気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成19年5月29日 火曜日    俳句の課題、金魚から考えたこと
俳句の会というのに入っていて、毎月課題をもらっている。
 今回は季語「金魚」についての句をつくるというものだが、素人なりに「おもちゃにされていのちを終える金魚がかなしい」という自分の感覚をそのまま文字にしようと字句をいじっていて、「おもちゃだけのいのち悲しき金魚かな」と書いたのだが、こうかいてみてふと考えた。この場合の「悲しい」と感じているのは私でしかないと気づいたのである。
 悲しいとかうれしいとかは私自身の感覚で、それは少しも客観性はない。
 金魚はそれ自分が自分のいのちを悲しんだり、喜んだりはしないであろう。仮にそういうことがあったにしても、それはそれ、それだけのことで私がそれをとやかく言う必要はない。それをとやかく言ったとすればおこがましい。人間が自身のいのちを悲しんだり喜んだりしないのと同じようにだ。金魚は2000年も前に中国で見つかったフナの突然変異種がその発祥といわれているが、金魚は金魚であることを宿命として生まれ生きてきている。人間が人間であることを宿命として生まれ生きてきているのと同じようにだ。 
 ということは、私がなぜこんな俳句を作ったのか。私の心の中に”金魚という他”をみて哀れだとか気の毒だとか思うものがあったからだろう。だがそれは私の傲慢というものではなかろうか。私が小さな子を見て、かわいいと感じるのは、その子がひ弱で、保護さるべき存在と思っているからではないか。仮にその子が気力も体力も大人並みであったとしたら、かわいいなどという思いは出てこないのではあるまいか。若い子が年寄りのしぐさを見て、かわいいとつぶやくことがあるが、あれもこれと似ている。私などは若い者にかわいいといわれたこともない憎まれ爺だが、もしかわいいといわれたら、何をこしゃくな!と怒り出すだろう。金魚は金魚のいのちを精一杯生きること、それしかない。人間に生まれた私は、私の命を精一杯生きていく、それしかないのだ。生き物として同じである。上もなければ下もない。それを私は自分のほうが上等だと思うものがあるから「おもちゃだけのいのち悲しき金魚かな」などという句をつくっていい気になっているのである。お前はいったい何様のつもりなのか。今回の俳句は、変な話だが自分が自分を叱る材料になってしまった。
 

 平成19年5月3日 木曜日    己の善意が目を狂わせていること
人さまざまである。この“当たり前のこと”を口にして顰蹙をかった人もいるが、顰蹙するほうがおかしいのに、大方の人はその人の立場や「言い方」にも「適切さ」が欠けていたと思っていたらしい。人間とはおかしなものだ。事実を事実として言ったり聞いたりするのではなく、こうあったらいいとか、このようにあってほしいとか自分の思いを入れて言ったり、聞いたりするもののようだ。それが思い込み、観念、イデオロギーなどで、どう言おうとも、それは自分勝手なものだ。
 人の集まって賑やかな雰囲気で好ましいという人と、それが好かないという感じの人とがいる。ある善意の男がこう言ったものだ。
「私は、ひとり寂しく生きているような人を誘って趣味の集まり、俳句の会とかフラメンコの会とかに仲立ちをして喜ばれている。」
老人会の会長をしている彼に言わせると、世間にはひとり寂しく生きている人がいるものだという。だがそう判断する(感じる)のは彼自身であり、そう思われている「その人」ではないことには、彼はなにも感じていないらしい。賑やかなのが好きな彼は、賑やかなところへ誘うことが親切だと思っているのだろう。その単純さが彼の善意なのだろうが、誘いを受ける側には、その善意が断りにくい迷惑になっている人もいるということもあるのである。
  自分が「いい」と思っていることが、必ずしも、どの人にも「いい」ことではない。この“あたりまえのこと”が善意の彼には見えていないらしい。善意であるからこそ断りきれないもの、そしてその人を余計に苦しめている人もある。こういうことを考えておかなければなるまい。
 教師の私たちが善意で生徒たちに勉強を勧めるとき、私たちには何ら“やましいもの”がない。この教師の「やましさのない感覚」が問題ではないかと思うのだ。自分が「いいことをしている」と思っているときは、横暴になっているときでもあると思ったほうがよかろう。
 こう言ったからといって、自分のかかわりに自信を持つななどというのではない。自信を持つことは自信過剰になりがちだと自戒していこうということだ。とくに、私は善意でそれをやっていると自信を持っているとき、その善意の感覚が”おかしなことになる”原因になってしまうことがあるものだ。俗に言えば”いい気になるな”ということかもしれない。
 


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