2005諸々話

就農秘話<妻編>(2005.6.21)
就農秘話<妻編>(2005.6.21)

 「農業をやりたい。」そんなこと相談しても反対されるだけなのであまり人には話さなかったけど、どうしても意見を聞かなければならない人がいた。もし本当に就農するにしても、絶対に承諾を得ておかなければならない人がいた。
 妻の真美である。まだ結婚生活も端緒についたばかり、鈴鹿でのコーポ暮らしが少しだけ安定しかけた頃だった。彼女のお腹の中には、初めての子供の命が息づいていた。
 真美は三重県で生まれ育ち、東京でデザインの勉強をし仕事をしてきた、元グラフィックデザイナーだ。およそ農業などとは縁の無い暮らしをしてきた。仕事を辞めてまで選んだ僕との結婚生活に、彼女なりの夢を描いている事もよくわかっていた。そんな真美に、「実家に帰って農業やりたい」ということを打ち明けなければならない。
 まずいことに、僕は結婚に際して「実家に田んぼは結構あるけど、農業やる気は全く無いから安心していいよ」と約束していた。まだたぶんその舌の根は乾いていない。
 その時が来た。僕はまず、今日本農業は存亡の危機にあるのだという話から始めた。誰かがこれからの農業を担わなければいけない。自分にはその条件が整っている。転勤のあるサラリーマンより家族で一緒にいられる農業のほうが幸せではないだろうか。特に生まれてくる子供のために、自然環境のよい農村で暮らしたほうがいいのではないだろうか・・・。だから・・・農業をやらせてもらえないだろうか・・・!。よく憶えていないが、そんなことをしゃべり、真美の答えを待った。
 もし真美が「絶対嫌!やめてほしい。」と言ったら、たぶん僕はやめていたと思う。妻の反対を押し切ってまでして、家族を幸せに出来る自信と展望は僕には無かった。
 しばらく考えた後、真美は言った。「仕方ないよ。職業の選択は自由だから。嫌だけど反対はできないよ。」そして続けた。「でも私はやらないよ。」
 嫌でたまらないのに、自分の気持ちを無理やり納得させて賛成してくれた真美の優しさに感謝した。しかしそれ以上に重い十字架を背負ってしまったという気持ちが強くした。
 「もちろんやらなくていいよ。これからの農業は人を雇って企業的にやっていくものだから。」と僕。しかしこれは結果的に2つ目の大嘘になった。
 ともあれ、真美のこの言質を得て、僕は就農に向けて具体的に動いていけるようになる。心に重ーいものを引きずりながら。
 
 写真は当時妊娠7ヶ月の真美と一緒に岡山に遊びに来て、トラクターに試乗している様子です。このあとどんな激しい展開が待っているか何も知らず笑っている、のん気な2人です。

就農秘話<退社編>(2005.6.20)
就農秘話<退社編>(2005.6.20)

 1993年冷夏が日本列島を襲い、大変なことが起きた。日本中で米が少ししか取れなかったのだ。流通が大混乱した。農産物の輸入を巡って国論が二分し、日本農業の危機が声高に叫ばれた。
 そんなご時世の中、名古屋でサラリーマンをしていた僕の中に、ふとある着想が生まれた。「農業やってみようか。」人のアイデアにはいろんなパターンがある。すぐ消えていくもの、心の奥底でくすぶるもの、心を満たしてしまうもの。この着想は僕の心をいっぱいにし、しかも消えていかなかった。「ハハ、まさかね、冗談だよね」といういつもの日和見主義を抑えた。
 当時僕は三和エクステリア(株)という三和シャッター100%出資の将来性のある(はずの)会社で営業マンをしていた。成績はまあまあ。入社7年目を迎え、自分もやはりサラリーマン社会で所長や部長を目指し、出世して行くことが自己実現なのかなあと漠然と考えるようになっていた。しかし一方で、夜遅くまで働き、家族と疎遠になり、己の人生へのグチが多くなっている先輩の姿にも漠然と疑問を持っていた。どう腹を決めるのか、人生の岐路だと思える年齢にさしかかっていた。
 そんな僕に「農業をやってみようか」というアイデアは、これまでとまったく違う価値観を提示した。食の生産を担うという極めて公共性の高い分野で、家族とのつながりを大切にしながら、出世の勝ち負けという価値観から自由になれて、自分の力を試していくことが出来る。もし農業経営で食っていくことができるなら、それに勝るものは無い。自分の実家は、1.7haの農地を持つ農家だ。可能性はある。自分の決断次第で・・・。
 いろんな紆余曲折を経て、就農を決めた僕は、1994年春、直属の上司小松名古屋営業所長に話しに行った。「実家で農業をしたいので1年後に退社させてください。」既に別の人から聞いて知っていたと言う小松所長、部下思いの気風のいい九州男児らしくこう続けた。「言い出したらきかないお前のことだから、止めても無駄だろ!やればいい。本社には黙っておくからしゃべるなよ。」僕は最後にこんないい上司の下で働けて幸せだったと涙ながらに感謝した。恩返しに1年間はしっかり働こう。と思ったのもつかの間、次第に仕事手を抜くようになり、営業に出たふりをして1日中図書館で農業の勉強をしているということも多くなっていた。恩知らずな男です。すみません。
 そして1年後、退社直前、いろんな準備のために、たまりにたまった有給休暇を1か月分申し出て休んだ。後で聞いたら、小松所長、本社には内緒で出勤扱いにしてくれていたらしい。僕がスムーズに就農できたのは、この人の力添えがあったことを無視することはできない。お世話になりました。
 
