講演の概要
ここに折々に行われた私の講演の概要を記録しておきます。


 1   今がスタート・今が大切(話の骨組み)
更新日時:
H20年11月28日(金)
今がスタート、今大切なこと……………………話のメモ
 
今、どんなときか…陥りやすいこと、錯覚、あるいは落とし穴
 
今日のお話しのポイント
1、自立とはどういうことか、 どうしたらそれが身につくのか 
2、わかる、できる、する、し続ける…ということの大事さ
3. やれば力はついてくるという大事な事実……その実践
 
A,何をするかによって、身についてくる力が違ってくる
学ぶ力は学んでいかなければ身につかない
 学力、読解力、話す力、書く力、理解力、販売能力、
学び方を教える伝える
B,黙っていても伝わる教育というもの、感化
後から来るものに、自分の経験、体験を伝えること、伝わってしまうことのすべて…これが広い意味での教育力…時の文化も流行も教育力になる
 
「映るとも月は思わず映すとも水は思わぬ猿沢の池」
(映るとも思わず 映すとも思わず 映る月と水)
 
C、大切なこと、自分の生き方を見つめて、修正、改善したいものを自分がきめ、その実行・実践の方法をも自分がきめ、それを実行し、実行し続けていくこと、…これが自立……自立と協力、協調、依存、感謝、奉仕
過去と他人は変えられない 変えることができるのは今の自分
子どもを変えた……彼自身が彼自身の生き方を変えていった
第一に、どんな人でも、その人なりに成長していく生き物
第二に、人間は、常に何かを表現していく生き物
第三に、人間は、常に何かを考えている生き物
 
D、あなたはどんな力を身につけていますか、身につけて行きたいですか
 学ぶ力、わびる力、感謝する力
自分に対して、自分がしていく質問
……何を伸ばしたいのか、何をやめたいのか
 私の自己チェック法 自分の実行をチェックする一つの例 

 2   クレーム社会における校長の役割
更新日時:
H20年4月24日(木)
T県校長研究協議会    平成20年4月24日(木)
 
「クレーム社会における校長の役割」     
1、情報革命のつけ 
日本は苦情社会になったという指摘がある。苦情社会とは自分の思い通りにならないことを不満に感じ、それを“他を罰すること”で解消しようとする社会だと読み取れる。その背景には、自分を主張する欧米型社会になったこと、経済的に豊かになり、さまざまな分野で供給が満たされ、消費者側に選択の余地が出てきたことがあるという。それに、日本人のコミニケーションのとり方が下手になったことが加わり、自分の苦情が相手に理解されにくくなったという思いも重なったという。それは電車の中でカセットを聴き、携帯電話をかけ、化粧をするような”公共の気持ち“がなくなったことにも現れている。パソコンが一般的になり、メールや電話で”おしゃべり“はしていても、生の人間と人間の”まともな話し合い“がなくなったのにも関係する。 
さらに経済優先社会とでもいうべき風潮、金を持っていて“ものを買ってくださる”方が「神様」(お客様は神様です)というわけで、金を支払う側、つまり消費者の言い分はどんなことでも大切にされなくてはならぬという風が蔓延した。無理を言っても道理のほうで引っ込んでくれるというような社会、いわゆる「金がモノをいう世の中」である。学校も選択制になり、選択する側は要求する側になった。
かつては要求、要望するのに、相手の立場や役割を勘案して、「お願い」というニュアンスで自分の願いを聞いてもらっていたのだが、自分がする要求が”当たり前”という感覚になったようだ。
何か要望、要求があったら、遠慮せずにそれをぶつけろ、それが”正しい生き方”だとの主張があって、「不利益には黙っていない」というのがモットーの学級が現れたりした。一時期そういう風が教育界にはあった。社会全体でサービスの安売りが進んでいることがその風潮に輪をかけている。匿名の意見を組織の中枢にまで届けることを可能にしたウエブ社会、情報公開の流れも同時に進み、万事がネット上で明らかにされ始めている。万事に、「簡単、便利、重みなし」の社会になっているちなみにコンビニエンスとは便利な、手軽なというコトバである。
 
