メッセージ&あかし


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 [1]   「失われた人を救うイエス」  相馬 剛牧師
 毎年冬になると、登山者が、猛吹雪に遭い、救助隊によって発見されて助かったというニュースを耳にします。助けられた人はどんなに喜び、感謝するでしょうか。失われた自分が助けられたからです。聖書に「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)とあります。聖書の中にこれほど素晴らしいことばはありません。このことばは地上におけるイエス様のみわざをよくまとめています。これが福音であり、よい知らせ(good news)です。多くの人はこのよい知らせを受け入れて、救われました。聖書の中に出ているザアカイという人もそのひとりでした。
彼はエリコという町で、取税人の仕事をしていました。エリコはエルサレムの北、そして少し東に位置しています。そこは世界中の人たちに開かれた町で、東西南北に道が造られており、それぞれのところに関税所があります。この日も、取税人たちはそこで忙しく動き回っていました。ザアカイもその一人でした。そのエリコをイエス様はエルサレムで十字架におかかりになるために、通過しようとしておられたのです。しかし、イエス様は、敢えてエリコで時間をお取りになり、惨めな取税人にお近づきになりました。それはご自身がエルサレムで死ななければならないことと関係があったのです。
その時、エリコには、過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに向っている人々でにぎわっていました。彼らはイエス様の周りに群がりました。イエス様の名声はパレスチナ中に広がっていたからです。この少し前にイエス様は、エリコからそんなに遠くないベタニヤというところで、死んだラザロをよみがえらせました。それによって、イエス様についてのうわさはどんどん広がっていったのです。エリコの人々もイエス様のことを聞いていたので、イエス様がお通りになるのをひと目見ようとして道路に集まってきました。町はざわめいていました。ある人達は「その方はメシヤですか。その方はローマを征服し、ご自分の御国を建てようとしているのですか」などと叫んでいました。ザアカイはそれを聞きながら、取税人として働いていたのです。
 ザアカイはどういう人だったでしょうか。
勿論、取税人であったのですが、多くの取税人と同じように、性格が腐敗し、堕落していたのです。当時、取税人はローマから委託されて税金を取り立てる仕事をしていました。しかし、彼らはローマの請求額以上の額を要求し、強制的に取り立てていたのです。ザアカイはその取税人の一人で、また、彼等の中のかしらとなっていました。ですからお金が沢山ありました。しかし、そのお金は大部分、不正で得たお金であったので、彼は地域の人たちから憎まれていました。すべての人は彼を罪人と呼んでいたのです。多くの宗教的指導者たちも彼を見捨て、極悪非道な罪人とみなしていました。私たちも、そういう人を見ると、ひどい悪いやつだと思うのではないでしょうか。そういう人は早く警察につかまって、裁かれたほうがよいと思うのではないでしょうか。
しかし主イエス様は取税人たちに特別な愛情を持ちました。特にルカの福音書はイエス様が取税人らに出会った多くの場面を取り上げています。また、イエス様が社会の下層民に手を伸ばしていることも取り上げています。ルカの福音書のテーマは失われた人に対する救い主の愛です。そしてルカが取税人のことに触れる時はいつも積極的な意味で言及しています。
彼らの多くの人は、自分の罪を認め、心が砕かれていたからです。イエス様はそういう人たちを救うために来られました。彼らがイエス様を求める前から、イエス様ご自身が彼らを救おうとしておられたのです。同じようにイエス様は私たちに罪を示し、罪を認め、それを告白し、悔い改めるように促されるのです。しかし、私たちのほうでも、神様を求めることが必要です。ザアカイも神様を求めていました。ザアカイはイエス様について聞いていました、しかし、一度もイエス様にお会いしたことはありませんでした。そこで彼は何とかしてイエス様を見たいと思いました。
何故、そんなに熱心に願っていたのでしょうか。おそらく、それは彼の良心に渇きがあったからだと思います。確かにそうです。彼は罪から解放されたかったのです。ザアカイは人から見捨てられ、憎まれていました。彼は孤独でした。彼の手には貧しい人々から奪い取ったお金がいっぱいありました。彼は恐ろしい罪を犯していました。あなたも人を騙したり、人を傷つけたり、人を困らせたりしたことはないでしょうか。あるいは、あなたが信頼していた人から見捨てられ、見離されたことはないでしょうか。ザアカイは人からあざけられ、見離され、ひどい罪人扱いにされました。しかし、彼は罪をごまかしたり、言い訳をしませんでした。彼は必死にイエス様に解決を求めたのです。彼はイエス様を見ようとしたのです。しかし、それをするためには多くの障害がありました。一つは群衆です。エリコの住民は道路に溢れ出ていました。更に彼は背が低かったことです。彼はおそらく賢明に群衆をかき分けたと思います。背の低い人にとって群衆は妨げになります。この時、ザアカイはどうしたでしょうか。彼はなりふりかまわずに、イエス様を見るために、群衆の前に走りでて、いちじく桑の木に登って、救い主が通りかかるのを見ることにしました。いちじく桑の木は背が低く、枝が広がっています。小さい人は幹に速く上り、大枝に上り、そして道路を見下ろすことができます。ザアカイはそうしました。その木はザアカイにとってパレードを見るための指定席となったのです。でもそこは威厳に満ちた、偉い人が座る場所ではありませんでした。しかし、この時のザアカイにとって、そんなことはどうでもいいことでした。彼はただイエス様を見たかったのです。神様はあなたにも、イエス様を熱心に求めることを願っておられます。何故なら、イエス様の救いはほかの何ものにもまさってすばらしいからです。
 次にザアカイをびっくりさせるようなことが起りました。
イエス様はザアカイに遭ったことは一度もありませんでしたけれど、多くの人々の真ん中に立ち止まりました。そして、木に上っているザアカイを見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」これがイエス様の伝道のアプローチです。そこには巧妙さはありません。主はザアカイと会う約束をなさいました。「きょう、あなたの家に泊まることにしてあるから」とあります。ザアカイは、イエス様のことばを聞いた時、どうしたでしょうか。「急いで降りてきて、そして大喜びでイエスを迎えた」とあります。
同じように、イエス様は、今日、あなたに会いたい、あなたの心に住みたいと願っておられるのです。あなたもイエス様を喜んでお迎えするなら、イエス様はあなたのところに来てくださいます。さて、ザアカイの家で何があったのでしょうか。聖書はイエス様とザアカイが何を話したか何も語っていません。ただ私たちが知ることが出来るのは、ザアカイは、自分が何とひどい罪人であるかを知っていたこと。そして、イエス様はザアカイの罪の問題を扱われたこと、それから、イエス様はザアカイに、人となられた神であることをお示しになったこと。その結果、ザアカイは心を開いて、悔い改め、イエス様を信じたこと、そして彼は救われたということです。イエス様は今も、あなたにご自身が神様であること、救い主であることを語っておられます。あなたも心を開いて、悔い改め、イエス様を信じるなら救われるのです。
では、ザアカイは救われた結果どうなったでしょうか。
「ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。わたしの財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は四倍にして返します。』イエスは彼に言われた。『きょう救いがこの家にきました。この人もアブラハムの子なのですから』」(8〜9) ザアカイは急に変えられました。彼は財産の半分を貧しい人たちに施しますと言っています。それは、彼が完全に救われたこと、そして彼の心が変えられたことの明確な証拠です。かつては奪い取る者であったのですが、今は施す者になったのです。搾取していた者が慈善家になったのです。騙し取った人々には四倍にして返したのです。彼の思い、心、態度は変えられました。人々に対する彼の心が変わったことは確かです。しかし、なによりも、神様に対する彼の態度が大きく変わったのです。彼は神様に従いたいと思ったのです。その結果、正しいこと、良いことを行ったのです。それは新しく生まれた人の典型的な姿です。それは救われた人の祝福の実です。それは、彼がユダヤ人であるからではなく、あるいはお金を施したからでもなく、信じたからです。イエス様を信じるすべての人は新しく生まれ、祝福を受け継ぐ者とされるのです。イエス様はあなたもそのようになってほしいと願っておられます。あなたは如何でしょうか。
2008.2.17 礼拝メッセージより
update:
2008/04/05

