2008年7月30日から、私の日々における思いを自由に記します。
7.30
連続する無差別殺傷事件に関連した読売新聞の寸評では、卑怯者とは喧嘩で刃物を使用する輩であると決め付けていました。その論理で遡れば、名字帯刀という特権に甘んじて、武士としての精進を一部の武芸者に譲り続けて来た武家社会は卑怯者によるものであったということになります。包丁でも怖いのに、長包丁を翳されては日常では一般人なら誰も我慢するしかありません。
一方、アメリカでは、最高裁で武器所持の権利が再確認されました。どんな怪物が障害として目の前に現れるか知れぬ歴史を背負った社会であることを前提とした決断です。
戦後、原則として誰も武器を所持していないことが前提であった時代においては、武器を所持する者は卑怯者です。しかし、現代日本社会では、誰がどんな武器を懐に忍ばせているかも分からないという危惧の下で、「健全な」人々は置き所の無い不安に身を晒さなければなりません。
日本社会は確実に変わっています。杓子定規の価値観や道徳観が全く通用しない時代に自らが置かれていることを、正しく見つめながら、自らがどうするべきかを考えてゆかなければなりません。
勇気有る人は、日常では決して武器を持たないということが、大前提です。
8・2
大分に端を発する教育委員会関連の茶番に驚く人は稀でしょう。学校への無節操な批判を趣味とする輩の増長を招くこと必至です。かくなる不遜の輩が自らの不始末の責任を公教育に転嫁する、格好の材料となるだけのことです。
公教育は地に堕ちたと断ずるのは簡単ですが、そもそも、前の段階が在ったのでしょうか。
国民的に日本の公教育が開始されたのは明治維新以後です。すなわち、国家の費用負担を前提にした画一的能力養成を目指したもので、日清・日露・第一次世界大戦辺りまでは国全体が豊かになる方便として、欧米の植民支配に苦しんでいた当時の国々の模範となる程の歴史的成功事例でした。
それが、国家存亡という名目の下、国体維持の為のイデオロギー強制の場として、教育そのものが国民を奴隷化する道具と成り下がったのです。
敗戦後、かくなる国家主義を批判しても何ら咎の無い時代になると、民主主義・自由主義・個性尊重が大っぴらに喧伝され、誰もがその風潮に流されました。
いつの間にか、公教育の範疇を超えたレベルの教授の場であるはずの高等学校も、義務教育の延長上もどきに位置付られ、現在、誰が教育現場に公共道徳・社会的倫理の指導を期待しているでしょうか。
正に、ベルグソンの曰く、下降過程の時代そのものです。
8・4
最近、モーツァルトの「魔笛」を聞く機会が何度かありました。
全編を通じて鑑賞したのは二十回を超えますが、殆どが音楽としてでした。しかし、モーツァルトは歌詞に基づいた音楽を創造したはずです。「フィガロの結婚」「ドンジョバンニ」などでも、歌詞の微妙な言い回しを至高の音楽芸術創造の端緒としました。
台本には現在もその存在が曖昧で訳の分からぬ「フリーメイソン」の教義が随所に顕れているとされています(アメリカ歴代大統領・ゲーテ・ナポレオン・マッカーサー、果ては坂本龍馬まで、その会員は謎そのものです)。確かに、観客として大衆を想定したこのオペラには、音楽に反比例した歯の浮くような御題目だらけです。
しかし、コペルニクス的に発想を大転回すれば、愛・平和・勇気などを讃えることを誰が否定出来るでしょうか。内面的に見果てぬ夢を追い続けるのは勝手です。
現在、「魔笛」はプロパガンダとしての意味は皆無でしょう。それ故、この作品に接する人々は、粉飾を一切払拭した上での人類の芸術的成果を堪能出来るのかも知れません。
ゲーテが、第二部の台本は自分が創ると宣言したという逸話が在りますが、モーツァルトの死によって、正に見果てぬ夢となりました。
8・11
