――――――――「本・映画・演劇・その他」関連――――――――
海野和夫
◎ 『活憲』を読みました
山吹書店発行で編集者が口石利昭さんの『活憲』(著者 法政大学教授、大原社会問題研究所副所長の五十嵐仁さん)を読みました、まさに一気に読みました。憲法を日々の暮らしに活かすことを、著者は「活憲」と呼んでいます。
憲法を守るだけでなく、憲法を活かして現実を変えていく、憲法が定める平和、民主主義、人権、社会保障、両性の本質的平等の方向に現実を変えていくことが必要だと、著者は訴えます。特に、憲法9条が定める諸国民の友好、戦争の違法化、戦力保持の禁止の方向に現実を変えていく不断の努力を著者は決意し、私たちに熱く呼びかけています。
「暴力や武力によって政治的目標を達成するという考え方は、もはや時代遅れの『旧思考』です。道徳と道理の力によって説得し、目標を達成するという『新思考』こそ、これからの日本の武器となる」との著者の「新思考」に私は大賛成です。
本書に出てくる関係者の生の声、証言は、特に私の胸を打ちました。平和、民主主義、労働運動の大事さをあらためて痛感しました。
◎ 「それでもボクはやってない」 冤(えん)罪事件を考えました
「冤罪(えんざい)」(三省堂「大辞林 第二版」から) 罪がないのに、疑われたり罰を受けたりすること。無実の罪。ぬれぎぬ。「―をこうむる」
さっき、周防正行監督の「それでもボクはやってない」を見てきました。超満員の電車内での痴漢の冤罪事件を描いたものです。素材になっている「痴漢冤罪事件」は、実際にあった事件で、被告人は無罪だとして国民救援会が支援している事件のようです。
この映画によると、日本の裁判全体で有罪判決が出るのは99.9%であり、無罪判決が出るのはわずか0.1%に過ぎません。無罪判決が出るのは1000件に1件ということになります。
ただ、被告人が無罪、無実を主張している裁判に限ってみると、有罪判決が97%、無罪判決が3%だとのことです。100件に3件が無罪判決ということになります。
この映画で「痴漢冤罪事件」の被告人を弁護する弁護士を役所広司さんが演じていますが、役所広司さん演じる弁護士は、日本の裁判の問題点として(特に痴漢のような事件の場合)、「被告人が犯行をおこなったことが立証されてはじめて被告人は有罪になるというのが裁判の本来の姿、あるべき姿なのだが、実際の裁判では被告人のほうが被告人の無実を立証しない限り、無罪にはならず有罪の判決が出されてしまう」、「裁判とは、国家権力に立ち向かうことだ」と述べています。
よく言われるように、「疑わしきは罰せず」、「疑わしきは被告人の利益に」が裁判の原則、基本、前提だと私は思ってきましたから、「被告人のほうが被告人の無実を立証しない限り、無罪にはならず有罪の判決が出されてしまう」、「疑わしいということだけで、有罪にされてしまう」のが事実だとすれば、戦前の裁判、さらには江戸時代の裁判への逆行といわざるを得ません。
この映画の被告人は「物証も自白もないのに、被害者の供述だけで有罪」にされてしまいます。これは、おそろしい話です。
反面、この映画を見て、上記とは逆の印象も持ちましたので、以下に書きます。列挙してみます。
@ 自己の信念と良心に従って正しい判決を出している裁判長、裁判官が余り存在しないかのように映画は描いていますが、私はそうは思いません。リモテックス施工員を労働者として認めて保護するような、リモテックス破産事件での園尾隆司裁判長のように、自己の信念と良心に従って正しい判決を出している裁判長、裁判官は多数存在すると、私は信じます。三権分立制によって司法の独立性は保たれている、生きていると、私は思います。公務員攻撃と同種の裁判官攻撃によって、「司法改革」の名の下に司法の独立性が損なわれる方向へのこの映画の悪用を危惧するものです。
A この映画は、被告人の証言をもとに構成され、作られており、その意味で一方的であり、公正さ、公平性、客観性に疑問を感じます。
B 被告人は法廷で裁判長に「暴言」を浴びせており、裁判長の心証形成に悪い影響を及ぼした可能性があります。
C 被告人の有罪、無罪については、この映画だけでは判断できないと感じました。
D 被告人の弁護士が被告人の無実を立証するものとして出してきた「証人の証言」、「電車のドアを背にしていたのだから、痴漢行為をしていた右手を(被害者から注意されて)後ろに引くことはできない」、「被告人の横にいた男性が横から手を伸ばして痴漢行為に及んだ」について、裁判長が無実の根拠にはならないとして述べた「論理」を突破しない限り無実の立証は難しい、と感じました。
裁判長が言っていたのは、
「証人の証言」といっても、この「証人」は被告人が痴漢行為をしていないということを見ていないし、そう証言もしていないこと、
「電車のドアを背にしていたのだから、(被害者から注意されて)痴漢行為をしていた右手を後ろに引くことはできない」といっても、右手をたとえば上に上げることはできるではないかということ、
「被告人の横にいた男性が横から手を伸ばして痴漢行為に及んだ」とすれば、被告人はそれを感じるはずであるのに被告人は「その感触はなかった」と証言していること、などです。
◎ 『ワイルド・スワン』ユン・チアンの『マオ 誰も知らなかった毛沢東』
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著の毛沢東伝
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ共著の『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(講談社)を読みました。原書は英語で書かれ、原書のタイトルは MAO または MAO The Unknown Story のようです。
上下巻で合わせると1,119ページです。著者のユン・チアンは、『ワイルド・スワン』を書いたユン・チアンです。私は、『ワイルド・スワン』は読んでいません。
前提として考慮する必要があるのは、『マオ 誰も知らなかった毛沢東』(以下、『マオ』と略します)に書かれていることが、本当なのか、事実、真実なのかということです。やはり歴史の検証が必要だと思います。
裁判であれば、証拠・証言を積み上げ、また原告、被告双方の言い分を平等に聞き取るなど、事実、真実に相当接近して、その上で裁判長が判決を下しますから、相当事実、真実の確度は高くなります。
『マオ』の場合、裁判長の代りに著者のユン・チアンとジョン・ハリデイがいます。この二人は、いかがわしい人物ではなく、まじめな人たちと一般に認められています。しかし、裁判長のような公平さ、公正さで、人間毛沢東に向き合えるかどうか、それは担保されていません。
『マオ』の場合、確かにかなり多数の証人が存在し、多くの証言が採取されています。インタビュー・リストの中には、日本の部分を抜き出し、そのまま紹介すると次のような人たちが含まれています。肩書き、経歴も『マオ』に記載されているとおり、以下に載せておきます。
有末精三中将 戦時陸軍諜報活動および原爆計画の責任者
衛藤瀋吉教授 中国専門家、歴史家
不破哲三 日本共産党書記長
藤田公郎 外交官。周恩来・スカルノ秘密会談に同席、1965年
藤原彰教授 中国専門家、歴史家
秦郁彦教授 中国専門家、歴史家
金沢幸雄 著名な毛沢東主義ジャーナリスト
小泉清一 情報将校、在中国、1940年代、中国共産党担当
前田光繁 八路軍捕虜、在延安
三笠宮崇仁親王 昭和天皇の弟、志那派遣軍参謀、在中国、1940年代
宮本顕治 日本共産党名誉議長
中島嶺雄教授 中国専門家、歴史家
二階堂進 内閣官房長官
野坂参三 日本共産党議長
清水正夫 松山バレエ団団長
立木洋 日本共産党幹部、中国に長期在住
竹内実教授 毛沢東研究第一人者、毛沢東の著作を編纂
