今からさかのぼる事22年前。
当時小学校2年生だった僕は大好きな「キャプテン翼」を漫画でも見て、テレビでも見て、おまけに学校のノートへの落書きも「翼くん」であった。
当時まだまだ野球人気が根強かった時代だけあって「サッカーやると足が短くなる」という今思えば訳の分からない理由で、サッカーに友達を誘うと断られることもしばしばあった。
そんな時、「将来は野球をやらせたい」と思っていた父が僕のサッカー熱に負けてクリスマスプレゼントにサッカーボールを買ってくれた。
翼くんと同じ白と黒のオーソドックスな柄のボールだ。その時の喜びは今でも忘れない。
近所にサッカーボールを持っている友達もいない。小学校のクラブ活動は5年生からだし、本物のサッカーボールに触れたことがなかったのだ。
だから言葉に出来ないくらい嬉しかった。
あくる日冬休みの僕は近所の公園にさっそくその愛しのボールを持って行き、もったいなさそうに蹴り始めた。
「公園デビュー」である。
近所の友達の目がそのボールに集中した。
それまでさほどサッカーに興味がなかった友達もそれを見て「サッカーをやろう」と言ってくれた。
嬉しかった。
うちはさほど裕福な家庭ではなかった。兄弟も下に3人いるし、ファミコンが出た当時はうちは一切テレビゲームは買ってもらえなかった。
でもよかった。
僕には翼くんと同じサッカーボールがあった。
それから毎日サッカーをした。公園にあるベンチをゴール代わりにして、ボールが田んぼに落ちたら、裸足になって取りに行き、隣の家の垣根を越えたら「すいませーん!ボール取らしてください。」と言って庭の花壇の花を踏んづけてよく怒られた。
友達が来なくても一人でボールを蹴った。
何度もベンチのゴールに向かってシュートやパスの練習をした。
その頃の僕は将来「日向君」と対決するつもりでいたのだ。
毎日暗くなるまでボールを蹴って家に帰るたびに母親に「いつまで遊んどんの!」と叱られた。
しかし、将来日向君と対決する為には練習は怠れなかった。
日向君に勝つためにはタイガーショット以上のキックを身につけなければいけなかったからだ。
砂場で何度もオーバーヘッドキックを練習した。
小学校3年生になった僕は右足でしかボールが蹴れないことに気づいた。
今思うとよく小3でそれに気づいたと思う。
左足を丹念に練習した。
そのおかげで小学校5年生の頃には右も左もどちらも使える選手になっていた。
小学校5年生になったとき、この時を待っていたと言わんばかりに小学校のクラブチームに入った。
そしてキャプテンになった。
当時小学校の生徒会の幹部は6年生がすべてやるのが伝統だった。
何十年とその伝統が続いていた。
ところが、5年生の後期に書記に立候補したところ、すんなり当選した。
その頃から少し存在感というものが自分の中にもそして学校の中にも出てきたころである。
ところがである。6年生になったとき、そのままのノリで生徒会長になった僕はチームでも当然花形のセンターフォワードで試合に出れると思っていた。
ところが、あまりに左足で蹴れる選手が他に居なかった為、左ウイングになってしまったのだ。
これはショックだった。
コーチにとっては適材適所のつもりだったのだろうが、僕にとってはレギュラーをはずされたくらいの出来事だった。
これでは日向君と対決できない!とさすがに6年生なのでそうは思わなかったが、ショックであった。
しかしながら、そのコーチの思惑は当たった。
僕らは地区リーグをあっさり勝ち抜き、県大会に出場。
しかも県大会に出場するための決勝戦で僕は小2から練習していたオーバーヘッドキックを決めた。
気持ちよかった。
歓喜に酔いしれるクラスメイトの女の子と応援に駆けつけたおばさま方の笑いで、大舞台で得点することの快感を味わった1点である。
中学に入ると今までの遊び気分ではなかった。
