Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   たった一匹
愛するペットを喪って悲嘆に暮れていると、言われたくない一言を言われることがあります。
 
「たかがペットのことで…」「ただの一匹のことで…」という人にとっては、そのペットはどこにでもいる、他にも代わりはある、たった1匹なのでしょうね
 
いつまでも泣いて悲しんでいることへのもどかしさから言われるものか、落胆から気力を失い日常の仕事や役割に支障をきたしていることへの苛立ちから言われるものか、本当にくだらないこととして言われるものかは定かではありませんが、そのようなことを言う人がいるのは確かなことです。
 
愛するペットを喪ったことのある人が多かれ少なかれ似たようなことを言われることはよくあることなのです。
 
悲しんでいる方から言うなら、「たかが」ということであればこんなにも悲しくありませんし、「ただの」ということであればこんなに苦しくはありません。
「たかが」や「ただの」で済まない大きなことなのです。
それを軽んじられると心は傷つけられ辛い痛みとなってしまい、人前で涙することやペットが亡くなったことを語れなくなり、人を信用できなくなってしまいます。
 
それだけ、言われた方からすればこの言葉は辛いものです。
 
愛するペットを侮辱されたかのようでもあり、大切なペットを傷つけられたかのようでもあり、ペットはかけがえのない存在であったことが理解されず自尊心は傷つけられ、心は落胆し虚しく痛むものです。
 
「たかが」でもなければ、「ただの」でもありません。
 
確かに、目で見ているだけでは、何処から見てもただの一匹かもしれません。
他にも同じような子はいっぱいおりますし、体の大きさだって人よりは小さくて、ペットショップで売っている動物であり、他にも代わりはいるただの1匹かもしれません。
 
そんな見方しかできない人は、自分は人間で偉いとでも思っているのでしょうね。
 
そもそも、人間って偉いのですかね?誰が決めたのか知りませんが偉いのですかね?
人の心を察することもできず、傷つけるような言葉を平気で言う人って、偉い人なのでしょうかね?
 
むしろ程度の低さを自ら露呈しているようで滑稽です。
 
人間だから数える時に一人なんて言ってみて、動物たちは1匹なんて言って差別しているようでありますが、これは差別ではなくて、呼び名の区別を示すだけなのですよね。
人を数える時は人、鳥を数える時は羽、家畜を数える時は頭などと数を数える時に添える助詞で助数詞と呼ばれるものです。助数詞には序列や差別などなく、呼び名を示す区別があるだけです。
 
人の場合だって、数える人の氏名が把握できている場合などは助数詞に何人と使わず何名と使ったりするように名を使いますように、ペットたちだって名前を付けて貰った時点からは、1匹ではなく“ひとり”になるのです。
 
人だって名前を付けるまではただの一人なのでしょうけど、両親などから名前を付けてもらって、ただの一人から名前のある存在となるのです。
同じようにペットたちだって売られている時などはただの一匹なのでしょうけど、飼い主さんなどから名前を付けてもらって、ただの一匹から名前のある存在となるのです。
こうして、人もペットも名前を付けてもらって、他にも代わりのあるようなものではなく、かけがえのない“ひとり”になるのです。
 
名前を付けるということは、とっても大切なことなのです。
 
そんな名前のあるペットのことを、「たかが」というような人には今度から番号などで呼んであげるといいかもしれません。
きっと、バカにしているのか!なんて怒られることでしょうが、そんなことをペットに言っていることを教えてあげるためにもいいのかもしれません。
 
そのように悪意をもって語るのはよくありませんし、心を傷つけられるのは辛いことだと知っているのですから、ことさら悪い人の真似をすることはありませんよね。
 
そもそも匹という語源は並べて掛けた織物2織のことから転じて馬を数える助数詞となったそうですが、意味においては「匹敵する」というように「つり合う」「あい対する」というもので一対の相手を意味するものだそうです。
 
名前のあるペットでも他の人から見ればただの一匹かもしれませんが、あなたにとっては人生を共にしたかけがえのない相手であって、あなたと一対となる大切な者なのです。
良く言えば、あなたにとってのかけがえのない一匹なのです。
それも代わりのない、たった一つの存在としての“たった一匹”なのですよ。
 
