T県校長研究協議会 平成20年4月24日(木)
「クレーム社会における校長の役割」
1、情報革命のつけ
日本は苦情社会になったという指摘がある。苦情社会とは自分の思い通りにならないことを不満に感じ、それを“他を罰すること”で解消しようとする社会だと読み取れる。その背景には、自分を主張する欧米型社会になったこと、経済的に豊かになり、さまざまな分野で供給が満たされ、消費者側に選択の余地が出てきたことがあるという。それに、日本人のコミニケーションのとり方が下手になったことが加わり、自分の苦情が相手に理解されにくくなったという思いも重なったという。それは電車の中でカセットを聴き、携帯電話をかけ、化粧をするような”公共の気持ち“がなくなったことにも現れている。パソコンが一般的になり、メールや電話で”おしゃべり“はしていても、生の人間と人間の”まともな話し合い“がなくなったのにも関係する。
さらに経済優先社会とでもいうべき風潮、金を持っていて“ものを買ってくださる”方が「神様」(お客様は神様です)というわけで、金を支払う側、つまり消費者の言い分はどんなことでも大切にされなくてはならぬという風が蔓延した。無理を言っても道理のほうで引っ込んでくれるというような社会、いわゆる「金がモノをいう世の中」である。学校も選択制になり、選択する側は要求する側になった。
かつては要求、要望するのに、相手の立場や役割を勘案して、「お願い」というニュアンスで自分の願いを聞いてもらっていたのだが、自分がする要求が”当たり前”という感覚になったようだ。
何か要望、要求があったら、遠慮せずにそれをぶつけろ、それが”正しい生き方”だとの主張があって、「不利益には黙っていない」というのがモットーの学級が現れたりした。一時期そういう風が教育界にはあった。社会全体でサービスの安売りが進んでいることがその風潮に輪をかけている。匿名の意見を組織の中枢にまで届けることを可能にしたウエブ社会、情報公開の流れも同時に進み、万事がネット上で明らかにされ始めている。万事に、「簡単、便利、重みなし」の社会になっている。ちなみにコンビニエンスとは便利な、手軽なというコトバである。
2、日本型クレーム社会の到来アメリカを評してしばしば訴訟社会と呼ぶならば、その背景にあるのはイギリスのクレ
ーム社会であろう。アメリカの「クレーム」という行為に対する考え方は日本とはちがう。
日本語ではクレームという語感の中に「苦情」や「文句」という否定的なニュアンスが色
濃く含まれる。英語ではクレームという言葉の中にこうした否定的なニュアンスはほとん
どみられない。辞書には「正当な権利の主張」とあるが、こういう言い方は日本では非常
に厳しい印象を受ける、むしろもっと自然な語感で言えば、「意見をいう」「主張する」
「言う」とあっさり訳すのがより原義に近いと思う。自分の行為に対して客観的な説明が
できなければならないという「説明責任」(アカウンタビリティ)のプレッシャーがアメ
リカ社会にはある。「情報公開」(ディスクロージャー)とか、「法令順守」(コンプライ
アンス)とか、アメリカの言葉(考え方)がわが国に入ってきて、それが“あたりまえ”
のようになっているのはどうしてか。
それは、かつての日本のように、苦情が出ないようにあらかじめ気をまわす「こまやかな」社会とは違う。日本のような社会では、とくにクレームをださなくても周りがうまくやってくれる。基本的に「他人が私に対して悪いことをするはずがない」という性善説を前提に生活できる。日本型社会はその社会に適応していればきわめて居心地のいいシステムであるが、外部の者にとっては著しく不可解で不自由に感じるという。
3、クレームという語の感覚
クレームとは辞書で調べると「異議、苦情、文句」などと書かれている。しかし、我々のイメージの中には「いちゃもん、言いがかり」などという言葉も浮かんでくる。本来なら正当な注文や要求であっても、それを受ける側からすると不当だとか一方的などという意識が先に立ち、防衛的な姿勢がつい出てしまいそうである。これには、先に述べたような時代的な背景がある。
最近は子どもへの対応よりも保護者への対応の方が難しい。些細なことを取り上げて声高に教師を非難する親が多くなった。正直言ってあきれてしまうような事例が次々と出てくる。大人になれない大人、カッとなると子どもに戻ってしまう大人が多くなったということだ。担任教師だけでなく校長や教育委員会に直接クレームをつける親の話はよく聞くが、文部科学省にまで直訴する例があるという。
