キランは三日三晩、カルザニア公国から南進を続けた。
森林地帯を抜け、荒地を通り、原生林に迷い込み、汗と埃にまみれた自分自身に嫌気が差した。
わずかな清水を見つけては、喉を潤し、顔を洗い、汚れを落としていた。
「覚悟を決めて、国を後にしたが、これではどうにもこうにも、埒があかない」
現在いる位置がつかめずに、彼は腰を下して途方に暮れた。
森林の中、蔓がはびこり、長い草が歩行を妨げている。
猛禽類が羽根をばたつかせ、甲高い鳴き声を響かせた。
周囲は暗くなりつつある。
もはや、先へ進むのは困難だろう。
彼は火を起こし、その場で野宿することに決めた。
この三日間で、なんとか獲物を捕えることができるようになった。
いくら国で訓練していたとはいえ、実際に動く物を捕えるのは初めてである。
野鳥は木に止まっている時、小動物はおとなしく地にじっとしている時を狙って捕まえることにした。
水筒の水を飲んだキランは、大木を背に寄り掛かった。
空腹を満たし終えた後、睡魔が襲ってくる。
はっきり言ってへとへとだった。
心身共にくたびれ果てていた。
真っ白い単衣は薄汚れてしまうし、手足はすり傷だらけである。
突然、上から何かが落ちてきた。
それは彼の脚の間にすっぽり入ってしまった。
驚いて瞳を開いたキランは、その物体を手でつまみ上げた。
「ハハッ‥‥。どうしたんだ、おまえ」
ピーピー鳴いている。
反抗的な眼差しをくれたヒナは、彼の指を突っついて対抗した。
「何もしやしない。巣に返してやろう」
キランは木登りを始めた。
彼の大きな手の中でもがいているヒナを軽く握って、巣のあるところまで登っていく。
樹皮がボロボロと崩れて、足を滑らせながらも彼は到達した。
そこには他に二羽のヒナが大口を開けて泣いている。
親鳥がキンキン声を張り上げて、彼の銀髪を足で引っ張った。
落ちたヒナを巣に戻したキランは、樹木の間から夜空が見えた。
輝く星々、雲によってその姿を隠す星は一つもない。
臆面もなくその煌きを誇っている。
「ほし‥‥星!」
長い腕を天に差し出した。
「おれはなんて愚かだったんだ。下ばかり向いて歩いていた。ファローズ主宰に散々教えてもらったではないか。北天に、ケフェウス、ドラゴン、カシオペア。あれはデネブ、そしてその南方にアルタイル。あっちが南だ!」
彼は人差し指で方角を示した。
沈んでいた瞳は星のように輝く。
エメラルドグリーンは、勇気と活力に満ちていった。
「あっ‥‥つっ」
夢中になっていた彼の頭を、親鳥がくちばしで突いた。
手で頭を撫でた彼は、情けない表情を作って降りていった。
「明日から、真っすぐ南へ進む。ゆつくり休養を取っておくといい」
キランが白馬の頭を撫でてやると、いっとき馬はいなないた。
熟睡を味わった彼が目覚めた時、空は白々と明けてくるところであった。
太陽は東から昇る。
方角は間違っていない。
夕べ目指した方角が南である。
南に行けば国に突き当たる。
この世で一番の先進国と聞かされた大国。
一度は行ってみたいと思っていた。
カルザニアの倍の領土を持ち、市も数倍は規模が大きい。
彼にはどれほどのおおきさなのか想像がつかなかった。
行ってみればわかること。
その両目で確かめることが一番である。
キランは白馬にまたがり、一路南へとひた走っていった。
原生林を抜け出し、視界が開ける頃、前方に蜃気楼のようにゆらゆらと城が見えた。
灼熱の太陽光線が降りそそぐもと、彼は馬を並足にさせた。
「ダシーダ国‥‥」
ゆつくりと馬を進めて、北門へと近づいて行く。
番兵が二人いる。
目つきの悪い男たちが武装して、腰に長剣を差している。
遠くから馬に乗った男を認めた番兵は、手に持つ槍を交差させてキランの行く手を阻んだ。
「なにやつ!」
「旅をしている。あやしい者ではない。食料と宿を求めてきた」
「ふん! 見たところまだ小僧ではないか。まあ、いいだろう」
二人は槍を引いて道を開けた。
その真ん中を、キランはすり抜けて行った。
四日目にして、久し振りに人間と接触したのだった。
彼はちょっと振り返って見た。
如何にも好戦的な顔と体格だった。
背はさほど高くないが、その割に脚が長い。
茶色の髪の毛で、眼は幾分細くていかつい顔の作りだ。
カルザニア人は、眼は大きく薄い色合いである。
髪の毛の色も薄く肌も白い。
やはり、北方と中部地帯の人種の違いが際立っていた。
祖国の番兵は、槍で門をとうせんぼしたりしない。
自己を護るために剣をさげててはいるが、入国者を疑り深そうな表情をして拒んだり、尋問したりはしない。
極めて争いを嫌い、武装した隊以外はほとんどと言っていいくらいおおらかに受け入れる。
太陽は西へと傾き、紫外線が弱まって碧い空がくすんで見える頃、ダシーダ国の中心地に辿り着いた。
