講演の概要
ここに折々に行われた私の講演の概要を記録しておきます。


 6   学校長のリーダーシップ 1
更新日時:
H19年11月20日(火)
校長のリーダー学……(1)
"手本"になれなくとも“見本"にはなっている
 
1、教育の原点は
 これまで多くの校長さん、教頭さんたちとかかわってきて、それぞれその人柄に多くのものを学んできた。今回はそれらから私なりに感じた“教育の原点”というようなものを考えてみたい。とこういうと大袈裟になるが、もともと人が他から学ぶということは、他の"よさ"を感じて、自分もそれに近づこう、真似しようとしていくことであるといえる。スポーツ選手のプレイにあこがれる、舞台俳優のしぐさに熱を上げる、書や絵画、文学作品に近づこうとする、研究や学問に憧憬の気持ちを動かされる、などなど、学んでいく動機はさまざまであろうが、自分が「いいなあ」「すばらしいなあ!」と感じた”出会い体験“がベースになっている。「いいなあ!」「すばらしいなあ!」と感じた体験がその人にとって貴重なものとなる。とくに子どものころの「いい人だなあ!」「すばらしい人だなあ」という"出会い"は貴重だと思う。ちなみに私の場合、幸運にも何回かそういう"出会い"があった。中学生の頃国語のA先生に紹介されて読んだ「寺田寅彦随筆集」、数学のB先生の脱線話に出てきた下村湖人の「次郎物語」という本、C先生に借りたホグベンの「百万人の科学」という本、そういう本との出会いに大いに影響された。それにしても、今、目の前にいる生徒たちは、どんな"意味ある出会い"を体験しているか、こんなことを考えてみてはどうか。
 
2、A校長の人柄に出合う
ある大学生は中学生の頃、盛んに話題になっていた「生きる力」という言葉について、校長先生に、その意味を尋ねたときのことを明確に覚えているという。そのA校長はつぎのように答えたという。
 「私は、生きる力を、生きていく力と言い直して考えています。生きて行くには、ただ食べて、寝て…というだけのことではなくて、「人間らしく」生きていくとか、「よりよく」生きていくとか、「精神的に充実した生を」生きていくとか、いろいろな思いがそれに伴ってくるはずです。何が伴ってくるかは、その人の個性によって違ってくるでしょうし、同じ人でも年齢をとると変わってくるとか、状況に応じて変わるものでしょう。それが生活経験によるとか、立場や役割によるとかいろいろ考えられますが、一口にそれらも含めて個性とか生活体験によるといってもいいようです。それを私は、自分の現状を見つめて、自分が為すべきこと、やってはいけないことを自分が見つけ、その生き方の修正・改善の方法を自分が決めて、それを実践していくこと、そういう総合的な力を「生きる力」と考えようと思います。ですからその生きる力には、自分の現状を見つめる力、何を為すべきか、為さざるべきかを考え、決断する力も含まれていると思います。ですから生きていく計画を立てる企画力とか、計画をよりよいものにするために先達の方たちのアドバイスを受ける力とか、それらに伴う技術、技量(礼儀正しく質問でき、教えられたことにお礼の手紙を書けることなども含めて,アポイントの取り方とか、自分の質問したい事項をどうまとめていくかなど、具体的な話し方とか、電話のかけ方、手紙やメールの書き方など、多くの技術、技能が必要になると思います。こういう総合的な力が「よりよく生きていく力」になると考えられます。それには人生の先達から謙虚に学び、それを自分自身のものにしていく力も当然含まれますし、それがその人の「人柄そのもの」とも思えますから、生きていく姿勢とか態度とかにもつながっていくと思います。このようなことが、今の私が考えている「生きる力」ですが、これもこれからの自分の生活体験の中で少しは変わるかもしれません…)と、このように話して、とにかく真剣になって考えておられたという。その学生はその校長の人柄に魅かれて、その後もなにかとその校長に近づいていったという。多忙な校長とはゆっくりかかわる時間はなかったというが、このことがA校長の人柄にふれた「思い出」に残る出会いであったという。
 
