(ヒザ)に手を乗せるとユックリとしゃがんでた体を起し立ち上がる。
「そんなに冬真(トウマ)を助けたいなら、お前が助けたらいいだろ?
俺の、専門は脳なんで、冬真(トウマ)の力にはなれない。
けど、お前なら、冬真(トウマ)を助けられるんじゃないのか?」
確かに。
俺は、オヤジと同じ心臓外科医を目指してる。
だけど、俺はまだ、オヤジの足元にもおよばない。
だって、まだ、心臓の分野の資格はもらえてないんだから。
俺は、首を振って否定する。
「まだ、授業も始まってないんだ。
あしでまといもいい所だって。」
そう。心臓外科医としての勉強は、高校卒業後に向こうでする予定な訳で、今の俺は、普通の外科医としての力しかない。
オヤジの力になるなら、まだ、春(シュン)ちゃんの方ができるよ。
だけど、春(シュン)ちゃんは、「お前はわかってないなー。」と、軽く息を吐きながら、チョット情けない笑いをした。
「えっ?」
訳が分からない俺は、ただ春(シュン)ちゃんをみつめる。
そんな俺の瞳を見た春(シュン)ちゃんの瞳が、少し緩んだのを感じた。
「冬真(トウマ)の気持ちだよ。」
「オヤジの・・・気持ち?」
「そう。」と言った春(シュン)ちゃんは、俺の側を通り過ぎると、窓際に歩み寄る。
そして、そこから見える景色を見つめながら口を開く。
まるで、窓越しに映ってる俺に話しかけるかのように・・・。
「お前がここにいる間、冬真(トウマ)は、お前に心臓外科医としての自分の姿を見せたかった。
それは、何でかわかるか?」
俺は首を振った。
俺の首振りをガラス越しで見た春(シュン)ちゃんは、振り返りもしないでそのまま続ける。
「アイツは、自分みたいにお前になってほしいだなんて思ってねぇーよ。
自分を超える医者であり、人間になってほしいとアイツは思ってる。
だから、今の自分を見て、お前が冬真(トウマ)を超える道を選ぶキッカケになればいいと、思ってるんじゃないかな?」
「どうして?なんで、オヤジは自分を超えてほしいだなんて・・・。」
わからなかった。
なぜ、オヤジがそんな事?
それに、そもそもあの完璧なオヤジを超えるなんて、俺にできるわけないだろ?
っていうか・・・この世にそんなやついるのか?
それくらい、オヤジはすごい人物なのに・・・。
だからこそ、俺は、春(シュン)ちゃんの言っている意味がわからなかった。
ただ、素直に、春(シュン)ちゃんの答えを待つ俺に、その答えは向けられた・・・。
「そんなの決まってるだろ?
冬真(トウマ)は、今の自分に満足してないんだ。
いや、正確には、自分自身には満足してるだろうな。
“元のアイツ”から考えたら、“今のアイツ”はまるで別人だ。
よくもここまでの人間になり、これだけのすごい人生を勝ち取ったと俺すらも感心するくらいアイツは頑張った。
だから、冬真(トウマ)は、自分の人生に不満なんてないだろう。
だけど、この人生が、天(タカシ)にとってのすごい人生になるかといえば・・・どうかな?
実際、冬真(トウマ)は、そうは思ってない。」
「それって、つまり・・・どういう事?」
「強い意志を持って医者になる志しを持ってた陸(リク)と、最愛の人を失う辛さから這い上がって自分がその人の夢をかなえようと医師になった麗美(レミ)ちゃんの息子であるお前。
そんなお前なら、冬真(トウマ)以上の技術を持ち、冬真(トウマ)以上の頭脳を持ってて当たり前。
冬真(トウマ)以上の人物になれると、アイツは思ってる。
お前に、期待してるんだ。
と同時に、発揮させてやりたいんだろうな。
お前の中で眠っている全ての力をさ・・・。
だから、冬真(トウマ)は、日本にお前が戻ってるこの1年の間に、お前に自分の持ってる技術の全てを見せる覚悟をしてた。
今までだって、何度もお前をオペ室に入れてただろ?
夜中であろうと、心臓関係でなくても・・・。
アイツの当直の時、お前よく呼ばれてたよな。」
確かに・・・学校があるのによく呼ばれた。
オヤジ1人でもいけるだろ?っていう患者の時にも呼ばれた時もあった。
そのせいで、俺は寝坊するは、保健室で居眠りするはで、ちょっとさとりに勘違いされたんだけど・・・。
今思い返すと、色々と納得がいった。
春(シュン)ちゃんが言ってる事は、そうだと、思わずにはいられなかった。
「だから、今からアイツがするオペも、お前を同伴させたかったはずなんだ。
心臓関係だしね。
アイツ言ってたよ。
お前、まだ、勉強してないのに、勘がいいって。
冬真(トウマ)が次にやる内容も、ちゃんとわかってるって。
第一助手を完璧にこなしてたって、すっげぇー嬉しそうに話してたぞ。」
春(シュン)ちゃんはそう言って、ガラス越しの俺に笑いかけると、俺の方に振り返った。
そして、向き合った俺に向かって、口元を緩ませて軽く笑いかけてくれる。
「だけど、さっき、アイツはお前を誘わなかった。
今のお前が、オペ室に入れる余裕なんてないと、アイツはちゃんとわかってたんだ。
だから、黙って、お前を帰した。
そんなアイツの心を、俺がくんでやってだな・・・。」
と言った春(シュン)ちゃんは俺の方に歩んでくると、俺の背中を軽くバシと叩いた。
「俺が、お前の相手をしてやる。」
って、偉そうに胸を張って言われてもな・・・。
とぉーっても、迷惑な話だ!!
今は、春(シュン)ちゃんと、冗談言って笑う気分じゃない。
それより、色々考えないといけない事があるのに。
これから、さとりとどう接していくかとか・・・色々。
今、さとりは、学校に行ってるはずだ。
携帯が復活したさとりの元に、病院の看護士から電話がかかってきた。
おふくろさんが、昨日発作を起したという事で、さとりはしばらくして病院に行った。
そのあと、学校に行くと言ってた。
土曜だけど、保健だよりを月曜までに完成させて印字しないといけない事を思い出したとかで、帰りによるといってた。
全てがすめば、連絡をくれる事になってた。
夜たぶん逢う事になるだろう。
どんな顔して逢えばいいのか・・・。
どう接したらいいのか・・・。
考える事は山ほどあった。
俺の頭は、完全にパニックだった。
だから、今は、春(シュン)ちゃんの相手なんかしてられない。
とにかく今は、一人になって色々考えたかったんだ。
「悪いけど、今日はパス。」
そう言って手を軽く振って拒否するけど、そんな事で、春(シュン)ちゃんが、解放してくれるわけがなかった。
「まー、そう言うなって!!」
そして、春(シュン)ちゃんの手は俺の髪を優しくなでた。
「1人でいくら考えても、答えはみつからないって!
反対に、へこむだけだぞ。
それより、俺と話そうぜ!
お前にとって、プラスになる話してやるよ!」
「プラスの話?」
なんとも、うさんくさい。
今の俺にプラスになる話なんて・・・。
そんな事、春(シュン)ちゃんに語れるのか?
疑った目で春(シュン)ちゃんを見る俺に、「疑ってるのか?」と半笑いで言った春(シュン)ちゃんは、俺の頭から手をユックリと離す。
「まっ、騙されたと思って、つきあえよ!
