他の生き物とは違って、人間が生きているということは、何かしら表現をしていることだと私は思っている。
意識しているときのそれを表現と言い、意識してはいないときのそれを表出と区別してもよいが、現象的には同じものと思う。
退職後の私は、一日中、これといったものもなく過ごすこともある。だがそれにしても、何かしらの表現をしている。何かを読むという行動、何かを書くという行為、ぶらぶら歩くという行動、そこで見たこと、出会ったことを誰かに話すということ、話すために地図を描いたり、絵に描いたりする行為、話し方が下手だと気づいて、言い直したり、聞き手の家内に問うてみたりする、これらはみな私の表現活動である。
ただ自分はそれらを表現活動などと意識してはいない。そこでぼんやりしている、一日中無為に過ごしている、となる。だがそれにしても私が生きていて”あらわしていること"あるいは"あらわれていること"である。生きているからこそ"それ"が出てきているのだ。
眠くてうつらうつらしていたなどというときも、居眠りという形で休息していたとなる。休息は一つの態度の表れ、それ自体、そのときの”自然な自己表現”ということもできる。とにかく私は生きている限り、何かをあらわしている。何もあらわしていないとは、生きていないことだ。
そこで自分は、何を表していたのか、自分の何があらわれていたのかを確かめることが、自分がどう生きていたのかを確認することになる。それが意識的に生きるということだと思う。私が日記とか手紙を書くとか、周囲の人に自分の思いをしゃべるとか、こんなHPにこんなことを書くとか、それらはすべてそういうことである。
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