 僕が退社して数年後、三和エクステリア(株)は、親会社の意向により解散となり、メンバー達は散り散りになった。自分のバックボーンが無くなったようで、寂しかった。小松所長をはじめ、またみんなで会いたいな。

今日の新聞に・・・(2005.6.14)
今日の新聞に・・・(2005.6.14)

今日の山陽新聞に「邑久剣道スポーツ少年団」の写真が載りました。津山農業改良普及センターのYさんがメールで教えてくれて、あわてて新聞を開き発見!えーっ、こんなんいつ撮ったのー。全然知らんしー。誰も教えてくれんしー。
 よく聞いてみると、3月の終りに、ちょうど吉田親子がインフルエンザで休んだ日のことだったらしい。というわけで僕も我が子も写っていませーん。
 どうでもいい話でした。すみません。

遠くまで行くんだ!(2005.6.10)
遠くまで行くんだ!(2005.6.10)

僕の愛車、ホンダの「フュージョン(250cc)」です。愛車というにはあまりにボロボロ。10年前新車だった頃の面影はありませんが、今でもしっかり走ってくれます。
 僕が初めてツーリングに出たのは名古屋で大学4年だった時。仲間4名で50ccのスクーター連ねて、名古屋から岡山の僕の実家まで走った。タクトが2台とストリーム、それに僕のキュート。これは楽しかった。だいたいスクーターなんかで400kmの道のりを走りきれるのかさえわからない。見知らぬ道をワクワクドキドキしながら走りつづけ、まる2日かけて岡山に着いた。帰り道も含め、世の中にこんな楽しい事があったのかと実感した5日間だった。
 それに味を占めた僕は、いろんなところへ行った。仙台まで行ったのもいい思い出だ。キュートの次はジョグ、その次はリード90、ビラーゴ250を経て現在のフュージョン。フュージョンを買ったのは結婚後なので、妻がツーリングを許してくれなかったため、フュージョンではほとんど出ていません。まあどうせ、その後すぐに岡山に移住して農業を始めたので、ツーリングする余裕なんか無くなりましたけどね。
 フュージョンの車体には、僕の学生時代からのキャッチフレーズ「遠くまで行くんだ!」がカッティングシートの切り抜き文字で貼ってあります。瀬戸内市とその周辺でヘンな黒いフュージョンが走っていたら、僕かオヤジです。よかったら愛想してやってくださいね。

ドラえもん(2005.6.4)
ドラえもん(2005.6.4)

 ドラえもんって全然おもしろくないと思いませんか?僕らが子どもの頃のドラえもんは、夢のあるいろんな道具出してくれたけど、今のドラえもんは機械が人の心を支配する話ばっかり。製作者の発想の貧困。最近の子どもたちが「人は死んでも生き返る」と信じていたりして、生と死へのリアルな感覚を無くしているのは、案外ドラえもんの影響もあるんじゃないかと思ったりします。

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Last updated: 2007/3/11

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