他の人とではなく、あなたと一対になるべく存在として姿を持って生まれ変わってきて、代わりのいないたった一匹なのです。
 
その尊い命からあなたは人生を助けられ、支えられ、大いに笑い、いっぱい幸せにさせてもらったはずです。
 
幸せという姿にも、あい対する相手がいるのです。
それが今の悲しみです。
 
幸せには悲しみが含まれており、悲しみには幸せが含まれているのです。
幸せだったから悲しいのであり、悲しめるということは幸せ者にしか与えられないもので、幸せと悲しみは一つのもので分けることができないのです。
 
それを無理に分けようとするのであれば、人と動物とを分け隔てて、見た目の違いで、大きさの違いで差別していた人と同じになってしまいます。
 
幸せの時は素直に受け入れ、別れとなると受け入れないというのであれば、都合よく言葉を使って差別していた人と同じになってしまいます。
 
だからという訳ではありませんが、この悲しみを素直に受け入れてみてください。
 
悲しみの中には幸せが含まれており、悲しみを受け止めることで幸せを知ることになります。そうして、この別れの悲しみや苦しみから何かを学び、人生に影響を与え素敵なものに変えることができたなら、あなたはあの子をより特別な存在としてあげることができましょう。
 
多くの出会いや別れのある人生の中で、いろいろな経験をしているにも関わらず、いっこうに変わらなかったあなたを変えることができたとしたらどうなるでしょう?
 
あなたのこれかの人生を護る仏さまとなりましょう。
 
もし、この出逢いや別れから何も学ばず、何も気づかず、今までのあなたのままでいたとしたら、あなたを変えることができなかったとしたら、この出逢いと別れは今までの他の出来事と同じように物事の中に姿を埋めてしまうことでしょう。
 
特別な存在となることなく、他の物事と同じで、いくらでも代わりのある「たかが」「ただの」ものになってしまいましょう。
 
多くの人に出逢っても変わらなかったあなたを変えた、あなたにとってのたった一匹にしてあげてください。
 
多くの経験から学んできたのに気づかなかったあなたを変えた、あなたにとってのたった一匹にしてあげてください。
 
あなたの人生の一部であると言えるような、あなたに匹敵する一匹にするためにも、素直に悲しみを受け容れてください。
 
他の人がどのように見るのかではなく、あなたがどう見るのかを試されているのですよ。
 
ただの一匹とさせたままなのか、たった一匹とさせるのかはあなた次第です。
 
あなたを変えることのできたたった一匹となれたなら、もう一匹など呼ばれることなく、あなたの人生を見守る守護者となりましょう。
 
まさに仏さまですね。
 
 
この悲しみをそのままにして不幸にして終わらせるか、この悲しみから人生を学び幸福の始まりとするかは、人それぞれに任されております。
 
 
更新日時:
2008/07/03
   再会
愛する者を喪うと残された者たちは寂しさを抱き、いつか・どこかで再び出会いたいと思うものですよね。
 
再会するためにはどのようなことでもしたいと思い、半信半疑でも霊能者やイタコなどを頼ることもありましょう。
せめて夢にでもいいから会いたいと思い、朝を迎える度に切ない思いをすることもしばしばあります。
 
何をしたら、どのようにしたら、再会できるものなのかちょっと考えてみましょう。
 
 
『袖触れ合うも他生の縁』という諺があるように、この世で袖が触れ合うくらいの間柄であっても、今回は初めて出会うのではなく、他の世で生きている時にも縁があったから、この世でも袖が触れ合うのだというものです。
つまり、前世や前々世で何らかの係わり合いがあったから、この世である今回も関わりあうということです。
 
ということは、再会するためには何らかの係わり合いがないとダメということですよね。
その係わり合いということが縁というものでしょう。
 
この縁をいう心と心・魂と魂の繋がりを大事にして強くて切れないものにすれば、次の世である他生に出逢うことになるということです。
 
では、どのようにして大事にすればいいのでしょう。
 
宝物のように大事だから箱に収めておくということであれば、心の奥底にそっとひそめておくということになりましょうね。
でも、しまいっぱなしで忘れてしまっては、これでは関わり合いがないのと同じです。
 
ただ大事にするのではなく、再会のために必要なことは関わり合いということでしたよね。
 
 
大事なものなら損なわれないように保つことも大切なことになりましょう。そのために、環境の変化がないように常に一定にしておrくということもいいですよね。
でも、今までの自分となんら変わらず、命から教えてもらった気づきや学びを得ないのであれば、これでは関わりがないのと同じです。
 
関わり合うということですから、影響されたり、感化されたり、刺激されたりしなければ、本当に関わり合うとは言えません。
再会したいのですから、愛する者との別れとも関わり合うことが大事です。
 