たまには、おじさんの相手するのもいいぞ!
ご奉仕ご奉仕!!」
このおちゃらけたいい方・・・。
ホント、悪ふざけが過ぎる。
マジメかと思えば、ふざけて・・・。
コロコロ変わる春(シュン)ちゃんに、あっけに取られて呆然としている俺の肩に、豪快に腕をからめてきた春(シュン)ちゃんは、俺の耳元で口を開く。
「カルムで話そうぜ!
いいもん、おごってやるからさ!!」
ウインク付きでそう言ったあと、俺の肩を抱いたまま、春(シュン)ちゃんは歩き出す。
俺もそれにつられて、強引に歩かされた。
春(シュン)ちゃんを見る俺の顔が、ニヒルになる。
まるでそれは、引きつった顔・・・だった。
春(シュン)ちゃんが言ったカルムっていうのは、この病院の談話室というか休憩室。
しかも、患者はもちろんの事ながら、外部からの勤務医や看護士も入れない。
つまり、身内以外のメンバーは入れないエリアとなっている。
なぜ、身内のみ限定かと言うと、ここの病院は勤務体制がホントにハードなんだ。
患者の数がオヤジが院長になってから、メチャクチャ増えたとかで、医師が全然足りない。
だけど、著名人が多いため、あまり外部の人間に頼りたくないという前院長の秋さんと、秋さんの弟である俺のじーちゃんでもある雪じーちゃんの意見で、身内でカバーするしかなくて・・・。
今、身内で医者なのは、今も一緒にいる春(シュン)ちゃんと、俺のオヤジに母さんでしょ。
あとは、オヤジの弟と妹である聖(アキラ)ちゃんと七葉(ナナハ)ちゃんと、夕菜(ユウナ)ちゃん。
それから、霙(ヨウ)くん、梅紅(メグ)ちゃん、紅葉(モミジ)ちゃん。
この9人だけ。
あっ、あと、俺か。
合計10人だな。
けど、あと5・6年したら、今留学中の4人が帰ってくる。
「なー、春(シュン)ちゃん!!」
病院の医者の事を考えていたら、前々から疑問になっていたことを思い出した。
俺の横を歩く春(シュン)ちゃんの方に、顔を向けた俺。
「ん?何?」
と優しく笑う春(シュン)ちゃんの笑顔に、俺の疑問もスラっと口から飛び出した。
「オヤジって、いつまで院長してんの?」
それには、「はぁ?」と気の抜けた返事をした春(シュン)ちゃん。
そんな変な声出さなくても!!
俺、おかしな事言ったかな?
ちょっと恥ずかしくなった俺は、「もういい。今の忘れて!」と少し口をとがらして下を向く。
そんな俺の子供っぽい姿に、春(シュン)ちゃんは噴出し笑いすると、下を向いている俺の頭をポンポンと軽く叩いた。
「なんだよ。」
と迷惑そうな顔をする俺に、春(シュン)ちゃんはとっても優しい笑顔で俺をのぞいてきた。
「なんで、そんな事聞くんだ?
冬真(トウマ)が、院長って嫌か?」
嫌?
そう言われて、俺は戸惑った。
俺、なんで、今春(シュン)ちゃんにあんなこと聞いたんだろう。
だって、オヤジが院長なんてすごい事だろ?
威張っていいことだろ?
なのに、俺の心情は・・・。
心と向き合ってみた。
そして、気付いたんだ。
俺は、オヤジが院長だって事に、喜びを感じてないって。
確かに、俺は今までオヤジが院長で、すごいだろ?って言った事もある。
鼻が高かった事だってある。
でも、心の底からそう思った事なんて、一度もなかった。
だって、俺はオヤジが誰よりも好きで、誰よりも側に居たかったんだ。
だけど、オヤジは院長として忙しくて、全然一緒に居る時間がない。
5年ぶりに帰って来てからの半年の間だって、オヤジと過ごした時間って、数えるしかない。
俺はオヤジに逢えるのが、楽しみでたまらなかった。
夜な夜な語り合ったり、一緒にご飯食べたり。
そんな事を夢見てた。
離れていた5年を埋めるように、日本にいる1年は、オヤジと一緒に過ごせる。
幸せな時間が、俺を待ってると思っていたのに・・・。
実際は、全然そうじゃなかった。
きっと、この状況は、数年後、俺が心臓外科医になって日本に舞い戻ってきても、一緒だって気付いたんだ。
オヤジが院長である限り、オヤジとの時間は持てないって。
気付いたから。
だから、俺は、知らない間に、思ってたんだろうな。
早く、院長を辞めてほしいって。
俺だけのオヤジに、戻ってほしいと・・・。
俺は心のどこかで、思っていたんだと思う。
「なら、お前が院長になれよ!」
突然そんな事を言われた俺は、「はい?」と甲高い声を上げる。
俺があまりにマヌケな顔でその場に立ち尽くすものだから、春(シュン)ちゃんはさらに笑う。
でも、俺は笑えなくて、目を白黒させながら、思いっきり困惑してた。
そんな俺に、春(シュン)ちゃんは、笑いながら言葉を投げてきた。
「冬真(トウマ)が院長になったのは、33歳になる年だっただろ?
お前がその年になるって事は、あと何年後だ?」
と言って一瞬黙った春(シュン)ちゃんは、計算をし出す。
そして、数秒後答えが出た春(シュン)ちゃんは、また口を開く。
「あと、15年後か。
冬真(トウマ)を目指すお前の事だから、きっと、じっくりユックリ心臓外科医としての技術を学べる道を選択して、6年間の留学をするだろ?
したら、帰国するのが、24歳だから。
ちょうど、いいじゃん!
4〜5年経験を積んでも、30前には院長だ。
冬真(トウマ)を越えられるぞ、よかったなー。」
といって、バシバシ俺の肩を叩く春(シュン)ちゃん。
しかも、彼にしては珍しく大笑いつき。
だけど、春(シュン)ちゃん!!
俺は、ちっとも笑えない。
だって、俺は、そんな事望んでないんだから。
オヤジが院長になってかまってもらえないのが嫌なのに、俺が院長になってどうすんの?
わけわかんねぇーよ。
呆れて物も言えない。
「ホント、バカ春(シュン)・・・。」
タメ息交じりにボソっと愚痴をこぼした俺に、「ん?何?」と聞いてくる春(シュン)ちゃんに、イチイチ言うのが面倒で、「もういいよ。」と諦めた俺。
そんな俺の姿を見て、春(シュン)ちゃんはどうするのかと思ったら・・・。
「ホント、お前って、まだまだガキだな。」
なんて言って、俺の頭を自分の胸に押し当てて、ギューっと抱きしめた。
それの痛いのなんのって!!
「いてぇー!!」
そして、大暴れの俺。
ホント、バカ力なんだから!!
ジタバタする俺の頭から手を離した春(シュン)ちゃんは、ゲラゲラと笑ってる。
「笑い事じゃねぇー。
首が、おかしくなった。」
と文句をタラタラ言って、首をコキコキする俺の背中をポンと押すと、また俺の数歩前を歩き出した。
「ちゃんと、わかってるって。」
正面を向きながら春(シュン)ちゃんはそういうと、俺の方に顔を向け、「いくぞ。」と顎で俺に訴えた。
俺は、しぶしぶ、止めていた足を動かし春(シュン)ちゃんの側へと急いだ。
俺が真横に来た事を気配で感じた春(シュン)ちゃんは、正面を見たまま口を開く。
「冬真(トウマ)に院長を辞めてほしいのは、お前がアイツを独り占めしたいからだろ?
