どんな人でも、自分はこれをこそやりたいというものに出会って、それに熱中して取り組めた人は幸せだと思う。自分が真にやりたいと思うもの、誰のでもないこの自分の”それ”は何だったのか。改めてそれを考えてみると、どうも“それ”があったようでもあり、ないようでもあることに気が付く。大袈裟でなく命がけで打ち込んだこと、これこそが私の命とでもいうものが、あったようななかったような、なんとも心もとない始末である。私は中学校教師として学級経営に熱心であったし、とくにグループノートを介在しての生徒たちとのかかわりには熱心だったが、それが自分のライフワークとなったとはいえない。自分の気持ちを書くことが生活習慣になって、指導主事になっても校長になっても、自分が学んだこととか考えていることとかを、書いて教師たちや生徒たちに贈るという働きを続けてきたくらいである。それが今日でもこういうHPになって残っているともいえる。だがそれを自分のライフワークだというのはおこがましい気がする。そんなわけで私には”これこそ”と胸を張るものが見当たらないのである。
こんな自分でも好きなことはいくつかあった。小学生のころ絵を描くのが得意で好きだった。ただ当時は手本という本、(印刷された見本)があって、その手本を見て手本どおり描くのが主だった。それでデッサン力が身につけられるというのか、そんなことが指導者の目的だったらしく、とにかく手本を写すことが図工の時間だったような気がする。小学校4,5年の頃、新聞か雑誌に出ていたソラリゼーションの写真、西住戦車長という当時の憧れの人物の写真を、写して描いてほめられたことを覚えている。今考えればあれは自分が描いたのではなくて写し取ったもの、なんら創造的なものはなかったのだ。そういえば書道もそうで、手本どおり書く、写すこと、まあ器用か不器用かみるだけの教科だったとしか思えない。作文もどちらかというと感じたままを感じたとおりに書くことが可とされていたように思われる。ありのままをありのまま文章にすることが、いい作文、いい綴り方だと教えられた。手紙文集などという模範文というのがあって、それに似たような書き方が奨励されていた時代であったとも思われる。それはいわゆる写生文とはちょっと違う、模倣がもてはやされた時代であったと思う。今日のような独創性、創造性は養成されなかったと言ってよい。万事に素直が良しとされ、批判とか、批評とかは嫌われていたらしい。ましてや自己主張などは生意気とされ否定されていたのだろう。これが私自身が育てられた少年時代の風潮だったのだろう。
結局、私が受けた授業とは、何かの見本が示されて、それに似せて書くとかつくるとかというもので、自分の内部から作り出すもの、生み出すものではなかったということになる。私は本当に自分がどういう人間で、どんなことを心から望んでいるのか、自分が”それ”をしたくて、したくてたまらないものを探せないで命を終えていってしまうのか。…こんなことを考えていくと、私の人生なんて何だったのかと虚しく思えてくる。
中学生になって、本を読むことが好きになった。というより私も人並みに知的な好奇心のようなものに芽生えたらしく、貸本屋に日参して読み漁った。少年講談というジャンルがあったし、「少年探偵団」とか「まぼろし城」とか「怪人二重面相」とか、そういったものが本読みの導入期にあったのだ。とにかく乱読。系統的に読むなどというのはあることさえも知らなかった。
これからでもいい、今私がやりたいもの、書きたいもの、つくりたいものを、これまでとは違った視点でじっくり見てみよう。じっくり勉強してみよう。そんなことを思っている。
|