別れと関わり合うということは辛くて悲しいことですから、向き合いたくないこともありましょう。敢えて思い出さないようにすることさえあります。
 
でも、別れと向き合わずして背を向けていたり、横目で見るだけでは、きちんと向き合っておりませんので、これも関わり合いがないようなものです。
 
どのような別れがあろうとも、どのようなことから別れようとも、間違いがあったとしても、まずは受け入れなければなりません。
 
その際に、悲しみから涙することもあります。後悔の念から悔し涙を流すこともあいりましょう。自分の至らなさから懺悔の涙になることも、憤りで手が震えることもありましょう。
共に暮らした豊かな日々を思い出し、喜びを与えられたこと、支えられたこと、助けられたこと、癒されたこと、様々な幸せを与えてくれたことから感謝の念から、ただ涙が溢れることもあります。
 
これが別れと関わり合うということです。
 
そして、目に見えていた姿から目に見えにくい姿になっても、大好き!という想いが心の絆となり、この想いが続くことが関わり合いを保つということでしょう。
 
この絆を強くするには、愛する者の命から教えてもらったことを人生で活かし、“あの子のおかげで…”“あのことがあったから〜”といつか言えるように、過去の出来事のままにせず、今に活かして、未来に活かして幸せに変えることができたなら、これは心の絆が強まりましょうね。
 
この絆を切れないものにするには、一緒に過ごした日々を思い出し、“そういえばこんなことがあったなぁ〜”“あんなこともあったけなぁ”と自然と笑みがこぼれるような幸せを振り返り、これに感謝して供養の節目などには手を合わせ祈ることで、心の想いを形にすることで切れないものとなりましょう。
 
こうしてお話していると、もうお分かりでしょう。
あなたがしていることは、再会を約束しあっていることですよ。
 
あの子を見送るや最後の別れの時に交わした約束を確かなものにしているのですよ。
 
あなたと別れるときに「また逢おうね!」と言葉を贈りあなたは想い、見送る時には「いつも見守っていてね!」と言葉に託しあの子は想い、見える見えない、触れる触れられない、命と魂、生と死を越えて想い合っている間柄なのです。
 
そうやって前世でも別れを偲ぶ間柄であったから、こうしてあなた方は出逢ったのですよ。
 
出逢ったときのことを振り返ってみてください。
あの時。あの場所で。何故か。不思議と。
人生が交わる一点において出逢っているはずです。
あなた方は、出逢う前から約束をし合った者たちであり、前世の約束を果たすべく再会したのですよ。
 
あなたが先にこの世に生まれてきてからは、あなたの守護者として側で見守り続け、見守っているうちに一緒に暮らせる命の姿があることを悟り、あなたと触れ合うべく、また新たな係わり合いを紡ぐべく、命を授かってきてくれたのです。
 
そして、今はまた見えにくい姿でしょうが、あなたを見守り続けるのに適した姿でもって、あなたの心に寄り添って、共に人生を歩んでおります。
 
そうしていると、またあなたと一緒に暮らせる命の姿を見つけることでしょう。
 
人の姿かもしれません。
あなたと言葉を交わし、手をつなぐ相手となるかもしれません。
お子さんやお孫さんとなることもありましょう。
 
同じような姿かもしれません。
あなたとまた同じように愛情を交し合うべく、人生の大変な時を支えるべく今回と同じようなペットという姿を授かってくることもありましょう。
 
異なる姿かもしれません。
あなたと一緒の日々が幸せであったことは誰よりも知っているので、不遇であった者に幸せを味わってほしくて、あなたと引き合わせることもありましょう。
 
見えにくい姿かもしれません。
時には夢に出てきたり、重さを感じたり、足音を聞いたり、ふとした時にしか感じることができませんが、いつも一緒にいることを伝えてくれることもありましょう。
また、あなたに出逢いや出来事を導く時にそっと佇んでいることもありましょう。
 
(夢の中では会っているのでしょうが、なんせ人間という生き物は起きたとたんに忘れてしまう生き物ですからね。見ていないとか、夢に出てきてくれないというものです。新たな出逢いを導いても、それがあの子のお陰だと人間という生き物は感謝しないし、福を導けば私の成果、禍を防いでも誰かのせいにし、これくらいで済んだと感謝しない生き物ですからね。仏や守護者の姿は見えないものです。)
 
