気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

ここに文章を入力してください

 平成20年4月18日 金曜日    ものごとを大きく見るということ
いかなる制度やシステムも一長一短があるもので、非難しようと思うといくらでもできるが、全体的にものごとを見ると、それほど単純ではない。何かを改善すると、そのために他の何かに欠陥が生じるものだ。…と、これは河合隼雄著「子どもは面白い」(講談社)にある言い方だが、どうもこのごろの世の中はちょっとした欠陥を大きく取り上げて、けしからん改善しろとこぶしを振り上げる人が少なくないようだ。少なくない…と感じさせるのは、マスコミの取り上げ方がそれで、それがいわゆる世の風潮のようになって、広がるというかたち、それをクレーム社会などと名をつけて、そういう社会が”実在”するかのような錯覚に陥らせている。クレーム社会とかストレス社会とかは、思考の産物でしかない。こんなことを書いていて、ふと思った、「あれ?人間というのは、一般的に複雑な事実を単純化してしまおうとする傾向があるのではないかな」とそんなことを思った。そして、これは真に新しい発見のように感じたのだ。たとえば、ごく普通の挨拶言葉、「お元気ですか、はい相変わらずです、結構ですね、お子さん方も大きくなられたでしょう、はい、上の子が中学生です、下の娘もバレエなどやっています」…というような、一種の外交辞令、事実はそんなに単純ではあるまい。元気なときもあればそうでないときもある、相変わらずなどということはない、家族も変わりつつあって、一口にこうだと言い切れないものだ、それを息子や娘の一部分を取り出して、もう中学生になったとか、バレエをやっているとか言っている、聞いているほうも、それが全部とは思ってもいない、まあ、会話の調子で、まあ幸せなのだなとか、心配事があるのかなとか、この人はとくにお嬢さんがかわいいのだなとか、小さな詮索をしている。もっともその詮索にしてもすぐ忘れてしまうほどのもので、かるがるしいものだが…。そうした“やりとり”で、「いい家庭を持っている」とか「しあわせそうだ」とか単純化して相手をみてしまう。一軒の家だ、ちょっとしたイザコザモあれば、喧嘩もある、怒ったり、ふくれたり、泣いたり笑ったり…があるのが普通ではないか。それをひとくくりにしてしゃべっている。手紙に、メールに、書いている。…ということは私たちが考える”事実”とはどこまでが事実なのか、ということ。そんなことも何かを考えるときに心の隅においておくことが大切なのではないか。それにしても、ものごとを”一言”で言う(書く)のは難しい、いやできないのかもしれない。
 
 
 


| Prev | Index | Next |


気ままなエッセー 私という個人 気づいたこと、気になること 読んだり、見たりして リンク集 掲示板 街で出会ったこと その他
その他 コラム


メールはこちらまで。