2、日本型クレーム社会の到来アメリカを評してしばしば訴訟社会と呼ぶならば、その背景にあるのはイギリスのクレ
ーム社会であろう。アメリカの「クレーム」という行為に対する考え方は日本とはちがう。
日本語ではクレームという語感の中に「苦情」や「文句」という否定的なニュアンスが色
濃く含まれる。英語ではクレームという言葉の中にこうした否定的なニュアンスはほとん
どみられない。辞書には「正当な権利の主張」とあるが、こういう言い方は日本では非常
に厳しい印象を受ける、むしろもっと自然な語感で言えば、「意見をいう」「主張する」
「言う」とあっさり訳すのがより原義に近いと思う。自分の行為に対して客観的な説明が
できなければならないという「説明責任」(アカウンタビリティ)のプレッシャーがアメ
リカ社会にはある。「情報公開」(ディスクロージャー)とか、「法令順守」(コンプライ
アンス)とか、アメリカの言葉(考え方)がわが国に入ってきて、それが“あたりまえ”
のようになっているのはどうしてか。
それは、かつての日本のように、苦情が出ないようにあらかじめ気をまわす「こまやかな」社会とは違う。日本のような社会では、とくにクレームをださなくても周りがうまくやってくれる。基本的に「他人が私に対して悪いことをするはずがない」という性善説を前提に生活できる。日本型社会はその社会に適応していればきわめて居心地のいいシステムであるが、外部の者にとっては著しく不可解で不自由に感じるという。
 
3、クレームという語の感覚
クレームとは辞書で調べると「異議、苦情、文句」などと書かれている。しかし、我々のイメージの中には「いちゃもん、言いがかり」などという言葉も浮かんでくる。本来なら正当な注文や要求であっても、それを受ける側からすると不当だとか一方的などという意識が先に立ち、防衛的な姿勢がつい出てしまいそうである。これには、先に述べたような時代的な背景がある。
最近は子どもへの対応よりも保護者への対応の方が難しい。些細なことを取り上げて声高に教師を非難する親が多くなった。正直言ってあきれてしまうような事例が次々と出てくる。大人になれない大人、カッとなると子どもに戻ってしまう大人が多くなったということだ。担任教師だけでなく校長や教育委員会に直接クレームをつける親の話はよく聞くが、文部科学省にまで直訴する例があるという。
原因には、もちろん学校側の対応のまずさもある。最初に誠意ある対応をきちんとしておけば親の対応がエスカレートしないですむ例も多いであろう。だが根本的なところで、未熟で自己中心的な親が増えてきたのだ。自分や自分の子どものことしか考えられないのである。単なる八つ当たりやストレス解消としか思えないケースであれば対応の仕方もわかりやすいが、いわゆる人格障害と思われる親もいるということになれば、学校側の対応も自ずと難しくなる。ここではそういう病的な事例には深入りしない。
4、いわゆる学校へのクレーマーの問題 ちなみにパソコンにクレームという語を書いて、検索をかけて見よう。いかに多くの企業や事業所、役所とか病院などクレームの対応にエネルギーを費やしているかがわかる。このエネルギーは非生産的なエネルギーである。つまり、今日多くのところで、無駄な時間と金とを使ってクレームへの対処の仕方を話し合ったり、口の利き方を学んだりしているということである。そしてその道筋は凡そこうである。
 
