気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成19年11月16日 金曜日    過去の名声にしがみつくな
ビデオで映画「永遠のマリア・カラス」を見た。世界に名声をはせたプリマドンナ、マリア・カラスが後年50歳を過ぎて思うように声が出ず、舞台から退いている。一人の演出家が映像を撮って、それに若いときのカラスの声をのせて映画とかビデオにして復活させようとする。いろいろあったがそれは成功して圧倒的な支持を受けてデビューしようとする。だが競演する若者の「自分の声で出演したい」という望みを聞いて、彼女は完成したフィルムの上映、販売などの承諾を拒否する決意をする。映像とか録音とかの技術で作られたマリア・カラスを否定し、今のマリア・カラスとして生きようとするのだ。そこには莫大な損害、ペナルテイがついてくることは分かっていながら、あえて自分の今を真っ正直に出して生きたいという彼女の決意があった。こういう物語だ。ここでの教訓は、栄光の過去を懐かしみ求めるな、今は今で”あるがままをあるがままに”生きよ、それがいい生き方だしそれ以外はない…という教訓があると思うのだ。過去の名声への復帰は、魅力的な誘惑だが深い落とし穴がそこにはある。今の“あるがまま”を隠すな、ごまかすな、今を莞爾として受け止め受け入れよ、決断とはこういうことをいうのだ。そんなことを私はこの映画から学んだと思う。私などマリア・カラスとは比べようもないが、それでも過去に自分が実践してきたことに執着し、それを懐かしみ、そこから離れられないでいるものがある。そんな瑣末な私などは比べようもない大マリア・カラスが過去のあの世界的名声から脱却して自由になろうとしている。このエネルギーは大変なものだと思って、この映画のテーマは「過去のいい時期のことにしがみつくな」となるのではないかと思ったことである。
 

 平成19年11月12日 月曜日    生きているということは
人間が生きているということは、何かしら表現をしていることだと私は思っている。退職後の私は、一日中、これといったものもなく過ごすこともある。だがそれにしても、何かしらの表現をしているのである。何かを読むという行動、何かを書くという行為、ぶらぶら歩くという行動、そこで見たこと、出会ったことを誰かに話すということ、話すために地図を描いたり、絵に描いたりする行為、話し方が下手だと気づいて、言い直したり、聞き手の人に問うてみたりする、これらはみな私の表現活動であると思う。ただ自分はそれらを表現活動などと意識してはいないだけである。そこで、ぼんやりしている、一日中無為に過ごしている…などということになる。だが考え方を変えれば“そうでもない”と思えてくる。眠くてうつらうつらしていたなどというときでも、居眠りという形で休息していたとなる。休息は一つの態度の表れ、それ自体が自己表現ということもできそうだ。まあこれはこじつけに近いが…、もう少しこじつけ一歩手前のことに付き合っていただこう。
サラリーマンが怠けたり、仕事人がサボったりするのも、自己表現だとみることができる。何をするのかは、誰でもない当の本人が決めることだからだ。学生が授業中に内職するのも、授業に出ないで他の教室にもぐりこむのも、マージャン屋やパチンコ屋に行くのも、その学生が決めたことだ。悪友に誘われたからとか、クラブのボスに脅かされてとか、事情はあったとしても最終的にその行為・行動を選んだのは自分である。もちろんその結果、サラリーマンの勤務評定が下がったり、学生の成績評価が下がったりは、それこそ身から出たさびと思ってペナルテイを受ける覚悟はしていなくてはならない。
 死んでからは何も表現できない。表現して残すことは、生きているうちの自分の行為行動で、しかもそれが誰かに何某かの印象になって残ってくれることでしかない。描いて残す、書いて残す、作曲して残す、などなど、それが自分がこの世に生きてきたあかしというものらしい

