考えがまとまるとか、まとまらないとか言いますが、ここでは自分の考えを、とにかく文章という形にして、自分が「おまえの気持ちはこういうものでいいのか」と自分に問うていく、そういう自分を確かめるための材料として、書いていきます。
 自分の考え・感想をなんとかまとめようとする、そのための材料にするつもりです。
 こういうものをいくつか結びつけ、組み立て、継ぎ足して、自分の考えとして公表できるようなものにしていければいいなと思っています。
 そんな素材集のページがこのコラムです。
 自分の考えをつくっていく材料倉庫のようになればいいと思っています。
 倉庫ですから整理されていないと思います。
 でもあまり乱雑にはしないつもりです。
 気に入った材料があったら、どうぞお持ちください。
私の考え・感想
自分のことを書くとなると、やはり自分の行為、行動が材料となる。自分の行為、行動、態度など外にあらわれたものを、自分が見て、それを自分が「書く」のである。そこには二人の自分がいるようだ。行動してしまった自分と、そおれを批判したり反省せよと責めている自分とである。
 
 自分のことを直接見ることは出来ない。自分の顔を見るのに鏡を使うように、自分の心を見るのに、自分の心を映す鏡が要る。私の場合、自分の気持ちを文章にして、それを自分が見るのである。絵描きは自分の意思を、イメージをカンバスに描いて自分を確かめていくのだろうし、彫刻家は粘土に、音楽家は曲を作ることに、それぞれ自分の内部を表現して、自分を確かめ確かめして、生きていく。生きるということは表現すること、表現していくことだ。そういう気持ちがなくとも、人間が生きていくときには、その人らしさが出てしまうものだ。意図しない自分が出てしまう、それを表現とは別に表出といっておこう。自分の行為、行動、言動、など、自分の内部が外に出てきたものを、自分が見ていくとき、そこに、自分そのものが見えてくる。
 
 久しぶりで古い友達にあった。昭和30年ころの友達で、友達というのは当時の同僚と生徒たちのことだが、皆友達という感じの60歳になろうとするおじさん、おばさあんたちだ。同期会に呼ばれていったのだが、あの当時の話、回顧談というのだろうか、そんな話がでて、しみじみ思うのは、あの当時は世の中全体がおおらかだったということ。今のように気を使わなくてもよかったというか、万事が伸び伸びしていたということだ。そんな感想が聞かれた。あの当時は生徒も教師も伸び伸びしていたということ、今の方がせせこましく窮屈になって、縮こまっている。どこにそういう原因があるのか、どう思うかと聞かれて、さてと考えてしまった。このことは私の気持ちの中に宿題となって残っている。
 
 自己一致ということ。自分の気持ちと自分がしていること、言行というものが一致していること、これを自己一致という。こういうと単純なようだが、これはそんなに簡単なことではない。というのはどのような言動にしても、本人が心のどこかで思っていることが言うこととか、やることになってでてくるものだという言い方も出来そうだし、逆に、イヤ人間というものは自分でもどうしてそんなことやってしまったのか分からないことを、しばしばやってしまうものだ、自分でもどうしてそんなこと言ったか、わからないことを言ってしまうもの、口に出してから、拙いと気づいて、あっ、しまったとあわてるなどということがあるもの、とても自己一致とはほど遠いものだ、とも言えそうだ。これを解釈するのに意識と無意識という概念を援用する。人間の心は自分でもその存在がわからない部分・・・無意識と、自分の意識になっている部分とがあるという考えによって、分かったような気になる。この「分かったような気になる」という言い方、私はこれにたいていのものは含まれるように思うのである。自己一致というものの考え方もその一つである。
 
 自己修正の難しさは自分というものを分離することの難しさだと、こんなことに気が付いた。いや気が付いたというより、ふと考えたという方がいいだろう。私は以前から私というものはアンビバレントな存在、つまり私の中には二つの考え、思いというものがあって、それが対立することが少なくないと思っていた。平たく言えばあれにしようか、これにしようか迷ってしまうことが多いのである。それを優柔不断ということもできるし、慎重なのだと言うこともできるが、そういう二人の自分がいて、これならこれと決定できないでいる。「これをやろう」とか「これをやめよう」とか、心で思っても、「まあいずれな」、とか、「そのうちにな」、とか曖昧なことを思ってしまって、ずるずるとそのままになってしまう。自己修正が難しいとは「思い立ったが吉日」と考えて、即座に取りかかることだと、私は思っている。それがアンビバレントな自分を両方引きずっていないで、はっきり分離させることと考えた所以である。
 