3、視野を広げてくれた校長
 別のB校長は、この話に、自らの思い出話を語ってくれて見方を広げてくれた。それはその校長が一般教諭の頃、やや沈滞気味の生徒たちに喝を入れようと高度な問題、難しい問題を板書して「これは難しい問題だ、これが一晩でできたら相当の力がついたものと思ってよい。これができたらW高校でもK高校でも、受かるとみてよい。どうだ挑戦してみろ」と言ってのけた。これによって奮起してがんばることを期待してのことであったが、なかには、W高校、K高校といわゆる有名校の名を挙げたことに反発して、あの先生はいつも、「人それぞれに持ち味、個性というものがあって、その持ち味、個性を生かせるような高校が、その子に適した高校だ。AにはAに適した高校があり、BにはBに適した高校がある」などと言いながら、腹の底では有名校のWやKが「いい高校だ」と思っているのだ!と感じて、担任の私を白い眼で見るようになった子もいた。こういう苦い思い出である。生徒が10人いれば10人だけ、100人いれば100通りの受け取り方があると思ったほうがいい。A校長の「生きる力」をめぐるエピソードも、たまたまA校長と"ウマの合う"個性の生徒であったから、そうなったのであって、違った反応をもたらす生徒もいたであろう。こういうことを考慮しておかなければなるまい。こういう点を無視して楽観するのは、気楽過ぎる。のんきも陽気も度を越さぬがいいのではないか。もちろん"まじめさ"も"真剣さ“も同じことと考えたい。…とこのように言っていた。
 
4、原点
 人さまざまである。ここで思い出すのは「映るとも思わず 映すとも思わず 映る月と水」という歌である。月は自分の姿が池の面に映っているとは思っていないし、池の水も水面に月を映しているとは思いもしない。しかし月の姿は水面にくっきり映っているという事実、人と人ともまた同じで、互いに映し映されているという関係、映しあっている関係にあるというのである。自分は生徒たちの"手本"にはなれないかもしれないが、確実に"見本"にはなっている。ひょっとすると"反面教師"になっているかもしれない。それが教師であるし校長である。
私は、"手本"にはなれないかもしれないが、確実に"見本"にはなっているという指摘に、教育の原点を見る思いがしたのである。
 
 

 7   やれば力がついてくる・退職後の生き方
更新日時:
H19年6月11日(月)
 やれば力はついてく 
 退職後の生き方
 
1、話のはじめ
私は教育のことを考えるときに、三つのキーワードを頭においています。いやこのキーワードは教育のことを考えるときだけでなく、あらゆることを考えるときその考えの土壌、あるいは起点になっているものといってもよいと思っています。その三つとは
 
@やれば力はついてくる
A映るとも思わず 映すとも思わず 映る月と水
B過去と他人は変えられない
 
という言葉です。
 私はこの話の題名を、その第一の「やれば力はついてくる」にしました。それは、この本でもっとも私が言いたいこと、人間は何かしらを常に実行していて、それに見合う力を身につけている生き物だということ、それを端的に表していると言葉だと思われるからです。キーワードとはいろいろに解釈されそうですが、私の場合は自分の生きてきたこれまでを通して、この三つの言葉が常に密接にかかわってきていたと実感していたからです。つまりものごとを考えるキー、鍵がこの三つになっていると思うからです。その中身は、おいおいこの本の中から読み取っていただけると思います。
 
2、今大切なこと
まず、今、大切なこと…これから始めましょう。
それを私は、自分の生き方を見つめて、ここをこう直したい、止めたい、こう伸ばしたいというものを、自分できめて、それを実行する、実行しつづけることだと考えています。親や教師が子どもに、こういう生き方を身につけさせるよう働きかけること、それが教育では大切なことと思われますが、それだけにとどまらず、親自身、教師自身、つまりどんな立場の人でもこのことが大切なのだと思うのです。自分の生き方を見つめて、常に修正、改善を図っていく生き方、それは「自立」そのものだと思うのです。自分自身を自分が”しつける”こと、それを自立と考えるからです。
 
