COLUMN

何でもコラム
個人の尊厳、生命の絶対的尊重、両性の本質的平等のために
小説「白猫探偵事務所 『スターリン・ギャング』擬似法廷」(1)〜(5)
小説「白猫探偵事務所 『スターリン・ギャング』擬似法廷」
海野和夫
(1)妙な名前の探偵、白猫哲也は、JR水道橋駅からそう遠くない、古びたマンションの3階に狭い事務所を持ち、スタッフ2人プラス猫1匹と一緒に、探偵社といっても何でも屋的に仕事を請けていて、いなくなった家猫というか飼い猫というか猫探しのような仕事を結構頼まれているし、定番の浮気調査はもとより盗聴器発見、そしてストーカー対策などもおこない、厳しい不況の中でぎりぎりの探偵事務所経営を維持している。なお、白猫哲也は本名ではなく、商号のようなものだ。
 白猫探偵事務所のスタッフだが、1人は、推理小説、探偵小説、刑事小説、警官小説のようなもののマニアで、生命保険会社の営業畑を定年退職後、第2の人生を探偵稼業でということで勤め始めた、63歳の男性、雨宮昭夫。
なお、雨宮昭夫のもう一つの特徴は、生命保険会社の営業マンとして働いていたときにそういう人たちの労働組合を生命保険会社につくるなど労働組合運動の経験もかなりあり、それもあり、またもともと本を読むのは好きなのでcommunism関連の本を相当読んでいることだ。
 もう1人は、小説家志望の24歳の女性、朝霧美涼。母が日本人、父が米国白人ということで、長細くて白い指、白い細面、そして白い肌の長身に、彼女は相当自信を持っている。
 頭のてっぺんと尻尾の先端だけが黒色で、あとは全部白色の毛のシロちゃんは、けなげな野良猫だったのを、猫好きの白猫哲也が探偵社のペットにしたのだが、シロちゃん自身は、白猫探偵事務所のスタッフの「1人」と思っているようだ。
 この探偵社は時々、3人で集まって、研究会というか勉強会というかそのようなものをおこなっている。
 トム・ロブ・スミス著『チャイルド44』をいま読んでいるのだが、ショックを受け、あらためて触発され、スターリン問題に強い興味を持ったので、それを取り上げてほしいとcommunism関連の本を相当読んでいるらしい雨宮昭夫が執拗に言うので、今回は、スターリンを被告、裁判官を朝霧美涼、検察官を雨宮昭夫、そして弁護士を白猫哲也とする擬似裁判というか模擬法廷というかそういうと大袈裟だが、ともかくそのようなものを勉強会の中で実施してみようということになった。被告のスターリン役を演じるのは白猫哲也ということにし、従って彼は、スターリンと弁護士の1人2役だ。
 事務所の留守番? を白猫シロちゃんに任せ、喫茶店でやることにし、いつものとおり、店内禁煙だし長居しても大丈夫そうなスターバックスに行く。
 まず、検察官の雨宮昭夫がスターリンの罪状を並べる。
 「大粛清」
 強制収容所。
 秘密警察。
 暗殺。
 不当な逮捕。
 拷問。
 「公開裁判」という見世物裁判、茶番劇。
 等々
 
(2)「被告は、検察官のあげた罪状を認めるのかどうか答えてください」と裁判官役の朝霧美涼が抑揚のない低音で、被告役の白猫哲也に聞く。
 一生懸命大学ノートにメモをとっている手を止めて、スターリン役の白猫哲也が答える。「否認します」
 「被告は無罪を主張しています。検察官のあげた罪状について被告を有罪とする証拠、根拠などがあれば、検察官は明らかにしてください」と言う美涼の薄化粧の細面は真面目顔だ。
 検察官役の雨宮昭夫が、スターリンを有罪とする根拠について、以下のように述べる。
 スターリンがおこなった「公開裁判」という見世物裁判を含む「血の粛清」で無実の罪で消された、言い換えると殺された人たちの名誉回復が、ソ連政府によって正式に、公式に、おこなわれている。この事実から導き出されるのは、無実の人たちをスターリンが殺したということである。
 フルシチョフが「スターリン批判」で、スターリンの誤り、犯罪について報告している。
 ゴルバチョフが、スターリンの犯罪を明らかにしている。ヒトラーの犯行とされてきた、戦争捕虜(ポーランド人将校)1万数千人を虐殺したといわれている「カティンの森事件」についても、実はスターリンの犯行だったことを、ゴルバチョフは認め、ポーランドに謝罪している。
 参考になる本として、アンジェイ・ムラルチク『カティンの森』がある。
 ソルジェニーツィンの『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』が、自身の体験に基づいて、強制収容所の惨酷な実体を描いている。
 スターリンとその取り巻きをスターリン・ギャングと呼んで軽蔑しながらスターリンによる大量粛清の事実を告発し続けたトロツキー自身も、スターリンの放った刺客によって暗殺されている。
 惨酷を極める拷問については、トム・ロブ・スミス『チャイルド44』が参考になる。
 このような事態発生の根にあるものの一つは、スターリンの党の組織原則の「下級は上級に従う」などとする民主主義的中央集権制であり、一番の上級であるスターリン書記長に結局は従わざるを得ないという組織構造に、問題の根の一つがある。
 なお、ゴルバチョフは逆に、党員の平等を強調している。
 もう一つの根は、「プロレタリア独裁」と称して司法、立法、行政の三権分立制を否定する権力の集中であり、このことが党の組織原則である民主主義的中央集権制とあいまって、独裁者の惨酷を極める犯罪を発生させ、成立させたのである。    
  
(3)「次は、弁護士から検察官の主張に対する反論、意見を述べて下さい」と裁判官役の美涼はつまらなそうに冷めた声で言い、長細い指でカプチーノを木製の卓上から淡紅色の口唇に移していく。
 いつものとおり、水色のスーツ、濃緑のシャツ、パープルの杉綾織のネクタイ、そして新品らしい黒革靴で決めている白猫哲也が、弁護士役として振る舞い、以下のように被告を擁護する。なかみはともかく、インテリ的な顔つきをしている白猫哲也は、普段から弁護士と間違えられることが結構ある。
 弁護士役の白猫哲也が言う。「刑法の基本原則である『何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される』、言い換えると『容疑者や被告は無罪と推定される』『疑わしきは罰せず』から出発する必要がある。刑法のこの基本原則に背反して検察官の論理構造は、『被告は有罪と推定される』『疑わしきは罰する』から形成されている」「物証が示されていないし、被告は無罪を主張し、被告の自白も引き出されていないのだから、無罪と言う他ない」
検察官が言う「『公開裁判』を含む『血の粛清』で無実の罪で殺された人たちの名誉回復が、ソ連政府によって正式に、公式に、おこなわれている」ことは確かに、無実の罪で殺された人たちがいたことの有力な根拠とはなり得るものだが、そこからスターリンが無実の人たちの殺害を指示したあるいは命令したことまで導き出そうとすることは、空想的可能性を事実とすりかえる論理であり、そのような論理構造は破綻を免れることができない。
トロツキー、フルシチョフ、そしてゴルバチョフ等々、被告に不利な証言をしている人たちが一定いることは事実だと思うが、少数派なのかもしれないが被告に有利な証言をしている人たちがいるのもまた事実であり、ロシア国内ではスターリン再評価の世論も一定形成されているとも言われており、証人の証言のみで有罪と決定することはすべきでなく、物証や自白がない以上、無罪と主張せざるを得ない。
検察官は『カティンの森』『収容所群島』『イワン・デニーソヴィチの一日』『チャイルド44』といった小説を持ち出しているが、小説は小説であり、小説が事実に取って代わることはできず、小説に証拠能力はない。
また、三権分立の否定や民主主義的中央集権制に重大な欠陥、破綻があったとしても、そのことと殺人罪についての被告の有罪の立証を直線的、直接的に結び付けるのは、余りにも乱暴極まりない妄言と言わざるを得ない。
冷徹、冷静になり、刑法の基本原則を守るなら、疑わしいというだけで人を罰することはできない。
従って、被告は無罪である。
 被告のスターリンと弁護士の1人2役の白猫哲也が今度は被告のスターリンになって「私は、国家の敵、人民の敵、そして社会主義の敵に対するソ連の法律に基づく適法的な措置を指示しただけであり、無実の人たちの殺害の指示、命令など絶対におこなっていない」と言ってから、少しだけ砂糖を入れたカフェラテをのどに無造作に流し込む。
 
(4)「スターリン・ギャング」擬似法廷と勝手に称しての白猫社の3人の勉強会は、地下、1階、そして2階の喫茶ルームを形成しているお店の地下でおこなわれていて、店内全面禁煙でとても気持ちがいい。
 勉強会で長居するので、地下から濃紫の階段を上がって1階のカウンターに行った白猫哲也は、緑色のエプロンが可愛い店員さんに頼んで、もう一杯、スターバックスラテを貰ってくる。
 店内全面禁煙は、お客だけでなく店員さんの健康を守ることにもなる。逆に喫煙を認めることは、店員さんの健康を破壊し、労働基準法や労働安全衛生法との関係で法律違反の可能性が強く、規制を抜本的に強化する必要があると、こういうお店に入る度に哲也は感じている。
 殺人罪の被告になれば、ヒトラーも、広島、長崎への原爆投下の投下命令書を承認したと言われているトルーマンも、そして麻原彰晃も、たぶん同じような論理展開で自己正当化、合理化をはかるのだろうと思いながら哲也は、被告のスターリンと弁護士の1人2役の白猫哲也は、彼自身は大嫌いなスターリンを演じ続け、ソビエト連邦共産党書記長、ソビエト連邦大元帥の無罪を主張し続ける。
 自己弁護の基本構造は前述のように「国家の敵、人民の敵、そして社会主義の敵に対するソ連の法律に基づく適法的な措置を指示しただけであり、無実の人たちの殺害を指示、命令したことはない」である。これに尽きる。「大粛清」「血の粛清」と呼ばれているものもそうだし、強制収容所での虐殺、虐待、拷問などもそうだし、秘密警察による虐殺、暗殺、拷問、捏造などもそうだし、ソビエト連邦共産党書記長、ソビエト連邦大元帥はそのようなことを指示、命令したことは一度もなく、私スターリンが指示、命令したのはあくまでも「国家の敵、人民の敵、そして社会主義の敵に対するソ連の法律に基づく適法的な措置」である。
 戦争捕虜(ポーランド人将校)1万数千人を虐殺した「カティンの森事件」は、ヒトラーの犯行である。私スターリンが戦争捕虜(ポーランド人将校)1万数千人の虐殺を指示、命令したことはなく、私スターリンが指示、命令したのはあくまでも「国家の敵、人民の敵、そして社会主義の敵に対するソ連の法律に基づく適法的な措置」である。
 なお、ナチス・ドイツによる蹂躙から祖国を解放する大祖国戦争に勝利し、また国内の頑強な階級敵を最終的に粉砕して社会主義ソ連を建設するには、権力の集中と民主主義的中央集権制が不可欠であり、当時の状況下では不可避だったと、信じている。
 こんな具合に、大嫌いなスターリン役を上手に演じ続ける白猫哲也探偵は、自己陶酔に陥ってしまったのか、もしかしたらスターリンは多少は正しかったのかな、なんて感じてしまう。
 
