人さまざまである。この“当たり前のこと”を口にして顰蹙をかった人もいるが、顰蹙するほうがおかしいのに、大方の人はその人の立場や「言い方」にも「適切さ」が欠けていたと思っていたらしい。人間とはおかしなものだ。事実を事実として言ったり聞いたりするのではなく、こうあったらいいとか、このようにあってほしいとか自分の思いを入れて言ったり、聞いたりするもののようだ。それが思い込み、観念、イデオロギーなどで、どう言おうとも、それは自分勝手なものだ。
人の集まって賑やかな雰囲気で好ましいという人と、それが好かないという感じの人とがいる。ある善意の男がこう言ったものだ。
「私は、ひとり寂しく生きているような人を誘って趣味の集まり、俳句の会とかフラメンコの会とかに仲立ちをして喜ばれている。」
老人会の会長をしている彼に言わせると、世間にはひとり寂しく生きている人がいるものだという。だがそう判断する(感じる)のは彼自身であり、そう思われている「その人」ではないことには、彼はなにも感じていないらしい。賑やかなのが好きな彼は、賑やかなところへ誘うことが親切だと思っているのだろう。その単純さが彼の善意なのだろうが、誘いを受ける側には、その善意が断りにくい迷惑になっている人もいるということもあるのである。
自分が「いい」と思っていることが、必ずしも、どの人にも「いい」ことではない。この“あたりまえのこと”が善意の彼には見えていないらしい。善意であるからこそ断りきれないもの、そしてその人を余計に苦しめている人もある。こういうことを考えておかなければなるまい。
教師の私たちが善意で生徒たちに勉強を勧めるとき、私たちには何ら“やましいもの”がない。この教師の「やましさのない感覚」が問題ではないかと思うのだ。自分が「いいことをしている」と思っているときは、横暴になっているときでもあると思ったほうがよかろう。
こう言ったからといって、自分のかかわりに自信を持つななどというのではない。自信を持つことは自信過剰になりがちだと自戒していこうということだ。とくに、私は善意でそれをやっていると自信を持っているとき、その善意の感覚が”おかしなことになる”原因になってしまうことがあるものだ。俗に言えば”いい気になるな”ということかもしれない。
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