愛することも祈ることも対象を誰にするかによって、ずいぶんとその様相を変えてしまいますが、本質的には愛も祈りも与えることであって、求めることではないことは少しずつ分っているかと思います。
今回は、少し長いですが愛と祈りがどのようなものかを見つめてみましょう。
行なうことが大切なのであって、言葉だけでは足りないのですが、愛と祈りの真の姿が少しでも見えてくれば嬉しいです。
愛するということは心にある思いやりを表現する行為であり、祈るということは心からの望みを表現する行為であり、愛と祈りは一見異なるようにも見えますが、同じく心にあるものを伝える行為であって、見返りを求めたり、利益を求めたりする行為ではないのです。だから、求める愛は与えられず、望む願いは叶えられずで、愛を見失ったり、祈りをせずにいる方が多いことかと思いますが、自分のことを求めてばかりいるあいだは、与えられず、叶わずで、愛と祈りの姿を見ることは難しいでしょうね。
愛することも祈ることも、相手のためを思う気持ちであり、相手の豊かさや幸せのために表現する行為で、愛する者同士が互いに相手の為に行為を成したなら、愛と祈りの本当の姿をあなたは見ることになるでしょう。
愛と祈りは、ただ与えるという無条件的な行為であるという点で同じで、愛のはじまりには祈りがあり、祈りのはじまりには愛があり、愛の中には祈りがあり、祈りの中には愛があり、愛と祈りは同じでもでもあります。愛のはじまりには、相手のことを思い願う気持ちがあり、それを伝えるためには心で思っているだけでは相手に伝わらないので、思いが伝わるように表現するという行為になるのです。
また、祈りのはじまりにも、相手のことを愛する気持ちがあり、それを伝えるためには心で想っているだけでは相手に伝わらないので、想いが伝わるように表現するという行為になるのです。
この気持ちを伝えようとする行為が、愛となり、祈りとなるのです。
このように愛の中には祈りがあり、祈りの中には愛があるのですが、私たちはこの愛と祈りをその都度使い分けていることが多く、「私から誰かへ」、「ここからどこかへ」と時空的な隔たりを越えて伝えようとする気持ちは同じであっても、時と場合によって両者を使い分けているように思われます。
愛は時間的にいうと別れの時を隔てて使われがちで、共にいるときは愛多く、別れた後には愛少なく、共にいるときは見返りがあるから愛せるのですが、別れを境にして見返りがないから愛せなくなってしまうことがあります。また、空間的には自分と他者と隔てて使われがちで、私に深く関係するときには強く、他人ごとであるときには弱く働いたりもします。
祈りは空間的にいうと自らの手の及ぶ範囲を隔てて使われがちで、手の届く範囲においては祈ること少なく、手の届かないところのものに祈ること多く、ゆとりのあるとき救いは必要ないので祈ることなく、危機になると都合よく救いを求めて祈ることがあります。また、時間的には期限を隔てて使われがちで、時間があるときは弱く、時間ないときは強く働いたりもします。
そして、愛は生前によく使われ、祈りは死後によく使われるのですが、ここでもまた自らへの見返りという条件によって差が出てくることが多くあります。
それは、生きている時には出産祝い、誕生日、七五三などの節句、クリスマス、お正月などと祝うことがあるにも関わらず、死後は葬儀にはじまり、その後の節目の供養、彼岸やお盆などはおろそかにされてしまうことがあります。前者は“喜ぶ顔が見える”ことから、見返りがあるのでできるのですが、後者は“喜ぶ顔が見えない”ことから、同じ相手であるにも関わらず、同じ愛があるはずにも関わらず様相は異なってきます。
このようにして、同じく愛していても、祈っていても、条件が異なると、その愛や祈りも見返りを求めているだけに異なってきてしまい、無条件であるはず愛と祈りは条件によって大きく左右されてしまい、永遠であるもの無限であるものを有限的な条件的なものにしているのです。
愛や祈りが無条件的で与えるものであれば、時の前後(後悔・罪悪感・不安・希望など)ということにも、空間の隔たり(近い・遠い、この世・あの世、うちの子・誰かの子など)ということにも、条件を付けることなくていいのですから、無条件のものであればすべてを越えることができるはずです。
そこに、条件や見返りを付けてしまうために、還ってきた条件に満たなければ疑い抱き、期待していた見返りでなければ不満を抱き、何もないはずのものに勝手に隔たりを作り、その隔たりのせいで還ってきていることに不満や疑いを抱き、素直になれず感謝を心に抱けずにいるのです。