100年前の中国では、溥儀が3歳で結果的に清朝最後の皇帝として即位しました。近代化に成功した日本に対して、清では改革が一向に進まず、辛亥革命の後も同様でした。西太后などの旧態依然勢力の妨害だけが改革の遅れの原因ではなかったはずです。
蓋し、中国は、西欧を真似た近代化を受け入れるには余りに巨大であったということです。逆に、日本は程好い器であったということでしょう。
中国は100年・200年単位のダイナミズム世界です。200年前は、衰退期とはいえ、世界の最強国でした。それが100年の後日本に敗れ、侵略され、30年に亘る内的混乱の後、再び超大国への道を歩んでいます。
そもそも、中国とは何でしょうか。漢民族統一国家達成から、異民族との抗争による興亡を経て現在に至っています。そもそも清朝は女真族の支配するものでした。
チベット・ウイグルなどを含めれば56の民族からなる国家ですが、漢民族が90パーセント以上です。
今後、中国は領土的には縮小され、漢民族国家への道を歩むことになるかも知れません。それでも、十億を超える超大国として、今現在の一般の日本人には考え及ばない展開を示すでしょう。
8・12
63年前、人類初の原爆が兵器として実現しました。7月16日のニューメキシコでの実験成功の延長上に広島・長崎が在ります。2回目・3回目でした。そして、ビキニ環礁で日本の長門などの戦艦を標的に4回目・5回目が行われ、54年には同じくビキニ環礁での水爆実験に第五福竜丸が被曝しました。唯一の被爆国日本の人々の思いが、ゴジラを生みました。
被爆・被曝の象徴的国家である日本ですが、未だに原爆症認定訴訟が行われ、原爆手帳を受けるにも様々な制限があるという事実は、国家の名の下に国民を犠牲にし続けて来た歴史的事実への反省が皆無に等しいと断ずるしかありません。
8・12
群馬県上野村の御巣鷹山での日航機墜落事故から23年になります。
当時、私は隣の南牧村の住人でした。原付バイクで峠を超えて、毎週の様に上野村を行き来していました。地元の人々も救出活動をしましたが、人の立ち入りを拒絶するかの様な山々が連なっていました。
まだ若く、弟子達との大いなる語らいに自己満足していた日々でした。
人々は、あの日のことをまだ忘れてはいないのです。
8・15
63年前のこの日鈴木敗戦内閣の陸軍大臣阿南惟幾が、翌日特攻隊司令官として知られる大西瀧治郎中将が、介錯無しで割腹を遂げました。
また、元帥・元参謀総長杉山元はひと月経ってから妻に促されて拳銃自殺をし、それを追って妻も自刃しました。
東京裁判では、いわゆる十五年戦争の遂行者の生き残りの一部が裁かれ、7人が吊るし首となりました。処刑された唯一の文官であった広田弘毅の妻は、判決が出る前に桎梏となるまいと自殺し、本人も一切の弁明無しで刑の執行を受けました。
先日、日本人にとっての屈辱を再び思い起こさせるような手記が公表されました。東條英機の敗戦直前のものです。
「戦陣訓」で捕虜となることを戒めた人間が自殺し損ねて鬼畜としていた国に裁かれたという事実が、日本人の戦後の精神構造形成に与えた影響は無視出来ません。
8・24
指導を終えて、家路に在る公園の並木でふと耳を澄ますと、蝉の声に虫の音が交錯していました。
この五六年、クーラー無しの夏を過ごしていますが、今年も非常に厳しいものでした。それでも自ずと体が慣れたのか、秋の気配の中、夏への名残を思うのは私も歳なのでしょうか。耳順うには十年早いはずなのですが。
8・30
全国学力・学習状況調査なるものの結果が公表されました。
全く根拠・基準の無いPISAでの惨憺たる結果に狼狽した文科省の場当たりのしわ寄せを全国220万余りの小・中学生が被ったという事実は、お笑いでは済まされません。
都道府県単位での点取り合戦が助長され、巡り巡ってその果てに、「拙劣」で「無意味な」設問に対しても得点することを強いられた児童達にはとんでもない「面の皮」ということです。勉学能力に優れた生徒には茶番であり、一般の生徒には出題者の嗜好で点数が左右されるという屈辱の体験だったでしょう。
