●「好きなことを好きだというだけで、思う存分やればいい。それが人生を豊かにする」ということ、もう若くはない私にはこの言葉が重くのしかかる。私の場合も、自分の出合った人とか、事件とか事象とかが自分の生き方をきめてきたと思われるからだ。中学生の一時期、数学のNという先生の授業に惹かれ、数学に熱中したときがあったが、数学では「飯は食えない」とその先生からアドバイス?された。そのせいにするのは卑怯だが、あのとき、「飯は食えないかもしれないが、夢は食える」とでもアドバイスしてくれたら、どうなっていただろうと思っている。好きな数学をやってどこかの研究所の一隅で嘱託でもやって貧乏暮らしながら、それでも数学研究に没頭しているかもしれない。それともやはりうだつがあがらず、数学なんかやるんじゃなかったと悔いているのかもしれない。寺田寅彦の随想にほれ込んだ時期もあって、同人誌のようなものをつくって盛んにエッセーを書いたこともあったが、それに没頭したとは言いがたい。残念ながら万事が中途半端、全力で打ち込んだものがなかったとも思われる。そんな私でも、自分のささやかな体験から「やれば力は付いてくる」と思っているのだが、こんな生き方をしてきた、私には自分にどれだけ力があったのかわからない。何か一つに打ち込んで全力を発揮するという体験があったとは言えないからだ。これが寂しくも残念にも思う。これからだって遅くはない。好きなことを好きだというだけで、思う存分やればいい。人生の残りが少ないというのか、それだったらなおさらだ。好きなことを存分にやればいい、それが人生を豊かにする…これを自分の生き方の柱にしていこう。
●ところで、ここが肝心なのだが、私が今「 好きなことを好きだというだけで、思う存分やりたいこと」とは何か。書、絵画の制作など、いくつかあるが一つに絞り込めよというのなら、こうしたエッセーを書くこととなろう。ただそのためにもどこかへ行ったり、何かを見たり…ということがあろうから、気ままに出歩くことにもなる。毛筆の書道をしたり、水彩画を描いたりすることもあるだろう。書道や絵画をしないのは準備が大変だからだ。これは実に不精なことだ。それだけ書や絵画には情熱がないということになるとも思える。パソコンで文章を書くのは手軽だ。いずれにしても、部屋にこもることもあるし、出かけることもあるという、融通無碍な、はたから見れば、勝手気ままと見られる生き方になる。当の私としては他に迷惑をかけない配慮はするが、なにをしようとその行為の中心は「己の意思で存分に残りの人生を生きること」となる。他にあわせること、迎合することはしない。たとえば妻が見ているテレビの番組が私の気に入らないものであればそこを離れる。些細なことだがこれがささやかな軋轢になる。気兼ねするということだろう。人間関係でやたらな気兼ねを無くすことがどれだけ楽にすることか。しかもそれは自分自身の思い方、考え方によるものだ、つまり独り相撲の部分が大きいということ、これに気づくとずっと楽になるものだ。
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