もちろん、周囲で起こる出来事は無条件にあるのですが、条件や見返りを求めているので、素直に感じることもできず、感じていても感謝の心が持てずに欲求が満たされないままに日々を過ごしているのではないでしょうか。
伝わるものも受ける時には隔たりがあるように、行なう時も自らで隔たりを作ることがあります。私たちの心の中で想ったこと・感じたことを、さまざまな要件によって心から表に出さずにいることを、自ら認めたくないから、自らしていないことではなく、できないこととして自分勝手に納得していることがあります。
こうして、「あとで、いつか」と時間の隔たりを越えられないのであれば、過去や未来という時間が越えられるものであっても、変えられるものであっても、それに及ぶ力はないでしょう。
また、「けど、でも」と空間的な隔たりを越えられないのであれば、私と誰か、この世やあの世という隔たりが越えるものであっても、それに及ぶだけの力はないでしょう。
素直な気持ちや感謝の気持ちがあって、このできることの中で、できることをしてあげたいという気持ちがあり、それを表現して行為にできるのであれば、それは隔たりを越えるだけの力があるから相手に伝わるものになるでしょうし、避けたりせずに受け止めることができたなら、それも隔たりを越えるだけの力があるから、これかの未来を切り開くものにもなるでしょう。
本来は何も隔たりなどはないのでしょうが、私たちの心の中で素直さが薄れ、周囲に至る感謝の気持ちが薄れるにつれて、より現実的な、より物質的なものでしか、何事も判断できないようになるにつれて、愛や祈りも見返りのある現実的なことでしか、その気持ちを表にできなくなってきてしまい、愛や祈りには隔たりは何もないはずなのに自ら隔たりを作ってしまい、時空の前後をも越えることができるはずなのに自らできなくしているのではないでしょうか。
その想いや気持ちが自らの時や肉体を越えることができずにいるのにも関わらず、外から与えられるものばかりを求めているのです。
手放さなければ得ることもできないのに、与えなければ得ることはできないのに、手放さずに、与えることせずに、もっと、もっと、と得ようと求めては、得られずに不満を抱いていることがよくあります。
何事にも『鏡の法則』があるように、自らが歩み寄らなければ、相手も歩み寄らないでしょうし、自らが心を開かなければ、相手も心を開かないでしょうし、自らがしてみせなければ、相手もしてみせないように、自らが動かなければ周囲も動かないのです。
いや、相手はしてくれているのでしょうが、私たちが心を素直に開くことなく、歩み寄ることもせず、しようとせずに、求めてばかりいて、条件に合わないとダダをこねているのが本当の姿なのでしょうね。
愛も祈りも与えるという行為で無条件であるにも関わらず、見返りのあるもの、求めるものとなり、私的な都合のいい条件的なことなどから、その愛と祈りにある本当の姿を素直に見ることは少ないのではないでしょうか。
このように論じてみてもなかなか分りづらく、「じゃぁどうすれば」と思う方いらっしゃるでしょうから、愛と祈りの実践をどうすればいいのかを少し分り安く説明してみますね。(「じゃぁ」とすぐに結論を求めようとする姿勢が、そもそもの姿を見られずにいるのですけどね。)
伝えたい想いや相手を思う気持ちが心の中にあるとしますよね。まずはそれを現実のものとして実行してみることです。
「こうしてあげたい、こうなってほしい、…」という心の中にあるものを、今からでもできるものから、その心に留めておかずに、その身を越えて行為にしてみるのです。
そうして、心の中にある愛を行為にしてみてもなお、心には溢れる想う気持ちがあり、できることはしてもなお、何かしてあげたいという気持ちが、見返りを求めることなく、無条件にしてあげたいと想う心になるのであって、今度はその想いを祈るのです。
できることをしたら、後はただ祈るだけです。人はすべてを尽くしたとき、あとは何ものかに祈りたくなるものです。それが伝わる祈り、叶う祈りとなるのです。
愛の行為の初めにある祈りは現世において、愛するという行為になって祈りは叶い、さらに澄んだ祈りは、溢れる愛が伝わる行為となって、あの世において叶う祈りになるのです。