原因には、もちろん学校側の対応のまずさもある。最初に誠意ある対応をきちんとしておけば親の対応がエスカレートしないですむ例も多いであろう。だが根本的なところで、未熟で自己中心的な親が増えてきたのだ。自分や自分の子どものことしか考えられないのである。単なる八つ当たりやストレス解消としか思えないケースであれば対応の仕方もわかりやすいが、いわゆる人格障害と思われる親もいるということになれば、学校側の対応も自ずと難しくなる。ここではそういう病的な事例には深入りしない。
4、いわゆる学校へのクレーマーの問題 ちなみにパソコンにクレームという語を書いて、検索をかけて見よう。いかに多くの企業や事業所、役所とか病院などクレームの対応にエネルギーを費やしているかがわかる。このエネルギーは非生産的なエネルギーである。つまり、今日多くのところで、無駄な時間と金とを使ってクレームへの対処の仕方を話し合ったり、口の利き方を学んだりしているということである。そしてその道筋は凡そこうである。
@、自他を知る、ということ
この「保護者のクレーム、対処法」で、まず連想するのは、孫子のことば「敵を知り己を知れば百戦危うからず」であった。「保護者の理不尽な要求」とか「話のわからない保護者」とかの言い方には、相手がどういう人か”わからない”という、学校側の気持ちが表れていて、それが「百戦を危うくしている」ものの一つともいえるのではないか。
あず「あの人は理不尽だ」「あの人はわからずやだ」と断定的な言い方をしている自分をどう思うのか考えてみよう。
自分の見方が「正しい」とか「正常である」と思うのはいいとしても、「だからあのおかあさんは間違っている」と言ってのける論理は正当なものなのか。
「私は、絶対に間違っていない」と言い切る頑なさが問題だと思ったことはないのか。こういう問い直しは、保護者にも教師にも必要なのではないか。
「百戦危うからず」と、保護者と教師の“かかわり”を「戦い」にたとえたのは穏当ではないが、今日の状況を思うと”闘い“とみるのもあながち否定できない。ただ教師が保護者と闘っている、とだけ見る感覚は寂しすぎる。教師の心のどこかに、こんな自分でいいのか、自分の思い方、考え方を変えていけば事態は別の様相を見せるのではないか、などと思うものがあって、そういう自分と闘う自分があってもいいのではないかと思うのである。
保護者と教師、保護者と学校、どちらが白でどちらが黒か、などという白黒つけようという対決の姿勢では、互いに不幸なことであり、子どもにはやりきれない不安感、情緒的な不安定のみ与えることになろう。
だれもが家庭と学校とが協力して子どもらの育成に当たるのがベターだという。頭ではそう知っているつもりなのに、それが行為行動にならないのはなぜか。そこにはきわめて単純な、相手を知らない自分があり、そういう自分であることを知らない自分があるのではないか、私はそのように思うのである。
そう、現代の私たちは、自分がどういう考えを持った人間であるか、自分の感じ方、考え方、何かを思う思い方というものを知らない、知ろうともしない、といってもよいように思われる。
自他を知る、これが孫子のいう「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の、今日的な入り口ではないかと思うのである。
A、”育ち”の違う世代の共存ということ…”当たり前観””当たり前感覚“の違い
そこでまず、自他を知る手がかりとして、社会や家庭環境の変遷を大雑把につかんでおこう。まず今の若い人たち(ここでいう若い人たちとは、子どもはもちろん、子どもの親世代もそれに入る。教員も、ひょっとしたら自分もそれに片足突っ込んでいるのかもしれない)の”育ち方“を考えてみよう。「氏より育ち」といわれる。辞書には「人は家柄や身分よりも、育てられ方が大切ということ」と解説されているが、高齢化社会の今日、この社会には”育ち”“生い立ち”の違う人たち共存していることを、まず確認しておこう。
“育ち”“生い立ち”が違うとは「三つ子の魂百までも」で、幼少期に刷り込まれた(インプリントされた)感覚が違うということである。感覚が違うということは、その後の思い方も考え方もまるで違ってくるということだ。