ホント、お前は、パパっ子だなー。」
そして、「ブブブ。」と噴出し笑いをする。
なんか悔しかった。
腹が立った。
でも、正解なだけに否定はできない。
俺は、「悪いかよ!」とまた、春(シュン)ちゃんに悪態をついてしまう。
いつものパターンなら、「そう怒るなって。」とかいって、春(シュン)ちゃんは俺をさらにいじってくる・・・はずなのに。
春(シュン)ちゃんの行動は、予想外の物だった。
「お前さー、なんで、そんなに冬真(トウマ)が好きなの?」
「えっ?」
そんな質問されるなんて、ちっとも思ってなかったからさ。
俺は、驚きながら春(シュン)ちゃんを見た。
だけど、もっと驚いたのは、俺を見る春(シュン)ちゃんの顔だった。
さっきの笑いは消えていて、また真剣な瞳をしている春(シュン)ちゃんの目に・・・俺は、一瞬吸い込まれそうになった。
いや・・・現に、吸い込まれたんだろうな。
だって、俺は、春(シュン)ちゃんの質問に、とっさに答えることができなかったんだから。
「おい、どーなんだよ!!」
右腕で俺の腕をツーンと押しながら、春(シュン)ちゃんは催促してきた。
横に少し飛ばされながら、俺は我に返る。
俺がオヤジを好きな理由。
そういえば、そんな事、今まで聞かれた事なかったな。
だから、誰にも言った事なかったっけ?
だったら、普通戸惑うよな?
何だ、何だ??って。
だけど、俺は、そんな戸惑いなんてないんだ。
だって、俺の中で、いつも答えは出てた事だから。
例えば、他の事を質問されたら、悩んだかもしれない。
でも、この事だけは、すぐに答えられる自信はあるんだ。
それくらい、俺にとっては、簡単で当たり前の事だったから。
だから、俺は、春(シュン)ちゃんにすぐに答えてた。
「だって、俺の理想だから。」
まさか、そう答えるとは思っていなかったのか、春(シュン)ちゃんは、「理想?」と少し首をかしげる。
「うん。」と頷いた俺は、少しニヤけながらオヤジへの想いを春(シュン)ちゃんに述べた。
「オヤジって、なんでもできるから。
代々続いた梅澤病院の中で、初の心臓外科医にもなっちゃったし、あとどんな小さな病気も見抜く目を持ってるしさ。
内科医としても外科医としても、日本一。
いや、世界一の腕を持ってるじゃん!
なのに、患者にも身内にも、威張る事無く謙虚でさ。
自分の腕もすごいのに、春(シュン)ちゃんや聖(アキラ)ちゃんの腕も認めたり。
俺たちには、口は悪いし乱暴だけど、根はすっごい優しいし。
そういう、人として大きい所が好きなんだ。
何でも、平気な顔でスラスラっとこなしてしまうオヤジの天才さが、かっこよくて。
オヤジは、昔から俺のヒーローなんだ!!
そして、今も!!」
って・・・俺は、年甲斐もなく熱く語ってしまった。
言ってからちょっと恥ずかしくなった俺は、慌ててごまかす。
「あー、いっとくけど、これ、オヤジには言うなよ。
恥ずかしいから!!」
と真っ赤になりながら、必死でとりつくろう俺だけど・・・。
春(シュン)ちゃんの顔を見て、俺のアタフタぶりが、フェイドダウンしていった。
「どうか・・・した?」
春(シュン)ちゃんの少し複雑そうな顔を見て、俺は少しビビリながらそう言った。
そんな顔するような事、俺言ってないのに・・・。
すると、春(シュン)ちゃんは、射程距離内に見えてきたカルムに真っ直ぐに向かいながら、背後にいる俺にこう言った。
「お前は冬真(トウマ)の事、何もわかってないな。」
その声は、そんなに大きかったわけじゃないのに、このシーンとした空間にやけに響いた。
俺は、春(シュン)ちゃんに言葉の意味を聞こうとしたんだけど、できなかった。
なぜかというと、春(シュン)ちゃんはスタスタと俺を置いて、カルムに入っていったから。
俺は、さっきの言葉を気にしながら、春(シュン)ちゃんの後を追いかけた。
春(シュン)ちゃんに遅れる事、数秒後。
俺は、カルムに足を踏み入れた。
さっきも言ったように、カルムは身内が入り浸る憩いの場。
『Calme』と書いて『カルム』と読む。
フランス語で、意味は『穏やかな』って意味らしい。
ユッタリとくつろげる場所、っていう意味を込めて名付けたとか。
ここは、もともとあったんだけど、オヤジが院長になった時に、ちょっと手を加えたらしい。
さっきも言ったように、ヘトヘトになる身内の医者が、少しでも疲れが癒せるようにと創ったとか。
ここには、数々の疲れを癒す為の、マシーンやアイテムがあったりする。
でも、俺はそんなの使った事がない。
っていうより、実は、ここに来たのも今日が初めて。
ここで勤務してたこの半年の間は、だいたいオヤジの医局を使わせてもらってた。
今は、オヤジは院長だから、ほとんどを院長室で過ごすから、医局は使わないとかでね。
ホント、使ってないんだなーって実感した。
だって、少しほこりっぽかったから。
それにしても・・・。
俺は、改めてカルムを見る。
目をキョロキョロさせながら・・・。
そして、驚いたよ。
カルムのすごさに・・・。
どんなすごさか?って・・・。
まずは、家具だな。
ここにおいてあるもので、一番人が使い、一番目に入るもの。
それは、座るもの。
1人で座るには贅沢というくらいの大きなソファー。
座ってもあまり沈まないあたりが、腰によさそう。
そして、手触りも感触がよく、落ち着く。
それだけじゃない!
もちろん、リラックスには必要不可欠であるリクライニングも可能。
倒しても後ろのソファーに迷惑がかからないくらいの、このゆとりのある広さ。
それにあと・・・。
俺は、クンクンと香りをかぐ。
何かの香りがする?
俺は、早速座ったソファーの背もたれを、少し倒しながら、自販機にたたずむ春(シュン)ちゃんに質問した。
「なぁー、この香り何?」
甘い香り。
でも、しつこくなくて、心地いい感じ。
それでいて、ずっとかいでいたいような癖になる香り。
俺は、目を閉じて、その香りに感覚の全てを集中させた。
俺のしぐさに、春(シュン)ちゃんは、いつもの口調に戻る。
「これは、冬真(トウマ)がオリジナルで造ったアロマだ。」
「オヤジが?」
驚く俺に春(シュン)ちゃんは、「そっ!」と軽く笑う。
「お前らの時はなかったのかもしれねぇーけど、俺らの時は「セラピー」っていうのが必須科目であってな。
冬真(トウマ)は、自分でその患者にあったアロマを造りたくて、その時に別に勉強してたんだよ。
で、ここにおいてあるのは、疲れた心と体を癒すとされている物が含まれたアロマ。
レモンバームとあとは、なんだっけかな?
