気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成18年10月4日 水曜日    一生懸命にやること
 何をするにも一生懸命にしなければおもしろくない。読むのにも書くのにも懸命にならなければつまらないではないか。勉強にしても遊びにしても何にしても熱中できないならば、やらない方がいい。私はそう思う。何事によらず熱中している人はそれだけで幸せだと思う。逆に嫌々している人、いやなことを無理にやらされている人は不幸だ。好きなことを好きだというそれだけの理由で熱心にやれる人、そういう人が幸せなのだろうが、そこにやったものの値打ちとか,他からの評判とか、評価とか、もっと俗っぽく金銭とか、そんなものが気になってくると、好きなことを好きだというそれだけでやるという基本的な姿勢がゆがんできて、売れることとか、儲かることとか、欲が絡んでくる。そうなると仕事が汚くなるという。それが結局、その仕事の評価、評判を落とすことになるのだ。欲を棄てること、欲から離れることが結局人間を磨くことになるというのだが、我欲を棄てることほど、過酷な修行はあるまいとも思われる。我欲を棄てることは自分だけにしかできないことなのに、なにかに頼りたい気もある。人間とは始末に悪い生き物だ。
学ぶということは本来自己教育である。というのが長年学校現場の教師をやって来た結論である。自己教育とは自分自身に対する教育で、自分にとって何が必要なのか自分で考え、主体的に学んでいくことをいう。
こういうと、ばかに難しいことのようだが、そんなことはない。ごく平凡なこと、誰にも思い当たることである。
たとえばこうだ。幼いころの私は兄が自転車に乗っているのがかっこよく見えた。母はまだ小さいからダメ、小学校に行くようになったら乗っていいと言った。わたしは兄の子供用の自転車を恨めしく見つめていて、学校へ行くようになったら借りて乗れるのだと思って我慢していた。そして小学校に入学して真っ先に父に後ろを押さえてもらって乗り始めた。倒れたり転んだりしてあちこち傷をこしらえ、それでもふらふらと乗れるようになった。2,3メートル行くだけだったが、乗れたと思った。それがわたしの自転車乗りの始まりである。
こういう経緯は自己教育そのものであると思うのだ。自分が「いいなあ」と思ったこと、それを「やってみたい」と思ったこと、そして実際に「やってみた」こと、さらに少しでも、それに近づけて「うれしい」と感じたこと、こういう一連の経緯が自分というものをつくってきたとおもうのである。そしてこれが大脳の発達に見合う人間の自然、自己教育のメカニズムだと思うのである。
学校でも、家庭でも、また社会でも、この自己教育のメカニズムをいかに実現させるかにエネルギーを注ごう。もちろん自分自身の自己教育についても懸命になろう。
 


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