(5)2杯目はコーヒーにし、1階のカウンターに行ってマグカップに注いでもらい、地下の席に戻った朝霧美涼は「疲れたわ、難しい、判決を出すのは困難というより無理ね、落としどころが見えてこない」と不機嫌な声と顔で言ってからちょっとだけ砂糖をカップに入れ、形のいい口唇に長細い指で運ぶ。
 「日本の刑法の殺人罪とスターリンのおこなったことを結び付けて、そこに整合性のある構造を見つけようとすることが、土台、無理筋かな」とこれは雨宮昭夫。「殺人罪でスターリンを裁こうなんて私の発想が、間違っていた。『疑わしきは罰せず』という刑法の基本原則がベースなのだから、有罪の判決は出せないし、かといって無罪とするには余りにも黒っぽいし、また強大な心理的抵抗もあるし、『スターリンは黒』は有力な仮説にはなり得るのだから、お互いに仮説を立て合うような勉強会にすればよかったのかもしれない」と彼は続けた。
 白猫哲也が次のように感想を述べる。「権力者による惨酷を極める虐殺、暗殺、拷問、捏造、不当逮捕、そして戦争を防ぐには、三権分立を守り、国民の権利を保障している日本国憲法を国民の共同の、不断の努力によってきちんと守り抜き、機能させることが最低限必要だというあたりが、落としどころかな」
 「最近、憲法を読み直してみてそうかと思ったんだけれど、裁判を受ける権利、弁護士を依頼する権利、黙秘権を定め、保障しているのが、日本の憲法なんです」と濃緑の手帳を開きながら話す雨宮昭夫の、その手帳の末尾には日本国憲法の全文が印刷されている。 
 雨宮が続ける。「日本の憲法は、国民の権利というところでは、憲法11条で基本的人権を擁護し、13条『すべての国民が個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求の権利』、14条『国民の平等』、16条『請願権』、19条『思想及び良心の自由』、21条『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』、24条『両性の本質的平等』、25条『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』、26条『教育を受ける権利』、27条『働く権利』、28条『勤労者の団結権、団体交渉権、争議権(団体行動権)』と続き、そして32条『裁判を受ける権利』、37条『弁護士を依頼する権利』、38条『黙秘権』という具合になっている。本当に素晴らしいと思うね」
 「憲法9条では、戦争をしない、軍隊を持たないと定めているしね。人類の理想を表現している」と言う美涼の白い細面には、少し生気が戻ってきた。
更新日時:
2009/11/26
――――――― 小説「光の中への重なり」 (1)〜(10)―――――――
――――――― 小説「光の中への重なり」 ―――――――
海野和夫
(1)沼のある公園で、沼のまわりがジョギングコースになっていて、1周940メートルの表示があり、ウォーキングやジョギングに励んでいる人たちの姿が早朝から夜遅くまで絶えない、そうした沼の周囲、周辺には、トイレが4ヶ所と整備され、またブランコ、滑り台、ジャングルジム、平均台、鉄棒などの遊具、「児童広場」、「多目的広場」、宿泊・食事可の会館、うなぎ屋さん、弁財天の祠、噴水などがあり、噴水の中央に立つ裸婦の石膏像が美しい。
 沼を囲んでメタセコイアが生い茂り、その下のベンチに座って見る沼の夜景は、人によって感じ方は違うけれど、死の情景として、悲哀として感覚する人もいる。
 夜になると、「多目的広場」の端のあたりに並んで、寝袋などを使ってホームレスの人たちが横たわっている。4人いることもあるし、3人に減っていることもある。
 子供も親類もいない老人の沢村良一は妻の悦子と2人で、古い木造住宅に住んでいる。近所づきあいも、ほとんどしていない。 
 74歳の沢村良一は元警官で、闇の世界とつながりを持ち過ぎたために免職となり、そのあとは探偵稼業をやったがうまくいかず、何でも屋のような仕事をするようになり稼ぎは少なかったけれど、警官のときに知り合った芸者さんと結婚していたので、芸者さんである妻の収入に頼って生きてきて、乳癌でこの最初の妻が亡くなるとすぐに、20歳位年下のスナックホステスと再婚して、その女性がいまの妻の悦子だが、それ以降スナックホステスとして、次いでスナック経営者として働いている妻の悦子の稼ぎを当てにして、暮らしてきた。
 54歳になる悦子は、スナックホステスの経験を生かしてスナック経営をおこなっているけれど、年齢から来る必然としての美貌、色香の衰えもあるし、長引く不況の影響も当然あるだろうし、店の経営の維持、再生産は相当大変なことになっていたし、借金も重ねていた。
 秋雨が続いていた。スナックの仕事を終えて夜遅く家に戻ると、夫の良一がいない。それから3日、戻ってこない。悦子は警察に相談に行った。  
 
(2)沢村良一がいなくなってから4日目、沢村悦子がママになっているスナックで、それは一方通行の狭い通り沿いのお店で1階がスナック、2階が麻雀屋になっているが、そこでママに多少気があるらしい中年のお客を相手に世間話をしている悦子の携帯に、山本と名乗る男性から電話がかかってきた。
 電話は、沢村良一を連れて帰るという趣旨のもので、良一は生きていたのだ。山本と名乗る男性の話によると、自分は沢村良一の雀友で、一緒に麻雀をやっていたとき良一が昏倒し、意識を失ってしまったので、救急車を呼んで病院に連れて行ったが、幸いようやく意識が戻ったので、代わりに自分が電話したのだという。
 「彼氏からの電話かな」と中年の男性客。
 「違うの、亭主が生きていたという電話よ、麻雀で夜更かしして倒れていただけなんだって。いっそ死んじゃえばよかったのにね、倒れるなんて中途半端なことじゃなくて」と笑い顔で言う悦子ママ。
 その夜、古びた木造住宅に悦子が戻ると、良一が家に帰って待っていた、雀友の山本誠志が車で送ってくれたのだ。良一は全体に、前よりやせていて、面貌も変化し、ほおがこけ、顔色も汚らしく黒みを帯びている。
 良一のからだが心配なので1日か2日一緒にそばにいると山本誠志は言い、悦子も同意した。迷惑をかけます、よろしくお願いします、と弱々しい声で良一が言う。
 「何か食べたいものある?」と悦子は良一に聞く。
 「りんごが食べたいな、いいよ、自分でやるから」と良一は、机の引き出しから自分専用の折り畳み式ナイフを取り出し、台所に行きりんごの皮を剥き始めるが、失敗して左手の親指を少し切ってしまう。
 「やっぱりダメじゃない、弱ったからだでふだんやってないことをするからよ」と悦子は、ピンクの地に猫の絵柄のハンカチで、ちょっとだけ出ている血をおさえ、ハンカチに吸わせてから、バンドエイドを貼付する。
 しかし、またすぐに良一はいなくなった。戻ってきてから3日しかたっていない。深夜までのスナック営業を終って家に帰ると、良一がいないので、また徹夜麻雀なのかと携帯に電話したがつながらないので不安になり、世話になった夫の雀友の山本誠志に電話すると、気になるのですぐに行くと車で来てくれたので、2人で真夜中の街を車で探し回り、近くの公園の前に車をとめ、中に入っていく。
 良一がいた。
良一のdead bodyだった。
公園内の木に首を吊った状態で死んでいた。
すぐに警察に通報した。
良一本人の字に間違いない遺書が残っていた。
指紋も一致した。
DNAも一致した。これは、良一がりんごの皮を剥いているときに誤って切った左手の親指の血を拭き、血を吸ったピンクの地に猫の絵柄のハンカチに付着していた血液から、確認することができた。
首吊り死体の左手の親指には、貼付されたバンドエイドが、剥がれずに残っていた。
警察は、事件性がないと判断し、自殺として処理した。 
 
(3)山本誠志は不動産業者の南村忠治と知り合いというより親分・子分のような関係だった。山本誠志は一応、建設業者だが、不動産業にも手を出すなど何でも屋的なところがあり、南村忠治の計画したことを南村から指示されて実行することで報酬を得ているというような2人の関係だ。
 南村の周辺には、知り合いの同業者の失踪、川で溺死した従業員、マンションから転落死した建設業者など自殺、失踪、事故死が目立ち、どれも諸状況から警察は事件性がないと判断し殺人としての捜査をおこなっていないが、南村と山本をよく知っている人間は、2人が関係しているのではないかと疑っている。
 74歳の老人の沢村良一は1億2000万円の生命保険に入っていた。沢村良一の妻の悦子にカネを貸すときに生命保険証書を見せてもらい、相当確度の高い情報として確認した南村は、自殺に偽装した殺害を実行することで保険金を詐取する計画とトリックについて考え抜いてみようと決意した。
 有名大学を出ていて、インテリやくざ的なところもある南村は、もともと本を読むのが好きということもあるのだが、推理小説、警察小説、殺人事件の実録のような本を大量に読み、殺人トリックのようなことについて普段からよく研究、勉強している。
 沢村良一を自殺に偽装して殺害する計画とトリックを考え出し、組み立てた南村は、子分的存在の山本誠志に話を持ちかけ、実行を依頼した。殺害を実行する度胸は南村にはなく、信頼できる人間とは言いにくい山本に実行については頼らざるを得ないという点に、この計画は弱点を含んでいたが、学生時代に読んだサルトルの実存主義から影響を受けてというよりそれを自分流に解釈してというか曲解してというか、人生は賭け、投機だと思っている南村は、余り気にしなかった。
 南村忠治の計画に基づく依頼の実行で失敗を経験していない山本誠志は、その意味で南村の計画を信頼しており、殺人を伴う計画であっても、たいして躊躇することなく実行を請け負った。山本には度胸もあり、また殺人の前科もある。そのときは、多少の正当防衛的側面が認められ、懲役10年ですんだ、飲んでいる最中に暴力的ケンカとなり、切れやすく腕力のある山本は相手を殴り殺してしまったのだ。
 
(4)南村忠治の計画に従って殺人トリックの実行者となった山本誠志は、沼のある公園に行き、1億2000万円の生命保険に入っている沢村良一に外形が似ているホームレスの男性を物色した。
 公園のジョギングコースの脇で、ぼさぼさした白髪の高齢女性が野良猫への給餌を始めていて、人間からは見えない物陰に身を潜めていたのだろう野良猫が4匹、エサの入ったステンレス食器のそばに現れる。その前を山本誠志が通り過ぎると、警戒心の強い黒と白のぶちの1匹がさっと遠ざかる。
普段着ることがない背広にネクタイ、そして帽子、メガネ、マスクと山本は変装している。
 中肉中背、高齢、細面というような点で沢村良一に近似しているホームレスの男性を見つけ、食事、風呂、酒などの提供を約束して、その男性A氏を南村忠治の自宅兼事務所に連れて行った。
 その後、南村が、ホームレスの男性A氏に整形を受けさせ、沢村良一に似た顔にさらに近付ける。まともな医師によるものではなく、闇の整形だ。
 