3つくらいをブレンドさせて造ったと言っていたけど、俺そういうのに興味ねぇーからさ。
覚えてねぇーわ。」
と笑ってごまかす春(シュン)ちゃん。
オヤジが、こんなのを造ることができるなんて、もちろん、知らなかった。
俺は、新しいオヤジを発見できてうれしくて、自然と顔がにやけてた。
そして、さらに、こう言葉を言ってた。
「やっぱ、オヤジってすげぇー!!」
って。だけど、その言葉が、また春(シュン)ちゃんから笑顔を奪った。
「さっきの話だけどな・・・。」
急に声のトーンが下がった春(シュン)ちゃんに俺は、にやけていた顔のまま春(シュン)ちゃんに目を移すけど、笑顔が消えていた春(シュン)ちゃんを見て、俺の笑顔も徐々に消えていった。
何を言われるのかとビビる俺の目の前に、春(シュン)ちゃんは自販機から出てきたばかりの紙コップを置いた。
そのコップからは白い湯気が、たくさん昇ってた。
ここからは、液体の色は見えない。
でも、香りでわかる。
この距離があっても、この液体の濃い香りは俺の臭覚を正常に動かした。
だけど、俺、“コレ”飲まないんだけど・・・。
という事で、少し申し訳なさそうに俺は言ったんだ。
「ごめん、春(シュン)ちゃん。
俺、コーヒー飲めないんだ。」
って。
おこちゃまー!!って言うなよ!!
ダッセー!!って言うなー!!
仕方ねぇーだろ!
苦手なものは苦手なんだ!!
正確に言うと、コーヒーが苦手で、カフェオレは飲める。
・・・それを、おこちゃまと言うんだ!!って言われそうだけど・・・。
オヤジや春(シュン)ちゃんみたいに、ブラックで飲むなんてもってのほか!!
メチャメチャ苦いじゃんかー。
あんなの人間が飲むものじゃないって!!
だいたい、あの真っ黒い色もムカつくんだよ!!
真っ黒なんだぞ!!
なんで、人間が飲むものが黒いんだよ!
見るからに体に悪そうだろ!
いくら、体に害がないと言われても・・・害があるように思ってしまう。
だから、俺は飲めない。というか、飲もうとも思えないんだ。
でも、やっぱり、仕事がら眠さに勝つ為に、カフェインは必要で・・・。
そういう時は、仕方なくコーヒーの力を借りるんだけど・・・コーヒーじゃなくて、カフェオレに大変身させる。
ムカつく黒さは、ミルクが色を変えてくれる。
あの信じられない苦さは、甘い砂糖がごまかしてくれる。
そうやって、原型を思い出せないほど姿を変えたら、俺は口にする事ができる。
だから、今、目の前にあるコレは、悪いが飲めない。
見えないのになぜ、カフェオレじゃないって言えるかって?
だって、においがキツイもん!
これは、ブラック・・・つまり、ストレートに間違いない!!
断言する!
見る前から完全に拒否してる俺に対して、春(シュン)ちゃんは、「あー、待て待て。」と笑いながらいうと、側にあったテーブルからシュガーを1本拝借する。
それを、俺の側にあるコップに、サラーと入れた。
そして、それを、使い捨て用のスプーンでよーくかき混ぜる。
これで、どうやら、完成みたい。
「さっ、どうぞ。」
と笑顔で手を添えて、うながされてもさ・・・。
だから、俺、飲めねぇーって言ってんだろが!!
ブチ切れそうになるけど、そこは、グッと堪えて俺は必死で春(シュン)ちゃんに訴えた。
「だから・・・俺は、ミルクも入れないと飲めないんだって!」
最後は、少し強く言ってしまった。
だけど、春(シュン)ちゃんは気にせず、自販機に向かうと、自分のコーヒーも作り出す。
完全に人のいう事を聞いていない春(シュン)ちゃんは、鼻歌を歌いながら自分のコーヒーができるのを待つ。
そして、完成したら、行儀悪く歩き飲みしながら、俺の側にくると、真向かいのソファーに腰をおろした。
「あのさー。」
たまらず、そう言った俺に、春(シュン)ちゃんはおいしそうにコーヒーをすすりながら、俺のコップを顎でさす。
「いいから、飲んでみろって!」
あまりにしつこい春(シュン)ちゃんに、俺はしぶしぶ折れた。
イヤイヤ、コップに手を伸ばす。
そして、コップに口をつける。
ほら、この濃い香りに、真っ黒い液体。
あー、イヤだイヤだ・・・。
心でそう愚痴りながら、俺は目をつぶり液体を無理やり口に含んだ。
そして、これまたイヤイヤ、ゴクンと飲み込んだ。
絶対に、苦くてまずくて、オエーってなると思ったのに・・・。
「あ・・・れ?」
俺は、たまらず目を開けて、間抜けな声を上げてしまった。
だって、コレ、そんなに苦くないんだ。
っていうか、どちらかといえば、甘い。
シュガー1本で、こんなに甘くなるんだ。
もちろん、ミルクもないし、甘さだってカフェオレに比べたら全然足りないけど。
でも、ブラックの時の苦さが、ホント信じられないくらい消える事を、初めて知った。
あまりの衝撃に驚きながら、コーヒーを見つめる俺に、春(シュン)ちゃんはコーヒーをテーブルに置くと、体を横にコテンと倒した。
春(シュン)ちゃんが座っているソファーは4人掛け用ぐらいに大きなもので、背の高い春(シュン)ちゃんが横になっても、足がはみ出ないくらい大きかった。
横向きに倒れてた春(シュン)ちゃんは、顔だけをこちらに向ける。
「思ったより、甘くて驚いただろ?」
春(シュン)ちゃんの言葉に、「あ・・・うん。」と答えた俺に、春(シュン)ちゃんはコレを俺に飲ませた目的を説明し始めた。
「さっき、院長室で冬真(トウマ)が飲んでたコーヒーな。
お前が飲んだそれと、同じものなんだ。」
「はぁ?」
あまりの驚きに俺は、思わずコップを落としそうになって、慌てて両手でそれを強くつかむ。
そして、俺はユックリとコップをテーブルに戻すと、春(シュン)ちゃんに迫った。
「今の・・・どういう意味?」
だけど、春(シュン)ちゃんは、「言葉のまんまだけど。」と少し冷たい。
仕方なく俺は、春(シュン)ちゃんに俺の疑問と言うか、納得が行かない理由を、細かく語った。
「これと同じものを、オヤジがさっき飲んでたって・・・。
そんなの・・・冗談だろ?
だって、オヤジ、昔からブラックしか飲まないよ。
甘いもの苦手で、アイスクリームやチョコなんて絶対食べないし、餡子(アンコ)とかだって食べないんだよ。
そんなオヤジが、こんなに甘いコーヒー飲めるわけないじゃん!」
俺は、自信があった。
だって、本当にそうなんだから!
息子の俺がいうんだから、間違いないんだ!!
俺は初め、春(シュン)ちゃんが、からかってるんだと思った。
俺が、オヤジの事を大好きだから、俺を試してるんだと。
オヤジの好みを知ってるか、クイズでも出してるのかと思ったから、この答えを聞いて、「なーんだ、知ってたのか。」って負けを認めると、心では期待してたのに・・・。
だけど、春(シュン)ちゃんは、悔しがる所か、反対に俺にタメ息をついて来た。
それが、無性に・・・ムカついた。
「なんだよ!!」
さっきまでの穏やかな俺ではなかった。
実は、思い出したんだよ。
カルムに入る直前に、春(シュン)ちゃんに言われた言葉を・・・。
『お前は冬真(トウマ)の事、何もわかってない。』
春(シュン)ちゃんは、そう言ったんだ。
こんなにオヤジの事を知ってる俺が、オヤジを知らない?
