人の中にはマザーテレサもヒットラーも住んでいる。
そんな言葉をどこかで読んだ事があります。
幅がある、ということでしょうね。
どちらの自分を成長させていくかが大事だと思います。
昨日は、先日帰宅途中で殺された女子高生の
告別式が行われたとニュースで言っていました。
「私たちの子供の頃の通学路って、わざわざ
メインの通りよりも奥の道にしてあったよね。
そういうの、今では物騒な場所になっちゃうんだね。」
「昔は車が危ないっていう認識だったから、車が通らない、
言い換えれば人目につかない場所が安全だったのよね。」
「今では、人が危ない。車が通るのが危ないんじゃなくて、
車が通らない=目撃者がいない=犯行しやすい。
私たちの子供の頃、下校する子供が殺される事件なんて
なかったし、そんなこと想像もしなかった。」
「うん。親たちも『車に気をつけなさい』って言ってたよね。」
昨日、喫茶店で交わした会話の一部を思い出しました。
最初から殺したかったのか、襲うのに失敗して殺したのか。
どちらにしてもこういう事件の犯人は、捕まっても、
心から悔い改めるというには遠いことが多いです。
自分のしたいことが悪魔のような行為でも、実行して、
相手の人生を奪うことも平気な犯人がほとんどです。
先日死刑判決が出た山口県の母子殺しなどまさにそれで、
どらえもんがどうとか、生き返りの儀式とか、
反省の気持ちがあったら言えない事ばかり言っていましたね。
本村さんが本当に求めたのは、犯人の心からの謝罪で、
本村さんの大事な妻子を、あんな形で殺した罪が、
どんなに重く、人として間違ったものか犯人が理解して、
その上でその罪を背負うということだったと思います。
お前も死ね、などというレベルの低い罰の思いではなく。
死刑廃止論には賛成の私ですが、この判決にも賛成です。
死刑廃止を論じる前に、犯した罪を犯人が自覚する、
それなしには罪を償うことはできない、と思うからです。
そして、ある種の犯罪者は、自分が死刑だと言われないと、
自分の犯した殺人という罪の前に向き合うこともないのです。
犯人のためにも、自分の罪に向き合わせるべきで、
出来るなら、命のあるうちに、罪を悔いて欲しいと思います。
死刑判決が出なければ、反省の可能性もないなら、
いくら死刑が残酷な、なくすべきものでも、必要悪。
出来るなら、本当の意味での終身刑があればと思います。
一生刑務所から出られない、というのでも、
罪と向き合えそうな気がしますから。
でも現実は死刑以外では減刑による出所の可能性が高く、
犯人が罪を自覚しないまま出所する事は避けたいです。
こういう自分本位のひどい犯罪が増えたのは、
魂の教育が出来ていないからだと思います。
「おてんとさまは見ているよ」
仏さまは、でも、神様は、でもいいんですけれど、
清らかな、正しい存在に思いを馳せる時、
自分の中にある清らかな正しい部分が呼応すると思います。
自分の中のこの部分を育てる事が大事なのだと、
子供の頃からどうにかしてそれを伝えられないでしょうか。
人間の中には、もちろん浅ましく汚れた部分もあります。
この部分に従った方が得なのだと思い込み、
それを育ててしまう人が多いのが現代なのではと思います。
自分の汚れた部分が、自分のすべてだと錯覚しているから、
欲望に従っていい思いをするのが何より大事で、
ばれなければ相手はどうなってもいい、という思考回路は、
ばれたあとでは死刑にならなきゃいいという思考に走ります。
自分がしたことはどういうことだったのか、
どこが間違っていたのか、という思考には至りません。
こういう犯罪がどんどん増えている日本は、
精神構造の流れが、そちらに向かっているのでしょうか。
「得をする」ことや「見栄えがいい」ことよりも、
「きれいな心が育っているか」「悪の心に流されていないか」
そういうことを問題にするのが「ダサい建前論」になって、
「本音は、自分の欲望が叶うことが一番いいんだ」
そんなことをやってると、どんどん怖い国になってしまうのに。
豊田市の事件の犯人が早く捕まりますように。
犯人が、自分の罪と向き合い、反省できますように。
精神構造の似た人たちが、犯罪を思いとどまりますように。
相手は死んでもいい、相手や自分の家族が苦しんでもいい、
そんなことより自分の欲望を満たすのが得と思う人たちが、
そんな形で欲望を満たすのは、魂が汚れて損なのだと、
気づくようなことに、犯罪を犯す前に出会えますように。
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