Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   思いが変わるとき(前編)…
 「思い」とは理性の伴う思考のことですが、それが愛情の伴う思考になると思慕という「想い」になります。この「思い」から「想い」に変わる時にある心の変化に苦しむ人も多くあります。
 それは、忘れてしまっているように感じる時ですね。
 だから、今回のコラムは思いが想いに変わる時についてのものです。
 
 
 私たちは動物達と一緒に暮らすことで、多くの愛情を受けてきたし、また多くを与えてもきました。ほとんどの人は多くを与えてきたことを実感していないでしょうけど…。
 いつも与えてもらうばかりで、もっとしてあげればよかったと後悔していることでしょうからね。
 そのように感じていても思っていても確かに多くを与えているのです。
 それは、私たちが多くを与えてもらったことがその証でもあるからです。
 愛情を与えたからこそ与えられたのであり、その行為が自然な愛情から湧き出たものだからこそ与えた実感がないのであって、与えるもの少なく得るもの多く感じるのです。
 無条件の愛情で見返りを求めていなかったから与えてきた気がしないし、ただ側に居てくれるだけでよかったから見返りを求めもしなかったのでしょ。
 もし、「私はこれだけ与えたのだから」と見返りを求めるような愛情であれば、そこには素直な心情などはなく、心を通じ合わすことはできなかったことと思います。
 もし、見返りを求めて愛情を与えていたのでしたら、「もっと〜されていいはずなのに…」となって、いくら与えられても足りない思いがするものです。
このことを知っている人は人間として多いのではないでしょうか?
 誰かに何かをしてあげた時にお礼や感謝の気持ちがないと、「あれだけしてあげたのに…」「何か一言あってもいいはずなのに…」などと不満や不平を言うようなことがありませんか。
 それだけ、見返りを期待して(深層的にも)条件的に優しさや思いやりを行うことがあっても、何の見返りを期待することもなく無条件で愛することが実に難しいことかを感じているかと思います。恋愛なんてその代表的なことでしょうね。
 そのような人間としての未熟な愛を交わしている中にあって、パートナーとの愛情については人間と動物という種族をも超えて、飼い主やペットという役割や地位をも越えて、共に生きるパートナーとして愛情の絆を深めてゆき、「あなたが居てくれるだけで」というお互いの存在に対する愛情に至るまでになっており、共にかけがえのない存在になっていたのです。
 それ故に、死という出来事が存在の在り方を見えなくさせてしまい、目に見える側から居なくなってしまったことが辛く悲しくもなるのです。
 それほど無条件の愛情があったから、与えた気がしなく得ることが多く感じるのですよ。
 
 このような本当の愛情を交し合ってきたから、悲しくもあり、辛くもあり、後悔もすれば罪の意識も感じ、至らない自分を責めもするのです。
 それは心にしっかりとした愛情があるからであって、条件的に愛していたのではなく無条件的に愛していたからで、今なお心に想いがあるから、せめてもの代償として自らを責めるのです。想いがなければ悲しくも辛くもないし、自らを責めることすらないのです。
 しかし、それは私たち人間が思い込んでいる「思い」であって、愛情の伴った思慕である「想い」ではないのです。
 彼らが私たちに示してくれた無条件の愛情は、見返りや代償などを求めないものであったはずで、命の全権を委ねるほどの無条件の愛情だったはずで、あなたの存在に対するほどの純粋なものであったはずです。
 それを死という一つの境が、愛を表現することの終焉でもあるかのように感じてしまい、愛が憎しみに取って代わり自らを責めるようになるのでしょうが、彼らの愛は自らを責めるような代償などを求めてはおりません。まして、大好きなあなたが苦しむことなど望んでもおりません。
 望んでいるのは、再会の時まであなたの中に命を宿し続けることで、想いを受け継ぎ共に生きる一つになったあなたと私を愛して欲しいことです。
 追憶の彼方に忘れ去られるのではなく、一つの生きた命として、あなたと共に人生を歩みたいのです。
 
