法話


行直心
行直心
 さて、この漢字をどうよむのでしょうか。「直心を行う」とも読めるし、そのまま「行、直心」とも読める。
 私は「行、直心」と読みます。それは漢文としてそれが正しいということではなく、私の経験からそういえるからであります。
 私の修行時代のことですが、早朝坐禅をしておりますと、窓から百舌鳥(もず)が入ってきました。百舌鳥は暫らくのあいだ、自由気ままに飛び回っておりました。そして禅堂の中を一通り飛び終えると、その勢いで外へでようとして、ガラスの窓にぶつかってしまったのです。 
 その場に駆け寄ってみると、百舌鳥は私を見つめながら、血を垂らして死んでゆきました。 
 百舌鳥には透明な窓ガラスが、認識できなかったのでしょう。しかしそれは、私たちも同じなのです。愛する人との別れや、病気、死。このことは生きている以上、私たちの前にいつかは立ちふさがります。百舌鳥と同じように、我々はそれを前もって認識できないのです。
 生きている以上、死は必ずやってきます。愛する人との別れは必ずやってきます。その場に立ったとき日ごろの行いが、そそまま自分の心を反映したものであることを痛切するのではないでしょうか。いくら心の中で自分は悪くないと思っていても、人に危害を加えれば、それはもう過ちであると同じこと。善いことをいくら心で思っていても、実際困っている人に手を差し伸べなければしないのと同じ。行いは、そのままわが心なのです。
 行いとはそのまま自分の心。ジコチューという言葉が蔓延する今、もう少し落ち着いて自分の態度、生き方を見つめなおしてみませんか?
 

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