まさに証人、証言は豊富です。しかし、裁判の場合、証言だけではなかなか有罪にはならず、物的証拠による裏付けの積み上げが必要です。『マオ』の場合、物的証拠が揃っていると言えるかどうか、という問題が残っています。慎重な見極めが求められるところです。
裁判と『マオ』が違うもう一つの点は、「被告」の毛沢東が既に死亡しており、被告に反論、弁明の機会が与えられていないことです。これでは、裁判は成立しません。『マオ』の場合、言ってしまえば、原告からの一方的な攻撃、告発、批判、非難が存在するだけです。ここは、冷静に、慎重に見ておくべき点だと思います。やはり歴史の検証が必要でしょう。
しかし、以上の前提を考慮しても、『マオ』は極めてショッキングな毛沢東伝です。スターリン等々だけでなく、「毛沢東あなたもなのか」との感情の湧出を抑えることは、なかなか困難です。しかし、抑えて冷静にならなくてはいけません。自分に言い聞かせます。
従来の一般的な毛沢東評価は、大躍進政策、特に文化大革命で大失政、大失敗を犯したが、それまでは中国を帝国主義からの解放に導く基本的に正しい路線を遂行した指導者というものだったように思います。
しかし、『マオ』はそのような評価と無縁です。
一言で言いましょう。毛沢東の政治人生の最初から最後まで「文化大革命」型のやり方、手法を徹頭徹尾用いたのが毛沢東である、これが、『マオ』の表現していることなのです。
独裁の出現を阻止するには、やはりシステムが必要です。法治国家、三権分立、そして近代民主主義の成果としての日本国憲法、これらを守り抜くことの中に、道は存在するのです。
◎ 筆坂秀世氏の本『日本共産党』(新潮社)を読んでの感想
前提として私が感じているのは、日本のマスコミ、マスメディアは基本的に、支配層の宣伝機関と化している、という事実です。新潮社という大手出版社が、マスメディアの一部であることも、自明です。
普通の人間が、私たちがというより私が、新潮社にいくら出版を頼んでも、新潮社が出版・発行してくれるわけがありません。支配層にとって価値がなければダメということです。
支配層にとっての「利用価値」と言い換えてもいいでしょう。日本共産党は、仮にいろいろあったとしても、間違いなく被支配層の政党です。2年余前まで日本共産党の、参院議員、常任幹部会委員、書記局長代行、政策委員長だった筆坂秀世氏による日本共産党批判に、支配層のマスメディアが注目し、飛び付き、出版するのは、ごく自然な流れだと、私は感じました。筆坂秀世氏自身、ご自分が書いたこの本『日本共産党』の中で、「私は、2年余前まで共産党の……『ナンバー4』と呼ばれる最高幹部の1人だった」と記述しています。
ご自分でご自分のことを「『ナンバー4』と呼ばれる最高幹部の1人」と表現することに対して、私は少なくない抵抗、反発を感じました。これでは、筆坂氏が『日本共産党』の中で記述している日本共産党の組織原則、体質等への批判がそのまま、筆坂氏の感覚、体質への批判としてご自分に戻ってきて、ご自分に鋭く突き刺さる結果になるのではないでしょうか。
この本全体を通じて、私が唯一、今後の運動、展望、改革の中で考慮し、生かしていく部分なのかもしれないと感じたのが、組織のあり方の部分であり、その部分でさえ上記のように筆坂氏自身への鋭い棘(とげ)となって戻ってきて、突き刺さるのですから、他の部分は一言で言うと、「因縁をつけている」としか感じることができませんでした。
この本で筆坂氏は「日本の政党のなかで、企業献金も、政党助成金も受け取っていないのは日本共産党だけだ。共産党はこれを大いに誇りにし、セールスポイントの一つにしている」と記述しています。この「セールスポイント」という表現の中に、氏の現在の到達点を感じるのは、私だけでしょうか。
この本で、以下延々と「給与遅配も珍しくない地方組織」、「政党助成金を受け取れば楽になる」、「巨額秘書献金の行方」、「活動参加率3割の革命政党」、「組織を蝕む『党勢拡大運動』」、「宮本議長引退の真相」、「不破氏は現代のマルクスか?」、「不破氏はなぜ拉致問題を見誤ったのか?」、「遠ざかる一方の民主連合政府」、「ご都合主義の選挙総括」、「迷走する自衛隊政策」、「皆無の政権担当能力」等々、等々、筆坂氏はいちゃもんをつけ、難癖をつけ、粗探しを続け、その果てに「日本共産党がなんと言おうと、世界中で社会主義は地に落ちたのである」と断定し、結論を出し、大いに支配層への迎合を見せ付けています。
批判には、二つのやり方があります。正しいやり方と間違ったやり方が、あります。
被支配層の運動は、支配層からの攻撃、弾圧、支配層の宣伝機関としてのマスメディアの存在、その他無数の様々な困難の中で進んでいきます。あるべき姿、理想から出発して、現実の運動を批判するという批判の仕方は、間違ったやり方です。
そういうやり方ではなく、ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハが『キリスト教の本質』でキリスト教、神学の発生史的解明を行って得た到達「神の本質は、人間の本質の対象化されたものである」、「神学の秘密は人間学である」のように、発生史的解明に基づく現実の批判が正しい、実りのある批判なのです。言い換えると、その現実を発生させた歴史、原因、理由、現状の調査、把握、分析、解明に基づく批判が前向きの、物事を前進させる、正しい批判なのです。
筆坂氏のように、あるべき姿、理想から出発して、現実の運動、日本共産党の運動と組織を批判するという批判の仕方は、間違ったやり方であり、粗探しに基づく打撃的批判(まさに日本共産党とその運動、組織に打撃を与えようとする、ためにする批判)であり、はっきり言えば、いちゃもんを付ける、難癖を付ける、因縁を付ける、その程度のレベルのものです。
トロツキーが言っているように、(筆坂氏のような人たちは)「共産党の誤謬に寄生して」発生し、生き、開花するのです。人間の組織、運動である以上避けられない誤謬は当然たくさんあるわけであり、だからこそ、人間として温かい気持ちで被支配層の運動、組織を見守り、育て、発生史的解明に基づく改善、改革を粘り強く追求することこそ必要であり、被支配層の運動、組織についての執拗な粗探しとその公表は、支配層への迎合以外の何物でもありません。
◎ ───『NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘』───
昨日(2006年7月29日)、文化庁支援 被爆60周年平和祈念作品 長編カラーアニメーション映画 『NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘』を見ました。原爆が人類と両立できない悪魔の兵器であることを、あらためて感じました。
舞台は1945年夏の長崎、アンゼラスの鐘が鳴る浦上天主堂の近くに存在する浦上第一病院です。浦上第一病院の医師、秋月辰一郎は、誠実な人柄や献身的な医療活動で、近隣の人々の尊敬を得ています。ある意味でこの医師が主人公で、この医師の目を通して、原爆の悲惨、長崎の惨状、軽いケガですんだと思っていた人々、運よく無傷で助かったと思っていた人たちが、実は原爆の出す放射線を浴びていたために苦しみながら次々と死んでいく様を描いていて、本当に私の心を苦しく、悲しくさせました。
秋月辰一郎医師は、原爆や原爆の出す放射線のために死んでいく人たちが爆心地を中心にして次第に内から外へと広がっていく様を、「死の同心円」と表現しています。
一例をあげますと、両手にひどいヤケドを負いながら死に物狂いで4人のわが子を救出した母親がいます、ところが放射線を浴びていたためにその4人の子供が一人また一人と死んでいき、ついに4人とも死んでしまいます。4人の子供の父親は、妻が命がけで助けた子供なのだから、「先生、何とか助けてあげて下さい」と秋月辰一郎医師に頼みます、秋月辰一郎医師は懸命に努力します、でも、現代科学が生み出した原爆、放射線の威力の前には無力でした。戦争を推進した立場の人も「日本人は、戦争の本当の悲惨さを知らなかった」と後悔、反省の涙を流します。