3、何が教育になるのか
教育とは、つまるところ(先にきた者)が「私は、このように聞きました、このように学んできました、今このように考えています、これからもこのように学んでいきたいです」ということを(後からくる者)に伝える(あるいは、伝わる)ことの「すべて」だと思います。これが家庭教育だし社会教育だし学校教育です。職場で教育されることのすべてがこれでしょう。禅の言葉に「心身一如」ということばがあります。「心とそれが表れた表現とは別物ではない」ということです。それを「心は形をつくり、形は心を調える」と教えてくれています。親や教師が「この子はかわいい」「いい子だ」と感じているときは、顔の表情、声の調子にその気持ちが出てしまうたとえ少々ぞんざいな言葉を発しても、その子にはうれしく感じられるものです。逆に「今畜生!」と思っているときは丁寧な言い方をしても、皮肉にしか受け取られないなどというものです。この人間の感性というものは実に敏感なもので、自分が馬鹿にされているとか、軽く見られているとかは、実によく分かるものです。子どもだけではありません。年寄りがそうです。老いて認知症が進んでいるなどというお年寄りほど、人に気持ちを察するに敏感だと思ったほうがよいくらいです。
つまり、相手が子どもであってもお年寄りであっても、自分がかかわるコミニケーションでは、どんなことを言ったかではなくて、どんな気持ちで言ったのかが重要な意味を持ってきます。会話では、どう言うか(あらわすか)、ではなく、どう受け取られるか がポイントだということです。 何を言うかではなく、どういう気持ちで言うかということ、つまり自己を見つめることが大切ということです。この自分の気持ちを見つめ、自分の心を調えるということ、これが自己教育ということです。教育の原点、もっとも大切にしたい教育がこれ、自己教育です。
 
4、気力・体力・表現力の自己育成
いつの時代にも大切なのが自分を自分が教育し、自分の気力・体力・表現力を磨き、鍛えていくことだ(つまり自己修練、自己修養である)と思いますが、とくに今日のような変革の時代にあっては、それがいっそう重要な意味を持ってきていると思うのです。
今日、コンビニという和製英語の店が全国に点在していますが、コンビニはコンビニエンスという語、つまり、便利・好都合という意味の言葉からきたものでしょう。私は万事が簡単便利になり、生活がしやすくなる方向に異論があるわけではありませんが、それがエスカレートしていくことにはある種の不安を抱いています。私はそれを、「簡単・便利・重みなし」の時代と称して、自分自身が簡単便利に流されないようにしているつもりです。今日このコンビニエンスの風潮が蔓延して、人びとは、ものごとを深く考えもせず、それこそ気軽に何かをして、それが楽しいこととしています。万事に軽々しく、軽率で、慎重さに欠けています。ちょっとしたことに面倒を感じ、億劫がる。そんな怠惰にも似た気風が日本人のものとして定着していったら、日本のこれまでの文化的風土はどうなるでしょう。日本人は基本的にまじめで正直、こまめに動き、勤勉だという一種の風土、お互い様、おかげさま、という気風が行き渡り、だから、近隣の人びとの間に、他人事(ひとごと)はないという感覚が行き渡っていたという、日本文化の土壌はどうなるというのでしょうか。私はこの「おかげさま、お互い様、他人事(ひとごと)はない」という気風を人びとの心に敷衍させることこそ、心の教育の基盤にすべきだと思うのです。
 
5、自分の力をみにつける
そのためにも、私たちは実際に、自分が、意味があると思ったことを実行し続けて、それに見合う力を身につけていくことが欠かせないと思うのです。これが、自分の生活の仕方、日々の過ごし方を見てつめていって、「ここはこう治したい」「ここはこう伸ばしたい」「これは思い切ってやめたい」というものを自分できめて、それを実行していくのです。それが「わかる」「できる」「する」というコトバでむすべる私の考えです。意識して意味あることをやるとは、たとえばこうです。 どうもテレビの見すぎだ、自分の部屋にテレビがいつもついている、見ていないのにテレビが付いているなど自分の生活にテレビが入り込みすぎているなどと感じる人は、それをもっと詳しく見ていくのです。その中で娯楽番組の見すぎだ、芸能タレントのお笑い番組はたいてい見ているなどと思えば、そういう現状をどうするか、どう修正、改善していくか、それを考えていくのです。これが自分の生き方を修正していく方法論、自己教育の方法論だと思っています。
 