広大な敷地の広場には、数えきれないほどの市がたっていた。
馬から降りたキランは、手綱を引きながら見て回ることにした。
物資がなんて豊富なのだろう。
ありとあらゆる物が売られているのではないだろうか。
北国にはない食糧もあり、彼は物珍しさに驚嘆している。
活気に満ちて、肩が触れ合うほど人の波がある。
その上、武装兵の多さにも驚かされた。
若い女のいる屋台で、兵士が買いもしないくせにちょっかいを出している。
愛想笑いを返すしか、抵抗するすべはない。
もし、反抗でもすれば、何をされるかわかったものではないのだろう。
「だんな! そこの若いだんな!」
キランは、自分のことかな、と振り返ってみた。
老婆が手まねきしている。
「ふぉっふぉっ‥‥。まばゆい髪じゃのう。どうじゃ、苺を買わんかねえ」
麻布を頭からかぶり、首のところをピンで留めている。
まるで地蔵のような老婆は、しわくちゃな手で、陳列してある赤くて大きな苺を見せた。
「美味しそうだ。では、ひと山もらおう。いくらだ」
片膝ついて、老婆に尋ねた。
彼女は右手の指を、一本立てて示した。
彼は布財布から金貨を一枚取り出し、彼女に差し出した途端、その老婆はショック死でもしそうなほど驚きを表してのけ反った。
「どうした‥‥。金貨一枚なのだろう?」
「とんでもねえ。そんな高価な苺がこの世にあるわけないじゃろが」
小馬鹿にしたように上目遣いで彼を覗き見した。
眉をひそめたキランは、もう一度尋ねた。
「では、いくらなんだ」
「銅貨、一枚」
膝の上に肘をつき、彼は顎を撫でた。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
老婆は買ってもらえるかどうかの瀬戸際だ。
グッと彼の顔を凝視している。
その銅貨一枚によって、彼女の今夜の食事にスープがつくか否かの、重大な別れ目なのだ。
キランはと言えば、何か困惑ぎみの表情をして悩んでいる様子だ。
買ってやろうという意思はある。
だが、しかし、かの婆さんが釣銭を持ち合わせているだろうか。
「銅貨は持っていない」
おもむろに彼は言った。
老婆の顔に失望感がありありと見えた。
今夜の夕食に、スープは無しだ。
パンとチーズしか口に入らない。
毎日、今日こそはと思いながら商いをしているが、そうそう苺を買ってくれる客は滅多にいなかった。
果物は買わずともその辺に実っているし、畑で作った物はほとんど口に入ることがなかったが、そんなのに金を使うぐらいなら、もっとましな食事をした方が有効な手立てなのだ。
キランは彼女の顔色を見て、より一層戸惑った。
「銀貨なら持っているんだが‥‥」
「もう、いいだ」
ぶっきらぼうに言い放った。
釣銭などないに決まっているが、何より計算など出来ないのである。
この時代、お金の遣り取りは行われない。
物々交換か、金と物の取り換えっこしか商談は成立しない。
迷った挙げ句、キランは黒のマントを広げて、両端に見られないように彼女の手の中に銀貨をつかませた。
そして、老婆の驚きを尻目に、苺をひと山抱えて先へと進んでいった。
彼女は、彼の姿が人込みの中へと消えてしまうまで、両手を合わせて拝んでいた。
その銀貨一枚で、三日間はスープとパンとチーズが食べられ、ひもじい思いをせずに済むのだった。
人をかき分けながら西の方へと行く。
少し先に野菜が売られている。
草しか食べていない馬のために、何か与えてやろうと先を急いだ。
その時、彼は銅の鎧で武装した兵士と肩がぶつかり、ガシッと音をたてた。
金属に当たった彼の肩は、砕けそうなほどの痛さだった。
「ぼやぼや歩いてるんじゃねえよ、小僧」
キランは左肩を手で握り締め、恨めしそうに見返した。
「なんだ、その目つきは----。よそ者のくせには向かうのか」
「止めておけ。そんな小僧を切っても名誉にはならん」
剣の柄に手を置いた兵士は、もう一人の連れに言われて手を下した。
だが、その兵士はキランの頭からつま先までジロジロとうさんくさそうに眺め回し、立派な長剣と脇差に視線を固定させた。
銀髪はまさしく他国者の証拠である。
夕日に赤く染まって見えた。
旅人にしては、ずい分と厳重に身を護る武器を持っているし、商人とも思えない。
彼が引いている白馬は、毛並みよろしく血統も良さそうだ。
ひとしきり視線を巡らせた後、ふん! と鼻を鳴らして立ち去って行った。
痛む肩を撫でながら、キランは一つの屋台を目指した。
農民たちは自分の手によって作った野菜を売りさばくのに忙しそうだ。
「人参をくれないか」
喋るのもおっくうなのか、中年の主人は手のひらを差し出した。
腕を組んで考えたキランは、銀貨一枚、その手のひらに置いた。
そそくさと懐に突っ込んだ主人は、屋台をたたみ始める。