それが、このコーヒーと関係あるのか?
俺が知らないオヤジって・・・。
興味があるって、軽い言葉じゃなくて・・・。
知りたくてたまらなくなった。
俺が知らないオヤジ。
そんな事あるわけないけど、認めたくないけど・・・。
あるなら、知りたいって。
反発な言葉を春(シュン)ちゃんに言ってるくせに、目は『聞きたい!知りたい!!』オーラを全開に発している俺に、春(シュン)ちゃんは少しだけ笑った。
「お前さー、さっき冬真(トウマ)に言ってたよな?
麗美(レミ)ちゃんを思いのままに抱いて、ずっと一緒にいれるオヤジに、お前が抱く不安や焦りなんて、わかるわけがない!って。」
ただ、黙る俺に、春(シュン)ちゃんは続けた。
「お前、ホンキでそんな事思ってたのか?」
「えっ?」
意味がわからなかった。
何を、春(シュン)ちゃんが言いたいのかわからなくて、戸惑った瞳で春(シュン)ちゃんを見る俺。
何も言えずただ、言葉に詰まる俺に、春(シュン)ちゃんは待ってはくれなかった。
「時間がなくて焦る気持ち。
ほしかった運命の女を、やっと手に入れた喜び。
そして、そいつとありのままの自分で交じり合って、相手に自分の全てを注ぎたい。
そういう、お前の気持ち。
誰よりもイヤって程わかるのは、この世でたった一人。
冬真(トウマ)だけだと俺は思うぞ。」
春(シュン)ちゃんはそういうと、「よっ!」と言いながら体を起すと、ソファーに座る。
そして、両手を両膝について、前かがみになって座った。
「お前さ、覚えてないか?
冬真(トウマ)が留学してた、2歳から7歳までの事。」
「春(シュン)ちゃん、バカだろ?
2歳の頃の話なんて、覚えてるわけねぇーだろ!」
たまらず、叫んでた俺。
だって、そんな赤ちゃんのときの話されても、わかんねぇーよ。
それよりも、さっさと本題に入ってくれ!と俺の心はせかしてた。
だけど、春(シュン)ちゃんはオヤジに似て、マイペースというか、落ち着いてる。
さすが、院長としてのノウハウを幼い頃から叩き込まれていただけあって、そういう落ち着きと言うか、譲れない事っていうの?
そういう貫禄は、さすがって言いたくなるくらい、すごいものがあった。
「なら、後半は覚えてるだろ?
6歳から7歳くらいの事。
お前、冬真(トウマ)と過ごした記憶あるか?」
「あるよ!
それより、教えてくれよ。
オヤジの何を俺は知らないんだよ。
なんで、オヤジが俺の気持ち、わかるんだよ!!」
話をそらす春(シュン)ちゃんを待っていられなくて俺は、自ら春(シュン)ちゃんに迫った。
だけど、春(シュン)ちゃんは、俺の質問には答えてくれなかった。
「どんな記憶?」
と質問返しされた。
「どうでもいいだろ、そんな事!!
それより、教えてくれよ。」
って食い下がってみるけど、
「どんな記憶?」
と再度言われて・・・。
「もぉー!!」と怒り出しながら俺は、髪をかきみだした。
イライラが最高潮に達した。
「すりかえんな!」
大声で叫んだ俺は、言ったあとで、息をゼーゼー乱した。
そんな俺の姿を、春(シュン)ちゃんは落ち着いた顔で見てた。
ノンキにコーヒーを飲むと、コップから口を離し俺にこう言った。
「落ち着けよ。
まずは、俺の質問から答えろ。」
そして、そのあと3度目となる、この言葉を言った。
「どんな記憶だ?」
って。俺は、もう・・・反発するのをやめた。
春(シュン)ちゃんにはかなわない。
降参した俺は、軽く息を吐くと、素直に答えたんだ。
「どんなって・・・色んな記憶だよ。
遊園地行ったり、ご飯食べに行ったり。
動物園にも連れて行ってもらった。
それが、どうかした?」
ちゃんと答えたのに・・・。
なのに春(シュン)ちゃんは、またしても、俺の回答をかき乱す言葉を言ってきた。
「ホントにそれ、冬真(トウマ)だったか?」
って。それには・・・、
「もー、なんなんだよ、一体!!」
と、またしてもキレた俺だった。
両足をバタバタして、ソファーの上で大暴れの俺だけど・・・。
当たり前の事ながら、そんな俺すらも春(シュン)ちゃんはほったらかし。
眉一つ動かさずに、普通に、俺にさらに突っ込んだ質問をしてきた。
「証拠あるか?一緒に出かけた証拠。
写真とかさ。」
「それは・・・。」
俺は、言葉に詰まった。
そう言われて、改めて考えてみると・・・一枚もない。
その頃の写真がそういえば、一枚もないんだよ。
留学する前に、オヤジの写真を持って行こうと、アルバムをあさっていた時に実は気付いた。
2歳から5歳くらいまでは、ちょこちょこあったんだよ。
オヤジが映ってる写真が。
おもに家とか、近所の公園とかで、遠出はしてないのは、景色を見ればわかった。
オヤジは留学中で一時帰国した時に撮ったものだから、出かける時間がなかったのは、それを見たら一目瞭然だったし、別にそんなに気にならなかった。
だけど、不思議な事に、そこから2年間の6歳と7歳の頃の写真は、全くオヤジが写ってなかった。
あんなに俺の頭の中の記憶は、オヤジと過ごしたたくさんの思い出があるのに。
どうして?
気にはなったけど、聞きそびれてた。
まさか、それが、何か関係してるのか?
俺の胸は、少し高鳴った。
「教えて。どうして、オヤジの写真が、6歳と7歳の2年間だけないんだ?」
俺は深刻な顔になる。
だけど、春(シュン)ちゃんはというと、「ん?そんなの簡単。」と軽く口にすると、少し冷めたコーヒーを口にしたあと、俺を見た。
「その2年間、冬真(トウマ)は一度も日本には、戻って来てないんだ。
だから、アイツとの写真が1枚もない。」
「へっ?」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔って、よくいうだろ?
俺の顔は、まさにそれだった。
口をだらしなく開け、目だって真ん丸に開けて、春(シュン)ちゃんを見てた。
そんな俺の姿に春(シュン)ちゃんは軽くクスと笑うものの、それ以上は何も言ってこなかった。
変わりに、俺に教えてくれたんだ。
真実の2年間を・・・。
「冬真(トウマ)が心臓外科医になろうとして渡米したのが、お前が2歳になる年の4月だった。
けど、アイツは、1ケ月のうち1週間くらいは、こっちに戻ってきてた。
何でかわかるか?」
そんな急にふられても。
俺は、ただ、首を傾けた。
俺の態度に、「簡単だろ?」と言いながら、軽く笑った春(シュン)ちゃんは、答えを口にする。
「お前と麗美(レミ)ちゃんに、逢いに戻ってきてたんだ。」
「俺と母さんに?」
「そう。」と言いながら頷いた春(シュン)ちゃんは、またソファーに横になる。
手足を伸ばして、気持ちよさそうな声を上げる。
そして、深く息を吐くと、天井を見上げたまま、話を続けた。
「だけど、その生活も、長くは続かなかった。
お前も冬真(トウマ)の跡を継ぐように、みんなからしつこく言われた口だから、院長としての、“絶対条件”っていうのは、知ってるよな?