 気遣いも難しい。家族の間でも、夫婦の間でも気遣いは容易いことではない。やさしい気遣いをしたつもりでも受け手の気持ち次第で、それがいやらしく感じられるときもある。ビクビクしているとか、オドオドしているとか、顔色をうかがっているとか、マイナスに感じられて、もっと堂々としていなさいなどと言われることがある。自分の思い、感じたことがそのまま通りにくい。相手の考え、解釈というものがあって、それがぶつかり諍いになる。相手にどう伝わろうと自分がしたいことを、したいという理由だけですること。結局、これが自分にとって一番いいことのようだ。
 
 
 
 
自分の考えを文字にして、自分がそれを確かめていくこと、それが自分を調べていくことだ。

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6   老いの実感
更新日時:
2006.01.21 Sat.
 まことに自分勝手といおうか、他人事といおうか、私は自分の老いを感じることがそんなになかった。そう「自分の老い」をである。だが他人の老いはよく見えて、数年ぶりに合った友人などに「相変わらず若いね」などと言いながら、心では「やっぱり貴ヤツも年取ったなあ」などと思っている。それなのに「いやあ、あなたの方が若いよ、顔色がいいね」などと言われると、妙にその気になったりする。互いに心にもないことを言いあって、相手をいい気持ちにする、これが外交辞令というもののようだ。だがその友人と別れてから、そのやりとりを思い出して感じるのはやはり自分の老いという事実であるし、それが老いの実感なのである。先日もそういう何人かの友人に会ったが、友人達も私にたいして「やつも年取ったものだなあ」と感じていたのだろうなと思って、あらためて老いを実感するとはそういう妙な手順?のようなものを踏むことなのかなと、ひとり苦笑いをしていた。これまでスイスイ歩けたものが、膝が痛くてスイスイとはゆかなくなった。そんな時、感じるのは「直接的な老い」とでも言うものだが、他をみて、自分も貴ヤツと同じだろうなと思う老いは「間接的なもの」といってもよいように思う。そういえば「いつまでも生きてるような顔してる」という川柳というのか戯れ歌というのかがあったが、「いつまでも生きてるような顔してる」と感じるのは、他をみての感じであろうが、そんな単純な「よみかた」ばかりではあるまい、この自分もそういう顔をして生きているのだと自嘲している人の戯れ歌だと読むこともできる。世の中、「他人事はない」という考えがあるが、これも心に止めておかなければならないものだろう。
 