@、自他を知る、ということ
この「保護者のクレーム、対処法」で、まず連想するのは、孫子のことば「敵を知り己を知れば百戦危うからず」であった。「保護者の理不尽な要求」とか「話のわからない保護者」とかの言い方には、相手がどういう人か”わからない”という、学校側の気持ちが表れていて、それが「百戦を危うくしている」ものの一つともいえるのではないか。
あず「あの人は理不尽だ」「あの人はわからずやだ」と断定的な言い方をしている自分をどう思うのか考えてみよう。
自分の見方が「正しい」とか「正常である」と思うのはいいとしても、「だからあのおかあさんは間違っている」と言ってのける論理は正当なものなのか。
「私は、絶対に間違っていない」と言い切る頑なさが問題だと思ったことはないのか。こういう問い直しは、保護者にも教師にも必要なのではないか。
「百戦危うからず」と、保護者と教師の“かかわり”を「戦い」にたとえたのは穏当ではないが、今日の状況を思うと”闘い“とみるのもあながち否定できない。ただ教師が保護者と闘っている、とだけ見る感覚は寂しすぎる。教師の心のどこかに、こんな自分でいいのか、自分の思い方、考え方を変えていけば事態は別の様相を見せるのではないか、などと思うものがあって、そういう自分と闘う自分があってもいいのではないかと思うのである。
保護者と教師、保護者と学校、どちらが白でどちらが黒か、などという白黒つけようという対決の姿勢では、互いに不幸なことであり、子どもにはやりきれない不安感、情緒的な不安定のみ与えることになろう。
だれもが家庭と学校とが協力して子どもらの育成に当たるのがベターだという。頭ではそう知っているつもりなのに、それが行為行動にならないのはなぜか。そこにはきわめて単純な、相手を知らない自分があり、そういう自分であることを知らない自分があるのではないか、私はそのように思うのである。
そう、現代の私たちは、自分がどういう考えを持った人間であるか、自分の感じ方、考え方、何かを思う思い方というものを知らない、知ろうともしない、といってもよいように思われる。
自他を知る、これが孫子のいう「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の、今日的な入り口ではないかと思うのである。
A、”育ち”の違う世代の共存ということ…”当たり前観””当たり前感覚“の違い
 そこでまず、自他を知る手がかりとして、社会や家庭環境の変遷を大雑把につかんでおこう。まず今の若い人たち(ここでいう若い人たちとは、子どもはもちろん、子どもの親世代もそれに入る。教員も、ひょっとしたら自分もそれに片足突っ込んでいるのかもしれない)の”育ち方“を考えてみよう。「氏より育ち」といわれる。辞書には「人は家柄や身分よりも、育てられ方が大切ということ」と解説されているが、高齢化社会の今日、この社会には”育ち”“生い立ち”の違う人たち共存していることを、まず確認しておこう。
“育ち”“生い立ち”が違うとは「三つ子の魂百までも」で、幼少期に刷り込まれた(インプリントされた)感覚が違うということである。感覚が違うということは、その後の思い方も考え方もまるで違ってくるということだ。
今、高齢者の多くは、工業化以前の農山魚村に生まれ育った人である。あるいは街の小売業や何やらの職人の家に生まれ、ごくわずかな地域から外に出ることなしに育った人たちである。自転車はあったが車は地域にわずかしか見られなかった。テレビはなかったし電話もある家はめずらしかった。サラリーマンの家の子は少数派であった。
そういう幼少期に刷り込まれたものは高齢になった今も心の深いところにあるらしく、物を捨てることができなかったり、歩きながら食べたり、ラッパ飲みすることが、感覚的に許せなかったりする。高齢者たちは、時代が違うと自分に言い聞かせながら我慢して、この社会に暮らしているが、心から愉快になれずにストレスがたまるようだ。
こういう高齢者の感覚、常識というものを、若い人たちは理解できるだろうか。  
壮年といわれる人は、生まれたときからテレビや電話があって、そういう環境で刷り込まれた感覚、”三つ子の魂”が、自分の”常識”になっているだろうし、もっと若い世代の人びとはパソコンがあり、ケータイがありクルマがあるのが”当たり前”になっているだろう。
“当たり前感覚”は、その人の”三つ子と魂“とつながり、その人の”生まれ育った時代背景“と切り離すことはできない。こうしてそれは、一人ひとりの、ものの受け取り方の違いとなり、考え方の違いとなってくる。
今のこの社会には、”育ち・生い立ちの違う”人たち、つまり“ものの感じ方、考え方が生理的に違っている”人たちが共存していると見たほうがよい。
私の常識は彼の非常識であり、彼の常識は私には非常識にしか思えない、それは誰の責任でもない、急激な社会変化のなせる業と考えたほうがよい。
変革の時代とは、こういう時代なのだと認識しよう。
B、プロセスカットの時代?ということ
 昔の人はうまいことを言ったもので、「二ついいこと、はて、ないものよ」というのは、現代でも私たちにやんわりと警告を与え、教訓を感じさせると思います。それは何事にも「いいことづくめのことはない」ということです。単純といえば単純ですが、これは「わるいことだらけということもない」ということでもあります。だれが言い出したかわかりませんが、庶民の間で「そうだなあ、いいと思って有頂天になっていると、とんだ落とし穴があるのが世の常だからなあ」「本当だね、何から何までうまく運ぶということはないものね」「まったくだ」などと共感され、諺とも格言とも受け取れるものになって生きつづけてきたのでしょう。調子のいいときには「有頂天になるなよ」と戒め、不運のときには「希望を見失うな」と励ましてくれる言葉だと思います。
C、便利さの裏にあるものを認識しよう、ということ
 ところで今は万事が便利な世の中になりました。便利になったと感じるのは以前の不自由さを知っているからで、以前を知らない若者たちには「便利になった」という実感はないでしょう。だから便利になって失ってしまったものもあることもわからないのでしょう。自分がほしいものが、いとも簡単に手に入るから、「ありがたい」とか「ごくろうさま」という感謝の気持ちがあまりわかないのです。失ったものの代表のようなもの、それが感謝の心だと言ってもいいでしょう。あらためて「二ついいこと、はて ないものよ」だと思いますね。
 
