
自分のことを書くとなると、やはり自分の行為、行動が材料となる。自分の行為、行動、態度など外にあらわれたものを、自分が見て、それを自分が「書く」のである。そこには二人の自分がいるようだ。行動してしまった自分と、そおれを批判したり反省せよと責めている自分とである。
自分のことを直接見ることは出来ない。自分の顔を見るのに鏡を使うように、自分の心を見るのに、自分の心を映す鏡が要る。私の場合、自分の気持ちを文章にして、それを自分が見るのである。絵描きは自分の意思を、イメージをカンバスに描いて自分を確かめていくのだろうし、彫刻家は粘土に、音楽家は曲を作ることに、それぞれ自分の内部を表現して、自分を確かめ確かめして、生きていく。生きるということは表現すること、表現していくことだ。そういう気持ちがなくとも、人間が生きていくときには、その人らしさが出てしまうものだ。意図しない自分が出てしまう、それを表現とは別に表出といっておこう。自分の行為、行動、言動、など、自分の内部が外に出てきたものを、自分が見ていくとき、そこに、自分そのものが見えてくる。
久しぶりで古い友達にあった。昭和30年ころの友達で、友達というのは当時の同僚と生徒たちのことだが、皆友達という感じの60歳になろうとするおじさん、おばさあんたちだ。同期会に呼ばれていったのだが、あの当時の話、回顧談というのだろうか、そんな話がでて、しみじみ思うのは、あの当時は世の中全体がおおらかだったということ。今のように気を使わなくてもよかったというか、万事が伸び伸びしていたということだ。そんな感想が聞かれた。あの当時は生徒も教師も伸び伸びしていたということ、今の方がせせこましく窮屈になって、縮こまっている。どこにそういう原因があるのか、どう思うかと聞かれて、さてと考えてしまった。このことは私の気持ちの中に宿題となって残っている。
自己一致ということ。自分の気持ちと自分がしていること、言行というものが一致していること、これを自己一致という。こういうと単純なようだが、これはそんなに簡単なことではない。というのはどのような言動にしても、本人が心のどこかで思っていることが言うこととか、やることになってでてくるものだという言い方も出来そうだし、逆に、イヤ人間というものは自分でもどうしてそんなことやってしまったのか分からないことを、しばしばやってしまうものだ、自分でもどうしてそんなこと言ったか、わからないことを言ってしまうもの、口に出してから、拙いと気づいて、あっ、しまったとあわてるなどということがあるもの、とても自己一致とはほど遠いものだ、とも言えそうだ。これを解釈するのに意識と無意識という概念を援用する。人間の心は自分でもその存在がわからない部分・・・無意識と、自分の意識になっている部分とがあるという考えによって、分かったような気になる。この「分かったような気になる」という言い方、私はこれにたいていのものは含まれるように思うのである。自己一致というものの考え方もその一つである。
自己修正の難しさは自分というものを分離することの難しさだと、こんなことに気が付いた。いや気が付いたというより、ふと考えたという方がいいだろう。私は以前から私というものはアンビバレントな存在、つまり私の中には二つの考え、思いというものがあって、それが対立することが少なくないと思っていた。平たく言えばあれにしようか、これにしようか迷ってしまうことが多いのである。それを優柔不断ということもできるし、慎重なのだと言うこともできるが、そういう二人の自分がいて、これならこれと決定できないでいる。「これをやろう」とか「これをやめよう」とか、心で思っても、「まあいずれな」、とか、「そのうちにな」、とか曖昧なことを思ってしまって、ずるずるとそのままになってしまう。自己修正が難しいとは「思い立ったが吉日」と考えて、即座に取りかかることだと、私は思っている。それがアンビバレントな自分を両方引きずっていないで、はっきり分離させることと考えた所以である。
気遣いも難しい。家族の間でも、夫婦の間でも気遣いは容易いことではない。やさしい気遣いをしたつもりでも受け手の気持ち次第で、それがいやらしく感じられるときもある。ビクビクしているとか、オドオドしているとか、顔色をうかがっているとか、マイナスに感じられて、もっと堂々としていなさいなどと言われることがある。自分の思い、感じたことがそのまま通りにくい。相手の考え、解釈というものがあって、それがぶつかり諍いになる。相手にどう伝わろうと自分がしたいことを、したいという理由だけですること。結局、これが自分にとって一番いいことのようだ。