一方、平均点の1点2点という差が、各都道府県の優劣を示す基準となるような報道は、正に笑止千万です。
そもそも、児童の「能力」を評価する「能力」も無いという事実を「役人」や「教師」「大人」が猛省し、自らの能力の向上に精進することが大前提でしょう。しかし、子供達は「大人」への道を現在進行形で突き進んでいます。
戦後日本社会は人類史上最も長い安寧の中に在ったと言ってもよいでしょう。
63年前、国体維持の名目での玉砕をも諦観していた同じ国民が、同じ遺伝子を有しながら、現在では全てに高を括って自分勝手に勤しむことを旨としているかのようです。倦怠的ニヒリズムとでも名付けたい状況です。他国から与えられた人権概念の湯飲み茶碗の中でし放題という有様です。外が見えませんから、危機感は皆無です。
人間は言うまでも無く相対的生き物です。一般の人間は環境に順応・埋没し、自らの意志だけでの脱却・向上は無理でしょう。
一国・一国民の都合だけでは絶対生き残れない状況に在るこの地球世界において、事実としての「現実」を理解する能力の養成が、今の日本人全ての教育課題でしょう。
9・2
福田さんは、子供でも分かる政治不信の言質を国民に与えてしまいました。
「欧州の天地は複雑怪奇」という迷言で平沼騏一郎が政権を放り投げた後、誰が増しかという元老達の困惑の中、阿部信行・米内光政という「渋々」内閣が短命に終わり、最後の砦の近衛文麿が再登板したにも関わらず、ナチス傾倒とアメリカの圧力との狭間に嫌気がさして、自ら進めて来た全体主義体制の行く末の責任を放り出してしまった歴史事実が思い返されます。
日本の歴史的愚は、国家指導者の資格の全く無かった上記の者達が、その後も国政に関わっていたという事実に基づきます。
政治無責任体質は日本の伝統なのでしょうか。
9・8
36年前の9月末、田中角栄が文化大革命最中の中華人民共和国に出向き、毛沢東・周恩来相手に共同声明を達成しました。
文化大革命では1000万以上の粛清犠牲者を、建国後の経済政策の瑕疵でも数千万人の餓死者を出した強大な権力の保有者と、表面上は対等に渡り合った結果でした。
日本国の総理大臣とは、日本国民の生計のみならず、その生存の行方をも決定し得る地位です。しかし、戦争という命のやり取りでの決定権の一翼を担っていたかつての地位からすれば、戦争放棄国家日本の総理大臣は、その責任の重大さと共にその役割まで、教育委員会の委員並みに凋落したのでしょうか。「誰がなっても同じだ」と口走る選挙民の言葉に、重みさえも感じてしまう現在は異常でしょう。かつては、その様なことを言う人間は軽蔑されたはずです。
しかし、総理大臣としての責任を誰が全うしたかという次元になると、実は昔も今も大差無いのかも知れません。
教育委員会の委員であれ、総理大臣であれ、根本的命題は、その役割に対する責任を果たすか否かなのです。責任を果たす能力も無く、その気概も無い、ということが問題なのです。
9・17
46年前、日本の総理大臣が欧州外遊した際、フランスの国民的英雄?の国家元首から「セールスマンの様だった」と揶揄されました。その後間も無く日本は欧州全てをGNPでは抜き去り、ベトナム戦争で疲弊したアメリカからは「エコノミックアニマル」と軽蔑され、80年代後半はアラブの石油成り金同様、守銭奴の如く忌み嫌われました。多分、欧米はかつての自らの醜悪を日本の「物欲」的躍進に重ね合わせたのでしょう。
しかし、特にアメリカの50年代の愚かな物的繁栄とその延長上でのベトナムの泥沼に猛省したはずの世代の選択が、かつての日本も顔負けの「エコノミックビースト」の道だったのも笑止です。日本のバブル崩壊後、十年前の東南アジアの金融危機で露呈した目先の「利益」のみに照準を定める「ハゲタカ」は世界経済を翻弄し続けました。
