気づいたこと、気になること
人間は死ぬまで何かを表現していく生き物である、というのが私の持論のようになっている。私は生きている限り、いつも何かを見たり聞いたりして、何かを感じ、考えている。そしてそれをしゃべったり、顔の表情に表したりしている。意識しなくても顔にでてしまうという現れ方である。それを表現といわずに表出というらしいが、言い方はどうでも、私たちは生きている限り何かを表現、表出している生き物である。それを言葉にするのが話したり、書いたりすることで、絵や彫塑にするとか、身振り手振りにするとか、衣服とか持ち物、身の回りのモノにするとか、多くの表現の仕方がある。車の運転の仕方にもその人、運転手の人柄がでてしまうように、人間は何をやってもその人柄、性質、性格というモノがでてしまう。あらゆる表現、表出にはその人の人柄、個性というモノがでてしまう。私が気づいたことは、だれもが気づいていることとは限らないし、私が気になることは私だけが気になることとは限らない。でも私がソレを書くのは、私自身の確かめにはなると思う。

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 平成19年7月21日 土曜日    骨抜きにしていく政策
アメリカが敗戦国日本を統治するとき3S政策なるものを掲げたという話は今はもう昔のこと、知らぬ人が多いだろう。私が3S政策という考えを始めて耳にしたのは中学生の頃で、担任の先生が、日本人がぼんやりしていると骨抜きにされてしまうぞと真顔で話されたのを覚えている。骨抜きとは、自分で考えることをしない生き方、考えることができない生き方、気楽で成り行き任せの生き方とでも言うことだろう。3Sとは、スクリーン、スポーツ、セックスの三つで,それらを以って日本の青少年を骨抜きにしろというのがアメリカの魂胆だという。事実日本のその後は、映画の隆盛、やがて家庭に浸透してきたテレビによって、映像メデイアがますます普及し、アメリカが目論んだというスクリーンによる洗脳はあっという間に広がった。戦後、63(ろくさん)制(せい)とよばれた新制度は「63制野球ばかりがうまくなり」と時事川柳で揶揄されたようにスポーツに熱を入れ、やがてサッカーだ、テニスだ、ゴルフだとと隆盛そのものである。セックスについては言うまでもない乱脈振りだが、それがアメリカの占領政策でそうなったのかというと、そうとばかり言えないようである。というのはこの3Sによって骨抜きになったのは敗戦国日本だけではないと思われるからだ。私は外国へはそんなに行っていないので、実情は知らないが、それでもテレビや映画を通して想像しうることは、どこの国でも五十歩百歩、3Sは人びとを骨抜きにしていると思われるのである。骨抜きとはいわゆる気骨がないということ、自分で考えずに他(ひ)人任(とまか)せ、自分が責任を取らずに他人を責めるだけという生き方、あるいはそのかたちを変えた万事を他に依存するだけという生き方である。
…と他人事の様に言う自分だが、斯く言うこの自分にしてもスクリーン、スポーツに毒されて「自分で考えること、自分でやるべきことをきめて目的をもって行動すること」という、気骨を失ってきていると反省している。セックスについては老いたこともあろうが、以前から毛嫌いしているところがあって、これも見方によっては毒されているといえなくもない。
まあ、とにかく、このIT時代、このスクリーン、スポーツにかかわる時間の多いこと、それによって深く掘り下げて考える時間のいかに少なくなってきたことか。このことを反省せざるを得ないのが今の私なのである。…と言いながら、それでも私は、見たい番組はDVDに録画してみるし、朝のラジオ体操と一時間程度のウオーキングというのを日課にするだけで、後のスポーツはすべてテレビ観戦でというわけで、まあその程度の毒され方であると、少々言い訳がましく自分を見てもいる。だが油断するな。3Sは徐々に浸透して人を骨抜きにしていくのだ。
 

 平成19年7月20日 金曜日    競うことをやめたらどうか
.自分が興味のあること、関心のあることに、まったく興味を示さず無関心な人がいる。この自分も他の人たちが大騒ぎしているものに、まったく興味を持てずにいることがあるから、それを云々することは意味のないことである。つまり人さまざまで興味関心の違いは、そのさまざまの表れで、それを個性によるといえば格好いいが、言い方はどうであれ中身はどうということはない。ただ、つぎのようなことは知っておいて、自分たちの陥りやすい”大袈裟に思う“傾向には注意しておいたほうがいい。それは、たまたま同行の志が集まると、自分たちの興味関心に興味関心をまったく示さない人たちを、話のわからぬ俗物だとか、馬鹿なヤツだとか否定的に見てしまい、それを理不尽だとも思わない、そんな傾向があることである。人間とはまことに自己本位、自分勝手なもので、各自が自己の考えを主張するのはいいのだが、他を否定することによってそれを自己主張だと錯覚するのは、まちがいであり、醜いことである。だがこの結果の泥のなすりあいいかに多いことか。政党間の争いがそうだし、何かのサークルとか趣味の会、研究会、学会というようなものの意見の対立もその傾向が多分にある。他をけなすことで自分の株が上がると思うのは品位ある行為とは思われないが、他をけなす行為の底には勝った・負けたの情緒がある。勝ち負けは、最も単純でわかりやすいものだが、それが多くのトラブルの根底をなすといえそうだ。あるゲームに勝つことは、ゲームに勝つこと以上のなにものでもないのだが、ひいきチームがゲームに勝つと”すべて“がいいと思いがちで、万事に上機嫌になる人が多い。負けたときは万事におもしろくない。不機嫌だ。この勝負事に肩入れしていくのは、勝ち負けのどちらにしても感情の起伏がはげしくなるだけで、心的エネルギーを使って無駄なことをやっているようだ。まあ、生きていくということには無駄と思われることもあるものだが、この勝ち負けに費やされる無駄なエネルギーは、半端ではないと思う。それだけ世の中には勝ち負けの要素が多いということか、自分の中に競い合いの要素が多いということか、これはもう少し考えてもいいことではなかろうか。

