池田晶子「14歳からの哲学」トランスビュー
?正しいこと、本当のことを言われると、人間というものは、往々にして腹が立つものなのである。しかし、本当のことが本当なのは本当のこと自身のせいであって、それを言う人のせいではない。なのに、まるでそれを言う彼らのせいであるかのように、人は本当の言葉を言う人に腹が立つのである。
なぜ腹が立つのか、言うまでもなく、それが本当のことだからであろう。うそのことには腹が立たない。人は、うそのことで自分を騙しているのが好きだから、本当のことを言われて、本当を知るのがイヤなのである。
なぜイヤなのか。おそらくはやはりこわいのであろう。本当を知って、本当を生きるというのは、恐いことだ。しかし、知らないはずなのにそれを恐れるとは、やはり人は、どこかで本当のことを知っているのである。知らないものは恐れられらない。だから本当はすべての人は真理を知っているのだと、あれらの偉い人々は繰り返し説くのだ。恐れるな。真理は存在すると。
と、面と向かってこれを言うと。これはこれでまた面倒が起きる。あるいは逆に、頭から信じ込んでこれを唱える者が現れる。
?さてそれなら内面をきれいにする、精神性を高めるとはどういうことなのか、自尊心、自分を尊ぶ、自分を愛するということの、本当の意味がこれだ。
自尊心を持つということと、プライドがあるということは間違えやすい。誰も自分が大事でプライドがあると思っているけれど、それなら他人に侮辱されても腹は立たないはずだよね。なぜなら、自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価なんかきにならないはずだから、もしそうでないなら、自分の価値よりも他人の評価を価値としていることになる。するとそれは自尊心ではなく、単なる虚栄心だということだ。
嫉妬という感情も同じ理屈だ。他人が自分より優れているように思えてヤキモチを妬く。あるいは、好意を寄せている人が別の人に好意を寄せていることを妬く。でも、自分にとっては自分こそ一番だと知っているなら、こんな感情はありえないはずだよね。人は、自分を愛しているから嫉妬するんじゃあなくて、愛していないから嫉妬するんだ。面白いもんだね。
自己主張というのも難しい行為だ。私はこう思っている、私は興であるということを、他人に対して必要以上に主張することは、自信のなさの裏返しであることが多い。本当は自分で自分を評価できていないから、他人に認めてもらいたい。もし主張に内容がないのなら、それは単なる自己顕示、私はこんなに内容がありませんって大声で言うなんて、恥ずかしいことなのに自覚できないんだ。
● 玄侑宗久「実践、元気禅のすすめ」(宝島社)
自己認識というもの、その内容は”歴史認識”と“価値判断”であろう。つまり自分を、いつも積み重なった時間のなかに存在すると錯覚していること、歴史認識と、自分が行っている相対的でしかない価値判断を、根拠もなく絶対化する傾向である。この二つには、「好き嫌い」というもっとも深い脳からの感情も絡まるから話は厄介だ。
まず歴史認識だが、自己を歴史的に括るという機能がヒトの脳にはあるらしい。一瞬一瞬の「私」は、縁に応じてみな違っているのであり、そこには一貫性などない。しかしその自分の気持ちを言葉に表すときは(頭で考えるときも同じだが)文はいつも”歴史”を捏造してしまう。「この二三ヶ月娘の受験のことが心配だった」というよう荷である。だが実際に、その人は食事もした、酒も飲んだ、テレビも見て笑ったりないたりした。ヒトはなにかの書いたり話したりするとき、その内容にそぐわない出来事を瞬時に省き、それらしい事柄だけを並べて語るものだ。それに何の違和も罪悪感もかんじていない。これが“歴史”と呼ばれているものだ。それは別な言葉で言えば同じ時間がまったく別なものになるというものだ。どんな日であっても、変化し続ける自分であってみれば、二度とありえない特殊な邂逅であるはずだ。「日日是好日」なのである。罪とか病気とかが成長するのもわれわれの歴史認識の中だ。過去から完全に分断された「今、ここ」の瞬間は、罪も病気も存在しないことが可能なのだ。
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