6、意識して生きる
ただ、漫然と何かをやりさえすれば、好ましい力がつくというものではありません。怠ければ怠け癖という力がついてしまうし、サボればサボり癖という力がついてしまうものです。あくまでも、今、自分がすることの意義とか意味とかを考え、それを意識して、“その気になって”やらなければそれに見合うだけの力は得られないということです。
やれば力はついてくるとは、当然のことながら、やらなければ力などついてくるはずはないということです。
 読書力を身につけるには、読書する以外に手はないのです。書く力を身につけるには、その気になって書くより手はないのです。絵画にしても彫塑にしても、工芸、陶芸、工作、すべての制作にそれは当てはまると思います。
「やれば出来る、がんばれ!」という他を励ます言い方はよく使われますが、よく考えれば無責任だとも言えます。やってできないこともあるのが現実だからです。だいたい出来る、出来ないは、気持ち次第というものではあるまい。
あることが出来るとはどういうことか、また出来ないとはどういうことか、その違い、差というものは何か、こういうことを考えて見ましょう。
たとえば数学が出来るというのは、数学の試験問題が解けたということで、出来ないとは解けなかったということだとします。でもそれは「その問題が」、「その時点で」解けた、解けなかった、というだけでしかないのです。それを数学が出来るとか出来ないとか一般化するのは飛躍だとも思えます。パソコンが出来る、インターネットが出来るなども同じで、その時点で、それが出来たということで、だからどうだというのだということです。つまりパソコンで何をするのか、インターネットを使って何をするのかという、その「何」がその人の「生きる意味」につながってくると思うのです。パソコンを犯罪に使うことも、人の命を救うこともできるわけです。ただどのようなことでも「やれば力は付いてくる」と思うし、その力の量がある限度を越えるか越えないかが、自分が目的とした事柄が出来る・出来ないの分かれ道だと思います。
ただ、繰り返しますが、何事でも、実際に行動にしてみて、その行動を支える力とでもいうものが身に付いてくるということ、そういう力をつけていって、その力量が増していってこそ、自分が目指すものが「出来る」ようになるということ、このことに間違いはありません。
生まれつき自転車に乗れる力を持っている人はいません。自転車に乗ろうと思って練習したからその技能が身についたのでしょう。大人になれば誰でも乗れるようになるというものではありません。乗ろうと思ってやったから、乗れる力が付いてきたのです。やれば力が付いてくるです。ということは、やらなければ力など付いてくるはずがないのです。こういう当然のこと、原則とでもいうものを忘れてはなりますまい。
 
7、自分の考え方を整理する
これも繰り返しですが、やれば力はついてくる。実に単純なことです。何かをすれば、その体験した分だけの力という者が身についてくると言うことです。私は生徒たちに、よく自転車に乗れる力がどうして付いたのかを例にして話しますが、乗りたいと思って練習したから自転車に乗れるようになったわけですね。同じことが読むこと、書くこと、何かのスポーツをすること、なにかの技術を身につけることになどに言えます。やれば力はついてくるので、やらなければ力などついては来ないのです。何にでもそうです。遊べば、遊びの力、サボればサボりの力、怠ければ生怪の力が付いてきます。遊び癖、サボり癖、怠け癖などという力です。パチンコの力、カラオケの力…そんな言い方はないでしょうが、“癖になる”という言い方はあるでしょう。肝腎なのは、自分が何をやるか、何を意識してやっているかでしょう。やろうとしているかでしょう。
 ただ、何をやってもおもしろくないということがあるものです。若いときはそんなことがあるとは思えなかったし、そんな気持ちを考えたこともなかったですが、定年退職後の私にはそういう気持ちはよくわかります。
退職後のサラリーマンは何をしてもいいし、何かしなくてはならないということもなありません。自由というのは「自らに由る」と書くのです。その意味で定年退職後の今はまったく自由です。自分が自由意思のまま生きていけるのです。こう思えば、すばらしいことだと思えるのですが、実際に毎日がそれでは、なにをやっても張り合いがない。充実感がないわけです。それは、それまでの癖、一種の力が身についてしまっているからではないでしょうか。誰か他から課題が示され、与えられ、場合によっては、その課題解消のための組織がつくられ、役割が与えられて、自分は他と連携してその役割をこなすだけ、そういう行為、行動はそれ自体が喜びでもあったのですが、退職してそういう組織から離れては、何をしていいか分からない。何かをしても張り合いがないとしか、感じられないのです。
 それにしても、なぜ張り合いがないのだろうか。そもそも張り合いとはどういうものだろうか。充実感とはどんな時に感じることが出来るものなのか。こんなとを考えてしまうのです。
 もう、お分かりのことでしょう。そういう方は、自分では気づかれていないでしょうが、組織でする力が身についていて、自分ひとりにはなれないのです。ひとりでは堪らなく寂しいような、落ち着かないような、そういう一種の力が身についてしまっているのでしょう。そういう人たちは、何人かが集まって勉強会とかサークルとか、また組織をつくりがちです。孤立を恐れるのです。趣味の会とか道楽の会とか、会・組織をつくりたがるのです。会とかサークルに入れば、そこで安定した場が得られるか…となれば、それは分かりません。真に安定を得るには自立するしかないのですが、自立というのは、先にも何回か触れましたように、自分の行き方(生き方)に正対して、修正、改善していく事柄を自己決定して、実行の方法までも自分が策定して、実践していく、それを続けていく、これ以外ないのです。これが独立です。他とは協調、協力はするが、自立した自分は、それらに侵されることはない、これが真に自立した個人というものでしょう。自立を目指す生き方は、退職後の生き方でもあるのです。「やれば力はついてくる」はそれにつながっていると思うのです。
 