精神的なものを現実的なものにし、その想いを透過させてもなお残るものが、さらなる想いになるので、今度はこの祈るだけしかない気持ちを祈るという行為にして表現することで、より澄んだ祈りとなって、愛と祈りが心の最も深いところで一つになり、愛と共に純粋に祈るとき、その祈りはすべてのものを越えて相手に届く愛となり、はじめて天からの愛があなたに従い寄り添ってくるのです。
こうして精神的なことを現実にして、現実にしてもある精神的なことをさらに現実にしようと試みる祈りというものが、精神から現実、現実から精神、精神から更なる現実となって訪れてくるので、私たちは天の導きからなる縁や出来事は不思議なことして感じられるものになるのです。
このようにして、愛と共に祈りがあるとき、精神的な境も、物質的な境も越えているのですから、より澄んだ気持ちを阻む隔たりは何もないので、どこまでも、今すぐに届くことでしょう。
私たちはよく、「心が届く」という言葉を使いますが、この感覚的な言葉が意味しているように、ある行為からそこに託された心が届き、この心の中にある気持ちを感じるのであって、心をそのままに伝え合うことが難しいので、私たちは気持ちを行為にして表すことで、伝えたい者にその心を届けるのです。
見えないはずの精神的な心というものを、言葉や行為にする物質的なことにすることで、見える心にするのです。
見えないものを見える形にして表し示すことによって受け取ることができたように、その心にある想いを祈りにして表し示すことによって、伝えたい、届けたい相手に送るのです。
そうして祈りに託された愛は天に届き、あなたの心の中にある様々な思い出に響き合い、あなたの心に寄り添ってきます。
ちょうど、山に鳴り響く山彦のように。
あなたの愛と祈りは響き合い、その愛と祈りがかえってくるでしょう。
外に向かって放った愛と祈りが、山彦のように還ってくる時は何故か周囲からもあるでしょうが、心の中からもあるでしょう。
そうして外に放ったものが外だけではなく、内にあることを感じたなら、あなたの愛する子が自らの内側にもいることを知るでしょう。
内側からも、外側からも、愛と祈りに包まれて、あなたは共にいることを感じるでしょう。
最後にたった一つの魔法を教えましょう。
それは愛すること祈ること。
あなたの苦しみや悲しみをも愛しなさい。
それに抵抗せずに、そこから逃げずに。
苦しみも悲しみも逃げていては辛いだけ。
喜びや楽しみは受け入れていたから幸せなのです。
同じように、全てを愛しなさい。
自分自身も受け入れ愛しなさい。
自分自身を愛せない者は誰をも愛せません。
そして祈りなさい。
ただ愛し、多くを愛しなさい。
その愛を祈りに託しなさい。
愛する心は決して見放されることはありません。
祈る心は決して迷うことはありません。
澄んだ魂がそっと側にきて、あなたが幸福になれるように
縁を導き、時を導き、あなたを照らしてくれるでしょう。
思っているだけでは相手に伝わりにくいように、
愛だって想いを表現して行為が伴わなければわかりません。
同じように
想っているだけでは相手に伝わりにくいように、
祈りだって心の中にある想いを表現して行為にしてあげなければわかりません。
心にあるものを形にしなければいけないのです。
その形には個性があり、それぞれでいいのです。
大切なことは、
相手を豊かにする与えるだけの無条件の愛と祈りです。
それには、心から素直にならなければなりません。
それには、心から感謝しなければなりません。
素直な心は隔たりなく光を分かち合い、
感謝の心は沈むことなく羽ばたくでしょう。
あなたの心は愛と祈りの翼を備え、
素直な心は余すことなく風を捉え、
感謝の心は天高く飛び立つ力になります。
そして、あなたの愛する者のもとへ行くでしょう。
最後に、この題名には続きが隠されています。
『愛は祈りと共に。祈りは愛と共に。いつも心と共に。』とね。
心から愛するのです。
心から祈るのです。
できることを、
してあげたいことを、
行為にしてみてください。
いつも心と共に、愛と祈りがあるとき
いつも心と共に、素直と感謝があるとき
幸せは必ずやってきます。
天使の翼でもって。
あなたに幸せになってね!と
あなたを愛する天使から届くことでしょう。
あなたは素直さを愛する者から学んでいるはずです。
あなたは感謝を愛する者から心に抱いているはずです。
何があなたとあなたを愛する者を隔てているのですか?
それは、あなた自身です。
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