アイツは、向こうで、心臓外科医としてだけでなく、院長になる為に、経営学やその他色んな事を学ばなければいけなかった。
2年、3年と年月が経つごとに、アイツはこっちに簡単に戻って来れなくなったんだ。」
そこまで聞いたら、なぜか俺は・・・胸が苦しくなってた。
何で?って聞かれた困る。
でも、本当に・・・苦しかったんだ。
それはきっと、さとりを愛してる俺だから、わかった苦しみなのかもしれない。
愛する人に逢えない苦しみ。
俺が、さとりに、卒業後また、ニューヨークに戻る事を、言い出せなかったのもコレなんだ。
向こうに戻れば、容易に戻って来る事はできない。
それくらい、向こうでの勉強は半端じゃないんだ。
だから、俺は、今大きく揺れてる。
戻るべきか、戻らないべきか・・・。
そんな俺だから、すごく気になったんだ。
今の俺と、変わらない気持ちでいたオヤジ。
その時、オヤジはどんな選択をしたんだろう?って。
俺の気持ちは、知りたくて、聞きたくてたまらなかった。
その思いは、態度に表れてしまった。
「それで?オヤジはどうしたんだ?」
自分でも気付かないうちに、春(シュン)ちゃんの方に身を乗り出していた俺。
俺の声が少し近くで聞こえたせいか、春(シュン)ちゃんは天井に向けていた顔を俺の方にユックリと向けた。
必死で、春(シュン)ちゃんに食いつく俺の姿に、春(シュン)ちゃんは、とても穏やかに笑った。
その穏やかな笑いは、まるで、俺の焦る気持ちを和ませてくれてるようだった。
「麗美(レミ)ちゃんが4回生で、確か季節は冬だったかな?
色々あってね、冬真(トウマ)は麗美(レミ)ちゃんとお前を、年明けからニューヨークに連れて行く事にしたんだ。」
「俺と、母さんを?」
「そう。だけど、結果的にそれは、ナシになった。」
「ナシって・・・なんで?」
オヤジがニューヨークに俺たちを連れて行こうとしてたなんて話、今まで聞いた事なかったから、正直驚いた。
と同時に、ちょっと嬉しかったんだ。
俺たちを連れて行きたいほど、オヤジは俺や母さんの事を思ってくれていたんだって、知れたから。
でも、不思議だった。
何が?って、ナシになった事だよ。
だって、オヤジは心から望んで俺たちを誘ったわけで・・・。
もちろん、母さんだって、オヤジについていきたかったはず
喜んだはずなのに、100%付いて行っただろうに・・・なぜ、行かなかったのか?
すごく、不思議だった。
その一方で、俺は思ったんだ。
「それが、答え?」
いきなりそう言った俺に、「ん?」と聞いてきた春(シュン)ちゃんに、俺はさらに言った。
「さっき春(シュン)ちゃん言っただろ!
今の俺の気持ちがわかるのは、誰でもないオヤジだけだって。
俺たちが向こうへ行かなかった事で、オヤジが抱えた色んな想い。
それが、今の俺の不安や不満と一緒って事?
だから、オヤジには俺の気持ちがわかるのか?
オヤジもこんな想いしてたって・・・そういう事なのか?」
どうやら、その答えは合っていたようで、
「察しがいいな。」
と少しうれしそうに笑った春(シュン)ちゃんは、ゆっくりと体を起した。
「お前、さっき言ったよな。
冬真(トウマ)は何でもこなす、ヒーローだって。」
黙る俺に、春(シュン)ちゃんは、軽く首を振りながら、「それは、違う。」というと、俺を真剣な瞳で見た。
「今のアイツが出来る全てのものは、アイツが人並みならぬ努力で、得た物なんだ。
自分の限界を何度も何度も超えて、アイツは今の自分を手に入れた。
その中で、何よりも手放したくないものを、手放さなければならない時もあった。
そんな犠牲を払って、アイツは今の自分を手に入れたんだ。」
春(シュン)ちゃんは、そういうと、今度はちょっと楽しそうな口調になる。
「麗美(レミ)ちゃんも冬真(トウマ)の努力や大変さを知ってね、自分は行くべきじゃないと判断した。
それで、お互い、苦渋の選択をして、2年間離れたんだけど、冬真(トウマ)ってホント、麗美(レミ)ちゃん命だからね。
彼女を完全に絶たないと、ダメだと思ったんだろうな。
そこで、アイツは、麗美(レミ)ちゃんにこう言ったんだ。
彼女が、医者になるまで消息を断つってね。」
「えっ?」
あまりの展開に驚く俺に、春(シュン)ちゃんは、どんどん話を続ける。
「それから、本当にお互い連絡を取らなかったんだよ。
だから、お前と冬真(トウマ)との写真がない。
それが、理由だ。」
「けど、俺、記憶はあるんだよ。
オヤジと遊んだ記憶が・・・。」
「それは、冬真(トウマ)じゃない。
俺だ!」
「はぁ?」
って、そりゃ、驚くだろ!
面くらうだろ!
確かに、春(シュン)ちゃんはオヤジに似てる。
けど、やっぱ、おかしいよ。
だって、一緒に風呂入ったり、一緒に寝たりっていう記憶だってあるんだぞ。
それも、全部春(シュン)ちゃんなのか?
頭が混乱して、言葉が追いつかない。
ただ、頭を抱えて首を振っている俺に、春(シュン)ちゃんは、「フッ。」と声を吐く笑いをした。
「まー、混乱するのも無理ないわな。
オヤジみたいな事も、した事あったし。」
春(シュン)ちゃんはそういいながら、ポケットからタバコの箱を取り出した。
それは、さっき散々春(シュン)ちゃんが吸っていた、オヤジのタバコだった。
どうやら、しっけいしてきたみたい・・・。
で、春(シュン)ちゃんはというと、それを口に運びながらクスクスと笑い出した。
「なんで、オヤジの役割まで、春(シュン)ちゃんがしたんだよ。
ややこしいだろ!!」
一人涼しげな春(シュン)ちゃんに、ムカついた。
別に、春(シュン)ちゃんが悪くないのはわかってるけど、でも・・・。
八つ当たりしてしまった。
けど、八つ当たりを受けた本人は、別に気にしてる素振りはなく、ただ、笑ってるだけだった。
「だって、しかたないだろ?
お前が、パパはどこ?パパはどんな顔?
パパがいないのは、天(タカシ)が嫌いだから?
って、毎日毎日、麗美(レミ)ちゃんに迫るから。
彼女だって、冬真(トウマ)に逢いたいのを必死で耐えて勉強してたっていうのにさ。
さすがに、見てるこっちが、かわいそうでな。
まっ、冬真(トウマ)の代役を買って出たのは、奥さんに言われたからなんだけど。」
と言いながら、タバコをふかす春(シュン)ちゃんに、俺はたまらず言ってしまった。
「春(シュン)ちゃんって、ホント、奥さんのいいなりだね。」
そう。この春(シュン)ちゃん。
ドクターアイティーと、看護士の間で言われるほど、あまり人と深入りしようとしない、言えば冷めている人なんだけど、奥さんにはとんでもなく、甘い!!