秋月辰一郎医師と浦上第一病院の人々は、一発の原爆によって医療設備・器具がほとんど破壊され、クスリもほとんど残っていない中で、懸命の医療活動を続けていきます。
そんな中で、秋月辰一郎医師は、「生きたかったら、自分の力で動くんだ、自分で動けないような人間を誰も相手にしないぞ!」と究極の状況の中で患者を厳しい言葉で励まします。患者は、「藪医者め!」と言いながらも、担架のところまで自力で移動します。大型台風の大雨の続く中、濡れない場所に担架で患者たちを移動しなければ患者たちの命に関わることになるのに、担架に患者たちを運ぼうとすると「痛い、痛い、俺はここに残る、運ばなくてもいい!」(負傷していますから、運ばれるときすごく痛いわけです)と一部の患者が言うので、秋月辰一郎医師は「生きたかったら、自分の力で担架まで動くんだ、自分で動けないような人間を誰も相手にしないぞ!」と厳しく叱咤激励したのです。
人間の強さを、生命の力を感じ、信じることができました。
この映画のナレーションは、小林桂樹さんがやっています。
監督は、有原誠治さん(虫プロダクション)です。
この映画とは直接関係していることではないのですが、「戦争に反対し平和を守る」の一点では、いわゆる「左翼」だけではなく、自民党元衆院議員の野中広務さんが頑張っています。「(戦争の)過去の傷跡を残しておられる方々のことを痛いほど感じ……私も残り少ない人生を可能な限りがんばりたい」と野中広務さんは述べています。新右翼と言われる「一水会」の鈴木邦男さんも頑張っているのを、最近知りました。まさに人類的課題だから、そうなるのだと思います。
『NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘』のホームページは、下記のとおりです。「アンゼラスの鐘」で検索すれば、出てきます。この映画を大いに全国に、全世界に、広めましょう!
http://nagasaki1945.info/
◎ ───「歩きたばこ」、「たばこポイ捨て」への法的規制を───
「歩きたばこ」(喫煙しながら歩くこと)、「ポイ捨て」(たばこの吸殻のポイ捨て)があとを絶ちません。ポイ捨ては火事の原因になりますし、歩きたばこは周囲の人のやけどの原因になります。
歩きたばこの際、大人がたばこを吸った手を振り下ろす高さは、小さな子供の顔の辺りになります。1994年、JR船橋駅構内で、3歳の幼児のまぶたにたばこの火があたり、やけどした事件がありました。目そのものにたばこの火があたっていたら、失明になりかねない事件です。
歩きたばこでやけどまたは衣服を焦がされる、このような被害を未然に防ぐためには、法律による規制が必要です。歩きたばこ禁止条例、ポイ捨て禁止条例を制定し、条例で規制する自治体が増加傾向にある、と言われています。
以下のサイト(洲本市禁煙支援センターのサイト)に載っている資料によると、歩きたばこ禁止条例、ポイ捨て禁止条例がある自治体は多数存在しています。
http://www1.sumoto.gr.jp/shinryou/kituen/walkingsmoking.htm
東京都千代田区の「安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例」(千代田区生活環境条例)は、路上の「歩きたばこ」禁止条例としては全国初の条例だとのことです。靖国通り全域、神田、秋葉原、有楽町各駅周辺など歩行者の特に多い9地区を路上禁煙地区に指定。違反したら2,000円の過料。スタート1年間で過料を科せられたのは約5,500人で、1年後の吸い殻は定点観測で1割以下に減った、とのことです。
歩きたばこの禁止は、吸殻のポイ捨ての減少にもつながります。
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話は全然違いますが、「近所の猫や野良猫がうちの植え込みにフンをして困っている。規制したい。忌避剤使用の検討」というような話を聞きました。
「忌避剤」は人間、特に子供にとってもリスクがあるのではないかと思い、調べてみました。
薬品会社の「忌避剤」説明書には、「注意点」として以下のように書かれています。
芝生や草花類に直接本剤がかかりますと枯れる等の被害があらわれる場合がありますので注意してください。
車などの塗装面に直接薬剤がかかりますと、塗装が変色又は剥げる等の変化がおきますので十分注意してください。
誤飲・誤食などのないように注意してください。誤って食べた場合は、すぐ吐き出させ医師の手当を受けてください。
使用中臭気により気分が悪くなった場合は、直ちに使用を中止し、通気のよい所で安静にしてください。気分が回復しない場合は、医師の手当を受けてください。
かぶれやすい人は、使用しないでください。
眼に入った場合は直ちに水洗いし、医師の手当を受けてください。
◎ タバコの害について 副流煙 受動喫煙 ガン ぜんそく 心筋梗塞
以下は、インタネット上を検索して得た資料に基づいてまとめた資料です。インタネット上で言われている、タバコの有害性についての意見、警告、不安、危険性を、短くまとめたものです。
経験で言いますと、「分煙」と言っても、喫茶店の室内を二つに分けただけで煙は禁煙エリアに当然流れてきますし、新幹線の喫煙車両の隣の禁煙車両には相当な量の煙が喫煙車両から流れてきますし、駅のホームの喫煙エリアから流れてくる煙のために喫煙エリアには近付けないし、また、平然と歩きながらタバコを吸っている人はたいして減っていない感じですし、タバコの有害性から考えると、そして、タバコを吸っている人は吸っていない人に危害を加えているのだということを考えると、自主規制に任せることなく、損害賠償を含めて法律上の規制の強化が求められていると感じています。
1 健康増進法(2003年5月1日施行)第25条 「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わせることをいう)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」
2 たばこから出る副流煙(たばこの先から立ち上る煙)には、喫煙者が吸う「主流煙」よりも強い毒性がある。より多くの発がん性物質を含んでいる。言い換えると、「タバコを吸う人」よりもタバコを吸う人が出す煙を吸わされる「タバコを吸わない人」のほうが健康被害を受けることになる。
3 受動喫煙があるだけで胎児に悪影響。
4 タバコの煙は、小児ぜんそくの最大の原因。
5 タバコの煙は「クモ膜下出血、老人性痴呆、喉頭がん、肺がん、肝臓がん、乳がん、すい臓がん、食道がん、胃がん、膀胱がん、子宮がん、口腔・咽頭がん、動脈瘤、潰瘍、肺気腫、虚血性疾患」の原因。
6 障害児の原因。
7 同室の人が1日50本吸うと、非喫煙者も10年で心筋梗塞、狭心症の発生率が9倍以上に。
8 糖尿病患者の健康に悪影響。
9 脳に悪影響。
10 たばこの煙には、200種を超える有害物質(ニコチン、タール、一酸化炭素、ホルムアルデヒド、窒素酸化物、シアン化水素、ヒ素、フェノール、等々)。そのうち、発がん性物質は40種近く。
11 アメリカ環境保護局、1993年1月に報告書を発表。環境たばこ煙(室内に漂うたばこの煙)を「Aグループ発がん物質」と分類。「Aグループ発がん物質」=アスベストなど15種類。
12 肺がんの原因=たばこと有害業務(パラフィン、ヒ素、ニッケル、アスベスト、コールタール煙)従事。
13 関連する法律
@労働安全衛生法3条(事業者等の責務)、22条、23条、71条の2。
http://www.houko.com/00/01/S47/057.HTM