どのような姿になって再会するのかは分かりづらいかもしれません。
なんせ、他の生の姿を借りてきておりますので。
 
でも一つ言えることは、いつもあなたと共にあるということです。
 
あなたが夜床に着くとき、毎晩再会しています。
あなたが朝目を覚ますと、毎朝再会しています。
 
あなたと暮らせる命がないときは、いつもあなたを見守っています。
 
あなたと暮らせる命があるときは、何故か不思議と出逢うことになります。
 
いつもあなたの心と共にあります。
更新日時:
2008/03/07
   いのちの器
私たちはみんな体という器を大地から授かり、天からは器を生かすお水を注がれやってきます。
その形はそれぞれ。
二本足の器もあれば、四本足の器もあるし、頭でっかちな器もあれば、尻尾のある器もある。
色だってざまざまで、黄色もあれば、白もあるし、黒だってある。
大きさだっていろいろで、大きいものもあれば、小さいものもあるし、細長いものもあれば、ぽっちゃりしたものもある。
 
そんないろいろな器があっていいのです。
いろいろあって当たり前なのです。
必要のない器なんてありません。必要がなければ器になりませんでしたから、最初からありもしません。
 
この世にあるものはみな天から命の器を授かって生まれてきて、命の時という寿命というお水を注がれてきます。
 
器にいっぱい注がれやってくる者もいれば、ちょっとしか注がれずにやってくる者もおります。
注がれる命の水は同じ量でも、注ぐ器によって随分と見た目が違います。
大きい器だとちょっとになるし、小さい器だといっぱいになる。
 
このお水は器の形に従って形すら変えることができるのです。
二つ足の器にはその形になり、四つ足の器にはその形になり、翼ある器にはその形になるのです。
 
注がれるお水は同じで平等な質を持っているので、こだわりがありません。
どのような器に注がれようとも文句を言いません。
どのくらいの量であっても比較をしません。
 
二つの器が出逢うと祝福して乾杯します。
私のお水をあなたに与え。
あなたのお水は私が頂く。
それまでは減ることなかったお水が、もう一つの器に出逢うとお互いに一緒に過ごした時間分だけお水を減らします。
 
器の形によっては、注がれた量に応じて、同じ時間なのにもかかわらず、減り方に違いが生じ、祝福すればするほど減ってゆき、やがてはどちらかのお水が先になくなってしまいます。
 
天から注がれたお水がなくなると、器も天に還さなければなりません。
正確に言うなら、器は大地から授かったものだから地に還し、お水は天から注がれたものだから時と共に減り天を潤し満たします。
 
器も還し、お水も還し、見えなくなってしまいますが、消えたわけではありません。
何かが残っているのです。
もともとの何かがあるのです。
また、あなたと共に味わった想いも残りましょう。
器があるときには見えなかったもので、お水がある時には姿を隠し、授かった器と注がれたお水を生かしていた者が姿を現します。
生きている時は命と呼ばれることもあり、亡くなると魂と呼ばれることもあります。
 
もっと欲しい時はお代わりするように、もっとあなたと祝杯をしたいなら、おかわりすればいいのです。
そして、おかわりすることができます。
 
だけど、同じような器になるのか分かりません。
 
だけど、同じような器になっても、同じく注がれるとは限りません。
 
だけど、あなたと祝杯をあげたくて、天と地から器を授かりお水を注がれやってきます。
自由意志で選んでくるのです。
 
それが出逢いです。
 
それを再会と呼ぶ者もおりますし、再々会と呼ぶ者もおりますが、何回目の再会であっても、出逢いは出逢いです。
 
いつも出逢いで始まります。
 
 
 
また、同じ器になるために天であなたのお水が潤うのを待つ者もありましょう。
 
また、器を持たずにあなたの器に注がれたお水を活かす者もありましょう。
 
それもまた自由意志です。
 
更新日時:
2006/12/18
   愛は祈りと共に。祈りは愛と共に。
 愛することも祈ることも対象を誰にするかによって、ずいぶんとその様相を変えてしまいますが、本質的には愛も祈りも与えることであって、求めることではないことは少しずつ分っているかと思います。
 今回は、少し長いですが愛と祈りがどのようなものかを見つめてみましょう。
 行なうことが大切なのであって、言葉だけでは足りないのですが、愛と祈りの真の姿が少しでも見えてくれば嬉しいです。
 
