もともと私には計画性というものがなかった。これは私が生まれ育った環境がかかわって大きいのではないかと思っている。私は東京下町の職人の家に生まれた。勤め人でない家の空気は、時間にルーズというのではないが、何時までに何をするという決まりのようなものには無縁だった。勤め人の家のような時間的な規則正しさはなかったのだ。それが私の性格、性質に響いていると思ったことがある。私はあまり計画性のある方ではなく、どちらかというとその場その場で考えて何かをするといった「やり方」の人間だった。
子どもの頃、私は将来何になりたいなどと聞かれてもまともに答えなかった。いや答えられなかったというか、そんなこと考えようとしなかったのだ。それが中学生になって何人かの教師に出会って、気持ちが変わってきた。
国語の鈴木倉之助先生は、ご自分が好きで、好きでたまらないというものだけを材料にして、実に楽しそうに話して、それを授業とされていた。今のコトバで言えばエンターテナーだった。ご自分も楽しまれ生徒を楽しませていた。もちろん生徒に迎合するなどではなく、学問的な次元は高い者を目指しておられた。それは、今になってこの私にも感じられる。そういう思い出深い先生であった。その先生から、私たちは「俳諧、連歌の研究」という先生自筆のプリントによって芭蕉の世界に誘われた。先生はまた、寺田寅彦随筆集の中からいくつかを取りあげて、私たちに「科学者の眼による文学」の魅力を実感させた、楽しさが、その全身からあふれ出ている感じの“授業”をされ、数知れぬ者、ものを考える基盤となる者を仕込んで下さった。
私の中学高校生の時代は戦中、戦後の混乱期で、教科書もなく、いわゆるまともな授業は行われなかった。いや鈴木先生の文学を愛してやまない雰囲気、流麗な板書,穏やかな熱弁など、あれが「まともな授業」そのものであったのかも知れない。教科書がないから先生達は自分で「それ」をつくったのだ。それが子どもの私の胸を熱くした。
数学の野沢潤先生の板書は整然としていて美しく、私を魅了した。私は進んで「黒板係」になって先生の書かれた板書を消す役になったが、口の中で先生の口調を真似て一行一行数式を消していき、先生をなぞっていったものである。
物理の澤田啓介先生の論理的な説明にはいちいち頷くばかりであった。先生の歯切れのいい語りは、噺家のそれとは違った意味で小気味よかったし、意識はしていなかったが生徒の私には「憧れ」であったのだろう。
私はこの三人の先生に大いに影響され、啓発された。授業が楽しかったし、教員室へいって、あれこれ質問したりした。自分の進路の相談にものっていただいた。
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