D一得一失 一時に一事、ということ
同時に「一得一失」とか「一時に一事」とかの教訓も思い出します。今、私がこうして文章を書いていることは、別のこと、たとえば本を読むとかテレビを見るとかを捨てるということです。いくつかのことを同時にすることは出来ません。それが「一時に一事」ということです。その一時に何を選ぶかが自分の生き方になるのでしょう。
今、その自分の生活を変えたのはやはりテレビ、パソコンなどの電子機器だと思います。ケータイといっている携帯電話もそうです。
いや、電子機器が私の生活を変えたのではありません。電子機器を購入したのは私自身ですから、私がそれらを「得た」のであって、それは同時に他のものを捨てたのでした。「一つを得、他を捨てた」のは私であって、それが私の生活のし方を変えたのですから、自分の生き方を変えたのは自分でしかありません。そしてそれによって「失ったもの」があって、それに気付いてさびしいといおうか、真に心穏やかではいられないのです。それが私のIT時代への心境の一つです。
 
Eペースの自覚ということ
今私の生活のペースがパソコンのペースになってきています。パソコンのペースというのも妙な言い方ですが、私の場合は生活そのものが急げ急げとなって気持に余裕がなくってきたと思います。キーボードをたたくという作業は、文字を書いていくという作業と本質的に違っていたのです。キーボードをたたいて文字を出していくことは、いつでも削除し加筆挿入できるということで、知らず知らずのうちに、自分の気持ちに、まあとりあえず書いておこうという安易なものを生み出していたのです。そんな構えがいつの間にか私の生活全般の構えにもなっていて、私の生活の仕方そのものも安易になっていったと思うのです。
 
F学校の課題、自分への課題を見つけていく
 いわゆる変革の時代、それは単なる制度の問題だけではなく、生活の仕方だけのものでもなく、もっと人間の根底にあるもの、人間そのものを変えていく大きなもの、いわば得体の知れないものとも考えたほうがよいのかも知れない。
だが、こういう時代に生きていく、生きていかなければならないことは紛れもない事実である。
 自覚しないままストレスを溜め込むこともあるだろう。
「今の子の気持ちがわからない」
「あの人は自分の理不尽を理不尽と感じないのか」
「こんなことをする先生の気持ちがわからない」、
人と人との「わからない」が重なって相互に不信感が広がり、不安定感になっていく。そんなことも考えられる、そういう時代である。
こうした時代背景の中で、私たちはこの「保護者のクレーム」の問題をどう考えたらよいのか、そこから何を学び、どのような課題にしていくか、課題にしていったらよいのか。
これらを考えていこう。
 
G校長の覚悟…まとめに代えて
愛するもののために身体を張れ 愛する学校、愛する秩序、教職員
教育の真髄に徹する。
「這えばたて、立てば歩めの親心、われに寄り来る 老いはわすれて」
 
 安易に近道を選ばず、一歩一歩、一日一日を懸命、真剣、地道に積み重ねていく。夢を現実に変え、思いを成就させるのは、そういう非凡なる凡人なのです。ただ、継続が大切だといっても、それが「同じことを繰り返す」ことであってはなりません。継続と反復は違います。昨日と同じことを漫然と繰り返すのではなく、京よりは明日、明日よりはあさってと、すこしずつでいいから、かならず改良や改善をつけくわえていくこと、そうした「創意工夫する心」が成功へ近づくスピードを加速させるのです。
 
 話や相談があるなら、部屋でもいいし、事務所の隅でもいい、とにかく集中できるところで聞く。何かのついでに聞く、受けるという軽率な行為を自分に禁じた。それが有意注意です。錐を使う行為に似ていて、錐は力を先端の一点に集めることで目的を達するのです。
 
 どんな遠い夢でも、思わない限りは、かなわない。そうありたいと強く心が求めたものだけを手に入れることができる。そのために潜在意識にしみこむまで、思って、思って、思いつづけることこそ大事である。夢を語ることはその行為のひとつである。嘘をつくな、正直であれ、欲張るな、人に迷惑をかけるな、人には親切にせよ…そういう子どものころから教えられたことを「当たり前」にしてやっていく。これがリーダーの生き方でもある。
 
人生はドラマであり、わたしたちは一人ひとりがその人生の主人公である。それだけでなく、そのドラマの監督であり、脚本家である。自作自演で生きていくより他はないのが、私たちの人生というものである。
 
人生では、「知識より体得を重視する」、これも大切な原理原則である。
 
 現在の日本社会についていえば、リーダー個人の資質というよりは、リーダーの選び方自体に問題があると考えられる。私たちは組織のリーダーを、人格よりも才覚や能力を基準に選ぶことを繰り返してきたからである。人間性よりもも能力、それも試験の結果ではっきりしてくる数字を重視して、人材配置をおこなってきたといってもよい。公務員試験の成績のいい人間が役所の要職やエリートコースに就くことなどが、その代表的な例といえる。そこには経済成長至上主義というものが背景にあるだろう。人格というあいまいなものより、才覚という、成果に直結しやすい要素を重視して、自分たちのリーダーを選ぶ傾向が強かったのである。
 
