やれば力はついてく
退職後の生き方
1、話のはじめ
私は教育のことを考えるときに、三つのキーワードを頭においています。いやこのキーワードは教育のことを考えるときだけでなく、あらゆることを考えるときその考えの土壌、あるいは起点になっているものといってもよいと思っています。その三つとは
@やれば力はついてくる
A映るとも思わず 映すとも思わず 映る月と水
B過去と他人は変えられない
という言葉です。
私はこの話の題名を、その第一の「やれば力はついてくる」にしました。それは、この本でもっとも私が言いたいこと、人間は何かしらを常に実行していて、それに見合う力を身につけている生き物だということ、それを端的に表していると言葉だと思われるからです。キーワードとはいろいろに解釈されそうですが、私の場合は自分の生きてきたこれまでを通して、この三つの言葉が常に密接にかかわってきていたと実感していたからです。つまりものごとを考えるキー、鍵がこの三つになっていると思うからです。その中身は、おいおいこの本の中から読み取っていただけると思います。
2、今大切なこと
まず、今、大切なこと…これから始めましょう。
それを私は、自分の生き方を見つめて、ここをこう直したい、止めたい、こう伸ばしたいというものを、自分できめて、それを実行する、実行しつづけることだと考えています。親や教師が子どもに、こういう生き方を身につけさせるよう働きかけること、それが教育では大切なことと思われますが、それだけにとどまらず、親自身、教師自身、つまりどんな立場の人でもこのことが大切なのだと思うのです。自分の生き方を見つめて、常に修正、改善を図っていく生き方、それは「自立」そのものだと思うのです。自分自身を自分が”しつける”こと、それを自立と考えるからです。
3、何が教育になるのか
教育とは、つまるところ(先にきた者)が「私は、このように聞きました、このように学んできました、今このように考えています、これからもこのように学んでいきたいです」ということを(後からくる者)に伝える(あるいは、伝わる)ことの「すべて」だと思います。これが家庭教育だし社会教育だし学校教育です。職場で教育されることのすべてがこれでしょう。禅の言葉に「心身一如」ということばがあります。「心とそれが表れた表現とは別物ではない」ということです。それを「心は形をつくり、形は心を調える」と教えてくれています。親や教師が「この子はかわいい」「いい子だ」と感じているときは、顔の表情、声の調子にその気持ちが出てしまうたとえ少々ぞんざいな言葉を発しても、その子にはうれしく感じられるものです。逆に「今畜生!」と思っているときは丁寧な言い方をしても、皮肉にしか受け取られないなどというものです。この人間の感性というものは実に敏感なもので、自分が馬鹿にされているとか、軽く見られているとかは、実によく分かるものです。子どもだけではありません。年寄りがそうです。老いて認知症が進んでいるなどというお年寄りほど、人に気持ちを察するに敏感だと思ったほうがよいくらいです。
つまり、相手が子どもであってもお年寄りであっても、自分がかかわるコミニケーションでは、どんなことを言ったかではなくて、どんな気持ちで言ったのかが重要な意味を持ってきます。会話では、どう言うか(あらわすか)、ではなく、どう受け取られるか がポイントだということです。 何を言うかではなく、どういう気持ちで言うかということ、つまり自己を見つめることが大切ということです。この自分の気持ちを見つめ、自分の心を調えるということ、これが自己教育ということです。教育の原点、もっとも大切にしたい教育がこれ、自己教育です。
4、気力・体力・表現力の自己育成
いつの時代にも大切なのが自分を自分が教育し、自分の気力・体力・表現力を磨き、鍛えていくことだ(つまり自己修練、自己修養である)と思いますが、とくに今日のような変革の時代にあっては、それがいっそう重要な意味を持ってきていると思うのです。
