ある教育雑誌に「職員会議での校長先生の話は、たいへん納得できるものだった」とあった。こういう書き方はどこかおかしい気がする。納得できるもの、という言い方、しかも、納得という語に「大変」(非常に、の意の修飾語)をつけて、非常に納得できる話とつなげているのに、変だなと感じたのだ。納得とはどういうことか、辞書には、簡単に「承知すること、なるほどと合点すること、了解。とある。その合点とは、和歌などを批評して佳いものに点(斜線)を付すこと,回状などに承知の意を表すために、名の肩に点を付すこと、承知、承諾、うなずくこと、とある。つまりある人間が別の人の話に納得するというのは、その人間にある考えがあって、別の人の話が自分の考えと全部とか大部分とか合致することということになる。私はそれを、自分の理解というメジャー(尺度)があって、ある人の話がそのメジャーの範囲内にあることが納得できたということだと書いたことがある。だがそのメジャーでは測れないものの場合には”納得できない”ということになる。つまり納得とは、あくまで自分の理解の範疇に属することで、自分の理解を超えたものについては”納得できない”となる。幼い子が大人の言うことを「納得できない」と言うのはおかしいし、また「たいへん納得できる」というのも、おかしいと思う。考えれば納得できないことが、いろいろな経験とか学習とかを重ねていって納得できるようになることこそ、大切な教育ということになる。
●だが、たとえば今度の薬害肝炎訴訟問題のような場合、被害者全員が納得できるような一律救済策というものがあるというのか。“全員が納得する”という言い方は、非の打ち所がないように思えるが、この“全員が”とか“一律に”とかいう言い方がどこか綺麗過ぎるような気がしてならない。何によらず“全員”とか、“最後の一人まで”というような、“絶対的な”“威勢のよい言葉”には、それを文字通りに受け止めるのは正直すぎるというか、いわゆる“大人気”ないことではないのかと私などは思ってしまう。世の中には文字通り誰もが納得できるだろうし、納得せざるを得ないことは、人はいずれ死ぬという事実と、人は変わっていくという事実の二つだけだという指摘がある。
この世には絶対正義も、理想も現実にはないのだ、というのである。これが事実だという。こういう事実を踏まえて置かないと、いずれもっと虚しいおもいがするときがくるのではないか。理想を求めて、理想が辞書に書かれている通りの“考えうるかぎり最もすばらしい状態”であることを実際に知ったときの虚しさを味わうのではないかと思うのである。つまり理想は”考えうるかぎりの“ものということだ。もっと端的にいえば現実にはないということだ。それを現実のものにすれば、新しい問題が発生するということだ。薬害肝炎訴訟の場合の新しい問題とはなにか、私には分らないが、一律に限度なくとは、まさに限度がなくなることで、そこから起きてくる問題も限度がなくなるのではなかろうかと思う。
●福田首相の打ち出したのは”政治的な熟慮のもとの解決策”である。政治的な、とはもちろん絶対でもなければ、正しいとか誤りとかということではない。だからこれをもって勝ったとか負けたとか、いうのは違うだろう。訴訟団は「正義は勝つ」と思いたいだろうが、誰にも通じる正義などはないものと思ったほうがいい。絶対は「死ぬこと」と「変わること」の二つ以外ないのである。”誰某にとって”正しいとか、不当であるとか、何事によらず常に”誰某にとって”という字句がついているのを忘れてはならない。
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