奥さんがいう事は、絶対なんだよなー。
その徹底振りはまるで、奴隷みたいな・・・それくらい、忠実なんだよな。
前から、それは気になってて・・・。
俺は、たまらず、聞いてしまった。
「春(シュン)ちゃんって、奥さんに弱み握られてるの?」
それには・・・。
「ブッ!!・・・ゴホゴホゴホ。」
とすごいこと咳き込んでた春(シュン)ちゃん。
その慌てぶりを見て思ったね。
「図星なんだ。」
って。そういって、俺は笑いながらソファーに深く座ってあぐらをかく。
一方、春(シュン)ちゃんは、まだ、苦しそうに咳き込みながらも、俺の方を見る。
その目は、少し涙で潤んでた。
「するどい指摘してくんなよ。」
と言った春(シュン)ちゃんは、手に持っていたタバコを灰皿にこすりつけると、また横になる。
そして、まだ、所々で、「ケホ。」と咳き込みながらも、俺にこんな話をしてくれたんだ・・・。
「俺もな、昔、今のお前と同じ事を、した事があるんだ。」
そう言って少し笑った春(シュン)ちゃんは、昔話を口にする。
「お前も知ってる通り、元々院長になるのは、冬真(トウマ)でなくて俺だった。
生まれた時から院長になるべくして生きてきた俺は、院長っていう事がどれだけ大変な事か、わかっていたはずなのに、簡単に思ってたんだ。」
「簡単って?」
「院長夫人として認められない未来(ミク)でも、“何とかなる”って。
ちょうど、今のお前と一緒だよ。
相手に真実を伝えず、ありのままの自分で抱いたお前と・・・。
俺も、未来(ミク)の事をオヤジに理解してもらう前に、アイツを抱いた。
ありのままの自分でな・・・。」
それってつまり・・・。
つけなかったって事?と聞こうとした時、それを察知してか春(シュン)ちゃんは、俺に答えをくれた。
「その結果、俺は、その子を死なせてしまった。」
「!!」
言葉がみつからなかった。
死なせたって・・・。
それも、衝撃だったけど、そもそも、春(シュン)ちゃんの奥さんである未来(ミク)さんと、そういう大変な事があったなんて知らなかった。
とても、幸せそうな夫婦にしか見えなかったから。
何も言えない俺に、春(シュン)ちゃんは戸惑う事もなく続ける。
「その時、お前のじーちゃんである雪ニーに言われたんだ。
人生に何とかなるはナイって。
いつだって、自分自身で切り開いていかないと行けないんだって。
俺は、現実から逃げた。
その結果、大切な子供を失う事になったし、大切な未来(ミク)に背負わさなくていい傷を背負わせてしまった。
お前には、俺と同じ想いをしてほしくない。
お前には、立派な父親がいるだろ?
こんな間違った選択しなくていいような、立派な父親が。
もっと、しっかり、冬真(トウマ)の人生を見てみろよ。
アイツの人生を見習えば、俺みたいに間違った道を歩まないですむぞ!」
確かに、オヤジはすごい人かもしれない。
あのヒーローみたいなオヤジが、春(シュン)ちゃんの言ったように、全て自分の努力で手に入れたものであるなら。
自分の将来と、母さんの将来の為に、2年間離れていた心の強さとか。
すごいと思う。
だけど、そのオヤジを見習えば、間違った道を歩まない?
そうかな?俺は、知っていても、きっと、さとりをありのままの自分で抱いてたと思う。
だって、好きだから。
アイツが俺の全てをほしいと思うなら、俺も全てをあげたいって、そう思うから。
だから、春(シュン)ちゃんの言葉に、素直に納得できなかった俺は、ただ黙って下を向いた。
俺の思っていることが、春(シュン)ちゃんにはわかったようで、「なー。」と口を開いた春(シュン)ちゃんは、俺にこんな質問をしてきた。
「お前と翔空(ショウア)って、いくつ離れてる?」
「えっ?」
伏せていた顔を上げる。
突然すぎて、答えられない俺に、春(シュン)ちゃんはさらに言った。
「年だよ。」
「あー・・・。」
そう言われて、俺は、一呼吸すると、春(シュン)ちゃんに答えた。
「9歳だけど。」
てっきり、「そっか。」と納得するのかと思っていたのに、春(シュン)ちゃんは俺の答えに、こう質問をしてきた。
「なんで、そんなに離れてるか知ってるか?」
「そんな事・・・。」
知るはずもないだろ。
あまり、考えた事なかった。
でも、こうやって、考えると・・・わかるよな。
って事で、俺は答えたんだ。
「母さんが俺を産んだ後、高校に通ったり、あと医大に通ってたからだろ?」
ようは、子供なんて作ってる暇が、なかっただけだろ?
そんなに気にする事か?と思ったんだけど、春(シュン)ちゃんは、
「深い意味があるんだよ。」
と言ったかと思ったら、またタバコをふかす。
「それ・・・どういう意味?」
知りたかった。
9年の空白が意味する、本当の事を・・・。
また、俺の顔が真剣になった。
答えを知りたがる俺の姿に、春(シュン)ちゃんは少し満足そうな顔をした・・・ように見えた。
「その9年こそが、物語ってる。
俺やお前とは違う、冬真(トウマ)の強さをな。」
「つよ・・・さ?」
さっぱり意味がわからない。
眉間にしわを寄せて、難しい顔をする俺に春(シュン)ちゃんは、和やかモードで話す。
「麗美(レミ)ちゃんは、冬真(トウマ)との子供を望んでた。
学生だろうが、関係なくね。
その想いは、冬真(トウマ)だってわかってたはずだ。
そして、アイツも、ありのままの自分で、彼女を抱きたかったはず。
だけど、冬真(トウマ)は、絶対に、麗美(レミ)ちゃんを抱く時に怠らなかった。
麗美(レミ)ちゃんが、未来(ミク)によく愚痴ってたくらいだから。
『1回くらい、忘れてよ』ってな。」
そう言って、「あー、おかしー。」と1人で笑い出したんだけど・・・。
俺は、笑えない。
その先が気になる俺は、たまらず、春(シュン)ちゃんに言ってた。
「オヤジのその行為が、オヤジの強さって事?
それ・・・どういう意味?」
真剣に聞く俺の姿に、春(シュン)ちゃんはゆっくりと笑いを消していく。
「冬真(トウマ)は、ちゃんとわかってたんだ。
今は、“その時”じゃないって。」
「その時じゃない?」
「そう。アイツが、彼女をつけずに抱かなかったのも、彼女と想いが通じ合ってすぐに、結婚したかったのに、それをお前が8歳になるまで、先延ばしにしたのも、それが、アイツの現実だったから。
それを、崩す事は、とても簡単だったはずだ。
弱い自分になれば、あっというまに、そんなもの崩せた。
彼女の望むまま、彼女を妊娠させる事。
自分が望むまま、すぐにでも結婚する事。
彼女と離れる事が辛いんだから、6年にこだわらず、集中して1、2年の短期留学にし、心臓外科医になる事だって出来た。
院長になる事だって、断れば、麗美(レミ)ちゃんとの時間をさくこともなかった。
逃げようと思えば、現実から簡単に逃げれたんだ。
自分のラクな方に、未来を変えようと思えば変えれたのに・・・。
なのに、アイツはあえて、それをしなかった。
逃げたい自分の想いを抑え、自分に注がれる麗美(レミ)ちゃんの想いを受け止めながら答えるのを、必死で抑えて、アイツは耐えながら愛を育ててきたんだ。
アイツは、いつだって、ちゃんと現実と向き合って生きてきた。
逃げずに、流されずに、現実とな・・・。
だから、俺と違って、アイツは何1つ失っていないだろ?