大きな麻袋にいっぱい入っている人参が、数えただけでも十はある。
「主人‥‥この売り物をどうするんだ」
「どうって、あんたが全部買ったんだろ。好きにするがいいさ」
「全部!」
たたんだ屋台をロバに乗せ、今にも家路へ戻ろうとする彼に、驚きの声を浴びせた。
「一袋でいいんだ。こんなに買っても馬の背には乗せきれない」
「だが、あんたは銀貨をくれた。この人参すべてをやっても余るほどの金だ」
キランは自分の世間知らずさに、茫然自失になりかけている。
世間知らずもさることながら、お金の価値観がまったくない。
ミッドガルド宮殿から繁華街へ出たこともなく、金で物を買ったことがなかったのだ。
ああ、とにかく何不自由なく十八年間を過ごしてきたのだった。
ひと袋の人参を馬にくくりつけ、残りの九袋を横目で睨んだ彼は、左隣で穀物を売っている女の視線が、自分に向けられていることに気づいた。
今にも腰を浮かせて何か話しかけたそうにしている。
右隣の男を見ると、急に視線を逸らした。
ふむ‥‥と唸ったキランは大声で言った。
「この人参の欲しい者がいれば、持っていくといい」
その瞬間、彼は弾き飛ばされた。
婦人たちの大きなお尻に押されて、危うく尻もちをつくところだった。
彼の声を聞いた買い物客たちが殺到したのだ。
真先に手を出したのは、両隣の農民であった。
呆れ返って首を振るキランに、注意を払う者はいなかった。
キランは天空を見上げた。
もう日が沈んでしまう。
宿を探さなくてはならない。
まあ、宿が見つからねば野宿すればいいことだが、どうにも熱いスープとパンが食べたいのだ。
四日間、焼いた鶏肉と木の実と果実しか口にしていない。
穀物を主食にしているカルザニア人たる者、パンが恋しいのである。
パンは市に売り出されていない。
原料の米や麦はあるが、製品としてのパンはそれぞれ家庭で作るものである。
思案した彼が、何処へ行けば部屋を貸してくれるか、親切そうな婦人に尋ねようとした時、女性の金切り声が耳に飛び込んできた。
その声に敏感に反応した彼は、くっと一つの方角に顔を向けた。
広場の端でいさかいをしている数人の武装兵と女が見えた。
取り囲むように、道行く人々が輪になって傍観している。
「離してよ、野蛮人!」
「そんなに邪険にすることねえだろ。薄衣を着て、男を誘うつもりだったんだろう。今更じたばたするな。高く買ってやる」
キランは人を押しのけて声のする方へと近づいて行った。
「あたしはね、買い物をしにきたのよ。男を誘うつもりなら、もっとましな奴を選ぶよ。こっちにだって選ぶ権利があるんだから。誰が好き好んであんたみたいな不細工な男を誘うってのよ」
「遊び女のくせに、聞いたふうな口をたたくなよ! おれたちに逆らえば、ここで二度と商売ができなくしてやる」
太い手で女の白くて細い腕をねじ上げた。
彼女は痛さに顔を歪めたが、屈伏することなくさらに追い打ちを掛けた。
「そんなこと出来るもんですか。女の尻を追い掛けるしか脳がないくせに!」
激怒の頂点に達した兵士は、握り拳を振り上げて殴りかかった。
女は顔を背けて今にも飛んでくる拳に奥歯を噛みしめた。
だが、拳は飛んでこなかった。
ゆっくり、左目だけ開けて見ると、兵士の手首が誰かに?まれている。
「やめろ!」
「なんだ、てめえは」
「誰だっていいだろう。女を殴るのは男の恥だ」
ニヤリと笑った兵士は、あっさりとキランの手を振り払った。
「おい! そんなへなちょこの身体をして、おれに立ち向かおうってのか」
どんな男だって、その兵士と比べればか細く見えるはずだ。背丈はキランより劣るが、腕の筋肉は盛り上げり、どっしりとした身体つきの下に、太くて筋肉質の脚が二本生えている。
胴の太さなど、女の三、四倍はありそうだ。
革のベルトをして反り返った剣を差していた。
胸には銅の鎧を着けているところをみるとの日勤番の仕事から帰る途中なのだろう。
虚を突いて、兵士は右拳を飛ばした。
キランは上体を低くして退け、逆に彼の顔に反撃を喰らわせた。
顔中ヒゲをたくわえた男は、まるで女の平手を喰らったかのような反応だった。
安定感のある身体はびくともせず、ただ顔を揺らしただけである。
拳で顔をぬぐった兵士は、力の限りにキランのみぞおちを殴り上げた。
彼はよろよろと後によろめいて腹をくの字にして抱え込んだ。咳き込みながら腰砕けになるのを辛うじて踏み止まった。
無理やり状態を起こされた彼の腹に、今度は膝が飛び込む。
その二発でキランは地に倒れた。
「なんと手応えのない----。英雄気取りもいいが、自分の無力さを後悔するんだな。気勢がそがれた。おい、みんな一杯飲みに行こうぜ」
仲間に合図すると、兵士たちはキランと女に背を向けて酒場へと繰り出していった。