地域でも鬼監督と有名な先生が毎年チームを県大会に導いていた学校だった。
このとき初めて激しい運動をすると「吐く」と言うことを知った。
真夏の炎天下の中、水を飲ませてもらえない苦しみに耐えた。
現在のコーチングでは適度に水を飲ませるほうが身体つくりにはいいとされているが、当時はそれで体力が付くなどと考えられていた。
しかし今思えばこれは体力のトレーニングではない。
思春期に「我慢する」「耐える」という根性を養うトレーニングであった。
これがないから現代の子供はすぐに「キレる」のであろう。
そんな中学の一年生の夏。
オール3年生の最後の大会の1回戦に僕は唯一1年生で一人だけ左ウイングで先発出場した。
正直活躍できるかどうかより、そんな大事な試合でミスをして先輩に怒られないかという気持ちの方が先にたった。
前半10分くらいだろうか、立ち上がり早々僕のところに10番の先輩からパスが回ってきた。
得意の左足のシュートがゴール右隅に入った。
なんと新米の1年生が先制点を取ったのだ。
一番びっくりしたのは僕だった。
結局その試合は2−0で勝ったのだが、決して生徒を褒めなかった鬼監督が試合後僕の頭をなでて「よくやった。」と一言褒めてくれたのは29の今になってもよく覚えている。
これが僕の中学のデビュー戦。本番に強いと言われる由縁の始まりでした。
こんなにサッカーが好きなのに当時の僕の将来の夢は「サッカー選手」ではなかった。
なんとも長男らしい堅実な「学校の先生」だった。
しかも英語の。
だから高校は少し背伸びをして県立の進学校に進んだ。
公立高校でありながらサッカーが強いという理由もあったが、そこを卒業すれば学校の先生になれると信じて疑わなかった。
ところが、中学の成績では学年で10番以内に入っていたのに高校では中くらいの位置だった。
これはひたすらサッカーやるしかないと心に誓ったサッカー部。
当初新入部員は35人ほどいたのに、あまりの練習のきつさに1年生の夏までに13人になった。
夏までお揃いのサッカー部ジャージが買ってもらえなかった意味がその時わかった。
それにしても高校の練習は中学とは比にならなかった。
走る量が半端ではなかった。
当時愛知では名門C高校の次によく走る学校であったのだ。
そのおかげもあってか、2年生の夏の大会ではその年の全国高校サッカー愛知県大会の決勝で名門C高校と戦ったK高校を延長PKの末破る快進撃も見せた。
ところが、そののち高校2年の秋、その後の僕のサッカー人生の大きな転機になった出来事が起きた。
右足股関節に走る激痛ーー
「恥骨結合炎」である。
成長期の過度の練習によって起きる傷病でサッカー選手には多くみられる。
治療方法はーーない。
運動をせず、安静にしているほか方法はないとのことだった。
しかしそれを監督にも他の友達にも言えなかった。
理由は「厳しい練習から逃げていると思われるのが嫌だった」からである。
切り傷でも骨折でもない。
大げさにギブスを付ける傷病でもないから、「さぼっている」と言われればそれまでだったからである。
それから僕は少しずつ戦線を離脱した。
3年生の春、高校総体の試合。まさかの一回戦敗退。
0−1である。
あっけなかった。あっと言う間だった。
呆気ないその幕切れに試合後は何も考えられなかった。
その試合も僕は出ることができなかった。試合に出て負けたのではない。
試合に出れずに終わってしまったのだ。
右足の股関節の痛みはその時ピークだった。
立っているのもきついその右足をひきずって、やっと右足を明日から休ませてあげれると思うとほっとしたが、約2年間のつらい練習と呆気ない幕切れに声をあげて泣いた。
初めてサッカーをしていて泣いた。
皆に泣き顔を見られるのが恥ずかしくて顔を下にしていたので他の選手は分からないが、聞こえてくる嗚咽と鼻をすする音でみんな泣いているのがわかった。