(5)殺人トリックは、南村と山本だけでなく、沢村良一と妻の悦子も加わっての4人の共謀だったのだ。被害者は、殺されたのは、ホームレスの男性A氏だ。
 それは、次のような経過だ。
 悦子がスナックの仕事を終えて夜遅く家に戻ると、夫の良一がいない。それから3日、戻ってこない。悦子は警察に相談に行った。南村の立てたプランどおりの動きで、この間良一は南村の自宅兼事務所にいた。  
良一がいなくなってから4日目、悦子がママになっているスナックで、悦子に多少気があるらしい中年のお客を相手に世間話をしている彼女の携帯に、山本誠志から電話がかかってきた。
 電話は、良一を連れて帰るという趣旨のものだ。
 「彼氏からの電話かな」と中年の男性客。
 「違うの、亭主が生きていたという電話よ、麻雀で夜更かしして倒れていただけなんだって。いっそ死んじゃえばよかったのにね、倒れるなんて中途半端なことじゃなくて」と笑い顔で言う悦子ママ。
 以上も、いなくなっていた夫の良一が戻ってきたことをお客に印象付けるための、悦子と山本誠志の演技だ。
 その夜、古びた木造住宅に悦子が戻ると、良一が家に帰って待っていた、山本誠志が車で連れ帰ったのだ。良一は全体に、前よりやせていて、面貌も変化し、ほおがこけ、顔色も汚らしく黒みを帯びている。実は、良一ではなく、ホームレスのA氏なのだ。
 良一のからだが心配なので1日か2日一緒にそばにいると山本誠志は言い、悦子も同意した。迷惑をかけます、よろしくお願いします、と弱々しい声で、良一に化けているつもりのA氏が言う。殺人トリックの共謀者の悦子は、この男性が良一でないことをもちろん知っているのだが、騙されているふりをして、A氏をだましているのだ。
 「何か食べたいものある?」と悦子は良一に化けているつもりのA氏に聞く。
 「りんごが食べたいな、いいよ、自分でやるから」と良一を演じるA氏は、机の引き出しから良一専用の折り畳み式ナイフを取り出し、台所に行きりんごの皮を剥き始めるが、左手の親指を少し切ってしまう。これも、南村忠治と山本誠志に教えられたとおりにA氏がやったのだ。
 「やっぱりダメじゃない、弱ったからだでふだんやってないことをするからよ」と悦子は、ピンクの地に猫の絵柄のハンカチで、ちょっとだけ出ている血をおさえ、ハンカチに吸わせてから、バンドエイドを貼付する。
 またすぐに「良一」はいなくなった。戻ってきてから3日しかたっていない。悦子と山本誠志は2人で真夜中の街を車で探し回り、近くの公園の前に車をとめ、中に入っていく。
 「良一」がいた。
「良一」のdead bodyだった。実は、A氏の死体だ。
公園内の木に首を吊った状態で死んでいた。絞殺したA氏を吊って、沢村良一の首吊り自殺に偽装したのだ。
すぐに警察に通報した。
良一本人の字に間違いない遺書が残っていた。これはまさに、良一が書いたのだ。殺人トリックの共謀者としての良一が書いたのだ。
指紋も一致した。A氏が良一の家に残した指紋を使ったのだ。
DNAも一致した。これは、「良一」がりんごの皮を剥いているときに切った左手の親指の血を拭き、血を吸ったピンクの地に猫の絵柄のハンカチに付着していた血液から、確認することができた。実は良一ではなくA氏だったのだから、当然一致する。
首吊り死体の左手の親指には、貼付されたバンドエイドが、剥がれずに残っていた。
警察は、事件性がないと判断し、自殺として処理した。 
 
(6)保険金1億2000万円という利益の配分については、4人の事前の話し合いで、工夫して計画を立てた南村忠治に3500万円、殺人を請け負って実行した山本誠志に3500万円、沢村良一に3000万円、そして悦子に2000万円と決まっていた。
 しかし、1億2000万円の利益を4人に分配するという上部構造の下には、それを覆す下部構造が存在していた。4人の共謀という構造を沢村良一は信じていたけれど、実はより深いところで南村、山本、そして悦子の3人の共謀が最初から存在し、首吊り自殺で死んだことになっている沢村良一をこの世から消しても怪しまれることは全くないのだから本当に消してしまい、良一の取り分3000万円を残った3人のものにするというのが下部構造で、立案者は南村で、殺しを実行するのは肝が据わっている山本誠志だ。
 「南村さん、どうするんだ、沢村の死体が見つかるとややこしいことになり、それがネックだ。逆に言うと、死体さえ出てこなければ100%安全な殺しだ」と言う山本誠志の大きな目玉が探るように鋭く光っている。
 「サスペンスドラマではありませんが、コンクリート詰めにしてというかコンクリートで固めてというか、そのようにして海に捨てるとか、あるいは焼却場で燃やして、残った骨を海にばらまくとか、どうかな」と南村は抑揚の乏しい低い声で言う。
 「わかったよ、ともかくまかせてくれ」
 
(7)3人が集まった南村の事務所で、「奴のコンクリート詰め死体を投棄して海の底に沈めた」と山本誠志が太い声で報告する。
 「変装させた上で俺の事務所に連れ込み、たらふく飲ませて、ふらふらになっている奴の首を絞めて殺してやった。殺されるとわかったとき奴は、助けてくれ、取り分の3000万円はいらないから助けてくれと、手を合わせていたけどな」
 このあと、南村、山本、悦子の3人は、悦子のスナックに行き、計画の遂行、成功を祝った。
 南村がトイレに行って山本だけになったとき悦子は「良一がいなくなって本当にせいせいした、ありがとう、お年寄りのひもは耐えられない。山本さんのような男がひもなら、あたし、とことん尽くすけどね」と媚を含んだかすれ声で言う。
 最悪の不幸が待っているのを知らないで気の毒な女だ、と山本誠志は思った。
 
(8)南村忠治は、ほぼ毎日、夜の11時〜12時頃、健康のために散歩していた。右側頭部に圧迫感があり、また左側頭部に頭痛を感じていて、よくめまいが起こり、歩き始めるとふらふらするのだが、1時間位歩き続けるとだいぶ安定感を得られるので、それくらいは散歩しているのだ。
 散歩コースはだいたい決まっていて、自宅兼事務所を出て広い公園に向かい、公園内を3周位してから市役所に行き、そして大通りを横切り、JRの線路沿いの車が通れないくらいの細い道を歩いていき、稲荷の祠の前を通過して戻ってくる。
 本降りの雨の夜、いつもの散歩コースのJRの線路沿いの車が通れないくらいの細い道で背後から襲われ、南村が刺殺された。凶器はダガーナイフ様の刃物、と警察は判断している。
 白いスーツの悦子が、スナックの営業を終えて後片付けをしながら好きな歌をかすれ声で口ずさんだり、軽く手を叩いてみたり、うれしそうで機嫌がいいのは、明日はお店が休みで彼女のお気に入りの山本誠志とデートすることになっているからだ。
 お店のドアが開いて、黒いジャンパーの中肉中背の男が入ってくる。
 ドアの開く音に振り向いて「お客さん、申し訳ありません、もう閉店……」と言いかけた悦子の血色のいい丸顔から血の気が急速に退いていく。   
 胸、腹、背中と何回も刺された悦子は、白いスーツを赤く染めたdead bodyと化して横たわる。凶器はダガーナイフ様のものと推定され、南村刺殺事件との関係で、同一犯による連続殺人事件の可能性を視野に入れて警察は捜査を進めている。
 しかし、捜査になかなか進展は見られず、犯人像の特定に至ることができない状態が続いている。
 
(9)沢村良一は生きていた。
 山本誠志が南村と悦子に報告した「変装させた上で俺の事務所に連れ込み、たらふく飲ませて、ふらふらになっている沢村良一の首を絞めた。殺されるとわかったとき沢村良一は、助けてくれ、取り分の3000万円はいらないから助けてくれと、手を合わせていた」は本当の話なのだが、「殺して、沢村良一のコンクリート詰め死体を投棄して海の底に沈めた」は嘘で、殺さずに3000万円を貰うほうを山本は選んだのだ。その際、命を助けてやるからその代り南村と悦子をおまえが殺すんだ、それを約束すれば助けてやる、と山本誠志は沢村良一に言い、良一は殺しの実行を喜んで約束した。
 山本と約束したからというより、南村と悦子の連続刺殺は、2人への沢村良一の復讐だった。74歳の老人ではあるが元警官で体力と格闘に優れている良一には、それが可能だし、また首吊り自殺してもうこの世にはいないことになっているのだから、捕まる心配もない。
 夜道で沢村良一は背後から山本誠志をダガーナイフで襲ったけれど、既にこのことを予測し警戒していた山本にかわされ、逆に短刀で刺し殺され、今度は本当に、コンクリート詰め死体として投棄され海の底に沈められた。
 この世にいないことになっている人間をこの世から消しただけだから、何の問題も矛盾もない、と山本は安心していた。
 
(10)すぐに警視庁捜査1課によって山本誠志は逮捕された。
 山本誠志を含む4人が犯した殺人事件について丁寧に詳細に書き記した沢村良一の手紙が、警視庁捜査1課に届いたのだ。自分が戻ってこないときは警視庁捜査1課にこの手紙を送ってくれと、仲良くなっていた中年女性に沢村良一が頼んでおいた、その手紙だ。
更新日時:
2009/11/20
――――小説「白猫探偵事務所 殺人トリック研究会」(1)〜(7)――――
――――小説「白猫探偵事務所 殺人トリック研究会」――――
海野和夫
(1)妙な名前の探偵、白猫哲也は、JR水道橋駅からそう遠くない、古びたマンションの3階に狭い事務所を持ち、スタッフ2人プラス猫1匹と一緒に、探偵社としての経営をぎりぎりの状態で維持、再生産している。主観的には、大手探偵社の「覇権主義」に抗してよくがんばっているほうだなどと白猫哲也は思っている。なお、白猫哲也は本名ではなく、商号のようなものだ。
 白猫探偵事務所のスタッフだが、1人は、推理小説、探偵小説、刑事小説、警官小説のようなもののマニアで、生命保険会社の営業畑を定年退職後、第2の人生を探偵稼業でということで勤め始めた、63歳の男性、雨宮昭夫。
 もう1人は、小説家志望の24歳の女性、朝霧美涼。母が日本人、父が米国白人ということで、白い細面、白い肌の長身は、モデルのようだとよく言われる、と本人は言っている。
 1匹は、白猫のシロちゃん。頭と尻尾だけが黒色で、あとは全部白色の毛のシロちゃんは、野良猫だったのを、マンションの3階までよくエサを貰いに来るので白猫探偵事務所のペットにしたのだが、シロちゃん自身は、スタッフの「1人」と思っているようだ。
 マスメディアが報じているように、結婚詐欺容疑で逮捕された女性の周辺男性の連続不審死や元スナックホステスの女性の交際男性の連続不審死など、従来警察が事件性はなく事故、自殺、失踪として処理してきたものの中に相当な数の殺人事件が存在する可能性が急浮上しているような世間の状況を反映して、そのような家族の不審死について探偵社に調査を依頼するクライアントがだいぶ増えてきている。
 そうしたクライアントの依頼への対応力を強めるために、白猫哲也はスタッフの雨宮昭夫、朝霧美涼、そして白猫シロ? を集めて、殺人トリック研究会というと大袈裟だが、そのような勉強会を、おこなうことにした。
3人とも嫌煙権を主張し喫煙権を認めておらず、従って店内全面禁煙の喫茶店にしか入らないので、禁煙でかつ長居しても大丈夫そうなスターバックスのお店を勉強会の場とした関係で、シロちゃんには自主的に? 事務所の留守番をしてもらうことになった。
勉強会の殺人トリック研究は、マスメディアの報道によると元スナックホステスの女性の交際男性6人の連続不審死の中の一つである「警官の山中での首吊り自殺」の事例から、始まった。
テレビ、新聞の報道に基づくと、白猫哲也の記憶に間違いがなければ、最初警察は交番内での首吊り自殺としていたのを山中での首吊り自殺と変更したとのことであり、これだけでも妙な話なのだが、警察が自殺と判断したのは、遺書があるということと雪が積もっていた山中に首を吊った警官の靴跡だけが残されていたことが根拠だと、そういうことのようだ。
 人権保護に基づきこの女性を犯人と決めつけないということを前提に、あくまでも仮定の話として、殺人事件だと仮定した場合、どのようなトリック、マジックが考えられるか? お互いに考えて、仮説を発表し合おうと、白猫哲也は提案する。
 
