クレーマーに敵対せずに応ずる「学校の品格」
1、まともな会話のない時代
今、私たちが住むこの社会は、ある程度の欲求を満たしてくれるように変わってきている。物資が豊富だし、それを手に入れる方法が簡単になっている。コンビニエンス(便利)という名がそれを象徴している。万事に「簡単・便利」になったのである。ただそこには「重み」はない。簡単、便利、重みなし、である。
コンビニでの買物は一口も口を開くことなしにできるし、レジの係りの人は自分が計算することなしに、バーコードで支払金の数字を出してみせる。客は黙ってトレーに金を乗せる。係りの人は機械的に「ありがとうございます、またどうぞ」と決まり文句を機械音よろしく繰り返す。そこにはかつての商店街の店先で交わされた“世間話”の温もりはない。
私はコンビニでの“買物”と書いたが、あれは私の中の”買物”のイメージとはかけ離れている。私にインプリントされている”買物”とは、「今日は何がいいの」「これなどは旬ですね」「いやあ、それいいねえ、懐かしい日本の香りですね」「いいでしょう、お袋の味を思い出させますね」「これはいくらなの」「○○にしておきますよ」「どう、三つ買うからもう少しまけてよ」「そうねえ、いつも買ってもらっているから、負けちゃうか」「ありがとう、この間の××もよかったわよ」「そうでしょう、ここの仕入先は間違いないんですわ」「そうね、ありがとう」「いやあ、毎度ありーい!」というようなやり取りがあっての”買物”である。今は、こうしたやり取りはまれになった。
万事が、自動販売機にコインを入れるとガチャンと音がしてビニール包みの品物が出てくる、あのようなスタイルに似てきた。電子マネーが普及すればさらに、こうしたロボット化が進んで人と人とのコミニケーションゼロの時代になってしまうだろう。
これは他人事ではない。私たちはこの時代に生きてきて、自分自身が”世間話”とか”気の置けない無駄話””雑談“ができないロボットのような人間になっているのではないか。
2、話しべたの聞きべた
こういう世の中で、私たちは話しべた、聞きべたになっているのではなかろうか。生きた人と人とのコミニケーションが日常希薄になっている今日、おしゃべりは何とかできても、まとまった話は面倒くさいとか、堅い話は苦手という傾向が強くなっているのではないか。
教師の自分もそうだ。自分は保護者の話をきちんと聞けるのか。そもそもきちんと聞くとはどういうことか、保護者の言うこと、保護者の気持ちを受容できるのか、自分の気持ちを相手に上手に伝えられるか、自分の気持ちが保護者に受容されているか、誤解があったり曲解されたりしたことがあったら、それはどうしてだと思うか、自分の伝え方にどこか足りないところはないか、などなど、こういうことに時間をかけじっくり考えてみる必要があるのではないか。
3、自分は“まとも”という落とし穴
今日、人びとは、この自分も含めて、サービスは受けるのが「当たり前」という感覚になっているのではないか。ゴミが散乱している、何かの騒音がする、電気や水道、ガスのちょっとした故障、不具合がある、ちょっとした事故がおきた、こんなとき、私たちの中に電話一本で行政が排除し整備し、修繕してくれるという感覚はないだろうか。こちらは税金を納めているのだ。公務員は税金でやとわれている公僕ではないか。国民の要求を実現するために公務員はあるのではないか。選挙公約にもそうあったではないか。
ごね得というコトバもある。ダメでもともと、とにかく電話を掛けてみよう…というような、「簡単・便利・重みなし」の延長線感覚が誰の中にもあるのではないか。
4、コミニケーション能力を磨く
今日、多くの人が傾聴ということを言う。まずその保護者の言うことを聞く、傾聴することから始めるべきだという。それは間違いのないことだろう。
だが学校で、どうしたら傾聴の能力がアップするのか。傾聴し、自分の気持ちをわかりやすく伝えるには、どういう訓練をしたらよいか。そういうことには、あまり触れられていない。
