Last Updated: 2004.2.19


あとがき


200通余りの手紙のうちの9割ほどを再録した。
また童話は2編書き送ったが、1編だけを載せることにした。
 
私は現在73歳だが、4年前に心臓手術をして以来、身体能力も心的能力も衰退いちじるしい。
中年の元気に充ちていた頃の手紙を、このような形に並べてみると、よきにせよ、悪しきにせよ、こういう生活が自分にはあったのだと、感慨を深くする。
 
今になって子どもに聞いてみると、手紙のことはそれほど印象が強くないようだ。5歳の頃だからそれも当然だろう。むしろ描いた父親の方が読み直して面白がっている。
当時は「日記代わりになるかも知れない」という軽い気持で描き始めた本人の方が、文章だけの日記では味わえない独特の共感を今になって感じているのだ。
 
どうして自分が描いた絵日記は、私にとって面白く感じられるのだろうか。
絵がうまく描けているから、というのは見当違いである。たしかにその時の私は、文章にはほとんど注意をはらわず、いい加減に書いていたが、絵の方は、少しはましな絵になるようにと、ある程度の工夫はした。昼間に見た光景を帰宅後に描く場合などは、2,3枚描きくずすこともあった。それでも所詮は素人、上手な絵でないことは自分でもわかる。
 
それは自己愛,自己偏愛に由来すると答えれば簡単であるが、今はちょっと、自分が自身の経験に対して持つ情報量の大きさという点から考えてみよう。
絵日記は自分の生活、自分の体験を描いたものだから、他人より自分の方が絵の裏にある様々な背景や生活感に、はるかに親しんでいる。
 
自分の生活体験を絵にする時は、描き手は意識的、無意識的に生活上の思いを描き込むものである。
例えば1つの茄子を描くにしても「スーパーで買ったきれいな茄子」を描くのか、「ふるさとの家の裏でとれた曲った茄子」なのか、「我が家の菜園でとれた、初なりの茄子」なのか、そういうことが絵にそれぞれ独特の意味や表情を与えている。他人でも製作の背景や表情に少しはなじみを持っているが、描き手自身の理解には到底及ばない。描き手は自身の記憶や生活意識の同一性が続くかぎり、絵のあらわす生活的意味の読み取りは容易に行われる。だから自分の絵は自分が最もよくわかり、格別の興味を感じることになるのである。これが問題に対する一応の答えである。
 
現在の日本では絵手紙がブームとなり、「下手は下手なりの絵が面白い」という割り切り方が受け入れられつつある。この現象も絵のもつ「生活感」「生活的意味」という点から考えてみるのも一興だろう。
絵手紙とは、ある程度の生活の共通性をもつ仲間の間に成立する絵日記のようなものだからである。
                          ( 2003.9.25 )



| ホーム | はしがき | 絵手紙(1) | 絵手紙(2) | 絵手紙(3) | 絵手紙(4) | 小鳥のピーパ | あとがき | 年賀状 | イギリスの陶器など |