お前と麗美(レミ)ちゃんを、失ってない。
それが、アイツという男の強さ。
俺や、お前とは、違うだろ?」
そう言って笑った春(シュン)ちゃんは、タバコを吸いながら、ソファーに足を伸ばして、またリラックスする。
その姿を俺は見ながら、春(シュン)ちゃんが今言った言葉を頭で整理しててさ。
そして、思い出したんだ。
春(シュン)ちゃんに逢う前に、俺が思っていたことを!!
信じられない現実を目の当たりにした時、どれだけの人が逃げずに立ち向かえるのかって・・・。
そして、俺は、逃げようとしてた。
心のどこかで思ってた。
みんな、自分の都合のいいように回避して上手く生きて行くんだろ?って。
だけど、俺の尊敬するオヤジはそうじゃなかったんだよな。
オヤジは一番過酷な選択をした。
そして、その先にある極上の幸せを手に入れた。
それを知ったらさ、単純に思ったんだよな。
俺にもその極上の幸せが、手に出来るのかな?って。
「俺もオヤジみたいに、強い男になれるかな・・・。」
俺は、ボソっとまるでひとり言のように、春(シュン)ちゃんに言ってた。
俺の言葉に、春(シュン)ちゃんは俺の方に顔を向ける。
「そうだなー。」
と一言言うと、穏やかな笑いを浮かべた。
「愛する者を手放す、不安。
愛する者をそのままで抱きたいのに抱けない、もどかしさ。
目を背けたい現実と向き合わないといけない、辛さ。
そういう今のお前の感情は、全部冬真(トウマ)が経験してきた事。
そして、どれも、アイツがパーフェクトでクリアーしてきた事。
お前の気持ちは、冬真(トウマ)が一番わかってる。
そして、誰よりも、どうにかしてやりたいと、強く思っているのも冬真(トウマ)だ。
だから、アイツにまかせておけば大丈夫だ。」
と言われたけど・・・。
俺は、素直に、「うん。」とは言えず、つい正直に言ってしまった。
「そう・・・かな?」
って。確かにオヤジはすごいよ!
それは、わかった。
春(シュン)ちゃんの話を聞いて、ヒーローから尊敬の目に変わったのは確かだよ。
そして、俺の気持ちが誰よりもわかるっていうのも、うん・・・。
納得してる。
きっと、オヤジなら、イヤって程わかるだろう。
いや・・・わかったんだろうな。
だから、俺を叱ったんだ。
避妊しないでさとりを抱いた俺を、罵倒したんだよな。
さっきの事を思い返すと、オヤジの気持ちが痛いほど胸にしみた。
だけどな、春(シュン)ちゃん。
俺は、やっぱり、納得できないんだ。
春(シュン)ちゃんが最後に言った言葉・・・。
『俺の事をどうにかしたいと思ってる』ってやつ・・・。
あれは、正直どうだろう?
俺は、そうは思わないな。
だって・・・。
「オヤジは違うと思うよ。」
「違うって?」
少し不思議そうな声をあげる春(シュン)ちゃんと違って俺は、自信があった。
オヤジの性格を知ってるし、こういう生き方をしてきたオヤジを知ったら。
きっとそうに違いないという確信があった。
だから、俺、言ったんだ。
オヤジの考えを・・・。
「オヤジは、いつだって、自分で何とかしろ!って思う人だから。
春(シュン)ちゃんに、聞いてわかった。
オヤジはいつだって、自分の力で道を開いてきたんだよな。
だからだよ。
だから、俺たちにも自分で開けというんだ。
オヤジは、いつだってそうだよ。
それに、今さっきだって、そうだっただろ?
結局、コレと言った道を教えてくれたわけじゃない。
さとりのおふくろさんに聞くにしても、今はダメだというし、結局道は明らかになってない。
つまり、自分でみつけろ!って事だろ?」
だけど、春(シュン)ちゃんは、「はぁー・・・。」ととんでもなく深くて重いタメ息をついたかと思ったら、すごく情けない声でこう言った。
「お前って、ホントバカだな!」
って。「なっ!」と言って、くってかかろうとした俺に、春(シュン)ちゃんは俺の目の前のある物を指さした。
その行動に俺の言葉は、止まった。
何も言えず、体も動かず、ただ、俺は春(シュン)ちゃんの指がさす方角を目で追った。
俺が、いきついた先は、俺がさっきまで飲んでいたコップだった。
ただ、コップを見る俺に、春(シュン)ちゃんは手を下ろしながら言った。
「冬真(トウマ)がな、そんな甘いコーヒーを飲むのは、体が相当疲れている時。
もっというと、一睡も出来なかった時に、アイツは飲むんだ。」
「えっ?」
コップから春(シュン)ちゃんに目を向けた。
春(シュン)ちゃんはというと、まだ、俺を呆れた目で見てた。
「お前が、その先生を連れ込んだのは昨日だろ?
話を聞いた限り、冬真(トウマ)も昨日の時点で、その先生の父親が陸(リク)かも?って疑いを持ったはずだ。
アイツは何も言わなかったけどな、右京のあのピリピリした感じを見る限り、2人で色々調べたんじゃないか?
出来る限りの事をして、お前と先生との真実をつきとめようとしたはずだ。
だけど、現実問題、その先生も母親も父親も蚊帳の外にして、真実を求めるなんて、不可能だ。
それでも、冬真(トウマ)はやろうとしたんじゃないのか?
お前の為に。
お前が、先生を心から愛してると知って、守ってやりたいと思ったと俺は思うけどな。」
春(シュン)ちゃんはそう言ったあと、「あ、そうだ。」と言うと、残っているタバコを吸いながらこう付け加えた。
「言っとくけど、冬真(トウマ)はまだ、諦めてないはずだ。」
「どういうこと?」
「直接、母親に聞くと言ったのは、お前が暴走しないように、そう言っただけ。
アイツは、初めからお前に、真実を突きとめさせようなんて、思ってないさ。
初めから、自分が何とかしようと、思ってたはず。
朝からハードなオペがあったにもかかわらず、一睡もしないで、ひたすら頑張ってたのが、その証拠!
そして、アイツは、母親に聞くなんて、そんな事思ってないはずだ。
もっと、確実に真実がわかる方法をアイツは考えてる。
アイツはたぶん・・・。」
「たぶん、なんだよ。」
だけど、春(シュン)ちゃんは、「秘密。」と言って、俺の頭をワシャワシャと乱暴にかき乱すと、タバコを灰皿にこすって消すと、起き上がった。
「さぁーて、帰りますか。」
って、何言ってんだよ!
こっちは、まだ、話の途中だ!!
俺は、コップをそのままにして出て行った、春(シュン)ちゃんの後片付けを早々にすると、慌てて春(シュン)ちゃんを追っかけた。
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