7   過去と他人は変えられない
更新日時:
2006.01.08 Sun.
「過去と他人は変えられない」・・・この当たり前といえばこれ以上に当たり前のことはない事実に、あらためて自分の臍をかむ思いをしている。息子の勤め先が破綻して、息子が職を失った。彼は彼なりにつぎのステップを考え、何かの働きかけをしているらしいが、それが私には見えてこないのでもどかしい。そういう状態が私自身の生き方にも響いて、いつものペースになっていない自分にイライラしいることがたびたびある。「過去と他人は変えられない」のであるが、私の内面では彼の生き方を変えようとしているものがあって、変わらない彼にイライラするものがあるのだ。彼は息子とはいえ、彼は彼で、私ではない。他の個体なのだ。過去と他の個体は変えられない・・・というのが「過去と他人は変えられない」の中身で、変えることの出来るのは「今の自分」でしかないことを示している。彼に生き方を変えるのは「今の彼」でしかない。彼の生き方をどう変えるかは、彼がすることでしかない。親であろうと、何であろうと「信じて待つ」より手はないのだ。この辛さ、この肉親の辛さは肉親である私でしか味わえないものだろう。私はそれを噛みしめて生きていこう。私は私という立場からは逃げも隠れもできない。信じて待つというが、それは不安を抱えて待つということでもある。その辛さから逃れようとジタバタするな。待つことは耐えることでもある。「過去と他人は変えられない」のだ。これを噛みしめよう。
8   欲を捨てる難しさ
更新日時:
2005.12.13 Tue.
 通学路殺人、耐震偽装、談合、贈賄・収賄、水増し請求、不正処理で公金の横領、不正受給、警察官や東大助教授の買春、塾講師という学生の殺人、行方不明の少年の情報を捏造した22歳の女性の「目立ちたかったから」という言い訳、呆れた感覚、卑劣な事件、事故が後を絶たない。経団連の奥田会長が「日本全体が金めあてになりつつある」と嘆く。金をためてそれを何に使うのかが明確になっていない人が多い。とりあえずためていく、金さえあれば何でも出来る、何をするにも先立つものは金だ。だから金儲けに奔走する。本音がそういうところの人が多い。だがそれでいいのか。そういう生き方で自分は満足なのか。国内だけではなく競争、競争とあわただしい。それが国と国とをギクシャクさせている。他国を威嚇して属国のようにしたいかのような国がある。夏目漱石ではないが「とかくこの世は住みにくい」ようである。その根本は競争意識、買った負けたの感情で、勝てば有頂天になり、負ければ悔し涙を流し復讐を誓う。最近はリベンジといって何かスマートに聞こえるが怨念に燃えていることには変わりがない。競争で勝つのは一人だけ、あとは全部負けになっている。悔しい思いをして世に生きるのは、ストレスと闘って生きている見たようで安楽ではない。欲を捨てる難しさ。吾唯足るを知る。この修業が豊かな生活を身につけてしまった日本人には、困難になっているのだ。この地球上に飢えた人々がごまんといるというのに、ゴミばかり出す過食の徒、地球温暖化に拍車をかける輩、日常の「出来るところ」から我欲を捨てる実践をしていくより手はない。国にたいして、ああしろこうしろ、行政にたいしてああして欲しい、こうしてもらいたい・・・という人頼み、他への依存はやめて、自分がまず動き出そう。主体的に動き出そう。
9   学ぶとは・私の考え
更新日時:
2005.07.03 Sun.
 たびたび考えてきたことであるが、私の心の中に何かを取り入れること、それを材料、あるいは原料として、新しい考えとか、発想とかをつくりだしていくこと。それが知力を磨き、知恵を付けていくことと考える。それを私は学ぶことと考えたい。
10   絵を見る、詩を読む、音楽を聴く
更新日時:
2005.03.03 Thu.
 見方、読み方、感じ方、受け取り方にはさまざまある。ある人が受け取れても私には受け取れないものがある。ある人たちにはおもしろくて、見たい、読みたい、聞きたいというものでも、私にはバカらしくて見ていられない、読んだり、聞いたりしていられないというものがある。テレビのお笑い番組、大げさなゲームで芸能人が遊んでいる番組、相手が嫌いな食べ物を当てる番組、ああいうものは私は好きになれない。くだらないとか意味ないとか、それが真っ先に来て見ていられない。だがそれでもつき合いというものがあって、見ているときもある。そんなとき私は自然に見方を変えている。こういう番組に興味がある人たちは、どういう人たちか、具体的にはスタジオに集まってきている見学者の顔ぶれを観察するのである。どんなときにどんな歓声を上げるのか、また歓声を上げるよう仕組まれているのか…という具合にである。絵画展へ行っても、自分の感覚とは合わないモノの場合には、会場に集まってきている人々の様子を観察をする。音楽会でもそうだ。そういう時は自分とは異質の人々の特徴が一つでも二つでも見えてきたら、自分の特徴がわかる気がするから妙である。場違いのところという感覚は誰にもあるのであろう…などと思い、自分が周囲の人たちからそう見られ、感じられているのだろうなと、そんなことを思っている。これこそ意味ないことであるが…
 それに私は何でも「やれば、やっただけの力が付いてくる」と思っているから、絵画でも詩歌でも音楽でも、見たり読んだり、聞いたりして積み重ねていけば、いわゆる鑑賞眼なるものが付いてき、磨かれていくものと思っている。だがそのスタートはやはりウマが合うとか、相性がいいとか、そういう出会いがあるかどうかによると思う。こういう出会いは運命的なものとも言えるのではないか。今のところ、私ははそう思っている。
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