 私たち人間が存在に対して思いを馳せる時には、この世に生きた証として何がしかを残そうと業績や芸術などを残そうとするでしょう。自らが生きた存在の証として、忘れ去られない為にも文化の中で何かを残そうとするのです。
 また、文化を持たない動物という本能的なところでは子孫を残し、自らの遺伝子を受け継ぐ者をこの世に存続させようとするのです。
 この点では動物たちも同じでしょうが、文化を持たない彼らはこの世に生きた証として私たちの心に想いを残します。
 同じ時を共に過ごしたパートナーとして、心と心を共にしたソウルメイトとして、文化・物質・本能的な何かではなく、大好きな人の心に想いを残すのです。
 ソウルメイトとしては、優しさという愛情と想いを受け継いで欲しいのです。
 この想いがしっかりと心に宿っているから、優しさという想いがしっかりと心に宿っているから、人としてもより優しくなり、より多くを感じることから、これほどまでに悲しくも切なくもなるのです。そして、後悔もするし、反省もするし、罪を感じれば、自らを責めもするのです。
 人としてそう思ってしまうものの、あなたが苦しむことをあの子は望んではいません。
 だから、縁を導き何かを伝えようとしているのです。誰かを頼り、言葉を求め、不思議な出来事を通じて伝えようとしているのです。
 
後編につづく
更新日時:
2003/05/26
   涙のあとに…
 人生には涙のあとに輝く贈り物があることって多いですが、それは涙を流さなければ分からない。それなのに、自分から涙を抑えてみたり、周囲から涙を抑えたりして、とかく涙を流さないようにしがちなのが私たちの生き方ですよね。
 涙には素敵な想いがあるのに、悲しみには素敵な想いがあるのに、悲しみの涙を素直に受け止められないのでしょうね。
 
 
 愛する子に先立たれて悲しんでいると、よく言われることに「がんばって」とか「早く元気になって」などと励まされることがあります。また、「あんまり悲しんでばかりいると、亡くなった子が心配する」とか「成仏しない」などと言われることもあることでしょう。
 いずれにしても、あなたを心配して励まそうとして言ってくれている一言なのに、分かっていても心は重くなってしまうものです。悲しみの中にいる者にとっては、それがどれだけの苦痛であることか知らずに悪気なく言っていることがほとんどですから、何とも言いようがありません。
 このような外側から押し付けられた明るさや、前向きに生きなさいというような半強制は、それでも何と均衡を保とうとしている状況下においては、とても酷な一言になってしまうものです。
 そのために心は傷つき、好意を素直に受けれない自分に嫌気を感じ、自分の抱いている感情は異常なのかと思ってしまい、心に抱いている素直な心を閉ざし、溢れる涙を抑えてしまうこともありますよね。
 そうして、周囲に迷惑をかけまいとか、元気にならなきゃとか思い、心と涙を閉ざし元気に振舞おうとしがちなものです。無理に笑顔を作ってみせたり、忙しくして気を紛らわせたりして平静を保っても、夜ひとりになると反動から辛い涙がでることでしょう。
 そうとは知らず、それが励まそうとしている者にとっては、目の前で涙が止むのが善であり、涙を流がしているのは良くないように思っているので、こうして心を閉ざしても“それで善し”となってしまうのでしょう。
 あなたを助けようという心ある励ます者が心を見ずに、表面的なことに目がいってしまい、本来の救いたいという自然な行為が、涙を止めるという目的にすり替わり、そのために心に伝わらない言葉を多く投げかけてしまうのでしょうね。
 周囲の人にとっては、そんなに涙がいけないものにでも映るのでしょうかね。
 悲しみの涙は愛しているからなのに、幸せがあるから涙があり、涙があるからより幸せを感じることもあろうに…
 
 ポジティブに生きるというような社会的風潮からは、積極的であることが善であり、消極的であることが悪のように思われ、笑顔が善で、涙が悪になってしまうのでしょう。
 でも、本当のポジティブシンク(積極的思考)とは、ポジティブ辛苦(しんく)なんじゃないのかな。
 悲しいことや辛いこと、苦しいことなどをしっかりと感じて受け止めて、その気持ちを踏まえた上で発想を転換し一歩前に進もうという心構えが、積極的思考というものではないのかな。
 ポジティブということは、積極的ということなので、悲しいときには積極的に悲しみ、苦しい時には積極的に苦しみ叫び、寂しい時には寂しさに浸ることが、本当のポジティブシンクなのではないのでしょうか。
 「覆水盆に帰らず」と言うように、起きしまったことをいつまでも嘆いていても確かに仕方がないので、その事実をしっかりと心で受け止めて、失敗の原因があるなら素直に反省すればいいし、次に起こらないように気をつければいい。
 自分に過ちがあればそれを認め素直に謝ればいいし、許されないことなどそうそうない。
 何事も無駄なことはないのだから、起きたことから、すべてから、気づき学んでゆけばいい。
 