今日、コンビニという和製英語の店が全国に点在していますが、コンビニはコンビニエンスという語、つまり、便利・好都合という意味の言葉からきたものでしょう。私は万事が簡単便利になり、生活がしやすくなる方向に異論があるわけではありませんが、それがエスカレートしていくことにはある種の不安を抱いています。私はそれを、「簡単・便利・重みなし」の時代と称して、自分自身が簡単便利に流されないようにしているつもりです。今日このコンビニエンスの風潮が蔓延して、人びとは、ものごとを深く考えもせず、それこそ気軽に何かをして、それが楽しいこととしています。万事に軽々しく、軽率で、慎重さに欠けています。ちょっとしたことに面倒を感じ、億劫がる。そんな怠惰にも似た気風が日本人のものとして定着していったら、日本のこれまでの文化的風土はどうなるでしょう。日本人は基本的にまじめで正直、こまめに動き、勤勉だという一種の風土、お互い様、おかげさま、という気風が行き渡り、だから、近隣の人びとの間に、他人事(ひとごと)はないという感覚が行き渡っていたという、日本文化の土壌はどうなるというのでしょうか。私はこの「おかげさま、お互い様、他人事(ひとごと)はない」という気風を人びとの心に敷衍させることこそ、心の教育の基盤にすべきだと思うのです。
5、自分の力をみにつける
そのためにも、私たちは実際に、自分が、意味があると思ったことを実行し続けて、それに見合う力を身につけていくことが欠かせないと思うのです。これが、自分の生活の仕方、日々の過ごし方を見てつめていって、「ここはこう治したい」「ここはこう伸ばしたい」「これは思い切ってやめたい」というものを自分できめて、それを実行していくのです。それが「わかる」「できる」「する」というコトバでむすべる私の考えです。意識して意味あることをやるとは、たとえばこうです。 どうもテレビの見すぎだ、自分の部屋にテレビがいつもついている、見ていないのにテレビが付いているなど自分の生活にテレビが入り込みすぎているなどと感じる人は、それをもっと詳しく見ていくのです。その中で娯楽番組の見すぎだ、芸能タレントのお笑い番組はたいてい見ているなどと思えば、そういう現状をどうするか、どう修正、改善していくか、それを考えていくのです。これが自分の生き方を修正していく方法論、自己教育の方法論だと思っています。
6、意識して生きる
ただ、漫然と何かをやりさえすれば、好ましい力がつくというものではありません。怠ければ怠け癖という力がついてしまうし、サボればサボり癖という力がついてしまうものです。あくまでも、今、自分がすることの意義とか意味とかを考え、それを意識して、“その気になって”やらなければそれに見合うだけの力は得られないということです。
やれば力はついてくるとは、当然のことながら、やらなければ力などついてくるはずはないということです。
読書力を身につけるには、読書する以外に手はないのです。書く力を身につけるには、その気になって書くより手はないのです。絵画にしても彫塑にしても、工芸、陶芸、工作、すべての制作にそれは当てはまると思います。
「やれば出来る、がんばれ!」という他を励ます言い方はよく使われますが、よく考えれば無責任だとも言えます。やってできないこともあるのが現実だからです。だいたい出来る、出来ないは、気持ち次第というものではあるまい。
あることが出来るとはどういうことか、また出来ないとはどういうことか、その違い、差というものは何か、こういうことを考えて見ましょう。
たとえば数学が出来るというのは、数学の試験問題が解けたということで、出来ないとは解けなかったということだとします。でもそれは「その問題が」、「その時点で」解けた、解けなかった、というだけでしかないのです。それを数学が出来るとか出来ないとか一般化するのは飛躍だとも思えます。パソコンが出来る、インターネットが出来るなども同じで、その時点で、それが出来たということで、だからどうだというのだということです。つまりパソコンで何をするのか、インターネットを使って何をするのかという、その「何」がその人の「生きる意味」につながってくると思うのです。パソコンを犯罪に使うことも、人の命を救うこともできるわけです。ただどのようなことでも「やれば力は付いてくる」と思うし、その力の量がある限度を越えるか越えないかが、自分が目的とした事柄が出来る・出来ないの分かれ道だと思います。