A事務所衛生基準規則5条、7条、8条、9条。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S47/S47F04101000043.html
B建築物における衛生的環境の確保に関する法律。
<http://www.houko.com/00/01/S45/020.HTM>
◎ ─── 女優の吉永小百合さん 原爆詩を読む(朗読) ───
先日、女優の吉永小百合さんが原爆詩を読むのを、直接聞く機会を得ることができました。
この日は最初に、医師の肥田舜太郎氏の講演がおこなわれました。講演の中で肥田舜太郎氏は「乳がんの発生率が4.5倍にもなっているのは、原子力発電所の原子炉から出ている放射線が原因」と述べました。
また肥田舜太郎氏は、原爆投下の結果について「太陽の表面の熱が直接地上を瞬間的に通り抜けていくのと同じ」と表現しました。印象に残りました。
吉永小百合さんが朗読する原爆詩の中味にも、ショックを受けましたが、それと並んで、詩を朗読する吉永小百合さんの誠実さ、真面目さ、真剣に全力で読む姿に、衝撃を受けました。
レーニンがロシアマルクス主義の宝庫と呼んだと言われるプレハーノフが書いた『史的一元論』には、「優れた芸術かどうかは、その芸術が描くなかみによって決まる。描かれているなかみの品性が高ければ高いほど、優れた芸術となり、その芸術に触れる人に美的衝撃を与えるのだ」と書かれています。
吉永小百合さんの原爆詩の朗読は、美的衝撃の極致です。
吉永小百合さんが読んだ原爆詩の一つに、子供を原爆で殺された母親の嘆き、苦しみ、思い、呪い、希望、幻想、愛をうたった詩がありました。「子供を原爆で殺した相手を、夜叉になって呪い殺す」、「必要なのは、一番強いのは、武器ではなく愛なのだ」等々、様々な思いを述べながら、子供を原爆で殺された母親は、どこかで子供が元気に生きている、生きているはずだと信じているのです。
そして、生きているはずの子供に、母は、自分の思いを語りかけます。「道に迷って戻ってこないのではないか、早く戻っておいで」、等々。
フォイエルバッハは『キリスト教の本質』の中に書いています。「宗教の本質は、理性ではなく心情なのだ」、「神とは、人間の心の奥底の悲惨に注がれた愛の涙である」、「神の本質とは、人間にとって人間の本質が対象化されたものに他ならない」、「従って、人間が神に向かって祈っているとき、実は自分自身の内面に向かって祈っているのだ。だから祈りは、聞き入れられる」
ニーチェは『ツアラツストラかく語りき』に書いています。「生きる歓喜の永遠を冀う(こいねがう)からこそ、永遠回帰は実現するのだ」
母が子供の生きていることを冀うからこそ、「子供は生きているのです」。母が子供に向かって語りかけるとき、それは神に向かって語りかけているのであり、従って実は、自分自身の内面に向かって語りかけているのです。
吉永小百合さんは、この母になりきり、魂の悲惨を見事に演じ抜きました。私の回りの人たちもみんな、泣いていました。
原爆の惨劇を正確に、無慈悲に、冷徹に、強力に伝えきった吉永小百合さんの朗読だったと思います。
いい意味で、女優のわざの凄さ、恐ろしい力を実感しました。
◎ 心情の高みへの彷徨と飛翔 あがた森魚『赤色エレジー』の歌詞について
あがた森魚さんは、林静一さんの劇画『赤色エレジー』を読み、『赤色エレジー』という歌を作ったと言われています。その意味で、あがた森魚『赤色エレジー』の原点としての林静一『赤色エレジー』とは何だったのか、不可思議な世界でした。ただ、私にとっては、あがた森魚『赤色エレジー』が歌であったように、林静一『赤色エレジー』は絵であり、絵が与える情緒世界でした。林静一『赤色エレジー』は、私にとって、決して物語ではありませんでした。
先日(2006年8月12日)、NHKの歌番組で、久しぶりにあがた森魚さんの「赤色エレジー」を聞き、青春の一瞬を思い出すとともに、この歌の素晴しさに、哀しさに、不可思議さに感動し、酔いました。理屈を超えて、いい歌はいい歌なのだと実感しました。
青春は、その過程での恋愛、仕事、家族等々、様々な苦しさ、哀しさ、つらさ、たたかいは、全ての人にとって、ドラマであり、大舞台なのだと思います。
その渦中で出会った運命的、革命的、幻覚的な、言ってしまえばおぞましさを美的世界、神的世界に変えてしまうような歌「赤色エレジー」は、私にとって本当に美的衝撃であり、「心の奥底の悲惨に注がれた愛の涙」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)に他なりませんでした。
汚いフトンに横たわりながら、何度も何度も歌ったのを、思い出します。「オフトンも一つ ほしいよね」は『赤色エレジー』だけの世界ではなかったのです。
「赤色エレジー」で検索すると、『赤色エレジー』の曲が流れているサイトが複数、存在しています。
サイトによって歌詞が微妙に違うのです、正しい歌詞はどれなのか、気になって真面目に調査、研究してみました。下記が正しい歌詞なのではないかと現時点では、判断しています。
残念ですが当然、著作権に配慮して、歌詞の全部を載せることは差し控えます。サイトによって表現、言葉、意味が違う部分だけを抜き出して下記に載せます。
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『赤色エレジー』(作詞・編曲・唄:あがた森魚 作曲:八洲秀章)
昭和余年は 春も宵
桜吹雪けば 情も舞う
お母さまの 夢みたね
裸電灯 舞踏会
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サイトによって歌詞が違うというのは、「昭和余年」を「昭和4年」と書いているサイトがあります。これは、「昭和余年」が正しい歌詞です。「余年」の意味するものが何か、調べてみたのですが、辞書によると、「余年 死期までに残された年。余生。余命」という意味であり、『赤色エレジー』の歌詞の「昭和余年」にあてはめるとしっくりしません。
インタネットで検索すると、創業200余年というような使い方もされていますが、これをあてはめると「昭和余年」は「昭和数年」というような意味になるのでしょうか。わかりません。でも、「昭和余年」という表現は、『赤色エレジー』全体の運命的、革命的、幻想的、情緒的な世界、雰囲気、構成、構想の中で、本当に生きている表現だと思います。「昭和余年」はまさに、『赤色エレジー』を伝説の高みへと飛翔させる上での責務を果した表現なのかもしれません。
「春も宵」を「春もよい」と表現しているサイトもあります。
辞書によると、
もよい 名詞の下に付けて、そうなる気配が濃いさまを表す。きざし。「雨―の空」「雪―」
となっています。
『赤色エレジー』全体の雰囲気、構成から見れば、「昭和余年は春もよい」でも十分通用するのですが、「春も宵」が正しいようです。
また、サイトによっては、「桜吹雪けば 情も舞う」ではなく、「桜吹雪けば 蝶も舞う」としているところもありますが、これは「蝶も舞う」ではなく「情も舞う」が正しい。
今回、『赤色エレジー』の歌詞について真面目に調査、研究するまでは、私も「蝶も舞う」だと思っていましたし、それでも通用するのですが、あえて「情も舞う」にすることであがた森魚さんは、『赤色エレジー』の心情世界を真の高みへと上昇させることができたのだと思います。「情も舞う」からこそ、『赤色エレジー』は究極の心情世界として自己を完成させることができたのです。「蝶も舞う」では、絵画的世界としては美しかったとしても、心情の深みへと到達は阻まれたかもしれません。