(2)朝霧美涼の仮説。
 遺書はにせもの。
 女性(A子)は交際男性のB氏を、山歩きに誘う。B氏は警官。
 途中まで一緒に歩いていき、殺害現場の近くまで来たとき、計画通り「あしを捻挫したのかしら、痛いわ、少し負ぶって」と甘えるA子を、体力のある警官のB氏は楽々と背負って山歩きを続行する。
 首吊りに適した木のところまで来たとき、同様に予定通り「ここで少し休みましょう」とA子は言い、そこで睡眠導入剤と風邪薬の両方が入っているコーヒーをB氏に飲ませて眠らせてから絞殺し、用意してきたロープを使って首をくくったかっこうでB氏のbodyを木から吊り下げ、首吊り自殺に偽装した殺人を遂行する。
 その後、積もっている雪を利用し、自分の靴跡を雪でおおうことで靴跡を消しながら殺害現場を離れるというトリックで、首吊り自殺に偽装した殺人を完成した。
 警察の捜査員が来たとき、現場の付近に残っているのは、B氏の靴跡と遺書だけ、ということになる。
 次は、雨宮昭夫の立てた仮説。
 遺書はにせもの。
 A子は交際男性のB氏(警官)を、山歩きに誘う。出発点の設定は、朝霧美涼の仮説と同じだ。
 殺害予定現場の首吊りに適した木の近くまでは一緒に歩いていき、そこでA子は休憩を提案し、睡眠導入剤と風邪薬の両方が入っているコーヒーをB氏に飲ませて眠らせる。
 B氏の足から靴を取り、A子はB氏の靴をはき、大柄で力のある女性なので男性のbodyを背負って、首吊りに適した木まで歩いていき、用意してきたロープを使って首をくくったかっこうでB氏のbodyをその木から吊り下げ、首吊り自殺に偽装した殺人を遂行する。
 その後、積もっている雪を利用し、自分の靴跡を雪でおおうことで靴跡を消しながら殺害現場を離れるというトリックの使用は、朝霧美涼の仮説と同様だ。
 警察の捜査員が現場に来たとき、付近に残っているのは、B氏の靴跡と遺書だけ、ということになる。
(3)白猫哲也探偵の推理。
 雨宮昭夫や朝霧美涼の推理がA子の単独犯に傾いているので、共犯の存在を前提に白猫哲也は仮説を考えてみた。
 この仮説、現実的可能性と空想的可能性の中間にあるような危うい仮説にとどまっていると白猫哲也自身も感じているが、以下のようなものだ。
 A子の別の交際男性C氏が、B氏殺害の共犯者。 
 A子は猫撫で声でC氏を誘い込み、首吊り自殺に偽装してB氏を殺すことをC氏に実行させたのだ。
 C氏は、殺害現場の首吊りに適した木のところに、どのような口実だったのかはわからないが、そこにB氏を呼び出して、会う。
睡眠導入剤と風邪薬の両方が入っているコーヒーをB氏に飲ませて眠らせてから絞殺し、用意してきたロープを使って首をくくったかっこうでB氏のbodyを木から吊り下げ、首吊り自殺に偽装した殺人を遂行する。
C氏は殺害現場にとどまり、一定の時間を置いてから、第一発見者を装い、携帯電話で警察に通報する。
警察の捜査員が現場に来たとき、付近に残されているのは、B氏の靴跡と遺書、それに「第一発見者」のC氏の靴跡だけだ。
C氏のアリバイについては、A子が「一緒にいました」と証言することで、成立させる。
遺書もあるし、警察は事件性がないと判断し、解剖等はおこなわれず、首吊り自殺として処理される。
 
(4)新聞記者の不審死。
 気持ちのいい、店内全面禁煙の喫茶店での殺人トリック勉強会で白猫哲也探偵が次に取り上げたのは、やはり元スナックホステスの女性の交際男性6人の連続不審死の一つで、新聞社の男性記者の轢死だ。
 マスメディアの報道に基づくと、男性記者は段ボール箱に入った状態で列車にひかれていて、遺書があり、警察は自殺として処理したという。遺書は段ボール箱に書かれていたとの報道もある。
 また、不審死する前、周囲から多額の借金を男性記者はしていたという。 
 人権を大事にし、この女性を犯人と決めつけないということを前提に、どこまでも仮定の話として、自殺ではなく殺人と仮定した場合、どのようなトリック、フェイクが考えられるか? 
 なお、男性記者の不審死については、警官の不審死のときのように遺書を単純ににせものとすることはせず、男性記者本人が書いたものということを前提に、仮説を考える。白猫哲也はそう提案した。
 元スナックホステスの女性をA子とし、轢死の男性記者をD氏とする。
 睡眠導入剤と風邪薬の両方を入れた飲み物を飲ませて眠らせた上で段ボール箱の中にD氏を入れ、線路に置き、その結果、段ボール箱に入った状態でD氏は列車にひかれ、死亡した、と考える点では、当然なのだが、3人は同じで、問題は、課題は、段ボール箱に書かれていたという遺書について本人自身が直接書いたものだということを前提にしているので、それをどう説明、解明して、自殺に偽装した殺人として成立させるかだ。
 朝霧美涼が仮説を述べる。長居しているので、2杯目のカフェラテを頼んだ美涼は、長細くて白い指でそれを、ローズの口紅の華やかな口唇に運びながら、彼女の考えを述べる。
 A子は住んでいるアパートに、交際中の男性D氏を招き入れる。部屋には既に、段ボール2箱が用意されている。
 A子はD氏に、困難を乗り越えて交際を続けることを誓わせた上で、「これはもちろんジョークだけれど、困難を乗り越えられないで交際を続けられなくなったら2人で心中しましょう、ジョークだけど、そのときどういう遺書を書くのか、ちょうど段ボールがあるからこの箱に書いてみようよ」と媚もあるし毒もある甘え声で持ちかける。
 事件も扱っている新聞記者のD氏は少し警戒したが、ジョークと言っているし、紙ではなく段ボール箱に書くというのは確かにジョークのようだし、問題ないだろうと思い、2箱のうちの1箱に「A子と一緒で幸せだった……幸福のうちに死にます」云々と書いたのだった。A子も別の1箱に「遺書」を書いた。
 雨宮昭夫の推理は、美涼の考えと多少似ているところもあるが、次のようなものだ。
 A子とD氏の間に金銭トラブルが発生していて、男性記者は元スナックホステスにカネの返済を迫り、逆にA子はD氏にカネを返すどころかもっとカネを渡すように要求し、もっとカネをくれないのであれば2人の交際の秘密を記者の家族や新聞社に知らせると脅迫していた。
 家族や新聞社に知られたくなかった男性記者は、女性にカネを渡すために周囲から多額の借金を重ねていたが、A子の過大な要求に新聞記者はなかなか追い付き、対応することができなかった。
 A子は、段ボールでいいからそこにカネを渡せないことについての謝罪の文書を書くようにD氏に要求し、書かないのであれば2人の交際の秘密を記者の家族や新聞社に知らせるとおどして、遺書とも受け取れるような謝罪文を箱に書かせることに成功した。 
 
(5)新聞記者不審死についての白猫哲也探偵の推理。
 雨宮昭夫と朝霧美涼の推理が元スナックホステスの女性の単独犯の方向へ傾いているので、白猫哲也は逆に共犯の男性の存在を前提に、事件を組み立ててみた。
長居していてお店に悪いと思い、飲みたいわけでは全くない2杯目のコーヒーを貰ってきてから仮説を述べる、真面目で人が好い白猫哲也は、気の弱い小心者だと自分のことを捉えていたし、また人からお人よしと言われていることも知っていた。
 共犯の男性をE氏とする。いまは何でも屋で稼いでいるE氏だが、直接行動派であり暴力的で、その種の世界の稼業をしていた過去もある。E氏は、元スナックホステスの女性A子の交際男性の1人だ。
 A子は、新聞社の男性記者D氏を、ホテルに連れ込む。2人のいるホテルの部屋に、A子から頼まれ、教えられたとおりE氏は入り、殺傷性の高いダガーナイフをちらつかせながらD氏をおどす。A子に頼まれての演技だが、その種の稼業の中で実践していたことがあるだけに、凄みがある。
 何でも屋E氏「こんなところでA子と何をしているんだ。A子は私の内縁の妻だ」
 新聞記者D氏「A子さんについては独り身だとばかり思っていました、申し訳ありません」
 E氏「申し訳ありませんで済めば、世の中、法律も警察も裁判所も必要ないだろ」
 D氏「どうすればいいですか?」
 E氏「指を切って差し出せと言いたいところだが、かたぎのあんたにそれを言っても酷な話なので、詫び状を入れてくれ」
 D氏「わかりました」
 E氏「ちょうどここに段ボールがある。この非道を、あんたが決して忘れることがないように、声を出して大きな字でこの箱に詫び状を書いてみろ」
 凶器に変じ得るダガーナイフを見せながら、A子が事前に部屋に運び入れておいた段ボールに、遺書と解釈することも可能な文言、それは事前にA子がE氏に教えた文言だが、そうした文言の詫び状を新聞記者に、強制的に、半ば暴力的に書かせるE氏。
 「記者さん、これでいいや、私は根は優しい男だからな、これでいいよ」とA子から教えられた演技を続けるE氏は「もう一つだけ頼みがある。仲直りに一緒に一杯やってくれ、飲み屋に行こう」と刃物をちらつかせながら、これも半ば暴力的に一緒に行くことをD氏に強制し、外に連れ出し、E氏の車に乗せる。A子が一緒に乗った。
 車中で、A子は言葉巧みに誘導してD氏に睡眠導入剤と風邪薬の両方を入れた飲み物を飲ませて眠らせる。
 事前に調べておいてわかっている、線路の近くの暗がりに車をとめ、遺書とも受け取ることができるような文言の「詫び状」の書かれている段ボール箱に入った状態でD氏のbodyを線路に置き、列車に轢かせることで殺害する。
  