 平成19年11月3日 土曜日    進路相談に答えられない私の本音
1、進路相談を持ちかけられて
●NHKテレビに、100年インタビューという番組があって、100年たっても色あせない、100年後の日本人にも見てもらいたいインタビュー番組と銘打っている。その人の経験に基づく人生哲学、苦悩、挫折、今をどう生きて、何をめざしているかを、各界のエキスパートに聞くとある。その番組で、著名な建築家の安藤忠夫氏が「好きなことを好きだというだけで、思う存分やればいい。それが人生を豊かにする」…と言っていた。なるほどそうだろうと思う。ただ儲かるとか有名になるとか、そんなことを計算しては、もうそれだけで値打ちがなくなるという。そうだろうなと思う。そうであって欲しいと思う。ノーベル賞の小柴昌俊氏も同じようなことを言っていたと思う。
●だが、そう言って憚らない人は、いわば選ばれた人ではないかとも思えてくる。安藤氏や、小柴氏のような、不遇な境遇に生きた人が大きな業績を残されたのは、やはり“選ばれた人”だと思えてもくる。
●この自分はどうだ、自分にも、いくつかの「好きなものとの出合い」はあった。絵を描くこと、筆で文字を書くこと、小学校のときの図画と習字だが、それが好きだった。だがそれだけで“好きで好きでたまらない”という域には程遠かった。小学校のあのときに私が絵画とか書道とかの道に進めるようなシステムの中に入れられていたら、どうなっていたかはわからない。いずれにしても私の育った時代とか環境とかが、書画への関心を伸ばしてくれるようなものではなかったことは確かである。そればかりではない、野球も水泳も、その後の登山も、それこそ好きでやった時期があったが、それとても“好きで好きでたまらない”というところまでは行かれなかった。チャンスがなかったということなのだろうかとも思う。よくいえば興味関心が多岐にわたっていたとなるが、あちこち気が移る、そんな拡散的な性質だったのだろう。
●自分の出合った、人びととか、事件とか事象とかが自分の生き方をきめてきた、少なくともそういう側面を蔑ろにはできなかったと私は思う。一時期、私も数学に憧れ、数学に熱中したときがあったが、数学では「飯は食えない」とアドバイス?してくれた先生がいた。そのせいにするのは卑怯だが、あのとき、「飯は食えないかもしれないが、夢は食える」とでもアドバイスしてくれたら、どうなっていただろうと思っている。
●寺田寅彦の随想にほれ込んだ時期もあって、同人誌のようなものをつくってエッセーを書いていたこともあったが、それとても物書きに没頭したとは言いがたい。
●今になって思うのは万事が中途半端、全力で打ち込んだものがなかったと思う。だからはっきり言って、私は自分にどれだけ力があるかわからない。これは自惚れで言っているのではなく、何か一つのものに打ち込んで全力を発揮するという体験があったとは言えないからだ。
●そして、これが今になって寂しくも思い、残念にも思うものである。
●今、その自分が、若い学生や、若い教師たちから、その進路について「どうしたらいいと思うか」と相談されるときがある。そんなとき何を言うのか、言ったらよいか、わからない。私はただ自分の紆余曲折を正直に吐露するだけである。
 
2、自分の気持ちを落ち着ける
●諸行無常だなあ、と思う。この世に変わらないものは何もないという。これは考えてみれば怖いことだ。
●今、愛し合っている二人、私の気持ちは永遠に変わらないと思っているし、誓い合っているかもしれない。だがそういう二人が結婚して数年のちには離婚しているものが1000人中40〜50人いるという。
●誰のことでもない、自分のことを考えてみよう。人の心、自分の気持ちはころころ変わるのだ。ころころ変わるからココロというのだと誰かから聞いた事があるが、そういうものも含めて人間なのである。
●人間だけではない、諸行はみなそうだ。諸行は無常なのだと釈迦は達観し、教えてくれた。それを自覚しようと、気がつかなくとも、ものは常に変わっているのである。
●こんなことを書いて来て、ふと一つの仮説を思いついた。それは箱庭療法という心理療法がベースになったものだが、箱庭療法はクライエントに箱庭を作らせることによってこころの病気の治療を行う精神療法である。箱の中の小さな世界である箱庭は、それを造る者のこころを反映させた象徴的世界であって、箱庭という枠に守られることによって、クライエントは安心して隠していた自らの世界を造り出すことができ、押さえつけていたこころを解き放って、本来持っているこころを取り戻すことができるという。
●自由に箱庭をつくっていって、何度も何度も箱庭を作らせていくと、次第に心が解放されていくというのだ。
●同じように、私がこうした自分の気持ちを文章にして、それを何度も何度も書き直していくことによって、私の心は解放されていくのではなかろうか。
●何かテーマ設定した上で、その範囲で自由に文章を書き、それを書き直し、書き直していく、この単純な活動が自分のこころを解放してくれ、癒してくれるのではなかろうか。
●これは一つの仮説だが、この場合別に証明し一般化しなくともいい。自分自身が実践してみて、情緒的な安定が感じられればいいのだ。少なくとも数年は続けてみよう。
●これは、孤独な世界のことだ。他に認められるなどとは無縁のことだ。覚悟しよう。
 


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