| 平成18年8月29日 火曜日
すべてを失うこと |
ふと間違えてこれまで保存してあった録画の情報を全部消失してしまった。これが実にショックであったが、同時に「すべてを失うこと」とは、どういうことかをじっくり感じられて実に気味が悪かった。何もなくなるとは自分のこれまでの生き方のすべてが消失するということだ。いつか何かの本で無一物中無尽蔵という言葉を読んだことがあるが、それを思い出した。また誰だったか忘れたが、これはあまり親しくしていた人ではなかったが、確かある事業家が倒産してそれこそすべてを失い一文無しになったとき、すべてを失うことは実に爽快という意味のことを言っていた。何も思うこともなく、何も煩うこともないという意味のようであって、会社経営、事業経営の重圧から逃れること、重荷を放擲した実感というものを感じたことであった。未練が丸でないこと。一つ二つ、いくつかのこだわりを棄てれば、そこにありとあらゆるものを楽しむ心が生まれる。自由、つまり自ずからに由るという生き方を愉しめるということらしい。失うことは得ること、という一見矛盾するような意味も生きてくるとなるのではないか。
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| 平成18年8月25日 金曜日
手紙の時代、メールの時代 |
電話で何かの勧誘、何か商品の勧めは、不愉快だ。電話は家の中にずかずか入ってきて、これはいいものですよ、ひとついかがです?と物を売るようなものだ。非常識、礼儀知らず。しかも電話は匿名性で入ってきた奴がどういう顔をしているか、どんな風体の奴かわからないときている。卑怯だ。メールも同じ。迷惑メールなどという言い方があるが、迷惑電話も度が過ぎることが少なくない。招からざる客という言い方があるが、こちらはもちろん招いているわけでもなく、そ奴に義理もなければ、借りもない。こちらが仕事中でも食事中でも勝手にずかずか入ってきて、自分のほうの宣伝をする。こちらに今何をお使いですかなどと質問してくる。そういう質問は、どんなことでもこちらの中身に立ち入ろうとするものだ。ADSLですか、フレッツですかなどという。そんなことは答える必要がないのである。…ただ、こういう電話さえもかかってこなくなったら、やはり寂しくなるだろうなと思う。リタイアして20年にもなろうとしていると、世間からも相手にされなくなる。こちらが電話をするのも、なにか忙しい彼に用もない私が声をかけるのが気が引ける。メールしても届いているのかいないのか反応がない。私のことを何かと喧しくいうのは家内だけ、こんな状態で、これが終わりというものかと妙なことも頭をよぎる。メールに時代からも取り残されたもの、複雑な気持ちである。
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| 平成18年8月17日 木曜日
夏目漱石の「草枕」を読み返して |
私はこれまで平凡な「苦あれば楽あり」ということわざを、「苦なくして楽なし」と読み替えてきた。そうして自らにくる”苦”を克服しようと自分を鼓舞してきたつもりなのだ。たまたま漱石の「草枕」を読み返して、あの有名な冒頭の部分はこのことを繰り返して述べていることに気がついた。漱石があげているのは、智と情、理性と意地、明と暗、日の当たるところと影の部分、喜びの深いときは憂いも深いこと、楽しみの大きい補で苦しみも大きい、などである。
今の私は、今の生活に慣れて、その中であれこれ不満や不平を言っているが、この自分が自分の10年前、20年前の生活へタイムスリップしたらどうだろう。テレビもなく電話もない、車も、住む家もまるで次元の違うような家、それが当時の「我が家」であった。万事にモノ不足、あの時代の、あの社会にあった「我が家」での生活ができるのだろうか。10年前、20年前の私はそこを生きてきたのだ。苦あれば楽あり、はそこでも働いていたと思うが、今の私にはあの当時はまるで苦のみ楽なし、としかいえない有様ではなかった、と今は思っている。時代が変わってきたとは、この自分も大きく変わってきていると言うことだ。今私はエアコンのきかないところには居られないと思っている。事実今ではどこへ行っても涼しいところがあって、そこに逃れられる。私たちには今は「苦なくして楽なし」が上滑りしてしまう時代になっているのではないか。ということは楽だけに慣れてしまって、ほんの些細な苦をことさら大げさに感じ、悪のように感じてしまう感覚が身に付いてしまっているのかもしれない。これは恐ろしいことだ。自戒しよう。
