ラジオ体操の会場で蝉の声が大きくなった。と、書いて、こういう考え方、蝉という昆虫を人間のようにみて、声がするとか、大きくなって喧しいとか、そう表現するのは日本人の感覚だろうか、外国人にもそういう表現はあるのだろうか、などと妙なことが気になった。すぐにイソップ物語のようなものが浮かんできて、生き物、動植物が人間と同じようにしゃべり、動き回っているアニメ映画など連想して、擬人法というのかな、それはどこの国でも共通の情緒なのだななどと思ったものだ。蝉の声は機能の朝も聞こえた。というよりも機能は「あれ、蝉だ」と感じて、この下町の小さな公園にも蝉がやってきたのだななどと、ちょっと自然を感じたものだった。鳴き声のする木はどこかとちょっと気になったが、声を頼りに探して歩くという子どもの頃の蝉とりとは違って、ふと思っただけのものただそれだけ、少年の頃の蝉とり、とんぼとりの情熱を持ち続けている人が昆虫学者とか蒐集家になっているのだろうかなどと思いが巡る。自分が若いときから持ち続けたものとは何か、いやそんなモノが自分にはあるのか…と考えて、私の人生など薄っぺらなものと、これも妙にいやになった。蝉の声はあと何日聞こえるのだろうか。寿命はせいぜい一週間などという知識はあったが、これは本の上の知識でしかない。ほんの一瞬、泡沫ということで「うたかた」などという言葉も連想されたが。それもただそれだけ…都会の片隅に紛れ込んできた蝉の声はどことなくむなしかった。
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