「お母さまの 夢みたね」の箇所では、「お母さまの 夢を見た」と書いているサイトが目立つし、「ああ 母さまの 夢見たね」と表現しているサイトも存在する。「お母さまの 夢みたね」が正しい。「母」、「おかあさん」、「かあさん」、「母さま」等々ではなく、「お母さま」と表現している点に、私は情緒の高み、高揚を感じる。
多数派という意味では「裸電灯」ではなく「裸電球」、「はだか電球」と表現しているサイトが多数存在しています。しかし、「裸電灯」が正しいようです。「電球」ではなく「電灯」なのです。少数派の勝利です。私もここは、裸電球のもとで幸子と一郎が暮らしているという構図で裸電球だと思い込んでいたので、意外でした。
◎ ―――――― 中田英寿賛歌 ――――――
中田英寿さんの引退表明については、前向きに受け止めています。中田英寿氏に関する本を読むと、「サッカーだけの人生で終わりたくない」と外国語や心理学の勉強、また税理士や公認会計士の勉強、さらにはデザインに関心を持ち勉強と、中田英寿氏の「新しい道」には多彩な可能性、展望、展開、シナリオが含まれています。
私の希望としては、将来中田英寿さんはW杯の監督になってほしい、そう私は願っています。もちろん、一番の願いは、最大の願いは、あと数年、選手としてたたかって下さい、ということです。しかし多分、天才としての中田英寿氏は、完璧な状態から、最高の水準から、ほんの少しでも落ちた状態ではもうたたかいたくない、ということなのだろうと思います。
新しい道として何を選択するのか、本当に注目しています。どの道を選ぶにしても、サッカーのときと同じように、状況に適合する闘争形態、戦術を編み出す天才として、中田英寿さんは高貴、孤高、光輝の道を歩み続けるでしょう。期待しています。楽しみです。
W杯でのあの、中田英寿さんの弾丸ロングシュートを私は忘れません。
平和を守るための中田英寿さんの発言を、私は忘れません。
唐突ですが、このような「中田英寿賛歌」を書きました。「カタロニア賛歌」という本から私は大きな影響を受けました。その関係で「賛歌」という表現を使いました。
日本では労働者階級の政党も、自己を「民族の党」、「国民の党」と表現し、「民族には自衛権がある」、「国を愛する気持ちはモラルの一つ」と表明しています。日本の支配層の政党は、教育基本法を改悪し、憲法を改悪し、国を愛する心、愛国心を国民に強制しようと狙っています。さすがに日本の労働者階級の政党は、愛国心の強制には断固として反対しています。
日本は、そういう状況の国なのです。
テレビを見ていて、私は衝撃と感銘を受けました。「祖国日本のためにサッカーをたたかっているのですか」の質問に対して中田英寿さんは「日本のためにたたかっているわけではない」と答えたのです。「それでは何のためにたたかっているのですか」の再質問に対しては、「自分のため」と中田英寿さんは答えたのです。
第一次世界大戦のとき、労働者階級の政党のほとんどが「祖国防衛主義」に陥り、自国が勝つためにということで自国の労働者階級を戦争に駆り立てましたが、そのときロシアのレーニンは自国敗北主義を唱え、戦争反対を貫きました。
マルクス、エンゲルスの「共産党宣言」は、労働者階級は祖国を持たない、と宣言しています。
例のミサイル発射問題。レーニンの民族政策は、「強い民族が弱い民族に譲る」というものでした。日本が譲ることで、問題の平和的解決をはかるべきだと私は思います。
「祖国のためにたたかっているわけではない」、「日本のためにたたかっているわけではない」
高貴、孤高の天才、中田英寿さんは必ず、新しい人生で同様に光輝の道を歩み続けるでしょう。
◎ ――― 「谷崎潤一郎犯罪小説集」を読んでみました ―――
「谷崎潤一郎犯罪小説集」(著者 谷崎潤一郎 発行 集英社)を読んでみました。
「酒も飲まないし、タバコも吸わないし、小説を書いている人間とはとても思えない」と言われたことがありますが、実は私も、以前は熱心に小説を書き、地元の三つの月刊誌に長期連載されていたこともあります。ですから、小説は膨大な数、読んでいます。谷崎潤一郎の作品も好きです。
実際に書いていた人間ですから、評論は馬鹿げていると軽蔑していますから、勝手な感想だと思って下さい。
「谷崎潤一郎犯罪小説集」には、『柳湯の事件』、『途上』、『私』、『白昼鬼語』の4短編が収められています。
戦前の政治システム下で、よくこれだけ自由闊達に振る舞い、現代、現在を見通しているような作品を書けたものだと、感心します。
人間の心情世界は、変わっていない、と感じました。
同時に、自由闊達な作品ではあるけれども、「職工への侮蔑」と受け取ることができる表現もあり、「階級性」での限界が出ているのを感じました。
「コノヤロー」、「奴」など、「差別表現」が戦前も今も、強力に存在している点でも、残念ですが労働運動を含めて人間は変わっていない、と感じました。
4短編の中では、『白昼鬼語』が一番、綺麗ななかみであり、表現ですし、犯罪小説というよりは『痴人の愛』、『春琴抄』の流れの中に位置付けることができるものだと思います。
高校生のとき高校の図書館で『痴人の愛』を読み、感心したものです。アンドレ・ジイド『狭き門』、トルストイ『戦争と平和』の中に描かれている愛の世界と相当様相の違う愛の世界が、描かれています。
『痴人の愛』は大阪朝日新聞に連載された小説だとのことです。戦前にこのような小説がこのような新聞に連載されたことは、驚きです。
日本経済新聞に、渡辺淳一氏『失楽園』が連載されたことも驚きですが、『痴人の愛』は戦前ですから、たいしたものです。支配層の「堕落」という側面もあるのかもしれません。
『痴人の愛』は悪魔主義、耽美主義の作品と言われています。確かに唯美主義(耽美主義)です。図式的に言うと、泉鏡花→谷崎潤一郎→三島由紀夫(特に『豊饒の海』)→渡辺淳一氏(特に『桜の樹の下で』)の流れを感じます。
唯美主義は、心情の世界に花開くものです。右へ、天皇への唯美主義、民族への唯美主義(ナチズム)にも向かっていくし、逆に左へ、労働者階級への唯美主義、プロレタリア国際主義、平和への、憲法9条への唯美主義にもなり得るものだと思います。
◎ 「シリーズ 京都府政研究 2006 『不安社会からの脱出』」を読む
2006年4月6日〜8日、「憲法知事」誕生をと願って、京都府知事選支援で京都に行った際、京建労(全京都建築労働組合)の徳本書記長から本を5冊いただきました。
編著=京都府政研究会、発行=株式会社つむぎ出版の「シリーズ 京都府政研究 2006 『不安社会からの脱出』」、「シリーズ 京都府政研究 2006 『それぞれの地域が輝くまちづくり』」、「シリーズ 京都府政研究 2006 『安心社会への挑戦』」、「シリーズ 京都府政研究 2006 『京都府・市町村の連携を探る』」そして「シリーズ 京都府政研究 2006 『安心と共同の教育』」の5冊です。
とりあえず「シリーズ 京都府政研究 2006 『不安社会からの脱出』」(以下、『不安社会からの脱出』と略します)を全文読ませていただきました。
『不安社会からの脱出』は、「第1章 統計に見る京都経済の現状」で、各種統計を用いて、近年の京都経済の姿を客観的に明らかにすることを試みています。各種統計を使って、『不安社会からの脱出』は、京都府の産業の動向として「京都府では卸・小売業が一番多く(35.6%)、それに製造業(28.1%)、飲食・宿泊業(13.7%)が続いています。何より注目されるのは、事業所の総数が、2001年から2004年までのわずか3年間に、約8000件、5.8%も減少していることです」、「事業所減少の大部分を製造業と卸売・小売業が占めている」、「京都府の製造業事業所は、2003年時点で1万5099件ほど存在しました……伝統産業である繊維工業が、(製造業)事業所全体の約40%を占めています」、「京都の製造業を規模別で見てみましょう。従業者数が3人以下の事業所は、8630社(57.2%)あり、さらに10人未満の事業所をとると、1万2207事業所(80.9%)に達します」、「和装卸売業の不振が続いている……規模の小さい商店が減少する一方で、大規模小売店が増加している」、「派遣労働や不安定雇用が増大し、賃金水準も低下傾向にあり、京都府内での消費購買力の縮小と、小売業の不振という悪循環に陥っている」等々記述しています。