リーダーにこそ才や弁でなく、明確な哲学を基軸とした深沈厚重の人格である。謙虚な気持ち、内省する心。「私」を抑制する克己心、正義を重んじる勇気、慈悲の心、
一言で言えば「人間として正しい生き方」を心がけていること。
 

 3   学校長のリーダーシップ 4
更新日時:
H19年12月1日(土)
校長のリーダー学 校長持論の意味するところ
 
1、C校長の持論
 今回は、「私には学校経営にかかわる持論などない」などと言う校長さんたちに紹介したい話である。
C校長の口癖は「やれば力はついてくる」であった。
C校長は計画的に、十分な準備をして、粘り強く
計画を進めていくというタイプではなかった。どちらかというと、その反対の、いわば“どんぶり勘定”的な側面をもった校長とも見られた。C校長はそれを”無計画の計画”と言っていたが、それは若い頃影響を受けたという下村湖人の名作「次郎物語」に出てくる考え方だという。
もちろんC校長も学校経営案はもっているし、新年度、教職員にそれを提示し、その基本的な考えを語っている。もちろん教育委員会への提出も遅れたことはない。
だが気の置けない仲間には教育委員会への提出義務がなければ、「その年度の学校経営案など、こと細かく書かない」とか、「書きたくない」と言っていたらしい。それは当初書いたものは、時に応じて修正して書き直して、常に“その時点でのよりよいもの”にして、具体的な運営の指針にし、教職員の共通の“足並み”にしていきたいと思っているからだという。運動会には運動会の、文化祭には文化祭の、これをやろうとか、これをひろげようとかいうアピールがあろう。あれと同じだという気持ちらしい。
だから無計画と言っても、計画がないということではない。状況に応じて修正可能な計画が、C校長が考える”柔軟な計画”であるらしい。そのバックボーンになっている考えが「やれば力がついてくる」であるというのだ。
 
2、何に熱中するかは人生の大事
 「やればできる」ではない。「やれば力はついてくる」である。ということは「やらなければ力など、ついてこない」ということである。
C校長はつぎのように話している。「やれば出来る、がんばれ!」は威勢はいいが、無責任だとも言える。やっても出来ないことはあるし、出きるまで何年もかかることもある。出来る、出来ないは、気持ち次第などというものではあるまい。たとえば生徒が「数学が出来る」というのは、数学の試験問題が解けたということで、出来ないとは解けなかったということだとする。でもそれは「その問題」が「その時点で」解けた、解けなかった、というだけでしかない。それを数学が出来るとか出来ないとか一般化することは飛躍だとも思える。パソコンが出来る、インターネットが出来るなども同じで、その時点で、「パソコンのある一つの操作」が出来たということで、それを「パソコンのすべて」ができたと錯覚するような言い方は間違いである。「パソコンが出来る」とはもっと奥の深いものだ。パソコンで何をするのか、インターネットで何をするのかという、その「何」がその人の「生きていく意味」につながっていく。パソコンを犯罪に使うことも、人の命を救うこともできるわけだ。
生まれつき自転車に乗れる力を持っている人はいない。自転車に乗ろうと思って練習して乗れる力を身につけたのである。大人になれば自然に乗れるようになるなどというものではない。乗ろうと思って練習したから、乗れる力が付いてきたのだ。これが「やれば力が付いてくる」の中身である。ということは、やらなければ力など付いてくるはずがないのである。
このようにどのようなことでも「やれば力は付いてくる」ことは事実で、その力の量がある限度を越えるか越えないかが、自分が目指した事が出来るか出来ないかの分かれ道になる。
何事でも、実際に行動にしてみて、その行動を通して身につく力というものが違ってくる。数学とかパソコンとかを実際にやっていくと、数学の力とかパソコンの力とかが身についてくるだろう。そういう力をつけていって、自分が目指すものが「出来る」ようになるということは間違いない。
こういう当然のこと、考え方の原則を忘れてはなるまい。読書力は読書する以外に身につけることはできないし、文章を書く力は実際に書く以外に身につける手はない。怠けてばかりいれば怠け癖という一種の力が身についてしまうし、サボってばかりいればサボり癖が身についてしまう。遊び癖も、困難に出合うとすぐ逃げてしまう癖もそうだ。つまり、どんな癖を身につけるかは人の一生を左右すると言ってもよい。若いとき、”よき癖”を身につけることは、きわめて大切なことなのだ。私は縁あって出合った子どもたちに”よき癖”をつけてあげたい。それこそ彼にとって自己教育の根源になると思っても大袈裟ではあるまい。
 