 [2]   あかし「感動を与えるクリスマス」   山下 美里
 もうすぐクリスマスですね。イエス・キリストを信じている人もそうではない人もこの時期になるとなぜか心があたたかくなりますね。平等に私達に愛を感じさせて下さる神様に感謝します。このあたたかい気持ちは実は神様から来ているものだということをあなたはご存じでしょうか?もし、クリスマスの本当の意味を知ってお祝いするなら神様はあなたにもっと特別なプレゼントを下さいます。
 私が初めて本当のクリスマスをお祝いしたのは4歳の頃でした。ミッション系の幼稚園へ通っていましたが、クリスマスの賛美歌、イエス・キリスト降誕劇、キャンドルサービスなどを初めて体験して私は小さな子供でしたがおごそかな雰囲気の中に喜びがありすごく感動して心があたたかくなりました。降誕劇から、イエス様は神様なのにきれいな環境とは言えない家畜小屋でお生まれになり、家畜のエサを入れる飼い葉おけで眠っていたと知って驚きました。人間の考えを遙かに上回っているこの神秘的な降誕の過程に深い意味がある気がします。
 クリスマス会が終わって家に帰るまでの道を星がそれはきれいに輝いて照らしていたのを今でも鮮明に覚えています。現在、私は親として、小さい時にこそ本物を知ることの大切さを実感しています。
 娘はもうすぐ3歳になります。今の彼女にはクリスマスツリーやケーキの方が魅力的なようですが今年は大分、物心がついてきたので娘と一緒に教会でイエス様のお誕生をお祝いできるのを楽しみにしています。
 イエス様はなぜ、約2000年前に私達と同じ人間の姿でこの地上にお生まれになったのでしょう?
 今年も私達の教会ではイエス様のご降誕をお祝いするイベントをたくさんご用意しています。皆さんもご一緒にクリスマスをお祝いしませんか?どうぞお気軽にお来し下さいますように心からお待ちしております。
---きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。---
 