(6)英国人女性がdead bodyで見つかった事件。
 お店に迷惑をかけないように、またお店に嫌われたくないので、勉強会で長居している3人はそれぞれ好きな飲み物を、好きなものといってももう飲みたくはないのだけれど、3杯目の飲み物を貰ってきてから、3番目の事例として英国人女性がdead bodyで発見された事件を対象として、考えてみることにする、極めて慎重に。
 dead bodyで発見された英国人女性をFさん、死体遺棄容疑で逮捕された日本人男性をG氏とする。
 マスメディアの報道を見ると、英国人女性が他殺体で発見された事件で死体遺棄容疑で日本人男性が逮捕された、と報じているところがあるが、他殺体、他殺というのはあくまでも警察の発表、警察の判断ということなのだろうし、裁判で確定している事実ではないので、他殺体ではなく死体、dead bodyと表現するのがより正しいのではないかと、白猫哲也探偵が自説を述べる。
 同様にマスメディアの報道を見ていると、中でも、テレビに頻繁に出てくるコメンテイターと称される人たちの一部が容疑者を犯人と決めつけるような評論を展開する傾向にあるのが気になる、と白猫哲也は言い、近代刑法の基本原則である「容疑者は無罪と推定する」「疑わしきは罰せず」を、私たちは軽視すべきではないし、それを前提に仮説を考えてみよう、と彼は提案する。      
 3杯目の飲み物として貰ってきたキャラメルカプチーノをローズの口唇に運ぶ朝霧美涼の長細い指の形のいい爪には、パープルのマニキュアが塗られている。
 彼女は、マスメディアの報道が言う死体遺棄容疑で逮捕されたG氏の「切れやすい性格」「働いていた建設会社で同僚とケンカになったとき、止めに入った他の同僚から『おまえは体格がいいのだから、殴ったりすると相手を死なせてしまうかもしれないぞ』と注意されて、泣き崩れた、あるいは大泣きした」を前提にして、また「英国人女性は絞殺されていた」との報道を前提にして、それらが実体を反映した報道だとすれば、あくまでもそう仮定すればの話だけれどと、次のように考えを述べた。
 計画的殺人ではなく、原因、理由はわからないけれど、切れるようなことが発生して切れてしまい、身長180センチの体力のある男性が首を絞めたのだから、結果として絞殺ということになったのではないか。強固な殺意の存在を断言するつもりはないけれど、おそらく強力に首を絞めたのだろうから殺意がなかったというような抗弁は通用しにくいのではないか。
 次は雨宮昭夫の考え。
 G氏について「女装趣味があった」「男性と一緒にラブホテルに入っていくところを目撃されている」というような一部マスメディアの報道が実体を反映していると仮定すれば、その種の「友だち」がG氏の部屋を訪れたとき英国人女性Fさんが部屋にいるのとかちあい、Fさんに嫉妬して殺害に至った可能性もゼロとはいえない。現実的可能性とは言えずほとんど空想的可能性だけどね、と雨宮昭夫は慎重で控え目だった。
 似たような思いつきだけれど、G氏に交際女性がいて、G氏の部屋を訪れたとき英国人女性Fさんが部屋にいるのとかちあい、その女性が切れやすく暴力的で実力行使派で体力があると仮定すれば、Fさんに嫉妬しての絞殺という可能性もゼロとは言えない、とこれも雨宮昭夫。逮捕後のG氏が黙秘を続けているのは、その女性を守るためかもしれない、と雨宮は付け加える。
 空想的可能性ということであれば、マスメディアの報道に基づくと、建設会社でとても真面目に働くことができる青年としての側面を持つG氏がこのような行為を犯すに至るには、そこに多少の「正当防衛」的側面がなかったのかどうか? とこれは、白猫哲也の発言。
 
(7)結婚詐欺容疑で逮捕された女性の周辺男性の連続不審死の一つである、レンタカー内での練炭使用の結果と思われる男性の死亡については、女性をH子、男性をI氏とする。
 不審死と警察が見ているのは、「I氏が死亡していたレンタカー内に七輪があり、それはH子が事前に購入していた七輪と同種のものだった」「レンタカー内にマッチの燃えかすはあったが、マッチ箱は見つかっていない」「I氏の手に練炭に触れることによる汚れが付いていなかった」「レンタカー内にレンタカーのキーがない」「レンタカーに同乗していた、または運転していたと思われるH子の指紋がレンタカーに残っていない」「I氏の体内から睡眠導入剤が検出され、その睡眠導入剤はH子が持っているものと同じだった」というような根拠に基づいているようだ、と白猫哲也が説明する。
 「『練炭に触れることによる手の汚れ』というのは、練炭のすすが付く、付着するということを言っているのかしら、それがI氏の手に付着していなかった」と朝霧美涼が聞く。
 「そうだね、テレビでは、練炭のすすが付いていなかったと言っていたような気がする」と白猫哲也。 
 自白はしないが、結婚詐欺容疑で逮捕された女性H子による自殺に偽装した殺人と見るのが自然、当然、必然だとする雨宮昭夫は次のように続ける。「これだけの連続不審死だから、人殺しを認めれば間違いなく死刑になるわけで、自白はしないですよ。死刑にならないケースと死刑になるケースでは、根本的に違う。自白すれば死刑というケースで自白を引き出すのは、困難を極める。人間の防衛本能のあらわれ、個体生存闘争です。利己主義に否定的なcommunismの創始者の1人と言われているフリードリヒ・エンゲルスも、個体生存闘争の存在については認識していましたからね、確か記憶によると『家族、私有財産及び国家の起源』という著作の中で個体生存闘争の存在を記述している、記憶違いの可能性もありますけどね、そのぐらい、人間の防衛本能、個体生存闘争は、明瞭で強力ということかな」 
 自殺だと仮定すれば、どういうことが考えられるか、と話す朝霧美涼の声はややハスキーだ。彼女は次のように言う。
 「I氏が死亡していたレンタカー内に七輪があり、それはH子が事前に購入していた七輪と同種のものだった」という点について言えば、H子はI氏に、2人の交際が破綻したようなときは自殺しよう、または心中しようと思って練炭と七輪を持ってきた、というようなことを甘え声で言い、レンタカー内の練炭と七輪の存在をI氏の認識にしておく。I氏を自殺へと誘導したということは言えるのかもしれない。 
 「レンタカー内にマッチの燃えかすはあったが、マッチ箱は見つかっていない」についてだけれど、H子から別れ話を突き付けられ自殺を決意したI氏はマッチを使用したあと、一旦車外に出て、どこかにマッチ箱を捨てた。自殺をH子による殺人に偽装してH子に復讐しようとしたのかもしれない。
 「I氏の手に練炭に触れることによる汚れが付いていなかった」は、同様に一旦車外に出て手を洗った、または手袋を使用し、一旦車外に出てどこかに手袋を捨てた。
 「レンタカー内にレンタカーのキーがない」も同様に一旦車外に出て、どこかにキーを捨てた、または別れ話を突き付けたあとキーはH子が持っていってしまった。
「レンタカーに同乗していた、または運転していたH子の指紋がレンタカーに残っていない」はH子が手袋を使用していただけのこと。
「I氏の体内から睡眠導入剤が検出され、その睡眠導入剤はH子が持っているのと同じものだった」については、練炭や七輪と同様にH子がI氏に、2人の交際が破綻したようなときは自殺しよう、または心中しようと思って持ってきた、というようなことを甘え声で言い、レンタカー内に置き、睡眠導入剤の存在をI氏の認識にしておく。
マスメディアは、H子が本気でつきあっていた男性の存在を報じ、結婚詐欺でだましとったカネをその男性に貢いでいた可能性があるとしているが、そのような交際男性の存在を前提にすれば、不審死についてはその男性の犯行だったという可能性もゼロとは言えず、排除できないのではないかと、これは白猫哲也の発言。
 
更新日時:
2009/11/14
―――― 小説「野良猫群像そして浮上するdead body」(1)〜(9) ――――
―――― 小説「野良猫群像そして浮上するdead body」 ――――
海野和夫
(1)お寺と公園が隣接していて、その公園の一角に小さな古い家があり、家のとなりが稲荷の祠で、路地を挟んで向かいが皮膚科医院、そして質屋さんといったところを昼間から臆することなく平然と散歩している野良猫がいて、頭とか背中といった上半分のところは黒色、おなかや足といった下半分は白色という毛色の配置の猫で、50代後半の男性が日課のように稲荷の祠に来て、この猫の毛梳きをブラシでおこなっている。皮膚科医院の女医さんが猫好きで、エサは主として彼女から貰っている。
 50代後半の男性の名前は岸本定雄。ゼネコンの社員だった岸本定雄は、ゼネコンのリストラの過程で解雇の対象とされ、解雇を言い渡されたとき、「会社が必要としていることのために全力でがんばりますから、私を解雇しないで下さい」と頼んだのだが、ゼネコンの人事担当者から「いま会社が必要としていることは、あなたが会社をやめることです」と言われ、相当ショックを受け、このことがあってから、野良猫への給餌給水活動を行うようになり、ニャアーニャアーと喜ぶ野良猫から、また猫を助けるという行為そのものから癒しを受ける日々を送っている。このゼネコン、いまは、いわゆる「御用組合」が多数派となっているが、かつて一時期、左派労働組合が多数派だったときの労組指導者の1人だったことがある岸本への人事配置には、そのことが影響していて、労組指導部から降りて以降は会社に忠実に励んできたにもかかわらず見捨てられたということなのだろう。
 自分と同様に人間に裏切られ、捨てられ、公園、駐車場の車の下、アパートの裏手、商店街の路地裏、古い家の庭の茂み、公民館のフェンスの中、そしてお寺や神社の境内、等々、いろいろなところにいて生きるために苦闘している野良猫の群像を見ることを通じて、そういう世界を知ることによって、岸本定雄のものの見方、考え方は変容を免れることができなかった。
 深夜、日課のようになっている給餌給水を終えて公民館の裏手のあたりに立っている岸本定雄を見咎めて、近寄ってきた男性が「あなた、ここで何をしているのですか? 12時ですよ」と聞いてくるので、逆に「人のことを言う前に、あなたこそ12時に何をしているのですか」と岸本は反論した。
 濃紺の背広に黒とベージュのストライプのネクタイの男性は「失礼しました」と言いながら警察手帳を見せ、警視庁捜査1課刑事の新村久行であることがわかったが、不審者扱いされたことに、自分はそのように見えるのかと岸本は納得できなかった。
 新村久行は、資産家の男性の失踪との関連で、張り込みを実施しているのだった。
 
