立原久綱公、通称・源太兵衛は享禄4年(1531)に生まれた。出雲尼子氏に仕え、その武勇を近隣に轟かせた。また、山中鹿介の叔父にあたる。幼くして父を亡くした鹿介を養育し、薫陶したのが久綱公である。
山陰の王者として勢力を誇っていた尼子氏は、安芸国の一豪族から成長していった毛利元就によって永禄9年(1566)に滅ぼされる。このとき久綱公は尼子側の外交官として、降伏勧告を呼びかける毛利側との折衝に努めた。主君と残った家臣たちの助命嘆願に成功。その能力を買われ、毛利側から一千貫で仕官を勧められたが、旧主の恩に変えられぬとして断る。終生二君に仕えることはなかった。
主家滅亡後、甥・山中鹿介等とともに、尼子勝久公を擁して再興軍を結成。山陰各地を転戦し毛利を悩ました。また京に上り織田信長に謁見し、その支援を受けた。
しかし天正6年(1578)播磨上月城にて、毛利の大軍に囲まれ降伏。尼子勝久公は切腹を命ぜられ、鹿介とともに久綱公も捕らわれる。
身柄の護送中、鹿介は備後国阿井ノ渡しで殺害された。久綱公はそのころ病の床にあり、毛利側から戦後処置を控えられていたのだが、鹿介殺害を知り噴気。牢獄を破り京へ逃れ、事の顛末を信長に伝えた。
その後、僧体となり珠榮と号して、勝久公・鹿介や命を落とした尼子旧臣の菩提を弔いながら各地を放浪したという。のちに蜂須賀家に仕官した女婿福屋隆兼のもとに寄食し、慶長18年(1613)4月26日没。 享年83歳。戒名・節山院珠榮全忠居士。
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