こういう時代であるからこそ、私たちはコミニケーション能力を身につけ、そのスキルアップを図っていかなければならないのであろう。
5、傾聴の訓練…自分の聞き方、自分の話し方に正対する
ある学校ではこういう「傾聴の訓練」をやっている。3人の教師A,B,Cが、話し手、聞き手、評定者と役割を分担する。傾聴訓練のための課題をきめ、たとえば「自己紹介」として、Aが3分間、自己紹介をする。Bはひたすらそれを聞く、Cはメモなどしながらその様子を記録していく。録音もするが、これはあとで3人が確認する必要が出てきたときの用意である。
大切なことは真面目に真剣にすることである。リラックスしていることはいいが、馴れ合って面白半分であってはならない。
平素からの意思の疎通した同僚、顔見知りの仲間では、相手の「自己紹介」を彼の話以上に聞いてしまうことがある。相手を知っているため、相手が言わないことまで聞いてしまうという過剰反応である。
この訓練の場ではAがその場で話したことを、BもCも忠実に聞くということが大切である。つまり聞き手は、Aはこうだろうとか、こうに違いないなどという憶測や解釈で聞かないということである。つまり先入観を持たずに聞くということである。
3分間でAが自己紹介を終え、すぐBがAになって、Aの自己紹介をする。これはAの口真似をするのではなく、自分がAから聞いたことを材料にして、Aになったつもりで「彼の紹介」をするのである。ただこれだけである。
終わったら3人がそれぞれ役割を交代して、「私の心配事」「これからやってみたいこと」などとテーマをきめて初めからやり直す。
一通り終わって、自由に感じたこと、考えたことを、率直に語り合う。こうしたことは一種のブレインストーミングになっているとも見える。そこでの感想「ありのまま聞くとは、非常に難しいことと実感した」
「相手の話を聞いているつもりだが、自分の解釈とか想像とかが入って、聞いていた」
「相手が何を言いたいのかわからないことがあった、これは自分の解釈があるからだ」
「自分でうなずけるところだけ、きいている感じがした」
「メモをとっても自分の考えとか解釈とかが入って、それに偏ってしまう」「つまり自分の気に入ったところが強調され、そうでないところは聞き流されている気がする」
「自分の言っていることが、他の人には別のことと受け取られることが、こんなに多いとは思わなかった」
「自分が強調して話したつもりのことも、録音では平板にしかきこえない、がっかりだ」
「話し方が下手、あきれた」
「話し方、聞き方は難しいと実感した」
…こんな感想が、そのまま自分たちの話し方を慎重にさせ、聞き方を謙虚にさせるものと思われる。これがこの学校での傾聴の訓練である。
6、学校の品格…自分を調べる教師たち
「相手の言うことをよく聞く」
「気持ちを傾けて聴く」
「聴くことに徹する」
文字にすればたったこれだけのことであるが、そこに含まれるものの深さ、広さを、このような訓練を実行して実感する。
この学校の校長は、自分たちがこういう「簡単、便利、重みなし」に傾いている時流にあると認識しているからこそ、所属の教職員にこうした“傾聴の訓練”を勧めていたのであった。
話すこと、聞くことに、もっと謙虚になって欲しい。それは傾聴の大切さを知ることにとどまらず、自分の聞くことの癖とか、話しかたの傾向とかを実感すること、自分の話し方、聞き方を調べることが入り口になるとの、信念といってもよいものによる”勧め”が、この「傾聴の訓練」であった。
教職員の中から、自発的にグループができ、先に紹介したような「傾聴の訓練」を実践して、そこから体験的に学んだことが、他の同僚たちに伝えられ、その実践がひろがっていった。こうして、この教師自身が「自分を調べる」とでもいう体験を重ねていって、学校の雰囲気が変わっていった。
学校の品格とは、このような実践のもとに醸成されるものと、私はしみじみそう思ったことであった。
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