(2)失踪した資産家の名前は川上信成。
 身長150cmの小柄で相当やせている老人だが、大手企業の会長であると同時に大株主であり、1年間の株式配当だけで約3億円を得ている大資産家の川上信成は、絵画が趣味で高価な絵を購入したり彼自身も愛人をモデルにして裸体画を描いたりしていて、美術館巡りも大好きで、上野の美術館の絵を見に出かけると言ってひとりで出かけていった。いつものことなので、家族は別に気にしなかった。
 ところが、夜になっても帰ってこないし、翌日も、連絡もないし携帯もつながらないし、従来発生したことのない事態に怯えた妻が、警察に捜索願いを出したのだった。
 いなくなってから1週間たったが、全く行方のわからない大物の失踪について、この大資産家と交際のある警察機構トップの1人は、単なる失踪、事故ではなく事件性が強いと判断して、殺人を担当する警視庁捜査1課の投入に至り、その結果として同課の新村久行刑事が、たまたま猫好き人間の岸本定雄が野良猫保護活動の範囲としているところにあるマンションに大資産家の愛人がいる関係で、張り込みを実施していて、そのマンションの付近にある公民館の裏手のあたりに深夜突っ立っている岸本を不審者扱いしてしまったのだ。
 「夜の12時にこの辺りに突っ立っているということは、普通ありませんよね、何をされていたのですか?」とあらためて新村が聞いてきた。  
 給餌給水活動を知られたくない岸本は「散歩して疲れたから、少しここで立ち止まっていただけですよ。夜の12時といっても、この辺を歩いている人は結構いますよ」と答える。
 そのマンションについて、散歩しているとき何か気になる点はなかったかと聞かれた岸本は、マンションの近くの真夜中の駐車場で野良猫への給餌給水活動をおこなっているとき、その駐車場にとめてある高級外車と思われる車から出てきた30代前半位の細身細面の女性から、「可愛いわね」と声をかけられたことやその女性がそのマンションに入っていくのを見たことを思い出し、給餌給水の部分を省いた上でそのことを刑事に話した。「女優というかモデルというかそういう感じの上品で清楚な細面の女性です」
 彼女の名前は久米春華。新村刑事が既に得ている情報によると、春華の母は中国人、父は米国白人のハーフで、大資産家の愛人となって彼の趣味の裸体画のモデルになっているだけでなく、彫刻家の朝沼左京が製作中の裸婦の石膏像のモデルにもなっているという。
 
(3)上野の美術館に絵を見に行ってくると家族に言って川上信成が出かけた日、上野の美術館だけでなく犬を連れた西郷隆盛の銅像の前でも、また茶店でも、人と一緒にいるところを彼は目撃されていた。
「端正な細面の女性と一緒だった」「やせていてモデルのような印象を受けた」「女優というか上品なクラブのホステスというか、相当綺麗な女性」という目撃談を得た警視庁捜査1課は、目撃談に近似している川上信成の愛人の久米春華に注目し、聞き込み、張り込み、そして尾行を続け、彼女の周辺を洗っていたのだ。
動機もないわけではなく、春華には好きな男性がいて、川上信成と別れたがっていたし、そのことで川上との間にトラブルが発生していたという情報も寄せられている。
しかし、上野で川上信成が「端正な細面の女性と一緒だった」日は、彫刻家の朝沼左京のアトリエで製作中の裸婦像のモデルをしているなど春華は一日中ずっと朝沼左京と一緒だったことを、この彫刻家は証言し、この日に限って言えば春華のアリバイは成立している。
上野で川上信成と一緒にいるところを目撃されている「端正な細面の女性」と春華が別人だとすれば、春華への容疑は薄れざるを得ないが、春華の美貌を崇拝する男性は少なくなく、闇の世界の住人にもそういう男性はいるので、そのあたりに頼めば人間1人を消すのはそれほど難しいことではないとも言い得る。
春華の関連での聞き込み、張り込み、そして尾行を継続した新村久行刑事は、大資産家を「消す」ことを闇の世界の住人に春華が依頼したことを疑わせるような動き、匂わせるようなものを把握できなかったので、彼女をクロとする心証は急速に萎んでいったが、その一方、彼特有の丁寧で執拗な捜査の過程で、大資産家の周辺に群がる妙な噂のある不動産業者や中年女性など様々な灰色群像が浮上してきた。
 
(4)上野公園の、犬を連れた西郷隆盛の銅像の前で、川上信成は声をかけられた。渡された名刺には、経済誌の記者の西田絵美子と印刷されていた。やせていて端正な細面の白い肌は、春華に似ている。経済誌のこの記者を、川上はすぐに気に入った。
 取材を兼ねてということで、上野の美術館や茶店で一緒に過ごした後、「場所を変えましょう。私の車に乗ってください」という西田絵美子の誘いに乗って後部座席に座った川上信成は、手渡されたコーヒーを飲んで少したってから、「疲れが出たのかな、少し眠くなってきた」と言って目を閉じ、小さないびきを立て始める。
 
(5)「失踪」した川上信成の知人の不動産業者A氏には、妙な噂があり、A氏に関係する人間が次々と不審死していて、それを知る人たちからは死神と呼ばれているなどとする記事が週刊誌に出たこともある。
 週刊誌が報じた犯行の手口は、A氏所有の焼却場の使用、山中に埋める、海での水死事故に見せかけるなどだが、物証があがっていないため、事件性がないと警察が判断、または起訴に至っていない、もしくは念のためA氏との関連を慎重に調べているというような状況のようだ。
 A氏については、不審死した男性の遺族からの依頼で、白猫探偵事務所の白猫哲也が調査活動を続けていた。新村久行刑事と白猫哲也探偵は、捜査、調査での相互協力、相互利用の関係にあるだけでなく、気の合う友人であり、新村は「白猫哲也」という妙な名前は本名なのかと聞いたことがあるが、商号のようなものだと探偵は答えた。
 白猫探偵事務所は、JR水道橋駅からそう遠くない、古びたマンションの3階にあり、狭小で、依頼される仕事のメインが行方不明になった猫を探すことだから「白猫探偵事務所」というなまえなのだと白猫哲也は言っているけれど、経営として立派に再生産の構造を成立させているのだから、相当有能な探偵なのだろうと、新村は白猫探偵を信頼している。
 JR水道橋駅の近くの珈琲店で、新村は白猫探偵と会い、マスメディアが連日大きく報じている大資産家の「失踪」の関係で、その大資産家の川上信成の知人の1人として、いろいろと妙な噂のあるA氏が浮上していることを明らかにした上で、A氏と一連の不審死との関連を調べている白猫探偵に、情報提供を求めた。
 不審死した男性については、共通しているのがA氏から相当多額の借金をしていたことであり、その結果としてということなのかもしれないが、生命保険金がA氏に流れる、または土地の名義がA氏のものに変更されるというような構造が成立しているのだが、物証があがっていないし、A氏のアリバイは完璧だし、事件性があると判断したり、まして起訴するのは困難だと言わざるを得ない、とこれは白猫探偵の話。
 逆に白猫探偵が、大資産家の失踪とA氏との関連を聞いてきたので、多少の職務規程違反は当り前の新村久行刑事は、見返りとして、捜査で得られた情報を彼特有の丁寧な言葉を使って提供した。気の合う友人が相手でも、丁寧な言葉を使うのだった。そのこともあり、新村を友人と思っている人間は極めて少なく、白猫探偵は貴重な友人なのだ。
 「捜査の過程で浮上しているのは、大資産家の川上信成氏とA氏が知人であるということだけで、それを超えるような、金銭とか女性の関係で2人の間にトラブルがあったというようなことは把握できていませんし、川上氏の『失踪』とA氏との関連を示すような構造は見えてきていません。次に、これは、ここだけの話にしておいてもらいたいのですが、2人の夫を殺した前科のある中年女性B子が川上氏の知人であることがわかっていまして、父親代わりの保護者のような感情から川上氏はB子に資金援助していたようなのです」
 
(6)2人の夫を殺した前科のある中年女性B子について言うと、2人を殺したということであれば普通、死刑または無期懲役になるのだが、B子の場合、最初の夫との関係でも、そして2人目の夫とも、夫婦生活、日常生活では夫が加害者的であり彼女は被害者で、殺人の際にも夫の残虐な暴行から逃れるための正当防衛的側面を相当程度含んでいたり、また夫の特殊な性的嗜好の対象として玩具にされることからbodyを解放するための行為としての性格を強く持っていたり、相当特異な情状を裁判長が酌量して、懲役10年としたのだった。
ちなみに刑法199条は「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と定めている。
いつものとおり、川上信成が上野の美術館にひとりで絵を見に来て、そのあと、上野の、ポエムというなまえの小さな珈琲店で、彼が気に入っているダビンチというなまえのコーヒーを飲んでいると、「同席させて下さい」と40代半ば位の背のすらっとした女性から急に言われたので、他に空いている席があるのにと不審に思い、多少警戒したけれど、不快感を抱かせるような女性では全くないし、ことわる理由も別にないので、「いいですよ」と彼はこたえた。この女性が、刑期を終え出所して間もないB子だった。
この出会いから、2人の夫を殺した前科のある中年女性B子と大資産家の川上信成の交際は始まった。川上にB子が声をかけたとき、大資産家と既に認識していたのかどうかはわからないが、一定の美貌の提供への見返りとして自分を金銭援助してくれる高齢男性を物色していた可能性は十分に存在する。そして、美しいbodyが原因となって2人の夫から危害を加えられた犠牲者としての側面を持つB子への同情というより好奇心から川上は、主観的には父親代わりの保護者のような気持ちで彼女に金銭援助していた。少なくとも、新村刑事の立てた仮説のなかでは、そうだ。
B子は、古いアパートの2階の奥に住んでいた。近くの喫茶店にB子を誘い、新村刑事は事情を聞いた。わかっているのは、川上とB子が交際していて、彼が彼女に一定の金銭援助をおこなっていたということぐらいで、川上の「失踪」とB子が直接結び付くようなものは何も出てきていない中での事情聴取であり、少しでも何か引っ掛かるものの浮上を感じた場合は、警察への任意同行を求めるつもりだった。
「私、普通の人より赤血球が少ないと言われてるんです、医師から。そのせいかしらね、普通より肌が白いのは」などと言うB子の白い細面と白く美しい肌を、男性に仕掛けられたフェイクとして新村は感じた。
「私、一見楚々としているけれど実際は逆で勝ち気で活発なので、楚々もどきと言われてるの」ともB子は言う。
 