 8   子どもの自立を促す教育のあり方
更新日時:
H19年3月3日(土)
         
 私がいただいた課題は「子どもの自立を促す家庭教育のあり方」というものです。電話でこういうテーマをいただいたとき、まず、1、自立とはどういうことか、 どうしたらそれが身につくのか ということが頭に浮かびました。自立とはどういうことか、それを語ることは三人いれば三人とも違った言い方をするのではないかと思います。ここでは話を共通のものにする意味でも、私の考える「自立」についてまず聞いていただきましょう。私は人間の、他の動物との違いを自分のことを見つめること、自分のしたことを見つめられることと考えています。思えば私自身が、子どものときから親や先生に、「やって見なさい」「やってご覧」と言われて、いろいろなことをやってきました.やって見ろ、は、何かを実際にやって、それを自分が見ろ、ということだったのです。自分のしたことを自分が見て、うまく言ったとか、うまくいかなかったとか見ていくうちに、うまい方法、うまいやり方を身に着けていったのだと思います。試行錯誤というのでしょうか、そういう言葉は知らなくとも、子どもの私は、それを繰り返して、どうやら何かをするようになったのだと思います。私はあらためて、この「やって見なさい」「やってご覧」のもつ「見なさい」「ご覧なさい」に大きな意味、深い意味のあることを感じています。
 そこで、私は自分のことを見て、あるいは見つめていくこと、それが人間としての生き方の基本になっていると思われるのです。自分のやってきたこと、言ってきたこと、書いてきたこと、日々の生き方を見つめて、ここはこうしたほうがよかったとか、これはやめたほうがよかったとか、考えて、これからは、こうしたほうがいいと 2、わかるし、そのきになればできることを、自分で決めて、それを実行する、実行し続けることこそが極めて大切だと思うようになりました。それを「わかる、できる、する、し続ける」というキーワードにして自分を律しているつもりです。わたしはこの「し続ける」を「しつづけ」「しつけ」と読んで、これは、自分が自分をしつけることだと解釈しています。そして、この自分が自分をしつけることが自立への道、自立そのものだと考えています。ですからこの考えは、子ども親も教師もありません、みんな同じです。その基盤には、
やれば力はついてくるという大事な事実の確認があるのです。子どものころ、私は兄の自転車に乗るのを見て、ボクモ乗りたいとねだったものです。母はまだ小さいから危ない、お兄ちゃんのように学校に上がったら乗っていいと言いました。私は二年間待って、小1になって乗ったのです。最初は後ろを押さえてもらって、ふらふらしながらサドルにまたがったのでした。転んだりぶつけたりしながら、一週間もしないうちにどうやら乗れるようになったのです。自転車に乗ろうと思ってやったから、乗れる力がついてきたのです。やらなければ乗れる力など身につくわけがありません。読書力を身につけるには本を読まなければなりません。計算力を身につけるには計算しなければなりません。どんなことでもそうです。書かなければ書く力など身につく筈はありません。これは大切なポイントなのです。つまり何をするかによって、身についてくる力が違ってくるということです。ゲームをやればゲームの力(とでもいうもの)が身につく。パチンコをやればパチンコ力が身につくというものです。サボればサボりの力?(サボり癖)が、怠ければ怠けの力?(怠け癖)が身についてしまうということです。それを昔の人は「習い性となる」といいました。習慣は、ついにはその人の生まれつきの性質のようになるという意味です。人間は何もしないでいるということはできません。生きている限り何かしらをやっています。ということは、生きている限り常に何かしらの力をつけているということです。
いいですか、学ぶ力は学んでいかなければ身につかないのです。この学び方を教えるところはどこでしょう。それは学校でありますが、学校だけではありません。家庭がそうですし、社会がそうです。いま私は「教える」といいましたが、もっと一般的に伝えるというほうがいいいや黙っていても伝わるというほうがいいと思います。それが広い意味での教育というものです。つまり教育は、後から来るものに、自分の経験、体験を伝えること、伝わってしまうことのすべてであるといえると思うのです。ここでさらに私たちは、「映るとも月は思わず映すとも水は思わぬ猿沢の池」というある僧侶の「悟り歌」といわれる真理を考えないわけにはいきません。奈良、猿沢の池の畔にたたずんで、月の姿が猿沢の池の水面にくっきり映っているのをじっと見つめていて、おお、そうじゃ、とひらめいて悟りが開けたという話です。月は自分の姿が池の水面に映っているとは思いもしない、猿沢の池の水面も月の姿を映そうとおもってもいない。だが事実は月の姿がはっきりと水面に映じているのです。人間社会もまったく同じで、親や教師は自分のものの考え方だとか、話方、書き方、ちょっとしたしぐさなど、一挙手一投足が子どもに映っているとは思っていないし、子どもも自分の話し方、書き方、見方、座り方、歩き方、食べ方、飲み方などが親や教師のそれらに似ているなどとは思ってもいません。けれど、保護者会などで、親の話し方、ちょっとにしぐさに、ああこの子はこの人の子だなと感じることが少なくありません
今、大切なことは、自分の生き方を見つめて、修正、改善したいものを自分がきめ、その実行・実践の方法をも自分がきめ、それを実行し、実行し続けていくこと、つまり、「自分が自分をしつける」ことということができると思います。自分を自分がしつけること、これが今日、何よりも大切だと思うのです。その根底にある考えは、やれば力はついてくるということですし、過去と他人は変えられないということです。
 