今、高齢者の多くは、工業化以前の農山魚村に生まれ育った人である。あるいは街の小売業や何やらの職人の家に生まれ、ごくわずかな地域から外に出ることなしに育った人たちである。自転車はあったが車は地域にわずかしか見られなかった。テレビはなかったし電話もある家はめずらしかった。サラリーマンの家の子は少数派であった。
そういう幼少期に刷り込まれたものは高齢になった今も心の深いところにあるらしく、物を捨てることができなかったり、歩きながら食べたり、ラッパ飲みすることが、感覚的に許せなかったりする。高齢者たちは、時代が違うと自分に言い聞かせながら我慢して、この社会に暮らしているが、心から愉快になれずにストレスがたまるようだ。
こういう高齢者の感覚、常識というものを、若い人たちは理解できるだろうか。
壮年といわれる人は、生まれたときからテレビや電話があって、そういう環境で刷り込まれた感覚、”三つ子の魂”が、自分の”常識”になっているだろうし、もっと若い世代の人びとはパソコンがあり、ケータイがありクルマがあるのが”当たり前”になっているだろう。
“当たり前感覚”は、その人の”三つ子と魂“とつながり、その人の”生まれ育った時代背景“と切り離すことはできない。こうしてそれは、一人ひとりの、ものの受け取り方の違いとなり、考え方の違いとなってくる。
今のこの社会には、”育ち・生い立ちの違う”人たち、つまり“ものの感じ方、考え方が生理的に違っている”人たちが共存していると見たほうがよい。
私の常識は彼の非常識であり、彼の常識は私には非常識にしか思えない、それは誰の責任でもない、急激な社会変化のなせる業と考えたほうがよい。
変革の時代とは、こういう時代なのだと認識しよう。
B、プロセスカットの時代?ということ
昔の人はうまいことを言ったもので、「二ついいこと、はて、ないものよ」というのは、現代でも私たちにやんわりと警告を与え、教訓を感じさせると思います。それは何事にも「いいことづくめのことはない」ということです。単純といえば単純ですが、これは「わるいことだらけということもない」ということでもあります。だれが言い出したかわかりませんが、庶民の間で「そうだなあ、いいと思って有頂天になっていると、とんだ落とし穴があるのが世の常だからなあ」「本当だね、何から何までうまく運ぶということはないものね」「まったくだ」などと共感され、諺とも格言とも受け取れるものになって生きつづけてきたのでしょう。調子のいいときには「有頂天になるなよ」と戒め、不運のときには「希望を見失うな」と励ましてくれる言葉だと思います。
C、便利さの裏にあるものを認識しよう、ということ
ところで今は万事が便利な世の中になりました。便利になったと感じるのは以前の不自由さを知っているからで、以前を知らない若者たちには「便利になった」という実感はないでしょう。だから便利になって失ってしまったものもあることもわからないのでしょう。自分がほしいものが、いとも簡単に手に入るから、「ありがたい」とか「ごくろうさま」という感謝の気持ちがあまりわかないのです。失ったものの代表のようなもの、それが感謝の心だと言ってもいいでしょう。あらためて「二ついいこと、はて ないものよ」だと思いますね。
D一得一失 一時に一事、ということ
同時に「一得一失」とか「一時に一事」とかの教訓も思い出します。今、私がこうして文章を書いていることは、別のこと、たとえば本を読むとかテレビを見るとかを捨てるということです。いくつかのことを同時にすることは出来ません。それが「一時に一事」ということです。その一時に何を選ぶかが自分の生き方になるのでしょう。
今、その自分の生活を変えたのはやはりテレビ、パソコンなどの電子機器だと思います。ケータイといっている携帯電話もそうです。
いや、電子機器が私の生活を変えたのではありません。電子機器を購入したのは私自身ですから、私がそれらを「得た」のであって、それは同時に他のものを捨てたのでした。「一つを得、他を捨てた」のは私であって、それが私の生活のし方を変えたのですから、自分の生き方を変えたのは自分でしかありません。そしてそれによって「失ったもの」があって、それに気付いてさびしいといおうか、真に心穏やかではいられないのです。それが私のIT時代への心境の一つです。
Eペースの自覚ということ