地獄の夏の合宿では吐いてもお茶漬けにして胃に流し込まれた。
全員が36秒を切るまで延々とダッシュを何十本とさせられた。
後輩が救急車で運ばれようと合宿は中止になることはなかった。
毎日起きるたびに足をつっては、朝練に行った。
股関節の痛みを誰にも言えずに最後の試合に出れなかった悔しさ。
それを言い訳にしたくなかった僕のプライド。
いろいろなことが走馬灯のように頭をよぎる。涙が止まらなかった。
その日の夕食はよく覚えている。
母の自慢料理のコロッケだった。
「おつかれさん」と言う意味で出してくれたのか、単なる偶然だったのかそれは定かではない。
でもその好きなコロッケもその日は喉に通らないくらい悔しかった。
そして人生であれ程魂を燃やし尽くしたことはそれ以降未だない。
こうして僕の高校サッカーは終わった。
「学校の先生」になるのが夢だった僕だが、進路を決めるときに学校だけではなく私生活も子供たちと共に学べる環境の方がやりがいもある、と考え、養護施設の指導員に興味が湧き、福祉学部を受験した。外国語系の大学も受かったが、学費の関係で福祉関係の大学に進むことになった。
大学ではサッカーだけじゃなくもっと他の世界も覗いてみたく、サッカー部は夜間のU部サッカー部に入部した。
プライベートでは草サッカーチームなどにも所属した。
当時Jリーグが開幕したてだったこともあり、ミーハーな初心者が草サッカーチームをぼこぼこ創るそんな時代だった。
幸い経験者で固めた僕らのチームは大会ではタイトルを総なめであった。
キーパーは元グランパスユースで、DFに四国選抜、MFには広島選抜と関西A選抜の選手もいた。
静岡の名門S高校出身と草サッカーチームにはもったいない面子ばかりで、時々大学の正規のチームと練習試合をして勝つほどだった。
もちろんこのチームに選手として出ていたが、一方で名古屋の少年サッカークラブのコーチをした。
当時グランパスのジョルジーニョ選手や、ディド・ハーフナー選手の子供たちもそこに所属しており、僕の教え子だった。
当時のうれしかったことは教え子の一人がU−16の日本代表に選ばれたことだった。
その頃だろうか、人を育てるということに興味が湧いてきたのは。
もともと教師になるのが夢だったから、嫌いではないはずである。
しかし、「サッカー」を教えるということに興味が湧いたのはこの頃ではないかと思う。
大学を卒業後、結局病院に就職した。
養護施設へは実習に行って自分には向いてないと思った。
結局養護施設は社会の受け皿であって、根本の原因は家庭にあると感じ、家庭内のことには口出しできない施設側の職員ではいつかもどかしさを感じてしまうだろうという自分なりの判断である。
病院時代も忙しい合間をぬって社会人リーグでサッカーをした。
いままでと違うことは、そこでは選手兼「コーチ」として参加したことだ。
そのチームはほとんど初心者の集まりであった。
でも僕はそのチームが好きだった。
そこには僕がサッカーをやり始めた頃の純粋な「楽しいサッカー」があった。
ゴールを決めて勝つことが楽しいのではなく、ボールに触れることが楽しい、そんなサッカーをする連中だった。
だから、純粋で素直であった。
僕がこうした方がいい、と言えば一生懸命練習した。
彼らのがんばりはすばらしかった。
結成当初3部ランクのびりっけつだったにも関わらず、ほとんどメンバーが変わらずに約1年半で2部に昇格したのだ。
「好き」と「素直」というパワーは物凄いものである。
彼らとは飲み会や旅行にも行った。
サッカーだけでなく人生を楽しめる連中なのだ。
病院時代は本当にいい仲間に出会った。
しかしながら、一方でもう一挑戦したくなったのが青年海外協力隊への夢であった。当初サッカーなどという職種なんかないと思っていたのに、ある期の募集に「職種サッカー」と載っていたのだ。