取り囲んでいた人々も、散らばって家路に向かい始める。
石畳に倒れ込んでいるキランは、息をきらして小刻みに身動きしていた。
「ちょっと大丈夫? 坊や」
遊び女は彼の頭を撫でた。
気持ちが良かった。
銀髪の感触は、兎の毛のようにふわふわしている。
「ゴホッ‥‥みっともない醜態だ」
起き上がった彼は、腹をさすりながら唸った。
「あんたの勇気には感心するわ。誰も助けてはくれなかったもの。もっとも、ダシーダの住民の中に、武装兵に対抗するなんて無茶な人間なんかいないわ。まして、あたしみたいな遊び女の一人や二人、気にする人は皆無だわね」
「何故、おれが他国の者だと思う?」
「一目瞭然だわ。こんな素晴らしい髪の持ち主が、ダシーダ人にいるわけないもの」
キランは初めて顔を上げて女を見た。
暮色の中、豊富な金髪が揺らめいている。
瞳の色は暗くて識別出来ないが、薄い色をしているに違いない。
肢体はふくよかで、くびれているところは、キュッと締まっている。
「あんた‥‥なかなかいい男ねえ」
女は触っていた彼の髪の毛から、頬へと両手で撫でた。
「今夜、泊まるとこがないんなら、うちへいらっしゃいよ。助けてくれたお礼に、あつーいスープとパンをご馳走してあげる。ベッドも大きいのがあるからさ」
ウィンクしてみせた。
それに対して、キランは笑顔を作った。
純粋な喜びからである。
夢にまで見そうな熱いスープとパンが食べられる。
宿も提供してもらえるのだから、願ったり叶ったりだ。
しばらく、座り込んでいた彼は、痛む腹を撫でながら立ち上がり、馬を引いて彼女に従った。
西へ数分歩いて行き、右に折れた。
そしてずっと行くと、湧水のある泉があって、それを囲むように石造りの住居が建ち並んでいる。
その裏手の同じような扉が幾つもあるうちの、一番端が女の住まいだった。
「お入りなさいな」
扉を開けて彼を招いた。
馬を気につなぎ、買った人参を与えてから入った。
右側にベッドがあり、その奥が厨房になっている二間の住居だ。
腰かけと卓が一応置いてあったが、キランはそこに腰掛けた。
「すぐにスープを作ってくるから、寛いでいてね」
彼女は厨房へと消えていった。
外は真っ暗闇である。
月明かりが小窓から差し込んでいる。
灯火は充分で、部屋の中は明るかった。
「そうだ----ねえ、あんた。名前はなんて言うの? あたしはエレナ」
厨房から顔を覗かせて訊ねた。
「キラン」
「ウーン、名は体を表すって本当ね」
彼女は全身を現した。
薄衣一枚のいたって飾り気のない身なりだ。
ただし、身体の線がくっきりとわかるほど小さな着物だ。
「ねえ、キラン。マントを脱いだら? 重装備の剣も置いた方がいいわね」
彼の後に回ったエレナは、マントを脱がせて綺麗に折りたたんで衣装棚に置き、その上に剣を乗せた。
厨房へ取って返して数分後、湯気の立つ器を二つ持ってきた。
卓の上へは、ビーンズスープとパンとチーズとハムが広げられ、もう一度戻ってきた時、右手に酒杯を二つ手にしていた。
「果実酒があったわ。----さあ、頂きましょう」
キランはこの上なく満足だった。
熱いスープは胃の中まで沁み渡り、パンは焼きたてで口の中に溶け込む。
「何処から来たの?」
「カルザニア」
「へえ! あんな北方から南下してきたってわけ? 目的があってダシーダに来たのかしら。それとも、旅の途中----」
「各国を廻るつもりなのだが‥‥この国の情勢はどうなっている?」
果実酒でパンを流し込んだ。
「そうね。すこぶるいいとは言えないけど、まあ、住み心地は悪くないわね。物は豊富にあるし、あたしたちの商売もなかなか繁盛しているわ。ここには、兵士が溢れるほどいるから‥‥。あんたもさっき聞いていたでしょう。あたしたちの方が男を選べるの」
両手の上に顎を乗せて、おかしそうにクスクスと笑った。
その視線は、キランの顔に釘付けである。
エレナは恋でもしているように、瞳をキラキラ輝かせて、彼の顔から胸の辺りをウロウロと視線が這う。
そんな彼女の思惑など感づかないキランは、黙々と食べている。
頭の中にあるのは、腕っぷしを鍛えることと、明日は宮殿の周囲を探索してみようということだけだった。
扉を控えめにノックする音がした。
「どうぞ、開いてるわ」
エレナは声を掛けた。
姿を見せたのは、斜向かいうに住んでいる仲間だった。
「ベラドンナ」
「ハーイ、エレナ。‥‥まあ、今夜はやけにかわいい坊やを捉まえたのね」
彼女はダークブラウンの巻き毛が肩に掛って、愛嬌のある顔をしている。
エレナよりもう少し豊満で、胸の真ん中にホクロがあった。
ベッドに腰掛けて、習慣のように足を組んだ。
両手で髪の毛を掻き上げ、後に払った。
「テルスが宮殿に上がったわ。ミハイル王子直々のお声が掛ったんだって。大喜びして勇んで行ったわよ、あの娘」