 平成19年7月6日 金曜日    いくつかの手紙
その1
 長期の休業中に大切なにしたいこと。それを私は、自分の生き方を見つめて、ここをこう直したい、これは思い切って止めたい、ここはこう伸ばしたいというものを、自分できめて、それを実行すること、実行しつづけることだと考えています。いやこれは私自身がそのように意識して実行しようとしていることです。それを”大切なこと”と思って皆さんにもお勧めしたいのです。もちろん生徒諸君にも勧めたい生き方です。それが「自立」につながっていくものだからです。それは“自分が自分をしつける”生き方だと言ってもいいと思います。ですが、実はこういう生き方はなかなか続けるのが難しいのです。アタマで「ワカッタ」と思っても、それを実行して、自分の生き方にまでするには相応の努力が要ります。これは私の実感でもあります。
だからといって不可能ではありません。私の場合は、寝る前の十分間、その日にあった出来事を整理して、@どんなことを学んだか、Aどんなことを実際にやったのか、Bどんなことをやり残したか、と大別してメモ書きにします。まあ日記のようなものです。そのメモを眺めて、明日、やってしまおうとするものを順不同でいくつでも書いておき、それを見ながら、明日真っ先にやるもの、その次にやりたいもの、さらに三番目にやりたいもの…という具合に箇条書きにし、それを終えたら寝ることにしています。これを寝る前の習慣にしたのです。そして翌朝、起きたら洗面、身支度を整え、昨夜の順番をつけたメモを見て、よし、今朝はこれとこれとをしよう。それが終わったらこれをしよう、と心に決めて家を出るのです。学校に着いて、朝の打ち合わせ、その他、いろいろあって学校が始まりますが、自分がきめた仕事、やろうと思ったことにさっさと取り掛かるのです。机の前で、さあ、今日はなにをするかなあ、などと迷うことなどありません。予定外のことが入って目論んだことができなくとも、明日に回せばいいと割り切ります。とにかく忙しい仕事に順序をつけてどんどん進めていく。こんなことが私の仕事の進め方になっています。そして就寝前の10分間、今日一日@何をやったか、何を学んだか、Aどんなことを実際にやったのか、Bどんなことをやり残したか、…と考えていって明日やることのメモを作る、というわけです。こういう日常の繰り返し、それが私の習慣になっているのです。習慣にしてしまえば、努力も何も要りません。それが私の「当たり前」になっているのです。これが私の場合の、自分が自分にしつけた生き方というわけです。
 
その2
私が先ごろ、自分の生き方でこれはまずいと思ったのは、無駄な時間というか、無為に過ごしている時間が多いということです。生活にメリハリがなくなっているのですね。今日はこの本を読んでやろうと思っても、まあ、明日でもいいや、もっとゆっくりでもいいや、という気持ちの緩みがあって、万事に”のんびり”しているのです。私はそれを精神のたるみだ思って、これを何とかしよう!と考えました。そして何かをするのにタイムスイッチを活用することにしたのです。タイムスイッチを30分なら30分にセットして、本を読み始める。読んでいる間は、読書に専念する、よほどのことがなければ机から離れない、と自分に言い聞かせて、とにかく30分は集中する。鉛筆を持ってメモを取りながらその本に集中する。こうした時間を一日に何回となく持つことにきめて実行したのです。それで自分でいうのもなんですが生活にメリハリが付いて来たと思うのです。テレビを見ながらのんびりするというのも一概に悪いとは思いませんが、いつもそれではよくないでしょう。わずか30分の細切れ時間の集中ですが、それを意識してもつこと、タイムスイッチをセットしてブザーが鳴るまで、何ページ読めたかなどという記録が、密かな励みにもなり、生活のメリハリになってきたと思うのです。
 
その3
私たちは意識する・しないにかかわらず、常に何かをしています。「何もしないでぼんやりしている」という言い方がありますが、「ぼんやりしている」ことを“している”のです。ところで人間は何かをすることで、それに見合った力、能力というものが身についてくるものですね。この事実に、人は驚くほど鈍感です。怠ければ怠け癖という力がついてしまうし、サボればサボり癖という力がついてしまうものです。そういう事実が現実でありながら、怠けている、サボっている人が少なくないから鈍感だというのです。今、たいていの生徒は自転車に乗れます。ですが生まれながら自転車に乗れる力を持っていたという子は一人もいません。今、自転車に乗れるのは、他の子の乗っているのを見て、自分も乗りたいと思って、実際に乗る練習をしてきたからです。はじめは誰かに手助けしてもらって、サドルにまたがりました。あちこちにぶつかったり、転んだりして、フラフラやっているうちに乗れるようになったのです。乗ろうと思って練習したから乗れる力が身についてきたのです。これを、私は「やったから、力がついてきた」と捉えています。何事も同じです。読書力を身につけるには、読書する以外に手はないのです。書く力を身につけるには、その気になって書くより手はないのです。
やらなければ力など付いてくるはずがないのです。この当然のことを忘れてはなりますまい。「やれば力がついてくる」…です。肝心なのは、「その気になって何をやるか」ということでしょう。
 


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