 愛するということは心にある思いやりを表現する行為であり、祈るということは心からの望みを表現する行為であり、愛と祈りは一見異なるようにも見えますが、同じく心にあるものを伝える行為であって、見返りを求めたり、利益を求めたりする行為ではないのです。だから、求める愛は与えられず、望む願いは叶えられずで、愛を見失ったり、祈りをせずにいる方が多いことかと思いますが、自分のことを求めてばかりいるあいだは、与えられず、叶わずで、愛と祈りの姿を見ることは難しいでしょうね。
 愛することも祈ることも、相手のためを思う気持ちであり、相手の豊かさや幸せのために表現する行為で、愛する者同士が互いに相手の為に行為を成したなら、愛と祈りの本当の姿をあなたは見ることになるでしょう。
 愛と祈りは、ただ与えるという無条件的な行為であるという点で同じで、愛のはじまりには祈りがあり、祈りのはじまりには愛があり、愛の中には祈りがあり、祈りの中には愛があり、愛と祈りは同じでもでもあります。愛のはじまりには、相手のことを思い願う気持ちがあり、それを伝えるためには心で思っているだけでは相手に伝わらないので、思いが伝わるように表現するという行為になるのです。
 また、祈りのはじまりにも、相手のことを愛する気持ちがあり、それを伝えるためには心で想っているだけでは相手に伝わらないので、想いが伝わるように表現するという行為になるのです。
 この気持ちを伝えようとする行為が、愛となり、祈りとなるのです。
 
 このように愛の中には祈りがあり、祈りの中には愛があるのですが、私たちはこの愛と祈りをその都度使い分けていることが多く、「私から誰かへ」、「ここからどこかへ」と時空的な隔たりを越えて伝えようとする気持ちは同じであっても、時と場合によって両者を使い分けているように思われます。
 愛は時間的にいうと別れの時を隔てて使われがちで、共にいるときは愛多く、別れた後には愛少なく、共にいるときは見返りがあるから愛せるのですが、別れを境にして見返りがないから愛せなくなってしまうことがあります。また、空間的には自分と他者と隔てて使われがちで、私に深く関係するときには強く、他人ごとであるときには弱く働いたりもします。
 祈りは空間的にいうと自らの手の及ぶ範囲を隔てて使われがちで、手の届く範囲においては祈ること少なく、手の届かないところのものに祈ること多く、ゆとりのあるとき救いは必要ないので祈ることなく、危機になると都合よく救いを求めて祈ることがあります。また、時間的には期限を隔てて使われがちで、時間があるときは弱く、時間ないときは強く働いたりもします。
 そして、愛は生前によく使われ、祈りは死後によく使われるのですが、ここでもまた自らへの見返りという条件によって差が出てくることが多くあります。
 それは、生きている時には出産祝い、誕生日、七五三などの節句、クリスマス、お正月などと祝うことがあるにも関わらず、死後は葬儀にはじまり、その後の節目の供養、彼岸やお盆などはおろそかにされてしまうことがあります。前者は“喜ぶ顔が見える”ことから、見返りがあるのでできるのですが、後者は“喜ぶ顔が見えない”ことから、同じ相手であるにも関わらず、同じ愛があるはずにも関わらず様相は異なってきます。
 このようにして、同じく愛していても、祈っていても、条件が異なると、その愛や祈りも見返りを求めているだけに異なってきてしまい、無条件であるはず愛と祈りは条件によって大きく左右されてしまい、永遠であるもの無限であるものを有限的な条件的なものにしているのです。
 
 愛や祈りが無条件的で与えるものであれば、時の前後(後悔・罪悪感・不安・希望など)ということにも、空間の隔たり(近い・遠い、この世・あの世、うちの子・誰かの子など)ということにも、条件を付けることなくていいのですから、無条件のものであればすべてを越えることができるはずです。
 そこに、条件や見返りを付けてしまうために、還ってきた条件に満たなければ疑い抱き、期待していた見返りでなければ不満を抱き、何もないはずのものに勝手に隔たりを作り、その隔たりのせいで還ってきていることに不満や疑いを抱き、素直になれず感謝を心に抱けずにいるのです。
 もちろん、周囲で起こる出来事は無条件にあるのですが、条件や見返りを求めているので、素直に感じることもできず、感じていても感謝の心が持てずに欲求が満たされないままに日々を過ごしているのではないでしょうか。
 伝わるものも受ける時には隔たりがあるように、行なう時も自らで隔たりを作ることがあります。私たちの心の中で想ったこと・感じたことを、さまざまな要件によって心から表に出さずにいることを、自ら認めたくないから、自らしていないことではなく、できないこととして自分勝手に納得していることがあります。
 こうして、「あとで、いつか」と時間の隔たりを越えられないのであれば、過去や未来という時間が越えられるものであっても、変えられるものであっても、それに及ぶ力はないでしょう。
 また、「けど、でも」と空間的な隔たりを越えられないのであれば、私と誰か、この世やあの世という隔たりが越えるものであっても、それに及ぶだけの力はないでしょう。
 素直な気持ちや感謝の気持ちがあって、このできることの中で、できることをしてあげたいという気持ちがあり、それを表現して行為にできるのであれば、それは隔たりを越えるだけの力があるから相手に伝わるものになるでしょうし、避けたりせずに受け止めることができたなら、それも隔たりを越えるだけの力があるから、これかの未来を切り開くものにもなるでしょう。
 