3、肝に銘じておくこと
C校長はこうも言う。「学力とは学ぶ力、学べる力だ、というのがこの私の考えだが、それは何かに興味を持って、それについて自分なりに調べていくこと、調べたことをまとめて自分なりの考えをつくっていくこと、そういうことを楽しめることなどのすべてを含んでいる。私はそういう自分を支えるのに、気力、体力、表現力の三つが欠かせないと思っている。気力と体力は実体のないメンタルなものであるが、表現力は表現自体が実体で、目で見、手で触れることができる。書いたものがそうであり、話した言葉、音声がそうである。絵画や図、表で示されたものもそうである。作詞、作曲、編曲というモノもそうだと思う。そういうノウハウを駆使したプレゼンテーションは総合力だといえる。
プレゼンテーションは、言うまでもなく、他の人々に、自分の意見、計画や、発想などを説明し理解を得ようとする行為、端的にいえば「売り込む行為」である。今日、学校でも、ある一定の成果を報告し、PRする機会や場面が少なくない。教師が授業の方針とか学級運営の基本的考え方を保護者に語っていく保護者会、保護者の教師や学校への要望に応えていく機会など、そのプレゼンテーションの技術、能力は必要不可欠なものになっている。またプレゼンテーションは、それによって教師自身が自分の考えを確かなものし、自覚していくことでもあるから、プレゼンテーションは、教師としての自分を育て、磨いてくれるものと思っていい。
私たちは生徒たちに、実行して意味ある体験になるような体験をさせなくてはならない。日々の授業はもちろん、学級での諸活動、部活動や学年、学校全体による特別活動など、学校生活のすべての分野で、生徒同士、生徒と教師とがかかわりあって、互いの力量を身につけていく。学校とはそういうところだ。これを忘れぬよう肝に銘じていこう。
 

 4   学校長のリーダーシップ 3
更新日時:
H19年11月20日(火)
校長のリーダー学……(3) 一生懸命の落とし穴
 
1、 熱心な教師への苦情
PTA会長を通してA教諭の苦情が持ち込まれた。
A先生が熱心すぎるという苦情?である。A先生は指導熱心な若手の女性教師であるが、その熱心さが苦情になるとは意外だった。PTA会長の話と、当のA教諭の話とつなげるとこうである。
 二年生のBくん、だいぶ以前に腹痛で診察を受けたが大腸炎ということで手当てをしてもらっていたが、一向によくならないという。母親が別の病院で再診してもらったところ、盲腸炎とのこと、さっそく手術してもらったが腹膜炎を併発していて、痛みは治まったが入院は長引くという。様子を聞いたA先生が見舞いに行ったのだが、あんがい元気なBくんの様子に安心してか、定期テストの問題と答案用紙を渡して、学級での勉強の様子を知らせ、気分がよくなったらやってごらんと言って帰ったという。A先生はB君が気にしていただろうテストのこと、学期末の成績のことなどについて話し、テストは気が向いたらやってごらんと“軽い気持ち”で言っただけという。
病室にはBくんがひとりで、お母さんには会えなかったので、お母さんによろしく、とB君に伝えて学校へ戻ったという。これがA教諭の話だ。
 それが、どういう行き違いからか、お母さんには「テストをベッドでやるように」とA先生が言った、となってしまったらしい。お母さんは懇意にしているPTA会長さんに、「いくら大事なテストだからといって、病院のベッドでやらせなくてもいいのではないか」と苦情を言ったという。
伝言ゲームのように、はじめの言葉が伝言されているうちに中身が変わってしまった、校長はこの話から年頃の中学生と母親のコミニケーションの様子、A先生とBくんのコミニケーションの様子などから、さまざまな問題を感じたという。それにしても、A先生が母親に電話などで、「見舞いに行きたい」と声をかけ、あるいは「見舞ってきました、あんがい元気なので安心しました」などと話していたら、こんな誤解など起きなかったろうし、「気にしていると思ったのでテストの問題用紙を手渡してきましたが、もちろん提出など必要ありません」などと連絡してもいただろうなどと、思ったという。
 
2、A教諭の気持ちを聴く
校長は、あらためて人と人とのコミニケーション、そのなかの誤解や曲解は、一寸した配慮のなさにより生まれるものだと思ったし、その背景に、各自の思いの頑なさが働いていると思ったという。
その思いを強くしたのは、校長がA教諭にPTA会長からの話を伝えたときのA先生の態度が思っていた以上に堅かったからだ。
「私はBくんにとって、いいことだと思ってやったのです。まじめなBくんですから、休んでいるうちの学校のこと、勉強の進度のことが気になって仕方がないだろうと思って、学校の予定を知らせ、テストの範囲を知らせ、みながやったテストの問題を持っていってやり、気分がよかったらやってみなさい、と言ったのです。それがどうして批判されなければならないのですか!」と憤然としている。そして「なにか不満があったら直接、私にいえばいいのに、PTA会長さんに言うなどは、おかしい」と言い、「私のしたことは絶対に間違いではありません、PTA会長さんとでも、誰とでも対決します!」と言い切ったのである。とにかく今のA先生には、自分の見方意外に別の見方とか受け取り方とかがあるなどとは思いもよらないのだろう。それがA先生の“よさ”でもあるし、また“欠点”でもあると、その校長は思ったという。一生懸命なA先生、一生懸命はもともと「一所懸命」からきた言葉で、「一所懸命」は「武士が、生活のすべてをその所領にかけること、命懸けで与えられた領地を守ること」からきている。つまり「その領地」しか眼中にないこと、視野が狭いことでもあると思い出したのだ。
 
