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2007/08/25    藤沢周平{決闘の辻」(講談社)
.自分自身のこれからのことをしっかり考えよう。定年退職後の自分が何をやるのかということである。その考え方は単純でいい。自分が楽しいと思ってやれるものをやればいいとなる。その他のことは考えなくていい。いや考えてはいけないのだ。何かの役に立つとか、他に喜ばれるとか、そんなことは考えなくていい。金がかかるとか時間がかかるとか、そんなことは意に介す必要はない。また意に介するようではダメである。つまり自分が楽しんでやれることだけの一点に絞って実行すればいい。その一点に絞れないのは、余分なこと、我欲につながる俗事に惑わされているからだといえよう。我欲を捨てる。このことのいかにも難しいことよ。自分が勤め人の頃はそんなことに悩まなかった。自分が与えられた仕事をこなしていればよかった。もちろんそれはそれなりに努力を要することであったが、退職後の自分は、自分に自分が仕事を与えるのである。これが案外難しい。
●そんなとき偶々、藤沢周平「決闘の辻」(講談社)を開いたものだ。そのはじめに「二天の窟(あなぐら)」というのがある。宮本武蔵が「五輪の書」を書いていく経緯に触れているが、これが私には今の自分の気持ちに似ていなくもない。もちろん斯の達人と私のような小人(こもの)とは比較にもならない。だがこの作品の中の武蔵も老いてきて、私のような小者と同じようなところが見えてきておもしろい。そしてそれを自分が認められなくて、見方によれば卑怯といわれる振る舞いをしてしまう。しかもそれを誰にも知られぬようにしてしまうのである。これは自分にも知られぬように、つまり自覚せずに終わりにしてしまうという”弱さ”のためだと思う。名人、達人にしてもこういう側面が隠れているのである。自分をごまかそうというもの、卑怯な自分を隠蔽してしまおうというもの、それを恥じてはいるが、そういう自分をあけすけにはできない自分がいる。弱さを隠そうとする弱さ、そういう弱い存在なのだ、それが人間なのだ。有名人、著名人になれば、余計そういうモノなのだろう。それを書いているのが「二天の窟(あなぐら)」だと思う。         
●伊藤一刀斎という人も剣名高い。子供のころ、読んでいた講談本によく出ていた名前である。剣の達人あるいは名人というところで、人格高潔で俗人からは仰ぎ見られる存在であった。だが人間にはそんな人はいないのだと藤沢周平さんは伊藤一刀斎の俗っぽい人間の部分を描いて「死闘」という作品にしている。もっとも死闘するのは一刀斎ではなくて、その弟子の二人ということになっているが、一刀斎は老いて衰え、狡猾になっている。それが二人の弟子の欲得に絡んだつながりを利用していくという物語で、それだけ見れば人間の汚い部分が露になっている嫌になる作品である。いや所詮、達人、名人といわれている人たちも、我われ俗人と同様、欲にくらみ,得に迷うというものだと明るみに出して見せ、達人名人のイメージをつくっているのは俗人の自分でしかなく、自分が達人名人に憧れるあまり、そうした理想的な人物を作り上げているに過ぎない、と冷や水を浴びせてくれているのかもしれない。買いかぶるなよ、人間というものは、そんなに高貴な生き物ではないぞ、間違いの多いもの、間違いをごまかすもの、美を求めはするが、その行為行動は醜悪なものだ、そんな生き物が人間だ。買いかぶるな、侮るな、生き物の美も醜も併せ持つのが人間だ、そういう人間から目を離すな。自他に対して柔軟な心を持て。いわばだらしなく生きよと忠告を発しているのかもしれない。わたしはこの“藤沢版新剣客伝”と副題のついた「決闘の辻」をそのように読んだ

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Last updated: 2008/10/28