気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成19年6月20日 水曜日    自分ひとりのブレインストーミング
たった一人のブレインストーミング
 
何か事故事件が起きると私たちはまずその原因を探る。これは人間の習性とでもいうものかもしれない。
世の中、眞に不穏当で、社会保険庁の乱脈ぶり、談合だ、贈収賄だ、なんだかだとマスコミが騒ぎ立てる。
 こんな世の中に誰がしたのか!と言ったところで始まらないが、そういう理由探し、原因探しに躍起になる。だいたいこの「世の中」というのが実体のない観念でしかないからで、政府が悪い、行政がなっておらんと息巻いても同じこと、虚しいだけだ。
 ただ、その原因というのが、誰もが自分の生き方にではなく、他の生き方にあると思ってしまうのが一般的な傾向だ。誰か知らないがどこかに悪者がいて、こんな世にしてしまっている。けしからん。そいつを暴いて責めてやる、ということになる。悪を責めるを善だと思っている。責める心が悪だとは思わない。
マスコミは安倍内閣の支持率がどんどん下がっていると報じるが、誰が総理になってもこうした世の腐敗がつぎつぎと明るみに出されるうちは、支持率低下は同じだろう。
だいたいNHKとか○○新聞とかがアンケート調査をすること自体が、無責任だともいえなくもない。大きな事件・おおきな事故、不祥事があって、安倍政権を支持するかと問われれば、支持するとは応えにくい。まるで安倍内閣がその事件・事故を起こしたかのような錯覚に陥るタイミングなのである。
 同じアンケートでも、「こうした不祥事が起きるそもそもの原因は何だと思うか」と問うてみたら、安倍内閣がよくないからだとという答えがストレートに出てくるものか。
こうした不穏当の背景に何が考えられるか、それを国民の一人ひとりが考えていく方向にもっていくアンケートを、どうせするなら考えたほうがよいではないか。「みんなで考える」とは、いくつかの考えをだして○だ×だと選ばせてどちらが多いかなどと数字を出すことではあるまい。数字を出すことは庶民の考えを操作することにもなりかねない。
 
 ところで、どうしてこんなに官も民も日本人は無節操でだらしなくなってしまったのか。一口で言えば日本人に「儲け主義」「儲かりさえすれば何をしようと儲け得」という卑しい心根が蔓延しているからではないか、少なくともそういう風潮がこの社会の土壌になってしまったのではあるまいか。
 それを武士道の凋落と見る向きもある。武士道とは一口で言うのは難しいが「自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」という態度を指すといっても大きな間違いではないだろう。武家であろうと商人であろうと、武士道精神は生きて働く、これが人間としての誇り、プライドになる。
 その誇りがまったく衰退してしまったのはなぜか。いろいろの原因が錯綜し複雑に絡み合っているのかもしれない。ただ、市場原理というのか、経済上の豊かさを求めて、社会は競い合って成長発展をしていくのと同じように、個々の人間も競い合い、切磋琢磨して成長し発展していくものとの考えが主流になっていることと無関係ではあるまい。切磋琢磨というと通りがいいが、擦り切れ、落ちこぼれて行くものも必ずいるということ、こういう負の面もあることを忘れてはなるまい。端的にいえば、何事にも金銭の数字がちらついている風が、現代社会だと思うのである。
 介護という親子、家族の情緒的なつながりに手数料という金員が割り込んできたのが、それを象徴している。高齢化の進展に伴って、寝たきりや痴呆の高齢者が急速に増えることが見込まれ、介護の必要な期間が長期化したり、介護する家族の高齢化などが進んでおり、家族による介護では十分な対応が困難となってきているのも確かだ。高齢者介護に関する現行の制度は、医療と福祉の縦割りの制度となっており、サービスが自由に選択できない、サービス利用時の負担に不公平が生じている、介護を理由とする長期入院(いわゆる社会的入院)等医療サービスが不適切に利用されている等の問題が指摘されている。こうした不安や問題の解消を図り、今後、急速に増加することが見込まれる介護費用を将来にわたって国民全体で公平に賄う仕組みの確立が求められて発足した制度、これが介護保険制度である。つまり介護には金がかかるということ、それが事実だとしても、それによって、かつての医は仁術という風潮は姿を消し、医は算術とか、医も経営術とかいう時代になってしまったのである。
医療保険の制度は誰もが病院へ行って診察してもらって、適当な治療をしてもらえる時代にしてくれたのだが、高い保険料をかけているのに保険を使わないのは損だとか、二割だとか三割だとかの支払いで十割の処置が受けられるのだから、受けたほうが得だという感じで病院に行くものが多くなった。まことに卑しい感覚である。つまりそこに卑しい損得勘定が働いている、これが市場原理の一つの側面だ。
 