二年続きの世界的穀物不作と計画的石油危機を経て、破綻という基盤に在った「バベル」のごとき「サブプライム」で自暴自棄的にのたうちまわっているというのが、今の構造です。
経済「ハイエナ」が勤労者を巻き込んで世界を混乱させています。とんだグローバル化です。その今この時、アメリカは朝令暮改し、日本は行政の最高責任者たる者が誰からも見向きもされない、この状況は更なる深刻の予兆でしょうか。人類の命題は「温暖化」だけではありません。確りと頭を冷やして、欧米日本はシャイロック顔負けの守銭奴たる自らを猛省し、「発展途上国」は歴史の愚を犯さぬことです。
9・30
今年は「未曾有」の出来事が相次いでいます。相撲界の麻薬汚染だけでなく、穀物・燃料価格高騰、サイクロン・地震被害、日本首相の政権放り投げ、食の不安全、北極の氷の融解・南極のオゾンホールの進行などなどに加えて、29日、ニューヨークダウ式株価が史上最大の暴落額を記録しました。1兆ドル以上の喪失があったということです。
下落率は7パーセントで、87年のブラックマンデーでの22パーセント超ほどではありませんが、多くの人が79年前を思い描いたことでしょう。
29年10月24日、ニューヨーク株式市場での株価が暴落し、世界恐慌の端緒となりました。それまでの5年間で株価が5倍になるというバブルに浮かれていた結果でした。当時のアメリカ国家予算10年分の喪失だったと言われています。
1987年からアメリカの株価は9・11の中断を挟んで7倍になっていました。冷静な頭で考えれば破綻が必須であった「サブプライム」が引き金となって、超大国アメリカの「失策」が世界を巻き込もうとしています。
私は株や賭け事はもとより宝くじとも無縁の人間ですのでよく分かりませんが、一攫千金への欲望は人間の本性の最大のものなのでしょう。本能・本性故に、いかなる愚昧の先例にも懲りないというところでしょうか。私は共産主義者でも理想主義者でもありませんが、しかし、その様な能力のみが長けた輩の営みに、自分の能力に応じて地道に日々の糧を得ている人々までが巻き込まれる事態はやはり憂慮の対象です。
カタストロフィを食い止める為に元凶の責任追及には目を瞑りながら不良資産を税金を使って買い取るという形で「張本人」を救済するという構図は一般国民には理解しにくいものです。今回の株価暴落は下院が選挙絡みで国民感情に目を向けた途端に引き起こされたもので、十年前の日本の様に、中小企業とその社員やパート従業員などの弱者を切り捨てる政策にアメリカも走ることになるでしょう。
更に言えば、金の「狂宴」の一方で、10億の人間が飢餓線上に在り、それを「余った金」で救おうか、という発想に基づいている限り、この人類は救われません。
間近に迫っているであろう未曾有のインフルエンザ「パンデミック」の足音への注意も怠ってはなりません。
10・6
死に体のブッシュ政権が預金者保護でカモフラージュした金融安定化法案の修正案が上院経由の下院で逆順可決され、ヨーロッパでも独自の道を歩むかの様なパフォーマンスを示しながらも結局はアメリカ追随となりそうです。強いユーロがアメリカ金融に根深く係わっていたということです。多分かつての日本同様、預金保護を前面に出しながらの金融会社保護政策に走ることでしょう。
日本のペイオフ凍結が解禁されたのが3年前であることを考えると、グローバル化の代名詞のごとき経済が此処彼処でそれぞれ迷走していることが分かります。
日本ではブータンという王国が静かに注目されているようです。中学受験の国語題材にもなっています。
チベット仏教が国教で、以前から、人の幸福を所得の高低ではない独自の価値観で追求しているということでよくマスコミにも取り上げられていました。ネパールが混乱の末王制崩壊という状況であることを踏まえると、国家の枠組みが住人の生活に雲泥の差を齎すのであると思い知らされます。