今私の生活のペースがパソコンのペースになってきています。パソコンのペースというのも妙な言い方ですが、私の場合は生活そのものが急げ急げとなって気持に余裕がなくってきたと思います。キーボードをたたくという作業は、文字を書いていくという作業と本質的に違っていたのです。キーボードをたたいて文字を出していくことは、いつでも削除し加筆挿入できるということで、知らず知らずのうちに、自分の気持ちに、まあとりあえず書いておこうという安易なものを生み出していたのです。そんな構えがいつの間にか私の生活全般の構えにもなっていて、私の生活の仕方そのものも安易になっていったと思うのです。
F学校の課題、自分への課題を見つけていく
いわゆる変革の時代、それは単なる制度の問題だけではなく、生活の仕方だけのものでもなく、もっと人間の根底にあるもの、人間そのものを変えていく大きなもの、いわば得体の知れないものとも考えたほうがよいのかも知れない。
だが、こういう時代に生きていく、生きていかなければならないことは紛れもない事実である。
自覚しないままストレスを溜め込むこともあるだろう。
「今の子の気持ちがわからない」
「あの人は自分の理不尽を理不尽と感じないのか」
「こんなことをする先生の気持ちがわからない」、
人と人との「わからない」が重なって相互に不信感が広がり、不安定感になっていく。そんなことも考えられる、そういう時代である。
こうした時代背景の中で、私たちはこの「保護者のクレーム」の問題をどう考えたらよいのか、そこから何を学び、どのような課題にしていくか、課題にしていったらよいのか。
これらを考えていこう。
G校長の覚悟…まとめに代えて
愛するもののために身体を張れ 愛する学校、愛する秩序、教職員
教育の真髄に徹する。
「這えばたて、立てば歩めの親心、われに寄り来る 老いはわすれて」
安易に近道を選ばず、一歩一歩、一日一日を懸命、真剣、地道に積み重ねていく。夢を現実に変え、思いを成就させるのは、そういう非凡なる凡人なのです。ただ、継続が大切だといっても、それが「同じことを繰り返す」ことであってはなりません。継続と反復は違います。昨日と同じことを漫然と繰り返すのではなく、京よりは明日、明日よりはあさってと、すこしずつでいいから、かならず改良や改善をつけくわえていくこと、そうした「創意工夫する心」が成功へ近づくスピードを加速させるのです。
話や相談があるなら、部屋でもいいし、事務所の隅でもいい、とにかく集中できるところで聞く。何かのついでに聞く、受けるという軽率な行為を自分に禁じた。それが有意注意です。錐を使う行為に似ていて、錐は力を先端の一点に集めることで目的を達するのです。
どんな遠い夢でも、思わない限りは、かなわない。そうありたいと強く心が求めたものだけを手に入れることができる。そのために潜在意識にしみこむまで、思って、思って、思いつづけることこそ大事である。夢を語ることはその行為のひとつである。嘘をつくな、正直であれ、欲張るな、人に迷惑をかけるな、人には親切にせよ…そういう子どものころから教えられたことを「当たり前」にしてやっていく。これがリーダーの生き方でもある。
人生はドラマであり、わたしたちは一人ひとりがその人生の主人公である。それだけでなく、そのドラマの監督であり、脚本家である。自作自演で生きていくより他はないのが、私たちの人生というものである。
人生では、「知識より体得を重視する」、これも大切な原理原則である。
現在の日本社会についていえば、リーダー個人の資質というよりは、リーダーの選び方自体に問題があると考えられる。私たちは組織のリーダーを、人格よりも才覚や能力を基準に選ぶことを繰り返してきたからである。人間性よりもも能力、それも試験の結果ではっきりしてくる数字を重視して、人材配置をおこなってきたといってもよい。公務員試験の成績のいい人間が役所の要職やエリートコースに就くことなどが、その代表的な例といえる。そこには経済成長至上主義というものが背景にあるだろう。人格というあいまいなものより、才覚という、成果に直結しやすい要素を重視して、自分たちのリーダーを選ぶ傾向が強かったのである。
リーダーにこそ才や弁でなく、明確な哲学を基軸とした深沈厚重の人格である。謙虚な気持ち、内省する心。「私」を抑制する克己心、正義を重んじる勇気、慈悲の心、
一言で言えば「人間として正しい生き方」を心がけていること。
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