 人は誰でも得意なものと、不得意なものとがあるのが自然だ。人間は平等でないゆえに、平等を目指すのだが、間違った教育はそうした真実さえ教えなかった。そればかりか競うこと、順位をつけることそのものを否定してしまった。子どもはけっこう競うことが好きだ。いやこれは子どもだけではない、人間は本来的に他と競うものをもって生まれてきたとも考えられる。ひょっとするとこれは動植物の生きてきた、いわゆる弱肉強食の歴史(生きざま史)を通して身についてきたものなのかもしれない。
 それはともあれ子どもらは何かを競い合って楽しんでいる。どちらが大きいか、どちらが早いか、どちらが長くもぐっていられるか、どちらがうまいか、どちらが先に言えるか、どちらがはやく言えるか、どちらがどれだけ知っているか、まさにクイズそのもので、例を挙げていけばきりがない。
 
 やや次元の低い話をしよう。私は少年の頃、世の中は対中国の戦から太平洋戦争の時代に移っていった。これはこの国に生まれた私には激流のような逆らいようのないものであった。私は親にも教師にも周囲の雰囲気からも「ほしがりません勝つまでは」と繰り返し教えられ、しつけられた。
ところが今の子たちはどうか。まるで「ほしがりましょう、買うまでは!」としつけられているようではないか。つけっぱなしになっているテレビで、CMが仕切りなしに流れている家庭が少なくない。いや今の親たちがそういう家庭で育ってきた。そこでは「ほしがりましょう、欲しがりましょう」と繰り返されて、いつの間にか人びとを慢性の欲求不満体質にしてきている。そういう体質、あるいは性癖を宿しているのが今の私たちではないのか。
 
 それと並行して、この社会は、ある程度の欲求を満たしてくれるように変わってきているのも確かだ。物資が豊富だし、それを手に入れる方法が非常に簡単になっている。コンビニエンス、便利という名称で売り出された業態がそれを象徴しているが、万事に「簡単・便利」になったのである。
コンビニエンス・ストアは、もはやコンビニが通称になっている。「簡単・便利」が「当たり前」になっているのである。
 それを象徴しているのが、売買の自動販売機化とでも言うべきものではないか。ものの売り買いは、売りたい人、買いたい人の、生のやりとりがあって、成り立つのが原点だが、今日のそれは、生きた人と人とのやり取りが省かれてしまっている。つまり人と人との交流がゼロになっているのだ。コンビニでの買物は一口も口を開くことなしにできる。レジの人はバーコードで数字を出してみせ、客はそれに見合う金員をトレーに乗せる、係りはつり銭をトレーに乗せる。「ありがとうございました、またどうぞ」と決まり文句を言うが、それはやや進んだ電子音と同じで、心がこもっていない。機械的に繰り返すとはそういうことだ。
電子マネーとやらが普及すればそれさえも機械がすることになろう。ロボット化は、ますますコミニケーションゼロの時代にしてしまうだろう。
公的機関のサービスもIT化によってさらに便利になった。図書館で本を借り出すのにパソコンのキーをたたいて予約し、書籍の準備ができたというメールが送られたのを確かめて、図書館へ現物を受け取りに行く。費用はゼロである。図書館にない本は他から取り寄せてくれる。こうしたサービスを、ありがたいとも思わず、宅配便で届けてくれと要求を出す者まで出てくる。サービス過剰時代の落し児である。サービス過剰は人間を甘くするのだ。
 
今日の人びとはサービスは受けるのが「当たり前」という感覚になっているのではないか。
何かの苦情は電話一本で行政がやってくれるもの、こちらはそのために税金を納めているのだ。公務員はその税金でやとわれている公僕だ。自分たちの要求を実現するために彼らはあるのだ。
選挙の公約にもあったではないか。こちらの苦情を遠慮することはない。黙っていては損だ。ごね得というコトバもあるではないか。ダメでもともと、とにかく電話を掛けてみよう…というような、「簡単・便利」の延長線のような感覚が底辺にあるようだ。こういう風を私は「簡単便利重みなし」といっている。
 
 


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