かつて、日本人が住みたい人気国はスイスでしたが、豊かで平和にのんびり便利な暮らしをするということが幸福観の絶対基準となってしまった今、「清く貧しく」という、大昔の美意識?に立ち返ることは見果てぬ「囚人の夢」ではないかと、思わず唸ってしまいました。
10・8
今年のノーベル賞を(元)日本人が四人も受賞しました。
ノーベル賞やオリンピックの金メダルは、特に日本人には一種独特の価値を有するものなのでしょう。
益川氏は、「単なるお祭り」と言っていましたが、実体と虚構、そしてその虚構で右往左往する実社会という、人間社会の果てしない「命題」の一端が、正に虚構そのものである金融構造社会で果てしなく続くであろうカタストロフィの最中で、「歓迎」という形で日本社会に受け入れられるのも皮肉と言うべきでしょうか。
アインシュタインは物理学賞を「光量子仮説」というもので得ました。ガンジーは平和賞を何度も打診されましたが全て断りました。北里柴三郎は世界で最初にジフテリアや破傷風に対する血清療法を開発したにもかかわらず受賞を逃しました。南部氏・下村氏の場合、その成果のほとんどはアメリカでなされたもので、南部氏の国籍はアメリカです。
教育に支出された日本の公的資金の割合はOECD諸国中最低のGDP比3・4パーセントということです。逆に私的出費はアメリカに次いで第二位の2パーセントです。「教育立国」日本はいまだに学歴社会ではありますが、向学心は受験で消費し尽くされ、その後の展開には余り成果が無いのではないかというのが現状でしょう。ノーベル賞は欧米人の為の「イベント」という側面はいまだに根強く、米英独仏合わせて500人を超える受賞者を出しているという現実の下、15人だの16人だのと言って喜んでいる日本は大変お目出度い国家であるということでしょう。
1970年以降毎年のようにノーベル経済学賞受賞者を出しているアメリカが、ベトナム戦争での疲弊後、オイルショックから立ち直る間もなく財政赤字に苦しみ、80年代はその経済力は二流と日本に揶揄され、その後はバブルに浮かれて、今、全世界を巻き込んで底なしの泥沼で足掻いているという現状は、「賞」という栄典を授与する側の思惑・都合の次元とそれの齎す効果・実質との乖離の表れなのでしょうか。
10・14
日本・欧米の自由主義経済諸国政府が市場への徹底介入を決定しました。
91年のソ連崩壊は社会主義経済の敗北という構図の喧伝材料とされ、似非インテリは「イデオロギーの終焉」を馬鹿の一つ覚えの様にまくし立てていました。その頃、日本の土地バブルも終焉を迎え、97年にはヘッジファンドによって東南アジア通貨危機が操作され、アメリカはブッシュ政権半ばのイラク泥沼期に財政危機を補うかの様にネズミ講のごときサブプライムバブルで浮かれ、その「デリバティブ」として地球規模の食料・燃料バブル高騰を生みました。
すなわち、自由主義経済は破綻の道を着実に歩んでいたのでした。
日本型国家庇護金融経済という歪な形態が世界を覆うと考えると、ぞっとします。犯罪者もどきの輩達の責任は曖昧なままにして、体制維持の大義名分の下、相対的強者保護の見返りとしての弱者切り捨て、という、共産党や社民党などの万年野党自認政党が馬鹿の一つ覚えで繰り返して来た事態が、「先進諸国・BRICS」での国家政策の前提となりつつあるのです。
地球存続の命運を握る権力の頂点を決定する大統領選も、本来マケイン有利で進むはずが、イラン・イラク・アフガニスタン・インド洋・北朝鮮問題などを吹き飛ばして、内政問題に国民の関心がコペルニクス的に大転回してしまい、オバマ大統領誕生となりそうな情勢です。