「へえ、あの娘が----。そう言われてみれば、ミハイル王子は大柄な金髪美人がお好みよね」
「あらぁ、あんただって金髪じゃない」
彼女は身を乗り出して言った。
「あたしはミハイル王子なんて好みじゃないもの。目つきが悪くて陰気臭くて、散々遊ばれたあと、呆気なくポイされちゃうのよ。その上、王子の手のついた遊び女は、誰も誘ってくれないんだわ」
「でも、たくさんの宝石を身にまとって、豪華な衣装を着れるのよ。毎日、湯浴みして香を付けて、ふかふかのベッドで寝れるの」
ベラドンナは夢見るように、両手をくねられながら表現をつけた。
「王子は一人だけなのか」
キランが、会話に割り込んだ。
「ええ、女遊びとお酒にしか興味のない、出来の悪い王子よ。国王が国王だからしょうがないかも‥‥。夜毎、酒宴を開いては馬鹿騒ぎ。貢物ばかり国民や商人に強要して、あたしたちがどんな暮らしをしているのか知ったこっちゃないんだから。ミゲルド国王も無類の女好き」
目を細めて耳を傾けているキランは、表情が険しくなっていく。
王たるもの、国民のために尽くすことが第一の務めと考えている彼には、とても想像を絶する話である。
ファローズ主宰に教えられたわけではないが、ペルセロ大公の行動を見ていればわかることだった。
大公の供に加わって、何度か国勢視察に出掛けたことがあった。
今年の穀物や作物の出来具合を見る。
鉱山の採掘模様を調べたりボスニア内海での漁業の様子。
今年は鰯が大漁だから、安く手に入るとか、逐一報告を受けている。
「ミハイル王子には妹のサバティーナ王女がいるんだけど、これがまた器量が悪くてさあ。信じらんないわよね、エレナ」
「まあね。でも、あたしたちの生活に関わることじゃないから、別に気にはならないけど、兵士たちの高飛車で尊大な態度は許せないわ。平民は人間と思ってないのよ」
「それもこれも、ミゲルト国王のせいよ。兵士の統率なんてやってないんだもの」
ベラドンナとエレナは、ひとくさり王家の悪口を言ったあと、息詰まる沈黙を起こして視線を逸らし合った。
「‥‥ねえ、あたしたちって、声が大きくなかった?」
「ちょっと、大きかったかも‥‥」
ベッドから腰を上げたベラドンナは、扉に近づきながら振り返った。
「お邪魔したわね。誰も聞いてなかったことを祈りましょう、エレナ」
手を振った彼女に、エレナは合図を送り、急いで閂を下ろした。
窓も閉め切り、赤々と燃えている灯火を幾つか消して、部屋の中を暗くした。
「どうしたんだ」
「王家の悪口は、謀反人で‥‥たぶん‥」
手で首を切る仕草をしてみせた。
「でも、みんなが思っている事なのよ。ただ、王家のやり方が怖くて反発出来ないだけ。おとなしく自分の生活を送っていれば、穏便に暮らしていけるんだわ。あたしたちだって、その兵士にお金をもらっているんですものねえ」
深いため息をついて、エレナは諦め顔で言った。
卓の上に置いてある器を片付け、キランの酒杯に果実酒を注ぎ足した。
夜も更けて、満腹になった彼は、欠伸をかみ殺しながら酒を飲んでいる。
元々、酒に弱い彼は今にも瞼が閉じそうである。
「横になったらいいわ、キラン」
エレナは笑いそうになる口元を無理に我慢した。
こういった手段を取る男もままいる。
女を抱く機会を狙っているのだ。
特に若い兵士に多い。
酔った振りをして、勇気を奮い起しているのかもしれない、と彼女は思った。
内心、わくわくものである。
「ベッドは一つしかないが、おれと一緒でも構わないのか」
構うも構わないも、エレナは待ってましたとばかりに表情を明るくしたが、あまりにも露骨だと思いとどまり、つつましやかに笑顔で答えた。
「大の男が二人寝れるほどの広さがあるから、気にしないで」
キランは遠慮なく横になった、と同時にに何日振りかでベッドの感触を得て気分が良かった。
草むらや、大木の根がはびこった地で寝ていた彼にとって、ミッドガルド宮殿の自分のベッドよりは硬くてもずっとましである。
灯火は一つもなくなった。
暗闇の中、衣ずれの音がかすかに聞こえた。
他の住居人たちは寝てしまったのか、静寂に包まれている。
ベッドがギシッと鳴って、隣へとエレナが毛布の中に入ってきたる
背中を向けているキランを突っつく。だが、こちらを向かない。
次に肩から腕に手を這わせてみた。
ちょっと吐息が洩れたが、びくともしない。
顔をしかめたエレナは声を掛けた。
「キラン‥‥ねえ、キランたらあ」
沈黙が、彼女には拒絶の反応に思えた。
カバッと起き上り、彼の上にのしかかって顔を覗き込んだ。
「寝てる----。ほんとに寝ちゃってる! うそでしょう。こんないい女を横に置いといて、一人で寝てしまう男なんて前代未聞だわ。侮辱よねえ。バカにしてるんじゃない」