札幌西福音キリスト教会 会員
update:
2007/12/05

 [3]   「心を新しくするもの」      相馬 剛牧師
 私の家の近くに、発寒川公園があります。ゴールデンウイークのある朝早く、そこを散歩しました。ちょうど桜が咲き始め、ほぼ満開でした。川は山からの雪解けの水が勢いよく音を立てて流れています。地面も緑の草や、芝生が生え始め、木も緑の葉をつけ始めていました。その美しい、澄みきった自然の中を歩いていると、心が洗われるような気持ちでした。確かに自然はすばらしく、私たちの心を潤し、力づけてくれます。旧約聖書詩篇19篇に詩人ダビデはこう言っています。
「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話しもなく、言葉もなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。」
 
 そうです。自然は私たちに、直接話したり、声をかけたりはしません。でも、その自然を見ていると何かを私たちに語っているような気がします。その美しさ、清らかさをもって私たちの心を洗ってくれるような気がします。自然は、人の心を育み、いやし、慰めます。しかし私自身が、このように思うようになったのは、天地の創造者である神を知るようになってからです。それまでは自然を見ても、特に感じるものはありませんでした。しかし、聖書を通して、神が天と地を創造されたということを知るようになってから、自然の見方が変えられたのです。
 
 聖書は自然と同様に、いやそれ以上に私たちの心に語りかけ、私たちの心を慰め、励まし、力づけ、私たちの過ちを示し、正しい道を教え、私たちに平安と希望を与えてくれます。今日、若者の道徳教育の重要さが叫ばれています。確かに、今の時代にそういうものが必要になってきています。多くの人は何のために生まれ、何のために生きていくのかを分らないまま歩んでいます。そういう意味で、何か道しるべとなるものが必要です。だからといって、昔の道徳教育をすればよいというものではないと思います。再び、昔の過ちを繰り返さないことが大切です。そういうことを考えてみると、聖書の大切さと素晴しさを実感します。先ほどの詩人ダビデは、同じ詩篇でこう言っています。
「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのないものを賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」
 
 自然が私たちの心を爽やかにし、癒してくれるように、聖書は私たちの心を新しくし、きよめ、励ましてくれます。聖書はいのちのことばで、真実なイエス・キリストを示し、イエス・キリストへと私たちを導いてくれます。そして私たちが聖書を通してイエス・キリストと交わっていくと、いつも心が洗われ、新しくされ、力づけられるのです。あなたも聖書を読み、ご一緒に学んでみませんか。 
      
update:
2007/05/18

 [4]   「永遠の宝」          相馬 剛牧師
2007.1.7礼拝メッセージ要約
 
 あなたは将来何になりたいでしょうか?金持ちになりたいでしょうか?金は大切です。生きていくために、生活するために必要ですね。私も小さいころ、金持ちになりたかったです。お金がたくさんあれば、将来安心して生きていけると思いました。しかし、お金よりももっと大切なものがあります。それは何でしょうか?それはいのちです。いのちほど大切なものはありません。でも、このいのちは、いつか死んでしまいます。「死なないで、いつまでも生きていることができればいいのに」と思ったことはないでしょうか。実は、神様がそれを与えてくださるのです。それはすばらしい宝です。では神様は、どのようにしてそれを与えてくださるのでしょうか?
 
