島根県安来市にそびえる月山富田城跡。そこは戦国時代、中国地方にその勢力を誇った尼子氏の本拠地でした。しかし1566年(永禄9)11月28日、その尼子氏も毛利元就の大軍に囲まれ降伏してしまいます。その後尼子氏のお殿様は監禁されてしまい、家臣たちは散り散りとなりました。そんな家臣達の中で、もう一度尼子氏を立ち上げたいと熱望する人たちがいました。彼らは尼子再興(衰えた勢力をもう一度盛り上げること)軍を結成します。
このグループの中心的人物が立原久綱公と山中鹿介でした。
では何故、久綱公はこのような計画を立てて実行しようとしたのでしょうか?それは尼子のお殿様・尼子義久公が毛利元就に降伏する際、その交渉役に久綱公を指名した事に始まります・・
月山富田城は、すでに毛利元就の大軍に囲まれ兵糧攻めに遭っていました。そこで尼子義久公は降伏を決意するのですが、久綱公や山中鹿介をはじめとする者たちは降伏反対でした。しかしこれ以上の犠牲者・餓死者を出す事に心を痛めておられた義久公は、その降伏反対の者たちの領袖であった久綱公にわざと毛利側との交渉をさせたのです。こうして降伏反対者が、過激な行動をするのを押さえたのです。
久綱公もこのような状況を理解しておりました。大変難しい交渉です。毛利方との話し合いはもちろん、味方も納得しなければならないのです。
久綱公は知略・話術・熱意を込めてこの大事にあたりました。毛利元就の子で知将・名将として名高い、吉川元春・小早川隆景兄弟を相手に交渉を進め、ついに主君・尼子一族とその家臣の助命嘆願に成功。また降伏した暁には尼子義久公に、石見銀山にて五千貫という領地を与えるという約束まで取り付けたのです。
久綱公は意気揚々として義久公の前に戻り、結果を報告いたしました。ここで尼子氏は、毛利元就に降伏することを決定したのです。
しかし実は、久綱公が戻った後、毛利の陣中では・・交渉を終えた元春・隆景兄弟の報告を聞いた毛利元就や毛利家臣達の間で、あまりにも尼子氏に対して甘い処置ではないか?立原久綱にしてやられたと言う意見がたくさん上がったようです。そこで尼子一族・家臣の助命は許すが、領地については無かったものとする事。また尼子義久やその兄弟は監禁することが決定したのです。
毛利内部でそのような事が行われていた事に久綱公も、尼子側の誰も知りません。月山富田城開城後、義久公は安芸国(広島県)に護送され幽閉されてしまいます。毛利方のこの処置に尼子家臣は、約束が違うと抗議します。久綱公も責任者として、毛利側に説明を求めました。すると
「交渉の時は確かにそれで合意したが、事情が変わった。申し訳ないがどうする事も出来ない。あなたには申し訳ないのでその代わりと言っては何だが、一千貫・・いや二千貫の領地を用意してあげるから、良いように収めてくれないか? 」
久綱公は激怒してその場を去りました。毛利方のこの対応に、不誠実と嫌悪感を抱いたのだろうと思います。義久公との最期の別れの時、久綱公はこう言ったそうです。
「義久様。どんなに苦しくてもご自害あそばされますな。久綱存命のかぎり尼子再興に尽力いたします。」
毛利方からしてみれば、敗軍の将の助命を行っただけでも、当時では寛大な処置であったと言えるでしょう。
久綱公にしてみれば降伏条件の不履行。そのあと自分に対し、目先の利益をエサにして懐柔を図った毛利方の対応に、勝利者の傲慢を感じたのかもしれません。 そして何より尼子氏を中心とした地域のつながりに、多くの人々が親しみを持っていたこと。尼子再興の夢は実現する事はありませんでしたが、久綱公の毛利に対する反骨精神は、戦国時代のみならず現代の我々の生き方に、示唆を与えてくれているように感じます。
参考文献 立原福屋両家傳
|