歴史探訪2004年

   吉野山(8) 太田櫻花堂のこと

 さてここで太田櫻花堂である。『大和路ガイドブック』にも登場する櫻花堂は、吉野には二店舗があって、吉水神社へ降りる坂道の角にある店は今日、表の戸が閉まっていた。観光客の少ない今の時期、土産物屋の中には4時を過ぎると店終いをしている家も多い。秋の夕暮れの訪れは早く、街はひっそりとし始めている。「お土産に葛菓子だけは」と気が焦った。
 
 幸い、蔵王堂下の櫻花堂はまだ店を開いていた。既に一箱、葛菓子を買ってきた私は、店番をしているおばあさんに恥ずかしげもなく「安いのはありませんか」と声を掛けると、「今売れたばかりだから、1050円のを1000円にしときます」と言う。「上の太田さんは今日は休んではるのですか」と尋ねて、「ええっ、うちをご存じですか」と聞き返され、「実は、私は大阪の長野ですが」と言葉を返した。
 多分、覚えてはおられないと思っていた。私もあまり自信はなかった。私は小さい頃、祖父作太郎が吉野から大阪に出てきて、祖母マサの養子になったと聞いたことがあった。作太郎は明治維新の頃、肥前(佐賀県)から討幕運動で上方に来ていた武士の落し胤とか、本当かどうかいささか疑わしい話だが、そんなことで太田家の世話になったらしい、そういう話を聞いたことがあった。
 だが、若い頃には、この手の話を親に詳しく確かめることもなく、気が付いた時にはもうその親達はこの世には居なかった。だが、私の家のルーツが吉野に少しは関係がありそうであるとは思っていた。
 
 太田さんが次に発した「そしたら、美津子さんのお子さんですか」は衝撃的であった。そう、私の亡母の名は美津子。「私は昭和5年にここへ嫁に来たので、それ以前のことはくわしくは判りませんが」という太田さんの生まれは明治44年(1911)、奇しくも私の母と同年で、今年93歳であるという。「1000円に負けときます」という言葉からも、とてもそんなお歳に見えない元気なおばあさんであった。
「上の店は、昭和26年暮れに買うたもので、昭和7年生まれの息子が店をやっています。今、ヨーロッパ旅行に行ってますので」
 どうりでお店は閉まっていたはずだ。
「まあ、一杯お茶でも上がって」と言われて、上がり框に腰を掛けて20分程、話を聞かせてもらった。
「ここの娘のおはまはんが、大阪のおうちのお店を訪ねていったこともあったそうです」
 
 だが、なにしろ七十年も前のこと、私が知りたいことはとうとう判らず仕舞いであった。陀羅尼助丸や吉野葛も買って店を辞した私は一路、ケーブルの駅に向かう。だが、どこで道をまちがったか、いつの間にか七曲がりの坂道に出ていて、そのまま近鉄吉野駅まで突っ走ってしまった。大阪阿部野橋駅に着いたのは18:25であった。
(2004.10.13)

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Last updated: 2005/10/23