立原久綱公について、東津田の何人かの古老の方にお話を聞きしました。
長源寺にある久綱公のお墓は、古く朽ちてしまったので明治の頃新しく建てかえたようです。そのときお墓の台座の部分に、田んぼの水路の水あて石を使っています。この水あて石は、現在米子市におられる立原さんの家のものだったそうで、実はこの大きな水あて石は久綱公が持ち上げた石た゛そうです。
尼子氏の居城月山富田城を守るため、出雲国には十のお城がありました。それを尼子十旗といいます。その筆頭が法吉にある白鹿城でした。毛利元就は、尼子十旗を次々に攻め落とし月山富田城を目指します。その最後の砦が白鹿城でした。
毛利の大軍に囲まれた白鹿城は、尼子の殿様に援けを求めましたが、なかなか援軍がきません。尼子の殿様も助けに行きたかったのですが、家来たちの間で議論が一致しなかったのです。それに見かねた久綱公と甥の山中鹿介が、殿様の前に進み出て、一刻も早く白鹿城を助けなければならないことを訴えました。そこでようやく白鹿城に援軍が向かうわけですが、とき遅く白鹿城を助けることが出来ませんでした。
久綱公は大変に悔しがり、傍にあった大きな石を持ち上げ、毛利の軍が陣している方向に向かって投げつけたそうです。後年久綱公の先祖の方々が東津田に移り住むようになって、その当時のことを思い出し「源太兵衛さんの水あて石」として伝承してきたものだそうです。
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