 本来は何も隔たりなどはないのでしょうが、私たちの心の中で素直さが薄れ、周囲に至る感謝の気持ちが薄れるにつれて、より現実的な、より物質的なものでしか、何事も判断できないようになるにつれて、愛や祈りも見返りのある現実的なことでしか、その気持ちを表にできなくなってきてしまい、愛や祈りには隔たりは何もないはずなのに自ら隔たりを作ってしまい、時空の前後をも越えることができるはずなのに自らできなくしているのではないでしょうか。
 その想いや気持ちが自らの時や肉体を越えることができずにいるのにも関わらず、外から与えられるものばかりを求めているのです。
 手放さなければ得ることもできないのに、与えなければ得ることはできないのに、手放さずに、与えることせずに、もっと、もっと、と得ようと求めては、得られずに不満を抱いていることがよくあります。
 何事にも『鏡の法則』があるように、自らが歩み寄らなければ、相手も歩み寄らないでしょうし、自らが心を開かなければ、相手も心を開かないでしょうし、自らがしてみせなければ、相手もしてみせないように、自らが動かなければ周囲も動かないのです。
 いや、相手はしてくれているのでしょうが、私たちが心を素直に開くことなく、歩み寄ることもせず、しようとせずに、求めてばかりいて、条件に合わないとダダをこねているのが本当の姿なのでしょうね。
 愛も祈りも与えるという行為で無条件であるにも関わらず、見返りのあるもの、求めるものとなり、私的な都合のいい条件的なことなどから、その愛と祈りにある本当の姿を素直に見ることは少ないのではないでしょうか。
 
 このように論じてみてもなかなか分りづらく、「じゃぁどうすれば」と思う方いらっしゃるでしょうから、愛と祈りの実践をどうすればいいのかを少し分り安く説明してみますね。(「じゃぁ」とすぐに結論を求めようとする姿勢が、そもそもの姿を見られずにいるのですけどね。)
 
伝えたい想いや相手を思う気持ちが心の中にあるとしますよね。まずはそれを現実のものとして実行してみることです。
 「こうしてあげたい、こうなってほしい、…」という心の中にあるものを、今からでもできるものから、その心に留めておかずに、その身を越えて行為にしてみるのです。
 そうして、心の中にある愛を行為にしてみてもなお、心には溢れる想う気持ちがあり、できることはしてもなお、何かしてあげたいという気持ちが、見返りを求めることなく、無条件にしてあげたいと想う心になるのであって、今度はその想いを祈るのです。
 できることをしたら、後はただ祈るだけです。人はすべてを尽くしたとき、あとは何ものかに祈りたくなるものです。それが伝わる祈り、叶う祈りとなるのです。
 
 愛の行為の初めにある祈りは現世において、愛するという行為になって祈りは叶い、さらに澄んだ祈りは、溢れる愛が伝わる行為となって、あの世において叶う祈りになるのです。
 精神的なものを現実的なものにし、その想いを透過させてもなお残るものが、さらなる想いになるので、今度はこの祈るだけしかない気持ちを祈るという行為にして表現することで、より澄んだ祈りとなって、愛と祈りが心の最も深いところで一つになり、愛と共に純粋に祈るとき、その祈りはすべてのものを越えて相手に届く愛となり、はじめて天からの愛があなたに従い寄り添ってくるのです。
 こうして精神的なことを現実にして、現実にしてもある精神的なことをさらに現実にしようと試みる祈りというものが、精神から現実、現実から精神、精神から更なる現実となって訪れてくるので、私たちは天の導きからなる縁や出来事は不思議なことして感じられるものになるのです。
 このようにして、愛と共に祈りがあるとき、精神的な境も、物質的な境も越えているのですから、より澄んだ気持ちを阻む隔たりは何もないので、どこまでも、今すぐに届くことでしょう。
 