また、『不安社会からの脱出』は、京都府の場合、「2000年の国勢調査によると、年金世帯の比率が2割に達している」ことを明らかにしています。
『不安社会からの脱出』は「第3章 商工業者が元気になるために」で、中小業者を直撃する国民健康保険料値上げ、大型店の出店ラッシュ、5年連続500件を超える倒産、多重債務者の激増の実態を明らかにし、同時に、そういう中で「負けてたまるか」と立ち上がった中小業者の、「商工フェスタ」、「日曜市」、「土曜市」、「小町市」、「職人展」など様々な機会をとらえての共同の輪を広げる努力、運動を紹介しています。そして、『不安社会からの脱出』は「そうしたなか、中小業者振興を基本とした『地域経済振興基本条例』制定などを、各団体が協同で実現する機運が盛り上がっています」と述べています。
『不安社会からの脱出』は「第6章 制度融資を中小企業・業者のためのものに」では、かつての蜷川民主府政の商工行政の基本理念「中小企業問題は、せんじつめれば結局二つの問題になると思う。一つは中小企業を大資本の圧力から守ることであり、他の一つは大資本の圧力に耐えることができるように中小企業の経営体そのものを強めることである」を紹介し、蜷川府政による1950年代初頭の「中小企業小口融資制度」(この制度の特徴は、@融資を金融機関任せにしない、A最も苦しんでいるところに重点的に援助する、B地元金融機関の育成)の発足、1966年の「小規模特別融資制度」(零細業者も無担保・無保証人で融資を受けられる)の創設の歴史を振り返りながら、中小業者にとって利用しやすい制度融資を進める府政への転換を求めています。
「第7章 西陣を総合的伝統産業の集積地に――現場からの提案――」では、「京都の和装産地の再生を住民全体の課題として捉える」視点、方向、政策を提案しています。
「第8章 住み続けられる地域づくりをめざして」では、住宅の耐震化、耐震・津波対策、公契約条例の制定、住宅改修助成制度の創設・拡充が提起されています。
『不安社会からの脱出』は、公契約条例・公契約法の目的として、「公共工事の単価や賃金相場の安定的確保により、低価格による市場侵略から地域市場を守る制度であるともいえます」と指摘し、公契約条例・公契約法を捉える上での鋭い視点を示しています。
同時に公契約条例・公契約法の制定は「中間下請業者による搾取・ピンハネの禁止を意味します」と『不安社会からの脱出』は指摘します。この指摘はその通りです。合わせて、下請業者への「適正な利潤」、「適正な経費」の確保・保障を公契約条例・公契約法の制定は意味することも、付け加えておいたほうが、下請業者から誤解されないためにはいいのではないかと、感じました。
『不安社会からの脱出』は第9章で、地産地消や資源循環型社会の実現など府民の協同と連携の力に依拠しての農林漁業の再生を提起しています。
そして最終章(第10章)で、京都でのパート、アルバイト、派遣など不安定雇用労働者の増大、2004年の京都府の「15歳から24歳までの若年層」の完全失業率の「7.5%と飛び抜けて高い数字」、「働いていても、30歳未満の青年では、パート・アルバイト、派遣・契約社員で38.0%を占めており、しかもその年収は150万円に満たないものが79.8%も占めている」等々の実態を明らかにした上で、「地方自治体ができる、またしなければならないことは雇用の創出であり……具体的には、@失業者を対象とした緊急公的雇用事業の実施、A福祉・教育の充実による公務員の採用、B大型公共事業から生活関連公共事業への転換による地元循環型地域経済の確立など」であると指摘し、提起しています。
◎ ―――――――― 映画『母べえ』を見ました ――――――――
映画『母べえ』を見ました。見てよかったと、思うことができた映画です。
最近は、好奇心が相当薄れてきていますから、何を見ても「見なければよかった」、「見る必要はなかった」と後悔することが普通なのですが、この『母べえ』は違います。
真面目で、いろいろな意味で綺麗な映画です。綺麗なものを見ることができた、それだけでも満足です。
この映画がもし、いわゆる大ヒットしているのだとすれば、それは、平和の尊さ、戦争の悲惨、権力の暴虐などを描きながら同時に、美しいもの、崇高なものを中心に置いて、その美しさ、崇高さを静かに、冷徹に浮上させているからだと思います。
どこに、崇高さ、美しさがあるのか? 考えてみました。
○ 吉永小百合さん。
○ 戦時下で「ぜいたくは敵だ」と非難されても「ぜいたくは素敵だ」と言い返して、自分の生き方を貫いた人(鶴瓶さんが演じていました)。
○ 最後まで聖戦と認めることを拒んで、今で言う刑務所で死んでいく(病死)「思想犯」(坂東三津五郎さんが演じていました)。
○ 「思想犯」の美しい妻への心に秘めた愛から、彼女とその家族を守り続けようとする青年(浅野忠信さんが演じていました)。
中河与一の小説「天の夕顔」の主人公の青年の心情に似ているものがあります。中河与一の小説「天の夕顔」の主人公の場合は、気持ちを告白しており、一歩間違えば、不倫小説になってしまうところなのですが、女性が拒否し続け、最後に自殺して「天の夕顔」となることで、小説としての品格を維持しています。
浅野忠信さんが演じる青年の場合は、最後まで心に秘め続けることで、崇高さを獲得していると言えるのではないでしょうか?
○ 一つ一つの風景、まち並み、情景、場面が、本当に綺麗です。映画というのは、こんなにも綺麗に人を、ものを、描くことができるのだと感動しました。
ともかく、いろいろあっても、いろんな考え方があっても、戦争に反対し、平和を守り、憲法9条を守り、憲法の全条項を守り、活かすために、がんばっていくしかないのだということを、『母べえ』を見て、あらためて決意しました。
『母べえ』を見ないことは、人生での損失になると言い切りたい気持ちです。
◎ ―――― 中河与一『天の夕顔』をあらためて読んでみました ――――
中河与一先生の書かれた小説『天の夕顔』をあらためて読んでみました。
中河与一先生の晩年に、私は先生にお会いし、小説の指導を受けました。ありがとうございました。
いま The Interpretation of Murder by Jed Rubenfeld を原文で読んでいますが、その中に、ハムレットの有名な言葉「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」についての新しい解釈があり、興味を惹かれました。『天の夕顔』という小説の構造と結び付けて考えると、ますます興味を惹かれます。
ハムレットの言葉の原文は To be, or not to be であり、その真に意味するものは、「生きるべきか死すべきか」、「生きるか、死ぬか」ではなく、「振る舞う(act)べきか振る舞うべきでないか(not act)」、「振る舞うか、振る舞わないか」というものだ、という解釈を示しています。
もう少し言いますと、その置かれている立場にふさわしく「振る舞うべきか振る舞うべきでないか」ということを To be, or not to be は意味しているというのです。
『天の夕顔』の構造は、他人の妻という立場にある美しい女性と青年との、基本的に、心の交流を描いた作品です。危うい頂上まで行くのですが、そこで踏み止まり、「不倫」という構造への移行を免れ、心の交流という構造を保持し、そして最後に女性が自殺(または病死?)して「天の夕顔」になることで、美的衝撃を読者に与えることができる小説になっているのではないでしょうか?
