気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成19年3月6日 火曜日    カフカ「変身」からの連想
1、話の始まり
 カフカの小説「変身」をご存知だろうか。両親と妹と4人暮らしの青年グレゴール・は、セールスマンだが、ある朝目が覚めると一匹の「毒虫」に変わってしまっている。家族は驚くし、欠勤を咎めに来た職場の上司は「変身」に恐れ逃げ帰る。世間の目を気にして、家族はグレゴールを一室に押し込めるが、グレゴールは一家の唯一の働き手だったため、たちまち経済的に困窮する。退職していた老父が守衛の仕事についたり、母親と妹が内職をはじめたり、部屋を貸したりたりしてやりくりする。父親が仕事を始めて活力を取り戻し、変わり果てた息子を圧迫する権威的な存在に変わる。妹は、グレゴールにおそるおそる食べ物を持ってきたりして面倒をみるが、やがて兄を自分の独占的な支配下に置こうとする。遂には間借り人に好意を持った自分がバイオリン を聞かせている最中にグレゴールが現れたのに怒って、兄を指差して「これを処分しろ」と言い放つ。消沈していたグレゴールにはこの言葉がショックになって息を引き取る。三人になった家族は平安を取り戻し、両親は、妹をそろそろ嫁がせねばと考える。…これが「変身」のあらすじである。
 
2、互いにかかわりあって変身している
一つの変身は、いくつもの変身を引き起こす。グレゴールの変身は、グレゴールだけにとどまらず、家族や職場の人々の変身になっていく。グレゴールが死んで家族が平安を取り戻すというのは、残酷だが現実であろう。父親の定年退職は父親の変身のみならず、家族の一人ひとりの変身でもある。父親が家族のお荷物になって、邪魔者扱いされるようになるのは、家族の変身である。グレゴールの死は、これも一種の変身だろうが、その変身は家族に安堵を与えるし、それによってグレゴールの父母は娘の嫁入りという新しい夢を見るようになる。
カフカの「変身」は荒唐無稽の物語のようだが、私のように"昔"を知っている者には、"今の世の中“がおおいに変身していることに戸惑っている。生徒たちは、私がイメージとして持っている“昔"を知らないから、自分たちの"変身"には気づかないだろうし、そもそも人間は"自分の変身"には気づかないものらしい。グレゴールも自身の変身に淡々としていて、その驚き慌てた様子は書かれていないが、これは案外、著者カフカの慧眼であるかもしれない。
とにかくわれわれは変身しているのである。釈迦の昔から、諸行無常といわれているではないか。この世に変わらないものはただの一つも「無い」ということである。釈迦は、すべてが「常ならず」であると悟っていたのだ。
 時代が変わって、だれもがその変化の影響を受けている。人と人とのかかわり、人とものとのかかわり、いずれも変わらないものはないということ、これを自覚しておこう。
 
3、絶対ということ、競争から協調へ
 だが、ここで落とし穴がある。それは、事実を見て、"変わったな"と感じる自分だけは変わらないと思いがちということである。 走っている列車に乗っている者は、外の風景が走って見える。隣の座席の者は自分と同じく止まっていると思っている。ここに絶対性とか相対性とかの知恵が生まれてくるのだろうが、世に絶対というものは、「誰もが死ぬこと」と、「変わること」の他にはないと言える。だが世に「私は絶対に正しい」「これは絶対に間違いない」という言い方がいかに多いことか。絶対正しいという主張Aと、いや俺のほうが絶対正しいという主張Bとが対立し、争っている。AもBも絶対というのは論理的におかしいではないか。絶対というからには唯一でなければなるまい。AもBも絶対正しいのではAイコールBとなってしまう。  
民俗学の折口信夫は人間の思考能力を「別化性能」(ものごとの違いを見抜く能力)と「類化性能」(一見してまるで異なる事物の間に類似性や共通性を発見する能力)の二つに分けて考えている。類化とはアナロジーであり比喩である。古代人の精神生活はこの類化能力を存分に発揮したものだと折口は指摘している。それは他との違いをあげつらって競争するのではなく、相互に類似したところを見合って調和的なものをつくっていこうとする態度、協調にウエイトが置かれる姿勢であるという。つまりこれは今日の傾向とはまるで違う、正反対のように私には思える。それは今日、私たちの周りに蔓延する風潮が、あまりにも競争心をあおり、多くの場面で勝負にこだわって生きているように思われるからだ。
  
 わが国の教育施策もOECDの国際学力調査(学習到達度調査といっているが)のデータを見て、勝った負けた、とやっていて、だから学力アップだと目標にしてくる。経済の面でも、インド、中国の発展が目覚しくなって、日本はもっと競争力を、つまりは競争して勝つ力をつけなければならないとなる。そのためにも学力アップだ、レベルアップだと発破がかけられ、ゆとりだ、自発性だ、などと気楽なことは言っておられないとなる。こうして世の人々は、競い合って勝つこと、勝ち抜くことだけに、存在感を感じるようになっているのではないか。年収○○億、契約金○○億というでかい数字がニュースになる。詐欺事件の巨額さがニュースになる。子どもらはこういう世の中で、幼い頃から競争させられ、発破かけられてフーフーいっている。ストレスがいじめになる。ちなみに競って勝つとは、最終的にひとりの優勝者になることでしかない。こういう時代だからこそ、競争力より協調力を!と考えているのは私だけだろうか。


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