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| 平成18年8月8日 火曜日
興味関心に優劣はない |
人間の興味関心というものには、際限がない。人間には収集癖というものがあって、乗り合いバスの中にセットしてあるスイッチを集めて喜んでいる人がテレビにでていたが、これなど、そういうバスなどに関心のない者にとっては全く意味のないことである。意味があるとかないとかは、まったく個人的なもので、私がこうして何かを書いていることも、全く意味ないと見る人が大勢いるだろう。自分が興味関心を持つことは全く個人的なものと思った方がよさそうだ。そうではなく他との関わりを考えると、そこに迷いも生まれ、トラブルも生じることにもなるようだ。たとえばここに自分がきわめて興味があり関心の高いモノがあったとしよう。だがそれには他の人たちは何も興味を示さず、関心もなかったとする。ここでいうモノとは物資的なモノに限らずあらゆる事象を含んでいるモノと考える。理屈の上ではソレはあなたのモノ、あなたが独り占めしていいものと言うことができる。だが、おかしなモノで、人間はソレでは満足しないモノのようだ。自分と同じように何人かの人がそれに興味を抱き、関心を寄せて、ソレをほしがる。多くのそういう人と競い合って、それを手にしたとき、あなたは満足する。人間とはそういうモノのようだ。だが自分の興味関心に興味を持たない、あるいは関心を払わないからといって、その人を攻めたり、なじったりするのはお門違いである。自分の興味関心に不快な感じを持つ人も世の中にはあるということ、それをはっきり認めることである。しかもそれをもってそれらの人を否定的に見ることは、自分の思い上がりに過ぎないと自覚していなければならない。思想の自由とは、興味関心に優劣はないと真っ先に認める土壌の上に成り立つものである。靖国問題なるモノは小泉氏の意地っ張りの頑なさにもあきれるが、中国、韓国の態度にも大人げないものが感じられてしようがない。小泉氏のアメリカに対する姿勢と中国、韓国に対する姿勢とは違いがありすぎると受け取るのは私の見方がおかしいのであろうか。
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| 平成18年8月5日 土曜日
自分のペースとは何? |
自分のペースとは何か。これがどういうものかわからない。というよりこの自分のペースというものを文章化できるものなのかどうか。これすらはっきりしない。私の場合、たしかに書いていくのに調子が出ていると思うこともある。書くことがつぎつぎに浮かんできて、キーボードをたたくスピードも速くなるときだ。気持ちもよい。だがなぜそうなるのかはわからない。本を読むことでもそうだ。その本にのめり込むように読みふけることもあるが、どうしてもその本に入っていけないこともある。それが私の読書傾向というものらしいが、それを分析するほど私は読んではいない。ただ自分がこれまで関わってきた学校教育の問題では、読んでいてイメージがわくというのか、実際の場面が推定されて、書かれていることが著者の体験を土台にしているのか、たんなる評論にしか過ぎないのかがわかるから、そのフィルターで見ていくことができる。こういう体験が自分のペースを見ていくときに役に立つと思うが、それにしても自分の傾向とかペーストかをどういう切り口で切り取り考えたらよいか、わからない。。
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| 平成18年8月4日 金曜日
再出発 |
ふとしたこというのか、大きな油断からというのか、パソコンのデータを一気に失ってしまった。HPのデータもなくなって、とにかく修復は不可能ということになった。しかたがないので新しいパソコンを買って、新規にまたHPを立ち上げることにした。だが、ここで気づいたのは自分がこれまでやってきたノウハウが、見事に忘れられているという事実だった。一から出直し、という言葉があるが、それを実感している。それにしても以前書いたものが惜しい。そんな未練を引きずっての再出発ということになる。
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