先生は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の影響を受けていると思います。
青年は To be, or not to be と悩み続けますが、女性は最後まで to be を貫きます。もちろん To be, or not to be と悩み抜いた末の結論ですが。妻という立場、母としての立場にふさわしく振る舞うことを選択した、ということです。
青年は、女性を完全な神として崇拝します。神である女性が to be を選んだ以上、青年も当然それを尊重し、というよりそれに従い to be を貫くことになります。
『天の夕顔』の構造の、もう一つの特徴は、女性と青年は互いに、思いを告白しあっています。その上での、「基本的に心の交流」という構造なのです。
最近見た映画に、吉永小百合さんの『母べえ』がありますが、この映画に出てくる青年は、他人の妻という立場にある美しい女性(吉永小百合さん)への思いを最後まで心に秘め続け、戦地で死んでいきます。全面的に「心の交流」にとどまっています。綺麗な生き方かもしれないと、感じました。
◎ ―― The Interpretation of Murder by Jed Rubenfeld を読んで ――
Jed Rubenfeldが書いた小説The Interpretation of Murderを原文で読みました。好奇心が薄れつつある状況下、好奇心を覚醒させるような小説で、久しぶりに短期間で読み切ることができました。
この小説には、フロイトやユングが登場し、重要な役割を果たします。
○ ユング フロイトに接近するが、後にフロイトから距離を置くようになり、フロイトとは異なる心理学をつくりだした。
フロイトが唱えたOedipus complex=エディプス・コンプレックス (息子が母親を確保しようとして、父親に強く反発し、対抗する心理状態)が殺人事件のベースに存在しますが、それにとどまらず逆転が続き、真犯人としてまさに意外な人物が表面化します。
青年期に読んだ本の中で、フロイト『精神分析入門』からは影響を受けました。人間の行動を規定するものの中心に、フロイトは、「性」を置き、そこから人間の行動を説明しようとしました。フロイトによる夢の分析には、関心を強く惹かれたものです。
The Interpretation of Murderの中に、ハムレットの有名な言葉「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」についての新しい解釈があり、興味を惹かれました。ハムレットの言葉の原文は To be, or not to be であり、その真に意味するものは、「生きるべきか死すべきか」、「生きるか、死ぬか」ではなく、「振る舞う(act)べきか振る舞うべきでないか(not act)」、「振る舞うか、振る舞わないか」というものだ、という解釈を示しています。もう少し言いますと、その置かれている立場にふさわしく「振る舞うべきか振る舞うべきでないか」ということを To be, or not to be は意味しているというのです。
ハムレットの有名な言葉についての、この新しい解釈が、フロイトが唱えたOedipus complex=エディプス・コンプレックスと結び付き、殺人事件の心理的ベースを形成し、事件の解明、解決へと結実していきます。
犯人だと思っていた人物が犯人でなくなり、殺人事件の構造だと思っていたものがそうではなくなり、別の構造へ移行していくなど、激しい変転が特徴であり、トリックも巧妙を極めています。
日本語訳も出ているようなので、あらためて日本語でも読んでみたいと思っています。
話は違いますが、「ST 警視庁科学特捜班」シリーズ by 今野敏氏も、相当おもしろいですよ。やはり、弱まりつつある好奇心を覚醒させるようなストーリィ、構造になっています。
◎ 今野敏氏の小説『陽炎』(ハルキ文庫) 許すことの大事さを描く
今野敏氏は、私の好きな作家の一人です。彼の短編小説集『陽炎 東京湾臨海署安積班』(発行 角川春樹事務所)を読みました。「偽装」、「待機寮」、「アプローチ」、「予知夢」、「科学捜査」、「張り込み」、「トウキョウ・コネクション」、「陽炎」とそれぞれ好奇心を刺激する短編です。
安積警部補をリーダーとする東京湾臨海署安積班の活動、活躍を描いた短編の、集積です。読んでいると、安積警部補と俳優の藤田まことさんが、重なってきます。私は知りませんが、藤田まことさん主演でテレビドラマ化されているのかもしれません。
刑事小説、推理小説の枠を超えて、「純文学」と言い得るような側面を、今野敏氏の作品は形成しています。
特に、短編「陽炎」には、心を癒す側面が、強く存在しています。
予備校生が、トラブルに巻き込まれます。トイレではないところで小便をしていたら、たまたま着替えをしていた女性がいて、痴漢と間違われます。彼は逃げます。横断道路を走って逃げます。車が急ブレーキをかけ、後ろの車がそれに追突します。彼は走り続け、老人にぶつかり、老人は歩道にひっくり返ります。ビルに逃げ込む。ビルの中の店先の小物を並べたワゴンにぶつかり、ひっくり返してしまう。警察官が追っかけてくるので、少女を「人質」に取ってビルの屋上に逃げます。
少女も悩みを抱えている女の子でした。少女と彼は、気持ちが通い合います。追い詰められた気持ちの彼は、少女と一緒に屋上から飛び降りて自殺することを考えます。
安積警部補が屋上に来ます。冷徹に事態の流れを整理し、予備校生に説明します。「君は少しも追い詰められていない、追い込まれていない」
着替えていた女性は、着替えをするような場所ではないところで着替えていたし、また水着を着ていてその上の衣服を着替えていただけだから、裸や下着を見たわけではないから、「覗き」にはならない。トイレではないところで小便をするのは、軽犯罪法違反になるが、普通、警察官は注意するだけだ→横断歩道を渡ったとき、信号は青だった。左折してきた車が急ブレーキをかけた。それに追突した車の前方不注意だ。車間距離も不足していた→老人は立ち上がり、ズボンのほこりを払って、そのまま立ち去った→客の通る通路にワゴンを置いていた店の責任もあるので、店側はワゴンをひっくり返されたことを問題にしていない→少女は「人質」ではなく、ナンパではないか。ナンパは犯罪にはならない。
「事件は存在しない」と安積警部補は言い切ります。円満解決です。
◎ プロレタリア小説『蟹工船』(小林多喜二)がベストセラー状態
『読売新聞』や『朝日新聞』によると、小林多喜二が書いたプロレタリア小説『蟹工船』がいま、ベストセラー状態になっている、とのことです。
雑誌『すばる』もこの現象に注目し、「プロレタリア文学の逆襲」というタイトルで特集号を出しているようです。
そうなると、あの『太陽のない街』(徳永直)はどうなのだろう、と気になります。ベストセラー状態にはなっていないのか?
もう一つあげれば、作家名も作品名も忘れてしまっているのですが、労働者と娼婦の交流を通して娼婦の生活の悲惨さを浮上させたプロレタリア小説が、いまどうなっているのか? 気になります。
極めて大雑把にわければ、プロレタリア文学、純文学、中間小説、大衆小説、ポルノ小説などということになるのでしょうか?
日本を戦前戦後で見ると、戦前はプロレタリア文学が一定盛んだった時期があるわけですが、戦後は現在に至るまで極少数派にとどまっていたと思っていいのではないでしょうか?