裸の自分がやけに惨めだ。
怒った彼女は、わざとキランの銀髪をくしゃくしゃにして、毛布を引っかぶって背を向けた。
壁を凝視し、頬をふくらませて憤慨しているエレナは、段々可笑しくなってきて、含み笑いをし始めた。
「変わっている人‥‥。それとも、カルザニア人はみんなこうなのかしら」
毛布にくるまり、寝返りを打った彼女は、キランの背中をじっと見つめて、思い切ったようにすり寄って眠りについた。
翌朝、締め切った窓の隙間から、朝日が幾筋かベッドに差し込んでいる。
ぐっすりと寝込んでしまったエレナが瞳を開いた。
灰色の瞳をぱちぱちと瞬かせる。
なんて気分のいい朝だろう。
ふと、隣を見た。
見事な銀髪とエメラルドグリーンの持ち主はいなかった。
「えっ? ‥‥キラン、キラン!」
起き上がって名を叫んだ。
毛布をかき集めて身体を隠しながら厨房を覗いたがいない。
まさか、別れの挨拶なしで出て行ってしまったのだろうか。
いきなり扉が開いたので、エレナは飛び上がった。
「やあ、エレナ。起きたのか」
「何処へいってたのよ、キラン」
泣きそうな顔をして怒った。
彼は爽やかな笑顔を見せて、彼女の心をなごませた。
身体が濡れて、水の玉が光っている。
彼は窓を開けながら答えた。
「泉で身体を洗っていた。エレナも水浴びをしてくるといい」
腰衣だけのキランの胸は、予想以上に逞しい。
陽に焼けて赤くなってはいるが、引き締まった筋肉質な腕は、頼りがいがありそうだ。
スラッとした脚はまっすぐ伸びている。
エレナはその四肢に見惚れていた。
単衣を着てマントを引っ掛け、剣を背負う。
その度に二の腕の筋肉が動く。
キランは卓の上に金貨を二枚置いた。
「なあに、これ」
「宿賃だ。取っておいてくれ。色々と世話になった」
「そんなつもりでうちに泊めたんじゃないわ。まして、こんな大金もらえない。ま、待って、今、朝食を持ってくるから食べてよ」
あわてて毛布をたくし上げ、厨房へと向かおうとするエレナの肩を?んだ。
「いいんだ。何処かその辺の食事処で食べるから」
彼は踵を返して扉へと進む。
追い抜いた彼女は、扉にへばりついて通せんぼをするように両手を広げた。
その拍子に、毛布はスルリと床に落ち、彼女の裸体があらわになった。
一瞬、眉をひそめたキランは、ゆっくりと毛布を拾い上げ、彼女の肩に掛けた。
「通してくれないか」
「いや! 急ぐ旅じゃないんでしょう。二、三日ここにいてもいいのよ。あたしが国を案内してあげる」
「だが、これ以上面倒を掛けたくはない」
「面倒じゃないわ。いてほしいの。もう一人増えたって食べていけるわ」
彼女の瞳は訴えかけるように潤んで見えた。
それは恋する女の瞳に似ていた。
「‥‥‥。おれがいたのでは‥‥商売が出来ないのではないか」
「いつも客を引いているわけじゃないわよ。あたし、小金を貯めているから当分は暮らしていけるの。ねえ、いいでしょう。ここにいなさいよ」
返事に困ったキランは思いを巡らした。
確かに急いではいない。
毎日、宿を探すのもおっくうである。
どっちにしても数日はダシーダにいるつもりだった。
時間はたっぷりある。
期限付きの旅ではないのだ。
「迷惑でなければ‥‥」
「迷惑なもんですか。さあ、食事の支度をするわ。----なんて楽しいんでしょう」
エレナは嬉しさに毛布をベッドの上に放り投げ、彼に抱きついた。
それから藤色の腰下丈の衣を着て帯をしめた。
彼を椅子に座らせると、足取り軽やかに厨房へと入っていった。
何故か気分が踊る。
こんなに楽しい気持ちは久し振りのような気がした。
まだ両親と同居していた頃、十代の時である。
遊び女に身をやつす前、幼馴染みの男子と遊ぶのが楽しかった。
彼が狩りに出掛けていて会えない時は寂しかった。
畑を持たない両親のために、自分が金を稼がなくてはならなくなり、泣く泣く彼と別れたっけ。
優しくて、色なことをよく知っていた。
鍬の作り方や、薬草のミワケカタ、何処に果物が生っているか。
朝食は、ミルク、パン、マッシュポテトだった。
全部平らげた二人は、早速、出掛けることにした
「行きたいところはあるの?」
「宮殿へ行ってみる」
白馬にまたがったキランは、左手で彼女を引き上げて前に乗せた。
いっときいなないた馬は、東へ向かってたてがみをなびかせ、彼のマントはひらひらとはためく。
昨日、見て歩いた市場で、すでに屋台を張り始めている店があった。
反物屋や織物屋はまだ店開きをしていない。
歩く隙間もないほど盛況だった夕べとはうって変り、落ち着いたたたずまいである。
その脇を風を舞い上がらせながら通り過ぎ、土埃を残して疾走していく。
馬の息も荒く、石畳が敷き詰められているところまで駆けて行った時、馬を並足にさせた。
ダシーダ城が見えてきた。
