気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成20年10月20日 月曜日    忘れるということ
老いてきて自分でも実によく忘れるということを意識している。ひょいと思いついてこれは書いて中身を検討しようと思ったことを、書いてみようとパソコンに向かって,荒れれ・・・と忘れていることに気づく。何を書こうと思ったのか、まるで思い出せない。思い出せないのはあまり価値のない発想だったとあきらめるのだが、ああこういう考えそのものがイソップ物語のすっぱい葡萄だと思って苦笑いする。なんだ昔読んだ、狐が葡萄を取ろうとして飛びついたが、どうしても手が届かなかった、そこで狐は、あんな葡萄すっぱいに決まっている、と嘯いて行ってしまった、という”負け惜しみ”の話は覚えているのにな、と思う。そして忘れるということは、まさに”今のこと”なのだと思って、寂しく思う。老いの衰えは自然のもの,自然とは文字通り、自ずから然りしむるものなり、とでも言うことだったかなと考えている。だがどう考えてもやはり寂しいものだ。アタマの袋が過去からの記憶でいっぱいになっていて、もうこれ以上記憶の袋に入りきれないとでも考えるか。もしそうならその袋の中の古い記憶を棄ててしまって、新しい記憶を入れるゆとりをつくればいいとなる。そう考えれば古い記憶を棄てるという意味の忘れることは、悪いことだけではない。一から十まで覚えている御仁も立派だが、半分ほどはすっかり忘れている人も幸運な人ということになる。とくに過去の恨みつらみなどすっかり忘れることがうれしいに違いない。


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