(7)川上から、彼の愛人の久米春華との関係について相談を受けたことがあると、B子は言う。B子の証言は、警察が既に得ている「久米春華には好きな男性がいて、久米春華は川上信成と別れたがっていたし、そのことで川上信成との間にトラブルが発生していたという情報」を裏付けるものだった。
 B子の話によると、春華には好きな男性がいるというその男性のなまえは遠藤優一で20代の青年だという。
 遠藤優一という20代の青年のことを話すとき川上は「life is struggleだよ」と言っていた、とB子は語る。Struggleは闘争という意味だが、川上が好んで原文で読む米国の推理小説の中で殺し屋が自分の信条として言っていたのがlife is struggleであり、この表現が気に入った川上は、トラブルの発生時にこの言葉を使っていた。
 20代の青年との関係について大資産家がlife is struggleと表現していたことに注目した新村久行は、遠藤優一を重要参考人と規定して捜査の対象とし、主として尾行を実施してわかったのだが、異常なぐらいしばしば遠藤は神奈川の美術館前の広場に最近設置された裸婦像を訪れ、じっと見つめることを繰り返していた。この裸婦像は、彫刻家の朝沼左京が川上信成の愛人の久米春華のbodyをモデルにして製作した裸婦の石膏像だ。
 新村は仮説を転換し、彫刻家の朝沼左京が川上信成の「失踪」に関連しているという新しい仮説に基づき、友人の白猫哲也探偵に頼んで、フェイクを仕掛けてもらった。
 白猫探偵は朝沼のアトリエを訪れ、「あなたの許可を得ることなく私が勝手に実施したのですが、春華さんをモデルにしてあなたが製作した裸婦の石膏像に対して非破壊検査を実施したところ、裸婦像の内部に人間のdead bodyが、死体が入っていることがわかりました」と彫刻家に突き付けた。
 極度の怯えと動揺に捉えられた朝沼左京は、すぐにあっさりと犯行を認めた。「私が川上さんを殺害して、石膏像の内部に隠しました。すぐに自首します」  
 
(8)自首してきた朝沼左京を警視庁捜査1課の取調室で追及するのは、新村刑事だ。新村の立てた仮説に整合性を与え、事件の実体に接近するためには、殺害された川上信成と上野の美術館や西郷像の前、また茶店で一緒にいるところを目撃されている「端正な細面の女性」「やせていてモデルのような印象を与える女性」「女優というか上品なクラブのホステスというか、相当綺麗な女性」と朝沼左京との関係が、あるいは両者の犯行での役割分担が明らかにされなければならないし、その前提としてその「女性」を特定する必要がある。
 朝沼は、殺害と死体隠蔽を単独で実行したと主張し、共犯の存在を否認し続ける。「単独犯です」を繰り返す朝沼を見ていて、共犯者を庇う構造の浮上を新村は感じた。
 朝沼左京を落とさなければならない。親が子を庇う構造の可能性を強く感じた新村は、「共犯者」について、自首すれば刑が軽減され得ること、死刑や無期懲役を免れ得ることをあらためて強調した上で、いまの時点で朝沼が警察に、捜査機関に、共犯者の特定での全面協力をおこなってくれれば、共犯者も自首扱いにすると持ちかけ、説得した。
 朝沼は落ちた。
彼が自供した犯行の実体は次のようなものだった。
 殺害された川上信成と上野の美術館や西郷像前などで一緒にいるところを目撃されている端正な細面の「女性」というのは、川上信成の愛人の久米春華とラブの関係にある遠藤優一の見事な女装であり、一定の整形手術を受けた上での女装だったので、高齢の川上には見抜くことができなかったのだ。
 睡眠導入剤で眠らせた上での絞殺で、殺人を犯したのは朝沼左京ではなく遠藤優一。朝沼は、遠藤から頼まれて、死体の石膏像内への隠蔽で協力したのであり、殺しには全くかかわっておらず、死体隠蔽への協力にとどまっている。
 それなのになぜ、朝沼は遠藤を庇って単独犯を主張したのか? 頼まれたというだけで死体隠蔽に協力したのはどうしてなのか? 
 朝沼の過去に、彫刻家志望の彼を金銭的に援助し、支えてくれた女性と一緒に安アパートで暮らしていた一時期があり、そのときに生まれたのが遠藤優一なのだ。
 子供が生まれてから2人は不仲になり、その女性は家庭裁判所の調停に持ち込み、生活力のあるその女性のほうが親権者として認められ、稼ぎのない彫刻家志望の男性としての朝沼はアパートからも追い出される結果となった。
 世間的には子供のいない独身の彫刻家を装ってきた朝沼の内実には、表向きに反するこのような実体が潜んでおり、親が子を庇うという構造の現出として単独犯を主張したのだ。
 そして、真実の自供に至ったのも、子供の刑を軽減したい、死刑や無期懲役を免れさせたいという子を思う親心のあらわれなのだ。 
 なお、殺害の動機として遠藤優一は、春華への崇拝に基づく、川上からの春華の奪回であり、春華から与えられた美的衝撃を原動力としているなどと言っているらしい。
 
(9)大資産家の川上信成の死亡が確定したのを受けて、川上の書いた遺言書を保管していた彼の顧問弁護士が、そのなかみを明らかにした。それによると、遺産の中から5億円が川上信成の愛人の久米春華に渡ることになっている。生きていたとき川上は、春華の心とbodyを自分につなぎとめておくために、春華の見ている前でこのように遺言書に付け加えたのだ。
 春華には動機がある。春華は、彼女に徹底的に従順な青年である遠藤優一を指導、誘導して、川上の殺害を実行させた。警視庁捜査1課の新村久行刑事は、あらためてそのような仮説を立ててみたが、物証はもとより証言も自供も得られず、立件、起訴からはほど遠く、成立し得ない仮説にとどまっている。
 リストラされたゼネコンの元社員の岸本定雄は、相変らず野良猫のエサやりを続けている。細かい雨が降り続く深夜、いつものとおり駐車場で野良猫にエサやりをしていると、とめてあった薄めのグリーンの高級車から久米春華が出てきて、「毎日やってるみたいね、ご苦労様」と落ちぶれて、みすぼらしい限りの男に優しい声をかける。
 「猫は好きですか」と岸本定雄が春華に聞く。
 「好きよ、可愛いわね猫は」と春華。
 「携帯の番号を教えてください」とこれは岸本。
 「どうして教えなければいけないのかしら?」
 「ナンパです」
 「おもしろい人ね」
 こうして、2人の交際は始まった、というより春華への岸本の隷属が始まった。うらぶれてはいるけれど野良猫へのエサやりが日課の平穏な生活から魔物の世界へと移行したと言い得る。
更新日時:
2009/12/08
―――――― 小説「猫に同居する天使と悪魔」(1)〜(7) ――――――
―――――――― 猫に同居する天使と悪魔 ――――――――
海野和夫
(1)陽春の夜の公園を40歳位の男性と一緒に歩いている波多野美涼の、白いスーツの長身は、見ている男性の心情に、美の永遠という幻視を与え得るものだった。
 一周1km位の沼のある公園で、沼の周囲のトリムコースを、夜遅いので数人位だが一生懸命ジョギングやウォーキングをしている人がいる一方、公園の端のほうに設けられている狭い運動場の真ん中あたりに、寝袋等を使って4人のホームレスの男性が既に寝ている。
 白い裸婦像が中央に立っている噴水のまわりには、三色すみれの花壇や白塗りのベンチが設置され、そのベンチに男性と並んで座り、話しかけている白いスーツの波多野美涼の、白い顔は、見ている男性の心情に、美的衝撃を与え得るものだ。
 波多野美涼と公園に一緒にいて、歩いたり話したり、手をつないだりしていた、その男性が、翌朝、メタセコイアの高木の下のベンチに横たわっていた。dead bodyと化していた。第一発見者は、早朝のウォーキングをおこなっていた中年女性だ。
 サバイバルナイフ様のもので、背後から刺され、ほぼ即死したようだと鑑識は、殺人を担当する警視庁捜査1課刑事の新村久行に言う。新村久行は、やや小柄でやせていて、上品な物腰で敬語を巧みに使いこなす一方、目付きは相当鋭い。
 
(2)猫寺が存在する。
 猫寺と呼ばれ、境内から野良猫を追い出したり野良猫へのエサやり禁止といったふだを立てたりするどころかむしろ野良猫や野良猫を保護する人たちを境内に受け入れ、野良猫を保護していると言われているのが、光明寺で、猫好き人間の山野井秋雄は相当興味を惹かれ、好奇心を刺激され、キャットフードの小袋を持って出かけ、JR鎌倉駅からバスが出ているけれど、健康のこともあるしまた少しでもやせたいということもあるので歩いて向かい、少し迷ったがそのお寺に到達することができた。
 山門の前で、野良猫保護の活動をしている中年の女性が給餌給水の準備をしている様子で、バケツに水を入れていて、山門をくぐると山野井秋雄の切れ長の目に入ってきたのは、死んだ犬猫等の霊をまつるお堂の存在だったが、野良猫の姿は見えてこないので、言われているように本当に多数の野良猫がいるのかと多少疑問を持ちながら境内を見て回ると、墓地で野良猫に会うことができた。
 墓地内を一通り歩いてさがすと3匹見つかり、黒と茶の縞模様の猫、白猫、そして白に茶が少し混じっている猫だ。
 死んだ犬猫等の霊をまつるお堂の裏側にも、黒と茶の縞模様の猫が1匹、横たわっていて、寝ている様子。持ってきたキャットフードの小袋を開けて、エサやりを始めるとすぐに、数匹の猫が集まってきた。
 波多野美涼は久し振りに西福寺に来る機会を得た。中年の男性と一緒だった。その男性は、小説家志望で、ずっと小説をこつこつと書き続けていて、以前、西福寺を舞台にした小説を書き、地元誌への連載へと至ったことがある。
 西福寺の本堂には、「おびんづるさま」が存在する。撫でると病気が治ると言われている「おびんづるさま」の像が存在する。本堂の裏手に古いベンチがある。冷徹に捉えれば、単なるモノだ。「おびんづるさま」も、そうだ。でも、それに関わる主体が心情の徒と化すとき、モノは流動し、詩へと転化するということなのだろう。
 「地元誌に連載していただいた小説は、今から振り返ると、内容、品性の点で、高いものではなかったと思っていますが、少しかっこよく表現しますと、言葉の装飾という点で、詩的な高みへと飛翔しようとしていた作品であり、中味の乏しさを、言葉の装飾で補おうとしていた作品だったと今は感じています」と男性は、淡いピンクのスーツの波多野美涼の、白く端正な横顔に話す。
 夕闇の迫る、朽ちかけた古いベンチに座る、長身で細身の波多野美涼の白い顔の切れ長の美しい目は、見ている男性に波多野美涼を神的存在として感じさせるのに十分だった。
 その中年男性が西福寺の本堂の裏手の落ち葉の上のdead bodyと化して発見されたことを報じているテレビを、警視庁捜査1課の新村久行刑事は見ながら、沼のある公園での殺人事件と同一犯による犯行の可能性が極めて高いと感じていた。
 鑑識によれば、落ち葉の上のdead bodyも沼のある公園のベンチの上の死体も、サバイバルナイフ様の凶器による背後からの一刺しでほぼ即死状態という点で、酷似している。その上、白いスーツまたはピンクのスーツの、長身で細身の女性が、刺殺された男性と一緒にいたのを見たという目撃情報が、複数存在する。 
 