 私たちはよく、「心が届く」という言葉を使いますが、この感覚的な言葉が意味しているように、ある行為からそこに託された心が届き、この心の中にある気持ちを感じるのであって、心をそのままに伝え合うことが難しいので、私たちは気持ちを行為にして表すことで、伝えたい者にその心を届けるのです。
 見えないはずの精神的な心というものを、言葉や行為にする物質的なことにすることで、見える心にするのです。
 見えないものを見える形にして表し示すことによって受け取ることができたように、その心にある想いを祈りにして表し示すことによって、伝えたい、届けたい相手に送るのです。
 そうして祈りに託された愛は天に届き、あなたの心の中にある様々な思い出に響き合い、あなたの心に寄り添ってきます。
 ちょうど、山に鳴り響く山彦のように。
あなたの愛と祈りは響き合い、その愛と祈りがかえってくるでしょう。
 外に向かって放った愛と祈りが、山彦のように還ってくる時は何故か周囲からもあるでしょうが、心の中からもあるでしょう。
そうして外に放ったものが外だけではなく、内にあることを感じたなら、あなたの愛する子が自らの内側にもいることを知るでしょう。
 内側からも、外側からも、愛と祈りに包まれて、あなたは共にいることを感じるでしょう。
 
 
最後にたった一つの魔法を教えましょう。
 
それは愛すること祈ること。
あなたの苦しみや悲しみをも愛しなさい。
それに抵抗せずに、そこから逃げずに。
苦しみも悲しみも逃げていては辛いだけ。
喜びや楽しみは受け入れていたから幸せなのです。
同じように、全てを愛しなさい。
自分自身も受け入れ愛しなさい。
自分自身を愛せない者は誰をも愛せません。
そして祈りなさい。
ただ愛し、多くを愛しなさい。
その愛を祈りに託しなさい。
愛する心は決して見放されることはありません。
祈る心は決して迷うことはありません。
澄んだ魂がそっと側にきて、あなたが幸福になれるように
縁を導き、時を導き、あなたを照らしてくれるでしょう。
 
思っているだけでは相手に伝わりにくいように、
愛だって想いを表現して行為が伴わなければわかりません。
同じように
想っているだけでは相手に伝わりにくいように、
祈りだって心の中にある想いを表現して行為にしてあげなければわかりません。
心にあるものを形にしなければいけないのです。
 
その形には個性があり、それぞれでいいのです。
 
大切なことは、
相手を豊かにする与えるだけの無条件の愛と祈りです。
それには、心から素直にならなければなりません。
それには、心から感謝しなければなりません。
素直な心は隔たりなく光を分かち合い、
感謝の心は沈むことなく羽ばたくでしょう。
 
あなたの心は愛と祈りの翼を備え、
素直な心は余すことなく風を捉え、
感謝の心は天高く飛び立つ力になります。
そして、あなたの愛する者のもとへ行くでしょう。
 
 最後に、この題名には続きが隠されています。
 『愛は祈りと共に。祈りは愛と共に。いつも心と共に。』とね。
 
心から愛するのです。
心から祈るのです。
できることを、
してあげたいことを、
行為にしてみてください。
 
いつも心と共に、愛と祈りがあるとき
いつも心と共に、素直と感謝があるとき
幸せは必ずやってきます。
天使の翼でもって。
 
あなたに幸せになってね!と
あなたを愛する天使から届くことでしょう。
 
あなたは素直さを愛する者から学んでいるはずです。
 
あなたは感謝を愛する者から心に抱いているはずです。
 
何があなたとあなたを愛する者を隔てているのですか?
それは、あなた自身です。
更新日時:
2003/12/24
   思いが変わるとき(後編)…
 いろいろと思うことはあるものの、心の中に優しさという想いをしっかりと抱いているから、共に暮らした子の気持ちも分るようになっているし、他の友達や仲間の気持ちを分かるようになっているので、元気で暮らしている友達のことを温かく見守れるようになり、辛い目に遭っている子たちを何とかしたいと心痛めたりもします。
 そうして、身近な捨て猫などの保護から始まり、里親探しのボランティア、実験動物への反対運動、さらにグローバルになって動物保護や自然保護、地球環境問題へと意識が高くなってゆくこともあるでしょう。
 意識が高まるにつれて自分の出来る限界という壁に突き当たり、彼らの気持ちが分るようになっているにもかかわらず、何もできない自分の至らなさに心痛めることもあり、そのギャップに苦しくなることもあります。
 ひとりの子と真の愛情を育んできて、死という一つの境と共に我と彼の違いも姿を隠し、愛情だけが心に残り、共に暮らした子だけではなく、他の子たちも愛されるべくしてこの世に生を受けた命であることを知るのです。目に見える姿の違いに惑われることなく、すべての命が同じであることを悟るのです。
 優しさという愛情を交し合うべく生まれてきたソウルの本当の姿が、死という一つの境と共に借りてきた肉体という姿を隠し、心だけが残り生きている者の心に魂が宿り、姿のあるなしに惑わされることなく、いつも一緒である命が今ここにあることを悟るのです。
 
