他の人の善さを見出せる人、その善さを心から喜べる人、そういう人は、それだけで幸せな人だと思う。そういう人は世の中の善さを見つめて、日々喜んで生きていけるからである。だが、たいていの人はそれとは反対に、まず先に他の人の欠点、短所が目に付いて、それを憎んだり、蔑んだりしている。中には、他人の悪を暴いて、それを責めることが正義だ、善だと信じて、他の悪行の摘発を鵜の目,鷹の目になってしている人もいる。そういう岡っ引きや目明かしのような仕事は、江戸の昔には、庶民からは嫌われていたという。世の中にはそういう役割、役目の人も必要なのだろうが、そういう人は、いわば人のアラさがしで生きているようなもので、いわば嫌われ役を引き受けてくれた人ということになる。そんな気風(きっぷ)が江戸庶民の粋(いき)なところだという。だが、今はどうだ。テレビでは毎日“犯罪もののドラマ“が放映され、時代劇では岡っ引き、目明しが格好良く描かれている。新聞はこぞって世の不正暴きに熱を上げているようだ。それが正義でカッコいいと思っている人が多いからではないか。こんな社会は粋ではない。
残念ながら、私たちには他人の幸福をねたましく思ったり、逆に他の不運、不幸に同情しつつも、ああ自分でなくて「よかった」と思っている部分もなくはない。「他人の不幸は蜜の味」という“ことわざ”もよく知られている。そんな心根は薄汚く卑しいが、そういう部分を自分はまったく持っていないとは言い切れない。衣食住、持ち物、装飾品など、総じて身ぎれいでスマートになったが、心はどうか。粋でなければカッコいいとは感じなかった江戸の庶民の方が、高尚な気がするがどうだろう。
まず自分が、地域の大人として隣近所の人たち、とくに子どもらの善さが見えて、それを真に嬉しく思える人間になろうではないか。そういう自分になるよう自分を鍛え磨くにはどうしたらよいだろうか。
具体的には、やはり人々、子どもらに近づいて声をかけるところからはじめることだろう。笑顔で近づき声をかける。これが触れ合いの第一歩であるからだ。触れ合いの「触れ」とは、「広く知らせること」という。触れあいは、つまり「知らせあい」で、それには先ず自分の気持ちを相手に知らせることから始めるのが礼儀というものであろう。
相手の気持ちを知らせてもらうこと、そこには当然自分の気持ちを自分がしっかり掴んで、それを相手にわかってもらえるように伝えること、それができる技術、技能を身に付けなくてはならない。それと並行して相手の表情や、しぐさ、声の調子とかから、相手の気持ちを察知していく能力、技能も技術も必要である。それが話す能力,聞く能力の中身だろう。これらを身につけること、粋な生き方はそんなにたやすいことではなさそうだ。「心は形をつくり、形は心を調える」と禅語にもある。心にとどめておこう。
|