(3)警視庁捜査1課は、殺害された男性と一緒にいたという複数の目撃情報の存在する白いスーツまたはピンクのスーツの、長身で細身の女性に注目し、重要参考人として捜査の対象とし、追っているが、人物を特定できない状況が続いている。
 さらに、約1年前に発生した殺人事件で、まだ解決していないのだが、殺傷能力の高いサバイバルナイフ様の凶器による背後からの一突きで死亡した中年男性の死体がJRの線路沿いの人が触れ合わないで擦れ違うのがやっとできるぐらいの狭い路上で発見された事件でも、グレーのスーツの長身で細身の白い顔の女性がその中年男性と一緒に歩いていたのを目撃したという情報が、殺害現場の付近の商店主から警察に寄せられていて、警視庁捜査1課の新村久行刑事は、西福寺と沼のある公園での殺害事件とこのJRの線路沿いの狭い路上での殺人事件との関連に注目し、一つの構造から三つの事件が生み出された可能性が高いと判断して、その構造に整合性を与えることを、捜査活動の主要方向とした。
 花街の、2階建ての芸者屋さんの離れに波多野美涼は住んでいて、その戦前からの芸者屋の二階屋には芸者さんとして、離れに波多野美涼、2階に1人、そして母屋に2人、住んでいた。母屋は5部屋あり、そのうちの1部屋を芸者屋のご主人が使っていた。
 芸者屋の門を入ると稲荷の祠があり、離れの前の庭に石灯籠が置かれるなど、花街の舞台としての情緒を生み出しているけれど、お客の目当てはやはり女性の美貌で、波多野美涼に会うために離れに訪ねてくる男性がいて、医師、自称タレント、役人、等々だが、お客を座敷に通すことはあっても、決して体を許さないのが波多野美涼だった。
 大学の文学部を出ている波多野美涼は、作家志望のような傾向があり、水商売の世界で働く一方で小説を書いていて、スタンダールが好きで、スタンダールの『恋愛論』の結論として述べられている「恋愛は、希望から始まり、抱擁、接吻へと進み、そして体を許し合うことで終る」が相当印象、記憶に残っているし、またヴォルテールの『カンディード』の中にも、同様、同種の記述があり、体を許すことで飽きられ、捨てられてしまうというような趣旨のものだったと波多野美涼は記憶しているが、そのような小説にかなり影響を受けているということもあり、また別の理由もあり、たとえ相手の男性を好きになったとしても、抱擁と接吻以上に進むことを認めなかった。
 それが、波多野美涼への男性の執着を相当、決定的に強めさせることになったということなのだろう。
 
(4)殺害された男性は、波多野美涼との交際について周囲に隠していたのだが、波多野美涼にお客をとられたと恨んでいた芸者さんからの警察への通報があり、警視庁捜査1課の認識となり、新村久行刑事はすぐに芸者屋を訪ねて波多野美涼に任意同行を求めて警視庁の取調室に連れて行こうと試みたが、任意同行については自分の自由な意思に反して受け入れる必要はないことを知っていた波多野美涼から強力に拒否されたので、その場でアリバイ等についての質問、確認をおこなった。
 波多野美涼は「日本国憲法で保障されている黙秘権を行使します」と話しただけで、波多野美涼からの供述を全く得られなかった新村久行刑事は、いきなりそういう対応をしてくる波多野美涼の真意をはかりかねる一方、余りにも過敏な反応として捉えざるを得ず、事件と関連しているとの心証を強めた。
 
(5)猫寺と呼ばれ、野良猫を保護していると言われている光明寺に、猫好き人間の山野井秋雄は相当興味を惹かれ、JR鎌倉駅からは歩いて向かい、少し迷ったがそのお寺に到達すると、山門の前で、野良猫保護の活動をしている中年の女性が給餌給水の準備をしている様子で、また山門をくぐると死んだ犬猫等の霊をまつるお堂があり、お堂の裏手で山野井秋雄がエサやりを始めるとすぐに、数匹の猫が集まってきたので、野良猫の存在に心を癒され、また猫助けをしているというその行為自体に心を癒されながら「猫の念力で助けてくれ、猫の恩返しをしてくれ」などと野良猫に話しかける一方で、彼は思考を巡らせていた。
 刑事からの追及については、任意同行を拒否したし、また黙秘を貫いたので、情報、証言、証拠を与えることなくかわすことができたのはよかったし、また芸者としての自分を捨て、芸者屋に芸者としての自分に関連するものを全て置いてきて、いまはマンションにいるので、芸者としての自分といまの自分とを結び付けるものは存在しないし、結び付けることはできないはずだ。
 山野井秋雄は同じような思考の道筋を何回かたどったけれど、自分自身を納得させるには至らず、不安を拭い去ることはできなかった。
 波多野美涼は山野井秋雄なのだ。
 彼は、大学の文学部に通っていたときから、長身で細身の美貌のホステスとしてクラブで働いていて、クラブの客だった芸者屋のご主人から相当気に入られ、うちに来てほしいとスカウトされ、小説家志望の傾向のある彼は芸者の世界に前から関心を持っていたので、取材するような気分もあり、大学卒業後、芸者となったのだが、彼の本当の姿、言い換えると彼は彼女ではなく彼なのだということについては、明かさなかったし、山野井秋雄の強力な美の幻視に惑わされていたクラブの経営者も芸者屋のご主人も、それだけで十分だったのである。
 
(6)波多野美涼への張り込みと尾行を通じて、波多野美涼が山野井秋雄であることについては、新村久行は既に認識していて、マンションにいる山野井秋雄への張り込みと尾行を継続している。
 張り込み20日目、メタルフレームのめがね、淡いピンクのネクタイ、濃緑のシャツ、あさぎ色の背広、そして黒革の靴の青年が、山野井秋雄の部屋に入っていった。
 あさぎ色の背広の青年が山野井の部屋に入ってから1週間、その間、山野井の部屋のドアからの山野井自身の出入りは確認できているのだが、青年の姿を全く見ることができないのを不審に思い、危ういものを感じた刑事たちは、山野井の部屋を訪ねた。
 新村久行は、多少の職務規程違反を気にするような刑事ではなく、山野井の同意を得ることなく、クローゼット、バスルーム、トイレ、ベランダ、等々、青年のbodyを探したけれど、見つからない。
 このマンションは、ペット可のマンションで、山野井の借りている201号室のベランダからは、猫用につくられた螺旋階段を使って下に降りられるようになっていて、それが脱出トリックであることはすぐにわかったのだが、謎は残っていて、正面を含めてこのマンションの出入り口は3ヶ所で、その3ヶ所の全てに刑事は張り込んでいたのだけれど、あさぎ色の背広の青年が出ていくのを見ていないと刑事たちは言い、見逃したということなのだろうが、どうして見逃してしまったのか?
 新村刑事はその場で推理して、すぐに思い至ったのだが、山野井秋雄が波多野美涼となって美の化身を演出したようにその青年も、見事な女装というフェイクで刑事たちを蠱惑し、欺いた可能性が高い。
 相変らず黙秘を続け、任意同行を拒否する山野井秋雄について、職務規程違反が日常茶飯事の新村久行は、臆することなく半ば強制的に警視庁捜査1課の取調室に連行し、取調べを開始し、山野井秋雄と波多野美涼が同一人物であることについては既に警察の認識となっていること、さらに殺害された3人の男性から合わせて1億円近いマネーが波多野美涼に流れていて、その大金は波多野美涼が男性たちに貢がせたものだと警察は推定していることなどを、山野井に突き付けて追及した。
 殺人事件と山野井との関連について、山野井のマンションを訪ねてきた青年について、またその青年のマンションからの消失トリックについて、山野井の黙秘は頑強だった。
 山野井は黙秘を続けながら、男性たちとの関係を振り返っていた。貢がせたのではなく、勝手に一方的に、自由な意思で貢いできたのだ。  
 
(7)三つの殺人事件の目撃情報を洗い出してわかったのが、背広にネクタイの多少小柄の青年が共通して目撃されているということで、新村久行は目撃者と会ってあらためてその青年の外貌、特徴について執拗に聞きだし、また似顔絵をつくってみたが、山野井のマンションに訪ねてきて、部屋に入り、消失した青年と相当近似しているという印象を、新村をはじめとする捜査員に与えるものだったので、「巧みに女装する多少小柄の青年」という仮説に基づいて捜査を続けたが、難航を免れることはできなかった。山野井の端正な顔での黙秘を、崩すこともできない。
 山野井のいたマンションの周辺の聞き込みをおこなっているとき、マンションの近くの公園のとなりに稲荷の祠があり、そこで60歳位の男性が1匹の野良猫の毛梳きをブラシで一生懸命時間をかけておこなっているのを、ちょうど通りかかって、見た新村刑事は、彼自身も猫好きなので、近寄ってその男性に話しかけた。白い毛と黒い毛が、ちょうど半々位の野良猫だ。
 新村「白と黒が半々位の毛色ですね、白猫でも黒猫でもないし、何と呼べばいいのですか?」
 60位の男性「正確なことはわかりませんが、黒と白のブチ猫または白と黒のブチ猫とでも呼ぶんでしょうかね」
 新村「黒と白または白と黒のブチ猫ですか」
 そう言いながら新村刑事は、あっ、と思った。男性の女装ではなく、女性の男装なのではないか。
 新村は仮説を転換し、「巧みに男装する女性による連続殺人事件」または「巧みに男装する女性と山野井秋雄の共犯による連続殺人事件」という仮説を立て、それに基づき、山野井を落とすためのフェイクを仕掛けた。
 取調室で、端正な細面の無表情を崩さない山野井秋雄に対して新村は、「あなたのマンションに訪ねてきた背広にネクタイの青年が、巧みに男装した女性だったことは、わかっています。捜査員からの情報によると、その女性は、あなたから頼まれて殺したというような趣旨の供述をしているようです。そうだとすれば、あなたは100%死刑です。そうではないというのであれば、黙秘の継続ではなく、正確な反論を述べるべきです。それが、死刑を免れる唯一の道であり、あなたの利益になります」
 フェイクかもしれないと思う一方で、そうではない可能性の急迫に怯えた山野井は、死刑を回避するための安全な道を選び、真相の供述を開始した。
 おかねを貢ぐことやまして殺人を依頼したことはなく、私のまわりの男性や女性が勝手に自分たちの自由な意思に基づき遂行したことであり、殺人を犯した女性の動機はおそらく、私への好意または私のbodyを求める男性たちへの嫌悪と嫉妬もしくはそれらの複合ではないのか。
 マンションからの消失トリックは、男装して山野井の部屋に入り、部屋の中で女性に戻り、言い換えると女性の服装に着替え、ベランダの猫用につくられた螺旋階段を使って下に降りて、マンションの外に出た、というものだった。
 山野井の供述に基づき、巧みに男装する女性が逮捕された。
更新日時:
2009/11/01

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Last updated: 2010/3/20