実体経済を必ずしも反映しない金融経済が、スターリンやヒトラーによる「国家社会主義計画経済」の成功とは裏腹に崩壊の危機に直面してから70年余り。第二次世界大戦という未曾有の実体経済力の覇権争いを経て、再びその崩壊過程が本格的に始まってます。ローマ時代の歴史家の箴言が重く人類に伸し掛かっています。
10・24
受験生にとって乾坤一擲の季節となりました。合格という目標に向けての言い訳無しの努力・努力が全てに優先されます。
私は、と言えば、受験とは無縁の十代の果て、大学受験のこの時期、様々な桎梏の中、近所に屯する五月蝿い暴走族を威嚇で静かにさせて憂さ晴らしするという、何とも愚かで無意味な日々を強いられていました。何度も断られながら、やっと勉強の場として人に物置を貸してもらって受験勉強を始めたのが11月下旬でした。親や親族の顔も知らずに、それでも平気で生きて来たはずでしたが、さすがに貧困と一日中続く有りと有る騒音という悪環境には辟易させられていました。
160人以上の受験生を個別指導して来ましたが、勉強をしたくなった時に思う存分出来る、という環境が合格の絶対条件です。私には居りませんでしたが、子供が真摯に目的に向けて精進しようとする時、最も有り難い存在はやはり「家族」でしょう。
子供の合格は、家族で勝ち取るものです。何故なら、何であれ、達成の喜びは、分かち合う人が在ればこそ、だからです。
今の私にとって、生徒の合格の喜びを共有することが至福です。
10・25
アメリカ発の金融震災が早くも高校生の来年度の就職に影響をもたらしている様です。真面目に就職活動をしている高校生や学校の担当者達の気持を思うと胸が痛みます。
一部の不埒な若年層の愚かな振る舞いが、フリーター・ニートなどという差別用語を生んでいることも悲しい現実です。
一方で、教育・警察関係者までもが不埒な行為を重ねている事実が連日発覚報道されているという状況を踏まえると、そもそも人間が人間であることは、老若男女を問わず、人間の本質そのものの課題であるということになります。
立派な人間は子供でも立派であるということです。その逆が目立ち過ぎます。
11・6
アメリカでは「黒人」のオバマ氏が次期大統領に決まりました。黒人国家であれば彼は「白人」の大統領ということになります。
40年前、黒人のみならず白人のリベラリストにも夢を語ったキング牧師、そして、予備選挙中、最も大統領に近かったロバート・ケネディが暗殺され、アメリカは「カリスマ」を喪失しました。
その後、アメリカという「巨象」の形振り構わぬ「妄走」に世界は翻弄され、「金魚のフン」として付き従った日本は少なくとも飢えること無く、食料廃棄1000万トンを超える飽食国家と成り下がりました。一方で自給率40パーセントのボーダーに右往左往しているという状況は、中学入試の設問にも登場する「日本という国の危うさ」を全く自覚していない馬鹿が大人そのものであるという悲劇的現実として、将来を担う子供達への最も有効な警鐘となっています。
カリスマとは、ヴェーバー流に言えば、合法・伝統を超越した革命的な能力者を指します。すなわち、カリスマが求められるということは、世界が壊滅的危機に直面していることを意味するのです。
オバマ氏を「カリスマ」として期待する風潮が現れていますが、アメリカのカリスマは大衆の幻想の産物であり、云わば、大衆にどれだけ迎合しているかを示す尺度に過ぎませんでした。
肉親を全く知らぬ中で育った私にとって、祖母に育てられたというオバマ氏の、ハンディを乗り越えた精神力には大いに期待するものがあります。彼の現在の成功を「アメリカンドリーム」などという成り上がりの発想で捉えるのは誤まりであることを祈ります。
一方、アメリカは、イーストウッドの映画「許されざる者」で示された「何故、淑女が人殺しに嫁いだか」という命題に共感を覚える人々がいまだに主流を占め得る国でもあります。かつて、日本もその程度の命題には十分対応出来る人物は在った国でした。