 それは、人間を新しく生まれさせて、新しく生まれた人間に与えてくださるのです。というのは、人間はこのままのいのちでは、そのすばらしい宝を頂いても、持ちこたえることができないのです。あなたは、野菜や、果物や、パンや、魚などを買ったとき、古い破れそうな袋に入れるでしょうか。入れませんね。新しい、しっかりした袋に入れますね。そうしないと破れて、持ちこたえることができなくなってしまいます。でも新しく、しっかりしたものなら持ちこたえることができます。同じように、私たちが神様のすばらしい宝を頂くには、このままのいのちでは古くて、弱くて、持ちこたえることは出来ないのです。そこで神様は、私たちを新しく生まれさせて、その宝を持つことができるようにしてくださいます。では、どのようにして新しく生まれさせてくれるのでしょうか?
 
 それは神様がご自分のひとり子であるイエス様を遣わしくださって、イエスさまが私たちを救うために十字架にかかってくださり、死んで、墓に葬られ、三日目によみがえってくださったのです。そして私たちがそのイエス様を信じると、新しく生まれさせていただけるのです。それによって、神様は、私達に、この素晴らしい宝を与えてくださるのです。ではこの宝は、どういうものでしょうか?どういう性質のものでしょうか?
 
 それは、壊れたり、古くなったり、汚れたり、しみがついたり、花のように、しおれたり、枯れたたりするものではなく、いつも輝いており、いつも生き生きして、いつまでも新しいのです。では、そのすばらしい宝は、どこにあるのでしょうか?どこにしまってあるのでしょうか?銀行でしょうか?郵便局でしょうか?それともお家の金庫の中でしょうか?
 
 それは天国です。天国は一番安全なところです。そこは虫がついたり、錆がついたり、泥棒に盗まれたりすることはありません。では、そのすばらしい宝は、何時いただけるのでしょうか?
 
 それは今です。神様は、今、あなたにイエス様をお与えになっているのです。イエス様は今から約2000年前にこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれましたけれど、3日目によみがえられ、今もイエス様を信じる人に永遠のいのちを与えてくださるのです。それだけでなくあなたの祈りを聞いてくださり、あなたを励まし、慰め、強めてくださるのです。そしてお私達の手をしっかりとって、天国に導いてくださるのです。そして、天国に行ったらあなたは、イエス様のような完全な体、病気しないからだ、弱くならないからだ、死ぬことのないからだ、いつも生き生きしているからだにされるのです。何と素晴らしい事でしょう。これはお金で買うことが出来るでしょうか?出来ません。お金よりもすばらしい宝です。
 
 あなたもこの素晴らしい宝についてもっと知りたいと思わないでしょうか。どうぞ教会にいらしてください。分かり易くお話しさせていただきます。
 
「神はご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために天に貯えられているのです」(新約聖書1ぺテロ1:3〜4)
 
 
update:
2007/05/18

 [5]   「人生の解決は?」      相馬 剛牧師
 
 私たちは、人生について様々な疑問を持っています。どうしてこの世に悪があるのか、どうして悲しみや不幸があるのか、どうして死があるのかなどについてです。
 
 私も少年の頃、こういうことを考えたことがありました。どうして家庭の中に争いがあるのか、どうして国と国が戦わなければならないのか、どうして人間は偽ったり、不正をしたりしなければならないのか。これらについて語っている本を読んだり、自分で考えたりしたのですが、納得できる説明はありませんでした。
 
 しかし私は、聖書に出会い、聖書を読むことによって、その答えを見いだすことができました。聖書は何と言っているでしょうか。
 
 第一に、人生の諸問題は環境によるのではなく、人間自身にあると言っています。それに対して「いや、そうではない。」と言って反対する人たちがいるかもしれません。その人たちは「もし、人間に良い環境が与えられるなら、人間は正しい者になり、正しい状態にいることができる。」と言います。
 
 ところが聖書によると、人間の諸問題は初めからあったのではなく、人間は最初から良い環境におり、人間に必要なものはすべて与えられ、何一つ不足するものはなかったことがわかります。しかし、人間はその完全な環境の中で罪を犯し、パラダイスの人生をみじめな人生に変えてしまったのです。
 
 第二に私たちの問題の根本原因は、神との誤った関係にあると言っています。この世はこの事実を受け入れようとしません。この世は、神との関係について取り組もうとしません。人間は自分自身のために神に従うよりも自分自身に従うのが最善であると思っているのです。ですからこの世は今も混沌としています。政界、経済界、宗教界、家庭、学校、みな混沌としているのです。
 もし、この世がこの事実を受け入れ、このことに正しく取り組むなら、私たちは正しい方向への第一歩を踏み出すことになります。
 今、キリストを通して、神との正しい関係を築くための第一歩を踏み出してみませんか。
 
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、
 わたしのところに来なさい。わたしがあな
 たがたを休ませてあげます。」
       マタイの福音書11章28節
 
みどりのまきば65号より
 
update:
2006/12/27



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