円筒状の最上階が手前の建物の間から突き出て見える。
ゆっくりと進んでいったキランは、その全貌を間もなく目にすることが出来た。
城門には左右兵士が番をしている。
城を見張る二人一組の巡回兵は、たったいま正面から東の方へと曲がっていった。
番兵たちは、前方にいる武器を持った銀髪の男と金髪美人に視線を走らせ、わずかに警戒の色を見せた。
見るからに厩と思われる小屋に、甲冑で身を包んだ五、六人の屈強な男たちが集まっている。
時折、笑いが聞こえる。
下品で野太い声質だった。
「あの兵士?」
「たぶん、巡兵でしょ。これから国の外を見て回るんだわ。城から出張するのは、西方の巡回兵だと思うわ。巡回なんて名目を付けているけど、ダシーダに敵はいないのよ。単なる気休めと女探し。旅をしる者を捕まえちゃ、奴隷として城に仕えさせる魂胆でしょうね。奴隷商人から買うと高くつくもの」
「奴隷‥‥か。そんな野蛮な扱いをする国なのか」
キランは右手で顎を撫でた。
カルザニア公国とて、すべての住民が裕福とまではいかないにしろ、奴隷の類の男女はいない。
確かに遊び女はいるだろう。
また、いなくては困るのである。
だが、玩具として宮殿へあがることはない。
女をはべらせて酒宴など開きはしない。
時には祝いの場のために踊り子を雇うことは珍しくないが、祝い事は年に数えるほどだ。
「国王は城から出てこないのか」
「滅多に出てきやしないわ。そうね、特別な行事がある時くらいかしら。あの露台に立って訓示するのよ」
白くて細い腕を伸ばし、四階を指差した。
そして、真似るように訓示を述べる。
「わしの忠実にして純真な心を持つ国民たちよ。国は繁栄の一途を辿っている。作物は毎日見事に実り、天の恵みにより水も豊富にある。わしが治めている国は、この世で最も強大で、何も恐れるものはない。民の者たちよ、安心して暮らすがよい」
エレナは自分も可笑しくなり笑いだした。
つられてキランも笑いをもらした。
茶化すような言い方には、国王の言葉を信用しているようには受け取れなかった。
さもありなん。
全国民の三分の一ほどが移民なのである。
国王を尊敬し、忠誠心に富んだ国民は一握りしかいないのかもしれない。
確かに物は豊富にあるが、国外の敵から身を守れたとしても、すぐそばにいる者が敵となる存在に変化するかもしれない。
その自国を守るべき兵士たちに、国民は怯えているのである。
「もう行きましょうよ、キラン。ここにいて城を睨みつけていても始まらないわ」
「せめて王子だけでも見ておきたかったが無理のようだ」
「この先に大きな森林があるの。果物や木の実が落ちているから行ってみましょう」
馬は城から遠ざかっていった。
乾燥した土を蹴って遠くに見える森を目指した。
この辺りに来ると、民家は疎らになっていく。
都市の外れの外れだ。
城を中心に、西方よりも東方へと栄えていた。
とりあえず今日は、西の情勢を探索することにした。
森林の中に足を踏み込む。
密集していない樹木の間を駆け抜け、地面は湿っていった。清水が流れている。
馬から下りた二人は、その冷たくて清い水をすくい、飽きるほど飲んだ。
その後は腰をおろして木の実を頬張る。
太陽はすっかり昇りきり、陽炎を漂わせて強い光線を地上へとふるそそぐ。
宇宙に地球という星が姿を現わしたときから、太陽は輝いていた。
神として崇められた。
太陽が見えている間、地上の生き物が活気づいて滑らかに動かせるのも、太陽神が音楽を奏でているからと伝えられる。
「見て----アドニスだわ」
木のそばに咲いている真っ赤な花を何本か摘んだエレナは、一本を髪に差した。
「きれいだ」
キランはぽつりと言った。
「どっちが?」
「どっちも‥‥」
「ねえ、アドニスの言い伝えを知っている?」
媚びるように身体をくねらせ、あらわになっているキランの脚に人差し指で撫でていった。
彼が瞬間的に動揺が胸をかすめたことを、エレナは確信した。
「いいや」
言い伝えを説明している間中、彼女はずっとキランの身体に触れていた。
「アドニスはそれはそれは雪のように白い肌だったそうよ」
エレナは彼の肩から腕へと優しく撫でていく。
だが、居心地悪そうに彼が腰をずらしたので、途中でやめた。
「アドニスとはアネモネのことだろう。ジェシット姉もその花が好きだ。よく摘んできては卓上に飾っている」
「お姉さんがいるのね。あたしは独りぽっちだわ」
「両親や兄弟はいないのか」
「両親は街はずれにいるわ。あたしが稼いだお金で暮らしてる」
彼女は膝を抱えて言った。
「森を抜けると何があるんだ」
「聞いた話だと砂漠になってるらしいわ。そしずっと先には林があって、陸地の果てには大海原が広がっているの。空より何倍も青い紺碧色した海----。実際に見たことはないわ」