カリスマは得てして最後は暴走して自滅する運命にあります。この地球上の最高権力者に自滅されては困ります。
11・7
ジャーナリストの筑紫哲也氏が亡くなりました。73歳ということです。
私が十代の頃、メディアを通じてのいわゆるオピニオンリーダーは、丸山眞男・会田雄次・羽仁五郎・加藤周一や、小田実・竹村健一・石原慎太郎・大島渚などといった人々でした。時代がバブルを経ると、多くが変節を重ね、命懸けで正論を吐くというような気骨人は死ぬか淘汰され、現在では、テレビメディアで耳を傾けるべきは、ジャーナリストの田原総一郎と筑紫哲也くらいかと思っていた矢先でした。
筑紫氏の思想面などにはほとんど関心は有りませんでしたが、報道番組までもが絶望的に軽薄短小化した中、近年、この人の顔を見ると何となくほっとしていたのも事実です。
テレビという重大マスメディアで、見るのはほとんどニュースだけという私にとって、番組の選択肢がさらに狭められるのは残念です。
11・11
田母神前航空幕僚長の行動は何を意味するのでしょうか。
歴史を少しでも知っている日本人なら誰も戦後の国際社会における政治的位置付けには不満を覚えます。すなわち、戦後63年においても、日本は「敗戦国」なのです。
63年も経てば、余程の無頓着でない限り、敗戦とは何だったのか、にも考えが及ぶでしょう。問題は、「連合国」によるご都合主義的敗戦評価に、そのまま日本が安住し続けて、自省しなかったことにあります。
中国の内戦に乗じて出兵し、辻褄合わせの「大東亜共栄圏」などという手前勝手の一夜漬けを大義名分として東南アジアに及ぶ侵略を行ったことと太平洋戦争は分けて考えるべきです。太平洋戦争はアメリカとの一対一の戦いでした。
両者を十把一絡にした東京裁判の瑕疵は明らかであり、問題はそれに縛られる日本の状況なのです。
敗戦国意識が当時の国家戦略の被害者としての歪な感情と結びつき、台湾・韓国・中国・東南アジアの一般大衆への罪を等閑にしたまま、結局、国際社会において、「自分だけは戦わない、血を流さない」という安穏国・国民と成り下がったその現状への葛藤が日本防衛の要である自衛隊幹部さえも呪縛していたことの「表象」が、今回の「事件」の本質です。
「機関」の中枢に「蒋介石に引きずられた」という自虐妄想を堂々と発言されて慌てふためくというこの自らの責任を果たさないまま「曖昧」に便乗して戦後を生きながらえて来た「日本国家」の事態は、その土台は何だったのか、を根底から問い直させる「良い機会」と捉えるべきでしょうか。
11・17
オバマ氏の大統領当選は何を意味するのでしょうか。
キング牧師に象徴される黒人の公民権運動が白人リベラリストから一定の評価を得たのは、初期においては白人がそれなりに情緒的成長をし、60年代後期においてはベトナム戦争泥沼化を発端とするアメリカンアンシャンレジームへの若年層による反抗運動という流れに促されたからでした。
しかし、70年代後半から80年代、そして近年にいたるまで、アメリカは保守的傾向、すなわち、自国営利主義に青年層を巻き込んで邁進してしまいました。人種とか世界の警察国家の名分よりも、儲けること、それが価値観の中枢となったのです。長者番付の上位者がまるでヒーローの様に扱われました。
大統領選の流れをオバマ氏有利に変えたのが金融危機でした。アメリカ国民は、「英雄」としての実績の有るマケインではなく、その学歴から経済政策には有能であろうと推測されるオバマを選んだということです。
イギリスのサッチャー、ドイツのメルケル、フランスのサルコジの流れを持ち出すまでもなく、EUでは実力主義が浸透しています。しかし、その実力を測る基準は曖昧で、学歴・世襲もいまだに介在しています。全て主権者である国民の判断に任されます。真の実力主義で人類社会が展開するには、更なる危機を経なければならないのかもしれません。