迷った。
当時若くして病院の事務長だった僕だが、やはりお世話になった院長を裏切るようで後ろめたさが募った。
しかし僕の性格上内緒で試験を受けて受かったら行くなどという器用なことはできなかった。
半年悩んだが結局試験に募集をする段階で院長にその気持ちを告げることにした。「僕は協力隊で海外でサッカーを教えたい」と。
がっかりした院長を後に僕の次の挑戦が始まった。
サッカーといっても試験に受かるのは簡単ではない。
毎年募集もあるかないかである。
あったとしても1、2名である。
現に僕が試験を受けた平成12年度秋募集3名、13年度春1名、13年度秋1名、14年度春なし、14年度秋1名だったのだ。
13年度の秋はコーチのC級ライセンスを取る日と重なってしまい、受けれなかったが、毎回倍率は30倍ほどあった。
僕が受かった14年度秋募集のときも1名だけの募集に36名の募集が殺到したほどすさまじい倍率であった。
だから3度目の正直でやっと受かったのだ。喜びはひとしおであった。
これは僕だけの力ではなかった。
僕の身近な人達が応援してくれたお蔭様である。
しかもこの間、院長が受かるまで籍だけでも置いておけといってくれたおかげで、ちょくちょく病院にお手伝いに行かせてもらった。
もちろん事務長の引継ぎというのもあったが、そうやって少しでも面倒をみてくれる期間を延ばしてくれたのだ。
この挑戦の期間中2年ほどサッカーをプレーヤーとしてはやっていなかった。
地元の中学や高校にサッカー部のお手伝いに行ったが、勉強やバイトでその時間も少なくなり、中途半端になってしまった。
そんな中、最後の挑戦と決めて挑んだ平成14年度秋募集で2次の面接と技術面接を突破し、合格をもらった。
泣き虫コーチはこの時も泣いた。
そして、現在僕はスリランカにいる。
毎日子供たちにサッカーを教えながら、子供たちからシンハラ語とサッカーを「楽しむ」ということを教えてもらっている。
サッカーは自由だ。ボールを持ったらシュートをしてもいいし、パスをしてもいい、ドリブルをしてもいいし、バックパスをしてもいい。
でもそれをするのは「自分」である。
人生もそうである。自由である。
しかしその自由なボールを次にどうするかは自分で決めないといけない。
そしてそのボールを大事にゴールへと運ばなければならないのである。
その責任ある仕事を「自分」が決めるのである。
そのためには他人の力なしでは無理である。
時にパスをして他人にまかせたり、時にはサポートしてもらわないとゴールへはたどり着けない。
味方にパスをするときは足元へやさしい思いやりのあるパスでないと、相手に迷惑がかかる。
そして時に自分ひとりの力でゴールをねじあける力強さも必要である。
僕はいつも子供たちにサッカーを教えるときにそうやって人生と照らし合わせて説明する。
「思いやりのないパスはするな」
「サポートして助けてあげろ」
「最後まであきらめるな」
そして「楽しんでやれ」である。
子供は世界の財産である。
楽しくない大人を見て子供は楽しくない人生を送る。
人の悪口を聞いて育った子は人の悪口を言う。
戦争を見て育った子は戦争が正義だと思う。
しかしどこかの世代の子供たちが大人になったときに勇気をだして「今までがまちがってるんだよ。これからの僕らの世代は違うよ。」と言えるようになってほしい。
その時僕の教え子たちは声を大にして賛同してくれるだろうか?声を大にして戦争やテロに反対してくれるだろうか?
人と人は共存していけると自信を持って訴えることができるだろうか?
僕はいつも子供たちに言います。
「サッカーしかできないような大人になるな。そしてサッカーができない子供たちもいることを忘れるな。」
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