宙に浮かんだ彼女の視線は、うたかたの幻を夢見るように虚ろだ。
海は彼女にとって、手の届かない高価な風景なのかもしれない。
「それはたぶん、外西洋だ」
空へと続く蒼海。
陸地が海に囲まれているなどと、この時代の人間に知るすべはない。
遠く東の陸地は未開の地だった。
大きな山脈が立ちはだかり、その向こう側には、魔法の国、黄金の国、巨大な蛇が空を舞い、角の生えた野獣が天を駆ける。
目も眩むような財宝が地を埋め尽くし、黄金の山がそびえている。
人々は想像を膨らませてそう口伝えられていた。
何故なら、立ちはだかる山脈を登って向こう側へ行こうとした者で、一人として戻ってきた者はいないからだ。
蛇に呑まれてしまったとか、野獣に喰われたとか、財宝を手にして気が狂ったとか、あること無いこと尾ひれが付いて話は大きくなっていった。
誰しも試みたいことではあったが、山脈を臨むと、自分の野望が途方もなく不可能なことのように思えた。
天まで届きそうな山々を越えられるとは、とうてい信じられないことだった。
はるか彼方の未開の地。
しばらく、その場に留まっていたキランとエレナは、再び白馬にまたがり西門へと進んでいった。
森林というよりも雑木林の類で、足場の悪い道が続いている。
時折、横切っていく鹿や猪、兎や栗鼠たちがせわしなく活動し、白馬の脚を緩める。
国門に到達する頃には、太陽もやや西へと傾きを見せ、涼しげな風が木々の間を吹き抜ける。
門から見た国外は、砂漠が広範囲に広がっていた。
砂がキラキラと太陽に反射して煌いている。
岩山が突き出て、所々に草が生えていて純粋な砂漠ではないようだ。
「番兵がいない」
「ここからは誰でも国内に進入出来るわね。何故かしら‥‥」
「この砂漠側から来るには、多少の困難を伴う。森林を抜けるのも馬がなければ厄介だ」
「そんなとこでしょうね。巡兵たちは何処まで警戒しに行ってるのかしら」
視界に入ってくるのは砂ばかり。
馬上でゆったりと身体をキランに預けてくつろいでいるエレナは、さっきから彼の太腿を撫でていた。
硬く締まっている脚は、触り心地がなんともいえなく欲望を誘うのだった。
「----エレナ」
キランは呆れたように言った。
「あんたって、無粋なひとねえ」
彼女は振り向かずに彼の脚をつねった。
遠くから獣の遠吠えが聞こえる。
「この辺には狼がいるらしい。戻った方がよさそうだ」
馬を反転させたキランは、今来た道のりを引き返していく。
何処へも立ち止まらずに、一気に市の立っている広場まで来た時には、夕暮れ間近であった。
夕べ買いそびれてしまった麦と、毛布と帯を買うことにした。
市で女性物の身にまとう品に付き合わせられるのは初めてだった。
色とりどりの着物はね宮殿御用達の反物商人に任せきりだ。
彼は滅多に自分で選ばない。
選ぶとすれば、持ち合わせの衣装の中からマントと単衣の組合せを選択するのである。
キランは両手を腰に当てて、彼女がどれにしようか迷っているのをじっと見ていた。
どれでも同じようなものだと思ったが、口にするのはやめにした。
彼女の眼差しが真剣そのものだったからだ。
「ねえ、キランはどっちが好き?」
緑のと青い帯を片手に一本づつ、広げてみせられた。
「こっちだ」
率直に青い方を指差した。
灰色の瞳をしている彼女には緑よりも、青い方が似合っている。
買物を済ませた二人は家路に着いた。
もはや、陽は落ち、道行く人の数が昼間よりもずーっと減っている。
波が引くように家の中へとこもる。
ただ、酒場だけが対照的に盛り上がっていく。
数えるほどの商人と、我がもの顔で占拠する兵士たち。
酒場の前や酌をする女たちが群がって男を誘う。
この時が遊び女の稼ぎ時である。
ベッドに入ったキランは、寝息を立てていた。
隣で天井を見上げたエレナは、無性に腹が立ってきた。
「‥‥キラン。寝ちゃったの?」
「いや----」
「あたしって、そんなに魅力がないかしら。それとも、あなたの好みの女じゃない」
えっ! と驚いた彼は、身をよじってエレナの方へと姿勢を向けた。
「同じベッドの中に男と女がいるのよ。あなたが触れたくならないほど、あたしには魅力がないってことよね。それとも、たくさんの男と遊んだ女には触れたくないのかしら」
決然として言うエレナに、片眉をつり上げて見せたが暗闇の中でそれも無駄なことだった。
昼間から、彼女がキランを誘っていたのは明らかだ。
露骨な仕草に戸惑わせられていたが、彼の理性は動かなかった。
だが、そこまで女に言わせておいて、無視するのは逆に男の恥だ。
その夜、キランは彼女の見事な色香に屈服したのだった。
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