池田晶子「勝っても負けても」41歳からの哲学
p70
言葉というものは、文字通り正しく使われることによってのみ、その本来の意味を表すことができる。言葉が厄介なのは、それを使っている人が、その本来の意味を知らずに使うことができるところにある。その語を口にすれば、それを言い得ているように思えてしまうのである。(たとえば)正義が過剰に意味が与えられている。過剰な意味とは現代風に言えばイデオロギーということになるだろうか、平たく言えば個々人の勝手な思い込みである。しかし、言葉が存在するという事実は、個々人の勝手な思い込みを超えている。すなわち普遍の事実である。だから、正義とは、本来、普遍のものだと、いうことができる。ふっ編のもの、つまり自分たちの正義派、誰にとっても正義なのだと思い込んでいるから、それを人に強制するという行為に出るのである。ソクラテスは、それを人に強制することなしに、それを示すだけであった。なぜか、正義とは何かを知らなかったからだ。知らないということを知っていたからだ。
p73
「政治家」とはステイツマンである。ステイトとは動詞で「述べる、言う、申し立てる」すなわち言葉を語ることである。政治家とは、言葉を語る人、言葉の人に他ならないのである。(校長、教頭、学校管理職)も同じである。
このことは、政治家自身はもちろん、一般庶民もほとんど忘れている。せいじとは現実的な力の行使のことであり、言葉などはその前には無力なものだと思われているのだ。しかし、現実的な力が現実的たり得るのは、そこに言葉の力が働いているからに他ならない。
p91
一回きりの人生、思いっきり楽しまなくちゃあ損だというのは、ある意味では正しい。しかし、快楽が目的化すると、人間は馬鹿になる。本当の快楽は、快楽も苦痛と同じこの世の現象だと見抜き、現象に左右されない賢い人間になるところにある。あえて言うなら、たぶんそれが人生の意味なのである。若いうちはこの真実になかなか気づかない。この真実を若者に教えることができるのは、より賢い人間になろうと考えながら生きてきた賢い年寄りだけなのである。そういう年寄りに、私はなりたい。
p93
働くことこそが人生と思い込んでいるのもどうかと思う。仕事が人生、会社が生き甲斐という人が、仕事を失い、定年になったときの意気消沈たるや、気の毒なものがある。それまで、何ゆえの仕事、何ゆえの人生なのか、考えてこなかったからである。
p98
やりたいことがわかるということの覚悟の分からない者に、やりたいことがわからないのは当然である。裏から言えば、別にやりたいことがわかる必要などない。普通の人生、与えられた仕事をこなし、周囲と調和し、淡々と平穏に生きていく人生は素晴らしいではないか。誰にでもできることではない。
p100
数年前、死の判定基準を巡り行われた脳死の議論を思い出してみよう。死はどこにあるのか、脳か心臓か、はたまた云々、誰も死をきめることはできなかった。なぜか。誰も死など知らないからである。生きている人は死んではいないからである。生きている限り、人は死を知らない。
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