3、自分の気持ちを開陳する
この校長は,「いやあ、先生の善意が誤解されて悔しいでしょうね。世の中にはそういうことが、ままあるものでね」と受け取って、最近の私のことなのだが…」とつぎのような話をしたという。
「私も定年退職が後数年になってね、最近親しくしている人が何かと趣味の会などに、よく誘ってくれるのだ。私は趣味らしい趣味を何も持っていないと見られたのだろう、囲碁の会とか俳句の集まりとか、そういう集まりに誘ってくれるのだ。ダンスの会などというのにも誘われて困っているのだ。その友人は、自分が何人か集まってしゃべったり、笑ったり、賑やかなのが好きなようで、自分が好きで楽しいものだから、私にもその楽しさを味合わせてやろうと、善意で私に声をかけてくれるのだ。だが私にこれといって興味関心の深いもの、趣味とか道楽とかが「ない」と、どうして思うのか。そのことが失礼といえば失礼だと思うが、長年の付き合いで彼にそう言うのも「いいにくい」、だから私は、あいまいに返事を先延ばしにしているのだ。
 私を誘ってくれる友人がこう言ったものだ。
「私は、ひとり寂しく生きているような人を誘って趣味の集まり、俳句の会とかカラオケの会とかに入る仲立ちをして喜ばれている」…老人会の会長をしているという彼に言わせると、世間にはひとり寂しく生きている人がいるものだという。だがそう判断するのは彼自身であり、そう思われている「その人」ではないことには気がついていないらしい。賑やかなのが好きな彼は、賑やかなところへ誘うことが親切だと思っているのだろう。その単純さが彼の”よさ”でもあり、かれの誘いという積極性は、善意からのものなのだろうが、誘いを受ける側には、その善意が断りにくく迷惑になっている人もいるのである。自分が「いい」と思っていることが、必ずしも、どの人にも「いい」ことではない。この“あたりまえのこと”が善意の彼には見えていないらしい。
…こんな気持ちを話したのは、教師の私たちが善意で生徒たちに勉強を勧めるとき、私たちには“よいこと”をしているとだけ思っていて、何ら“やましいもの”がないが、この「やましさのない感覚」が問題ではないかと思うからだ。自分が「いいことをしている」と思っているときは、とくに視野が狭くなりがちだ。別の見方、別の受け取り方を考えてみるのも大切だろう。自分のかかわりに自信を持つな、などというのではない。自信を持つことは自信過剰になりがちだと自戒していこうということである。その校長は、自分の誘われ経験とつなげて、自分が学んだことを語ったのだ。これはこの校長の教師への“かかわり方”でもあったのである。
 

 5   学校長のリーダーシップ 2
更新日時:
H19年11月20日(火)
 校長のリーダー学……(2)
 生徒たちとどんな「かかわり」をしているか。
 
1、難しい時代だからこそ
連日のように数々の不祥事が報じられ、どこもかしこも信用できないというムードが庶民の中に広がっているようだ。このような中にあっても、教師は生徒や保護者から、信頼されている存在、いや信頼したい存在、であることを信じていこう。
だが、信頼を得るためにする行為は、物欲しげで卑しい。気負わない「かかわり」を通して自然に生まれてくる信頼という情緒が“ほんもの”と思われる。
それゆえ管理職は所属の教師たちが生徒とどうかかわっているかを把握していこうとすることは極めて大切であると思う。論語に「努めるは好むに如かず、好むは楽しむに如かず」とある。もともと教師は生徒とかかわるのが好きで、この道を選んだのであろう。児童・生徒たちとどうかかわれば、教師生活が楽しくなるか、充実したものになるか、これがかかわりのポイントだといえる。児童・生徒とのかかわりのノウハウというと、次元の低いように受け取る人もいるが、学校現場の校長としては、少なくとも、そのノウハウについての広く深い見識が必要だと思うのである。
ある中学校の校長は、筆者のインタビューに3人の教師の実践を例にあげて、それぞれの教師の個性“その教師らしさ”を見ていると言っていた。
 
