気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成18年11月30日 木曜日    いじめ緊急提言
いじめが自殺にまで追い込んで、社会問題になっている。教育問題の緊急提言とやらに、出席停止をという文言を入れるとか、入れないとか喧々諤々やったらしい。だが荒れた中学校の校長として、9年間生活してきた者として、言わせてもらえば、出席停止とは“そんな決定的な力”など持ってはいないということ、これだけは認識しておいて貰いたい。荒れた学校で何人かを主席停止処分にしたら、該当の生徒は暴れて物を壊し、場合によっては火をつけるかもしれない。親や教師、他の生徒に暴力をふるい怪我させるかもしれない。これまで以上に学校が荒らされる、荒れてくる、それが恐ろしい。出席停止とはそんな激震を覚悟しなければならない措置だし、その後の保障は何もないのである。親も地域も持て余している子たちである。私の場合は連絡の取れない親たちに、やっと連絡を取って、とにかく生徒をいくつかの外部の組織に預けた。外部の組織にはまず自分が行って、自身がそこで生徒がどういう教育体験をするのかを、一週間宿泊体験をした。意識教育研究所という内観療法をベースにした私立の組織である。その研修所の費用はもちろん自己負担、つまり私のパケットマネーであった。私は自分が一週間宿泊で体験したことを親に伝え、親にも施設の見学を勧め、親の希望でその施設に一定期間生徒を委託することにした。それはあくまで緊急避難的な要素もあった。それと並行して他の生徒、教職員、保護者には週に1,2回の「校長室つうしん」という手紙を送った。学校、校長の気持ちを知ってもらうための広報活動である。施設にいる生徒達にも手紙を送り電話もかけた。こうした働きは、誰にも知られずに行うようにした。ふた月ほどして、施設から連絡があった。生徒がその地域で問題を起こして、地域にいられなくなり逃げ出したというのである。生徒はやがて数日して学校にやってきたが、以前の荒んだ様子はなくなっていたが、周囲の目はおびえていた。彼らはその年卒業して行った。その後は他の生徒たちと同じく音沙汰はない。何回か年賀状をくれたが、それもやがて絶えた。今の学校では、この手の物語は少なくないと思ったほうがいい。学校の実態とか、地域や家庭の実情によって、適切に対処するという言い方には、異をとなえるものではないが、実態、実情という言葉には重く苦しいものも少なくないことを肚に据えておいて論議していただきたい。私はそう思うのである。
 

 平成18年11月23日 木曜日    自然界に学ぶ生き方の基本
 NHKTVで「アラスカ・星のような物語」を見た。写真家・星野道夫氏の映像を軸に、その詩のような表現を駆使した物語だった。ハイビジョンの美しい映像、見事だった。その一こま、名前は忘れたが、牛の仲間だという野生の動物の群れがでてきた。群れの中心に子どもを置いて周りを囲んでいっせいに外を向いて並んだ群れである。いやこうなると群れではなく集団、組織を持った集団である。ある目的を持った集まりである。隣同士の体に隙間がない。隙間を作るとそこから狼が入り込んで子牛が襲われるからだという。種族保存には成牛たちは、秩序をもって集団で外敵に向かい角を向けなくてはならない。こちらから攻撃するのではなく、集団になって防御するのである。こうした知恵はどこからきたものか、わからない。一種の本能的なものということができそうだ。こうしたものに象徴された生き方が、私には協力協調による力を発揮する生き方だと思われたのである。人間も、所詮は社会という集団の中で生きていく生き物で、社会をつくるとは単に群れることではなく、一定の規律、秩序というものを形成することであったのである。人間の中には一匹狼(的)という生き方もあるというが、人間は完全に一匹になることはできない。完全に一匹になるとは、衣食住、すべてを自分ひとりで賄うということ、ものを買うとか、貰うとか、人間の関係を一切離れることだ。そんなことはできはしない、それが人間だ。こう考えればこの野生の動物たちの生き方に、自然の生き方の基礎を教えられた気がする。競争よりは協調を、攻撃よりは防御していく勇気と結束を旨とする生き方を教えられた気がしたものである。
 

 平成18年11月4日 土曜日    粋な生き方
他の人の善さを見出せる人、その善さを心から喜べる人、そういう人は、それだけで幸せな人だと思う。そういう人は世の中の善さを見つめて、日々喜んで生きていけるからである。だが、たいていの人はそれとは反対に、まず先に他の人の欠点、短所が目に付いて、それを憎んだり、蔑んだりしている。中には、他人の悪を暴いて、それを責めることが正義だ、善だと信じて、他の悪行の摘発を鵜の目,鷹の目になってしている人もいる。そういう岡っ引きや目明かしのような仕事は、江戸の昔には、庶民からは嫌われていたという。世の中にはそういう役割、役目の人も必要なのだろうが、そういう人は、いわば人のアラさがしで生きているようなもので、いわば嫌われ役を引き受けてくれた人ということになる。そんな気風(きっぷ)が江戸庶民の粋(いき)なところだという。だが、今はどうだ。テレビでは毎日“犯罪もののドラマ“が放映され、時代劇では岡っ引き、目明しが格好良く描かれている。新聞はこぞって世の不正暴きに熱を上げているようだ。それが正義でカッコいいと思っている人が多いからではないか。こんな社会は粋ではない。
残念ながら、私たちには他人の幸福をねたましく思ったり、逆に他の不運、不幸に同情しつつも、ああ自分でなくて「よかった」と思っている部分もなくはない。「他人の不幸は蜜の味」という“ことわざ”もよく知られている。そんな心根は薄汚く卑しいが、そういう部分を自分はまったく持っていないとは言い切れない。衣食住、持ち物、装飾品など、総じて身ぎれいでスマートになったが、心はどうか。粋でなければカッコいいとは感じなかった江戸の庶民の方が、高尚な気がするがどうだろう。
まず自分が、地域の大人として隣近所の人たち、とくに子どもらの善さが見えて、それを真に嬉しく思える人間になろうではないか。そういう自分になるよう自分を鍛え磨くにはどうしたらよいだろうか。
具体的には、やはり人々、子どもらに近づいて声をかけるところからはじめることだろう。笑顔で近づき声をかける。これが触れ合いの第一歩であるからだ。触れ合いの「触れ」とは、「広く知らせること」という。触れあいは、つまり「知らせあい」で、それには先ず自分の気持ちを相手に知らせることから始めるのが礼儀というものであろう。
相手の気持ちを知らせてもらうこと、そこには当然自分の気持ちを自分がしっかり掴んで、それを相手にわかってもらえるように伝えること、それができる技術、技能を身に付けなくてはならない。それと並行して相手の表情や、しぐさ、声の調子とかから、相手の気持ちを察知していく能力、技能も技術も必要である。それが話す能力,聞く能力の中身だろう。これらを身につけること、粋な生き方はそんなにたやすいことではなさそうだ。「心は形をつくり、形は心を調える」と禅語にもある。心にとどめておこう。
 


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