ただ、繰り返しますが、何事でも、実際に行動にしてみて、その行動を支える力とでもいうものが身に付いてくるということ、そういう力をつけていって、その力量が増していってこそ、自分が目指すものが「出来る」ようになるということ、このことに間違いはありません。
生まれつき自転車に乗れる力を持っている人はいません。自転車に乗ろうと思って練習したからその技能が身についたのでしょう。大人になれば誰でも乗れるようになるというものではありません。乗ろうと思ってやったから、乗れる力が付いてきたのです。やれば力が付いてくるです。ということは、やらなければ力など付いてくるはずがないのです。こういう当然のこと、原則とでもいうものを忘れてはなりますまい。
7、自分の考え方を整理する
これも繰り返しですが、やれば力はついてくる。実に単純なことです。何かをすれば、その体験した分だけの力という者が身についてくると言うことです。私は生徒たちに、よく自転車に乗れる力がどうして付いたのかを例にして話しますが、乗りたいと思って練習したから自転車に乗れるようになったわけですね。同じことが読むこと、書くこと、何かのスポーツをすること、なにかの技術を身につけることになどに言えます。やれば力はついてくるので、やらなければ力などついては来ないのです。何にでもそうです。遊べば、遊びの力、サボればサボりの力、怠ければ生怪の力が付いてきます。遊び癖、サボり癖、怠け癖などという力です。パチンコの力、カラオケの力…そんな言い方はないでしょうが、“癖になる”という言い方はあるでしょう。肝腎なのは、自分が何をやるか、何を意識してやっているかでしょう。やろうとしているかでしょう。
ただ、何をやってもおもしろくないということがあるものです。若いときはそんなことがあるとは思えなかったし、そんな気持ちを考えたこともなかったですが、定年退職後の私にはそういう気持ちはよくわかります。
退職後のサラリーマンは何をしてもいいし、何かしなくてはならないということもなありません。自由というのは「自らに由る」と書くのです。その意味で定年退職後の今はまったく自由です。自分が自由意思のまま生きていけるのです。こう思えば、すばらしいことだと思えるのですが、実際に毎日がそれでは、なにをやっても張り合いがない。充実感がないわけです。それは、それまでの癖、一種の力が身についてしまっているからではないでしょうか。誰か他から課題が示され、与えられ、場合によっては、その課題解消のための組織がつくられ、役割が与えられて、自分は他と連携してその役割をこなすだけ、そういう行為、行動はそれ自体が喜びでもあったのですが、退職してそういう組織から離れては、何をしていいか分からない。何かをしても張り合いがないとしか、感じられないのです。
それにしても、なぜ張り合いがないのだろうか。そもそも張り合いとはどういうものだろうか。充実感とはどんな時に感じることが出来るものなのか。こんなとを考えてしまうのです。
もう、お分かりのことでしょう。そういう方は、自分では気づかれていないでしょうが、組織でする力が身についていて、自分ひとりにはなれないのです。ひとりでは堪らなく寂しいような、落ち着かないような、そういう一種の力が身についてしまっているのでしょう。そういう人たちは、何人かが集まって勉強会とかサークルとか、また組織をつくりがちです。孤立を恐れるのです。趣味の会とか道楽の会とか、会・組織をつくりたがるのです。会とかサークルに入れば、そこで安定した場が得られるか…となれば、それは分かりません。真に安定を得るには自立するしかないのですが、自立というのは、先にも何回か触れましたように、自分の行き方(生き方)に正対して、修正、改善していく事柄を自己決定して、実行の方法までも自分が策定して、実践していく、それを続けていく、これ以外ないのです。これが独立です。他とは協調、協力はするが、自立した自分は、それらに侵されることはない、これが真に自立した個人というものでしょう。自立を目指す生き方は、退職後の生き方でもあるのです。「やれば力はついてくる」はそれにつながっていると思うのです。
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