@「グループノートの方法」
A教諭は10年来グループノートの実践を続けている。生徒に6,7人のグループをつくらせ、グループごとに一冊のノートを与え、思ったこと感じ考えたこと、何でも書く"回し書き"のノートとする。書く順番を決めさせ、番に当たった生徒はノートを家に持ち帰り、ノートに思いのたけを書いてきて、あくる朝、提出する。何を書くかは自由、ただ他を中傷する内容とか、落書きのようなものはやめようと約束させておく。こういう働きを通じて、自分の気持ちを文章にしていくことの大切さに触れ、教師もそのノートに“感じや考え”を書いていく。このノートはグループの生徒たちと教師の”交流ん0−と“である。
毎朝A先生の手元には5冊のグループノートが集まることになる。先生はそれをできるだけ早く読んで感じたこと、考えたことを書いて、その日のうちに書いた生徒に手渡す。手渡すとき、なにがしの言葉のやり取りがあるという。その短い時間がその生徒個人との触れ合いを感じるときだという。帰りの学級の時間にグループでノートを中心にしゃべりあっていることもある。グループノートは教師を含めた友達たちの“触れ合い”の場であるとA先生は思っている。
 
A 「三分間スピーチ」の方法
B教諭は、毎朝、子どもたち一人ひとりに、“3分間スピーチ”をさせている。毎日、順番に生徒が自由な題材でクラス全体にスピーチをする。3分間というが実際は1分以内で話し終わる生徒が多く、それに聞き手の生徒たちが質問したり、感想を述べたりして3分間なのだという。場合によれば話の交通整理をB先生がしなくてはならぬときもあり、ときには教師自身が話題を提供することにもなるという。この実践は生徒それぞれの興味や関心が知れて、その生徒をよく知る手がかりになるという。
 
B「Xよりの手紙」の方法
 C教諭は「Xよりの手紙」という方法で触れ合いの密度を濃いものにしている。「Xよりの手紙」は自分を他人はどう見ているかを知っていくノウハウである。C先生は生徒数プラス1枚の白紙を用意するだけ。生徒は配られた用紙に自分の名前だけを書いて提出、教師はそれらをシャッフルして再度生徒.たちに配る。つまり生徒の個々には誰かの名が書いてある用紙が配られることになる。たまたま自分の名が書いてある用紙がきたときは、やり直せばいい。生徒は自分のところへ来た用紙の名前宛に手紙を書くのである。そして書き手の自分の名は書かず「Xより」とする。これだけの活動であるが、C先生は自分も同じ用紙に名を書いて「xよりの手紙」に参加する。生徒の希望もあって週に何回かこれを実施しているがトラブルが起きたことはないという。
事前に、手紙は親しみをこめて、その子の“よさ”を書くようにしようと話し合い、相手が嫌がることは書かないと話し合っているからではないかという。だが、C先生は「かりに生徒が書かれたことで落ち込んだとか、ケンカになりそうになったとしても、それを生きた材料にして、「人と人との接し方を学ばせるような指導の準備はしているつもり」と言う。C先生自身への手紙にも、教師の自分が気づかない「子どもの目」があって、ずいぶん考えさせられるとも言う。「Xよりの手紙」は、いわば匿名で自分を批判してくるものともいえるので、こういう点は十分留意する必要があると言っている。
 
2、 実践により培われた指導力
その校長によれば3人の教師が語っている共通の実感があるという。それは、初めは忙しく負担に感じることも多かった実践だったが、それを続けていくうちに面白くなり、やがて実践そのものが楽しくなってくるということである。そしてこの感じは生徒たちも同じらしく、グループノートなど、初めは面倒くさがって書かない子、あるいは書くことがないと言っていた「書けない子」が、よく書くようになったし、学級会も、グループ活動も活発になっていくということである。こうした実践がグループ学習、調べ学習などにもプラスに働いてくるし、「3分間スピーチ」では発表力が身につくことはもちろん、他の感想や意見を積極的に聞く態度も養われてきたと思われるという。
 
3、どんな「かかわり」が行われているか
今、自校には校長の目の届かない「かかわり」、場合によっては教師自身が意識していない「かかわり」もあると思う。毎週、「自らを律する言葉」を板書している教師。毎日、ローテーションを決めて生徒の個々と「立ち話」をしている教師。生徒の"よさ"を見つけて、それを「小さな手紙」にして保護者に届けさせている教師。学年全体で取り組んでいる「学年便り」という「かかわり」もある。それにかかわる労力は大変だと思われがちだが、教師にはそういう子どもとのかかわりがうれしいのである。そういう空気を醸成するためにも自校の「かかわり」を見つめていく校長でありたいものである。
 



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