 愛情という優しさが共に暮らした子だけではなく、同時に多くの子を愛せるようになり、愛情が分化するのではなく、同じく普遍的なものになるのです。
 また同時に、愛情が普遍化するに従って、共に暮らした子に対する思いは想いに昇華してさらに強くなってゆき、時と共に色褪せる記憶ではなく、想いと共に彩り豊かになる心になって人生を歩み始めます。
 そうして永く保つ想いとなって共に人生を歩むとき、彼らは私たちを見守り、何かの際に力を貸してもくれるようになり、一緒に生きていることを感じ始めます。
 あの子たちが遠く離れている別世界の天国に旅立ってしまったのではなく、魂は心にも宿り人生を一緒に歩んでいることを知ることでしょう。
 その一つが命を大切に思えることです。
 心の中にあの子の魂が宿り、心が増えているからこそ、より優しくなっているのですし、同じ仲間のことを思いやるようになっているのです。
 それは、私たち人類が異なる国で起こる悲劇に同じ種族として心痛めるのと同じく、自他の違いを越え国の境いを越えて感じるように、さらに種族の違いを越え次元をも超えて動物たちのことを思うようになるのです。
 人としての心はしっかりと祖先から受け継ぎ、動物の心はあの子からしっかりと受け継ぎ、同じく地球に生きる仲間としてソウルを受け継いでいるから、生きとし生きる者たちはお互いに支え合いながら生きる平等思想になり、人間が地上の支配者で地位が高いとは思わなくなることに気がつきます。
 心が多くなって感じることが多くなっているし、人の心と動物の心を受け継ぎ、バランスがとれた人間へとさらなる魂は向上しているのです。
 
 別れの際に「決して忘れないからね」と言ってお別れをしたにも関わらず、日々の生活の忙しさに忘れがちになり、多くの喜びや楽しさに忘れがちになって、忘れてしまっていることに気がつき罪悪感や嫌悪感を抱いたり、謝罪したり自分を責めたりもします。
 しかし忘れているのではありません。
 心が一つになっているから、私とあなたという違いが薄れているから、対象としての存在から同一としての存在になっているから気づかないのです。
 それを私たちは忘れてしまったと思うのです。
 あなたはいつも愛されています。その命ある限り見守る者がいるのです。
 その想いに感謝して、今ある命に、共に生きている命に感謝すればいいのです。それが祈りになるのです。
 あなたを見守るソウルメイトは、あなたが苦しむことを望んではいません。
 思いが想いに変わるとき、幸せは外にあるものでなく、自らの中にあること知るでしょう。
 私たちは幸せになろうとして何がしかを築こうとし、人生における成功や所得、物質的なものを求めて彷徨いますが、本当の幸せは外にある物ではなく、自らの内にあることに気づくのです。
 『幸せの青い鳥』の童話にもあるように、幸せはどこか遠くにあるのではなく、すぐ近くにあることを知るのです。幸せはすぐ側にあることに気がつくようになるのです。
 あの子の姿を遠くの天国に求め彷徨うではなく、すぐ側に天国があり、いつも一緒にいることに気づくでしょう。
 幸せは「築く」ものではなく、幸せとは「気づく」ものなのです。
 その人生における幸せを気づかせるべく、私たちを愛してくれている者たちは命を通じて心に「気づき」を与えてくれるのです。
 
 愛する者の魂の成長のために出会いと運命を導く時空を越えた者たち、それがソウルメイトです。
 「思い」が「想い」に変わるとき、あなたはソウルメイトの存在を知るでしょう。
 そして、命の尊さを感じるでしょう。
 そして、祈ることが何かを知るでしょう。
 
次回は「愛は祈りと共に」とでも題して祈ることの大切さをコラムにしますね。
更新日時:
2003/05/26

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