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2007/10/15    抜書きに触発されて
苅谷夏子『大村はま60のことば 優劣のかなたに』(筑摩書房)
 
書くことの教育の目標を、いい文章が書ける、というところにおかなかったところが、(はま先生は)本当に偉い人だ。
 
(いい文章が書けるというのは、もっともっとずーっと先のこと、中高生では、とにかく心の中のものを文字にするということが習慣になる芽を植えつけらればもうそれで上等だというところであるという思いなのだろう。)
 
「もっともっと書く力というものは、根本に培われていくべきもの』『人間の成長がないところに文章の伸びはない』書くということは、単に、コトバを選び、飾る、という人間の外側にある能力で、端から習得していけばいいというふうには、大村は思っていない。
 
『中学生なんかは一生の間で、一番作文の下手なときではないかと思っているのです。生意気で、あまり深くものごとを考えないのに、軽率に何か言い散らすのが得意な時代ですね。いろんなことを浅く知っているのです。そして、自分らしい考えなのか、それとも人の言ったことなのか、あまり区別のつかないときなのです』
 
「とにかく、書かせてだけはいなければならない。心の中を字にするという活動、それだけはしなければいけないと思います。その子が成人して、わがままも、ことばのぜいたくも治まって成長したとき、初めて、その人の目で平凡な生活からいい題材を見つけ、深い考えを持って、鍛えておいた、ごく基本的な書く力を、必要に応じ、場に応じて使うことができる,書けるというように育てておきたいと思います」こういうのを、見識というのだなあと思う。
 
意外なことだが、話すことが苦手という教師はけっこう多いらしい。勉強が好きで、得意で、知の世界に魅力を感じて、それで教師になるというケースが少なからずある中で、自分がわかるということと、そのわかっているということを人に、分かるように伝えるということは、まったく別のものだという厳しい事実がある。伝えるためにはコトバを磨く必要がある。
 
また、ふだんからよく整理され工夫された話を聞くことで、考える力が少しずつ育ってくるということもある。ごちゃごちゃした、飛躍の多い、混乱した話を聞いていたら、聞くほうの頭まで混乱してくる。だから教師はよく選んだことばで、すっきりした構成で話す。それを子どもは一度で聞き取ろうとする。そういうきりりとしたやり取りの中で、少しずつでも着実に、読解の力、ようやくの力、言葉の感性などが育っていく。
 
真剣に、しかも役に立つような批評をするというようなことは、大仕事である。
 
自分を真正面から見て、甘やかしもせず、かといってなにもかも駄目とというふうに絶望もせず、優れた点も足りない点も同じくらいの平静さで認める。自分を客観的に眺める。それはどれほどかむずかしいことだろう。どの分野であっても、さすがというような仕事をする人は、こういう視線をしっかりと自分に向けられる人なのだろう。それを支えるのは、やはりプロ意識なのだろうか。
 
その根底が崩れてしまうと、楽しそうだけれども何をやっているのか分からない教室、おもしろかったけど力の育っていかない授業になってしまう。
 
教師という仕事は、パフォーマンス的な要素も大きい。伝えたいことが、きちんと伝わるよう、過不足なく、また五階なく、見落とされることなく、伝わるようにしなくてはならない。演技と言ってしまうと、うわべだけのもの、内心とはちがうもの、という印象になってしまうかもしれないが、もちろんそうではない。心があることは当然の前提で、それが、子どもの目からもちゃんと見えるように、それとしっかり伝わるように、表現されなければならない。しっかり関心を持って聞いていたが、外見はそ知らぬふう、聞いていたか、いないか、わからないような様子、それは教師としてはだめ、というのが、大村の考えだった。
 
片々たるところを責めない。…本人が気がついていない、まずいことは、どうしても言わなければなりません。しかし本人が気がついているよくないことをまた言うということは、これは人として避けたいことと思います。本人がちょっとでも気づいている時には、もうその傷口にはさわらない。さわって痛い目に遭わせてそれが辛くてあやまちを繰り返さなくなるなどと言われることがあります。そういうこともありましょうが、私は傷跡なく直したいと思っていました。
 
大人は、特に教師は、子どもが何か失敗をしたり、間違いをしたりすると、それをただすことの正当性を盾にして、何の疑いもなく、それをしつけであるとと信じて、とがめることをする。けれども、叱ることで壊れてしまう教室の空気、叱られてできる傷の深さを、あまく見てはならないと大村は考えている。獅子は千尋の谷にわが子を落とすというが、獅子の子でなければ死んでしまうことのほうが多い。艱難汝を玉にすという昔からのことばもあるが、玉にすよりも、耐え切れない艱難はその子を壊してしまうことのほうが多いと思います。少なくともそういういたわりと、いとおしみを持って、拙い子どもが拙い力をいっぱいにふるっているのを、見なければならないと思います。
 
(実に頭がいたい言葉です)
 
成功・不成功は、自分自身が本気で鋭くみるほかはありません。
(子どもに、どう?今日の授業、分かったかな、よかったかな?などと聞くこと、聴衆に自分の話の評判をそれとなく聞くこと、こんなことは卑しいことだと思い知らされた)
 
子どもがかわいいのであれば、子どもをとにかく少しでもよくしていける、教師という職業人としての技術、専門職としての実力を持つことだ。それ以外のことはみんな二次的なことだ。遊んでやることも、優しい言葉をかけることも結構、しかしそれらはみんな二次的なことです。大事なことをやっていないと、教師自身の自己が壊れてしまう。
 
がんばれ、しっかり、きちんと、などという実のない掛け声など役に立たない。
(なるほど、実のない掛け声ですな、これも恥じ入るばかりです)
 
 

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Last updated: 2008/10/28