質問にお答えします。
 
過去と他人は変えられない
 
このことについてご理解のいただけない人がおられるようです。その人の考えは過去は変えられないのはわかるが、他人が変えられないというのは、もう一つすとんと腑に落ちないということのようです。そういう人の言い分は、人間は他の人に影響されて変わるものだというのです。確かにそうですが、その人が変わったのは、その人がある人のものの考えとか、ある人物の生き方に感銘して,自分もその人の生き方を見習おう、その人の生き方に近づこうと、発奮した彼自身がそう決意しての結果で、その意味では彼自身が彼自身の生き方を変えていったのだと思うのです。教師のAが生徒のBを変えたのではない、教師のAに触発された生徒のBが、自らをAの言うように(Aのするように)変えていったのです。教師Aが自分の思い通りに生徒Bを変えて言ったのではありません。生徒Bはそれでも、「私はA先生の指導で、生き方を変えた」とか「A先生のアドバイスで、このように変わった」というかもしれません。それはそれでいいのです。ですが教師のほうが、「Bを変えたのは私です」とか「Bをこのように育てたのは、私です」などと言うのは間違っています。教師は生徒とともに暮らしていって、少なからず生徒に何かしらの影響を与えはしますが、教師の影響がすべてではありません。これは親の子に与える影響力についても同じです。教師や親がすべてではありません。これはあの「映るとも月は思わず映すとも水は思わぬ猿沢の池」という悟り歌がすべてを物語ります。親や教師が、どんなに子ども、児童生徒を愛していようとも、自分の思い通りに子ども、児童生徒を変えることなどで気はしません。そんなことを考えること自体おこがましいことです。「過去と他人は変えられない」のです。これは「変えることのできるのは、今の自分でしかない」ということです。これを肝に銘じて、人間、いくつになっても、どんな立場になっても、自分を自分が変えていきましょう。いくつになっても、どんな立場になっても、よりよい自分になるように、自分を変えていく、これが生涯にわたる自己教育というものでしょう。
 
 



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