理由、原因はあるのでしょうが、わかりづらいところですが、おそらく、スターリン主義の悪影響があるでしょうし、また『キリスト教の本質』(フォイエルバッハ)を圧殺したエンゲルス『フォイエルバッハ論』の悪影響もあるでしょう。個人、個性の絶対的尊重、人間愛がなければ、まともな小説は成立し得ないと思います。
それがなぜいま、復活したのか? 労働者使い捨ての傾向を強めつつある日本資本主義の構造が、プロレタリア文学を復権させた、プロレタリア文学の逆襲を生み出したと言えるのではないかと思います。
このままの日本資本主義の構造が続けば、その構造は、現代のプロレタリア文学を生み出す可能性があります。どうなるのか? 単に戦前のプロレタリア文学の復権にとどまるのか? それを超えて、現代のプロレタリア文学を生み出すのか?
◎ 樋野興夫教授「がん細胞の発生と成長の哲学的意味」
『新医療』2008年6月号の「巻頭言」として、樋野興夫順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授の文書が掲載されていました。
読んで、樋野興夫氏の哲学的思考に惹かれました。
『がん哲学外来』を実践している、とのことです。
『がん哲学外来』とは何か?
同氏は答えています。「『がん哲学外来』は対話型外来が基本である。多くは、再発・転移している患者である。1組の相談に30〜60分を費やす……患者さんの表情は明るくなる」、「『がん哲学外来』は、生きることの根源的な意味を考えようとする患者と、がん細胞の発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする、『陣営の外』に出る病理学者の出会いの場でもある」
「がん細胞の発生と成長の哲学的な意味」とは何か?
そのことに哲学的な意味を見出そうとすることは、ユニークであり、素晴らしい発想であり、必要なことだと思います。
同氏の考えをより深く、詳しく、知りたいと思います。
◎ ── マルクス再評価 山之内靖東京外語大学名誉教授 ──
2008/6/14『朝日新聞』夕刊に、「マルクス再評価」の山之内靖東京外語大学名誉教授の文書が載っていました。
参考にすべきだと感じたのは、
マルクス『経済学・哲学草稿』には、人間の存在をあくまでも自然と大地の上に基礎を置き、制約されたものとして見る観点が存在している、と山之内靖氏が指摘している点、
マルクス『ゴータ綱領批判』には、「『労働がすべての富の源泉である』という思想は社会主義者のものではなく、ブルジョワ思想である。土地と生産手段を独占しているブルジョワ階級は、自然が富の第一に重要な源泉だという事実を隠蔽しようとするのだ」という文章がある、との同氏の指摘、
の2点です。
◎ ──── 映画『まぼろしの邪馬台国』を見ました ────
宮崎康平が掲げた仮説「邪馬台国は島原にある」を知ることができた。推理に推理を積み重ねてたどり着いた仮説であることが、わかる。邪馬台国の女王とされる卑弥呼の墓を発見するには、至らない。
宮崎康平を竹中直人さんが、妻の和子を吉永小百合さんが演じている。
年齢を超越した若々しさ、美しさを示す吉永小百合さんが、死の直前の宮崎康平(竹中直人さん)の前に、卑弥呼となって現れるシーンは、サユリストに再び美的衝撃を与える。
マルクスの名前が出てきたり、『日本資本主義講座』、『窮乏の農村』が出てきたり、この点でも、異色、新鮮である。『窮乏の農村』は、繰り返し出てきた。
和子の父は、『窮乏の農村』を読む、反戦平和の人だった。
労働運動の労働者も、描かれていた。(浅かったけれど、資本が支援する「商業映画」の中で、深く描くように求めるのが、無理な要求だ)
◎ SEBASTIAN FITZEK著『THERAPY』を読んで 病気の心の多重構造
SEBASTIAN FITZEK著『THERAPY』を原文で読みました。心の病気を持つ男性ビクターの、その心の世界の多重構造を描いていて、久しぶりに興味を強く惹かれ、割合一気に読み切ることができました。
主人公の男性 ビクター
妻 イザベル
娘 ジョセフィーヌ
ペットの犬 シンドバッド
謎の女性 アンナ
主人公の男性ビクターの認識では、上記の人たちや犬が存在する。そして、娘ジョセフィーヌがいなくなる(行方不明)。ジョセフィーヌが行方不明になった4年後、謎の女性アンナが出現する。
男性ビクターの認識が展開し、重大な変化を示す。ジョセフィーヌは行方不明になったのではなく、アンナが殺したのだ。過失で殺してしまったのだ。妻イザベルは「悪魔」であり、娘ジョセフィーヌを毒殺しようとしている。ビクターとアンナが協力して、ジョセフィーヌを守ろうとする過程で、アンナが過って殺してしまったのだ。
さらにビクターの認識は、心の世界は、重大な転回を示す。アンナ=自分自身(ビクター)であることに、認識がたどり着く。つまり、自分がジョセフィーヌを過って殺してしまったのだ、妻による毒殺から娘を守ろうとする過程で。
警察の追及で、新しい「事実」が明らかになる。娘のジョセフィーヌは死んでいたわけではなく、気絶していただけであり、妻イザベルが連れ去っていたのだ。それを、ビクターは、自分が殺していたとかん違いし、信じ込んでいたのだ。
以上が最終的「現実」であるように思われた。
しかし、そうではないようだ。ジョセフィーヌは、彼女のボディは、どこに存在するのか? 妻イザベルのところに存在すると、どうしてわかったのか? 誰が教えたのか?
ビクターは言う。「アンナが教えてくれた」
ここで、現実とイマジネーションが再び混在し、わけがわからない「実体」が再浮上する。
◎ ―――――――― ウィルス存在の哲学的意味? ――――――――
例の新型インフルエンザが、神戸、大阪と感染拡大。経路はっきりしない、ということのようです。
専門家は「このような日本での感染の広がりは、フェーズ6(世界的大流行の警戒レベル)への引き上げの根拠の一つとなり得る」と言っているとのことです。(「フェーズ phase」=段階)
米国での感染は、既に10万人を超えているとの見方もある、とのことです。
この新型ウィルスの、
潜伏期間は1日〜7日。
弱毒性(但し、強毒性への変移の可能性)。
感染力強い。
免疫ない。
48時間以内のタミフルの服用、有効と言われている。
タミフルとリレンザが治療に有効。
タミフルは「ウィルスを攻撃して、根源から治療する」と言われています。
ウィルスは、生物と無生物の間の存在、というようなことも言われています。
ウィルスは、自己増殖できない、他者(他生物)の細胞に寄生することを通じてのみ増殖できる、摂取(食事)も排泄もしない、とのことです。
このようなウィルスの存在の哲学的意味は? などと考えてしまいます。
2009/5/20東京、川崎へ感染拡大。
専門家は、「必ず第二波が来る」と秋以降への警戒を呼びかけています。
タミフルは、予防的に効く、とのことです。
専門家は「広がっていくのは時間の問題」と指摘しています。
2009/5/21京都に初の感染者。
2009/5/22埼玉に初の感染者。
アメリカの研究機関が「新型インフルエンザに対して60歳以上の人には、抗体があるかもしれない」と発表しています。
専門家は「強毒性への変移の可能性に、警戒を緩めないことが必要」と警告しています。
2009/5/23埼玉県鷲宮町に続いて、同県久喜市へと感染拡大。
2009/5/23WHOによると、42カ国1万1168人が感染。WHOは「感染のスケールよりも質の変移を注視していく」というようなことを言っているとのことです。
政府広報によると、治療薬タミフル、リレンザの備蓄は3800万人分。
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