 
悲しいことがあったら素直に泣けばいい。
心のわだかまりは涙が流してくれる。
私たちが流す涙は渇き、空を潤し天に届いて、
愛情への感謝から、恵みの雨となって降ることだろう。
乾いた大地を潤すことで木々や草花は感謝するだろう。
空気と花や実を与えてくれて新たな恵みを与えてくれる。
あなたの涙のひと雫で多くの命が永らえる。
あなたの流した涙は確かに天に届き、
その感謝の徴として舞い戻ってくる。
 
ひとつの命に対して流された涙の一滴は、
愛情のお裾分けとして多くの水の雫となって、
多くの生命に分け隔てなく注がれることでしょう。
あなたの心からの想いの涙は、
すべても生き物たちに恵みをもたらす慈愛の涙となるでしょう。
 
涙が枯れるまで泣いたなら、人の流す涙が身に沁みることでしょう。
乾いた大地が雨を吸うように、人の涙を救える人になるでしょう。
そうして心は優しくなるのでしょう。
 
悲しい時には十分に悲しまないと立ち直ることはできないし、
十分に泣かないことには人はそう簡単には変われない。
 
それは悲しみの涙であろうと、感動の涙であろうと、
悔しさの涙であろうと、感謝の涙であろうとも、
人の心を動かすときには涙なくして語れない。
 
悲しみを拒否して、喜びだけを得ようなんて無理なこと。
悲しめる心、楽しめる心、後悔する心、
喜べる心、怒れる心、寂しい心、
多くの心を感じる素質が豊かな心です。
 
多くの喜びを与えてもらい
共に育んだ豊かな心だから
愛している故に多くの涙もでるでしょう。
この多くの涙から、いつか笑顔で話せる日がくるでしょう。
かけがえのない出会いから
共に確かな絆を育んだから
愛している故に感謝の涙もでるでしょう。
 
心から流された涙が雨ならば、涙の後には晴れがある。
いつもそこには空がある。
雨があるから晴れがあるように、涙があるから喜びもある。
いつもそこには空がある。
 
空に雲がかかり迷うこともあるだろう。
空に雲がかかり涙することもあるだろう。
空に雲がかかり暗くなることもあるだろう。
空に雲がかかり寒さに震えることもあるだろう。
それでも、いつもそこには空がある。
 
空にはいつも星がある。
雲があって見えなくても
いつもそこには星がある。
たとえ昼の明るさで見えなくても
いつもそこには星がある。
 
あなたの心が空ならば
星は変わらずそこにある。
生きているときには明るくて見えなくても
星はいつも変わらずにそこにある。
太陽が沈んだ夜空にも星は変わらずあるように
あなたの心にも星は変わらずそこにいる。
 
昼と夜とに関わらず
いつもそこには星がある。
今も、あなたの愛情に照らされて
夜空な心に輝く星が
そっと輝く確かな星が
かけがえのない輝く星が
ひとめで分かる輝く星が
あなたの心に宿っている。
 
いつもそこには空がある。
 
いつもそこには星がある。
 
涙のあとに輝く光。
永く輝く命の光。
 
今も昔もこれからも
光はあなたとともにいる。
今も昔もこれからも
あなたは光とともにいる。
更新日時:
2003/04/30
   涙がかわくまで(後編)…
前回のコラム「涙がかわくまで」の後編です。前置きなしにどうぞ。
 
 
目には見えない「運命の赤い糸」とは愛情の絆で出来ていて、生まれる前から出会うべく結ばれた「運命の赤い糸」は、この世に生命を受ける命の赤い血で、再び会うべく結ばれた「運命の赤い糸」は、涙のように透明な血で成された絆なのでしょうね。
こうして、血と血で結ばれた家族だからこそ、私たちはパートナーたちのことを「うちの子」と言うのでしょうね。
みんな生まれる前から血の絆で結ばれ合ったソウルメイトだからこそ、それを伝えるべくこの地に導くのでしょう。
これからも出会うことのできる愛情の絆で結ばれたソウルメイトだからこそ、それを伝えるべくこの地に集うのでしょう。
 
同じく愛している者たちが集う再会の地:ソウルメイト。
 
命が織り成す愛情の絆:ソウルメイト。
 
ここは命が導く涙の縁がある。
 
無理することはありません。
泣きたい時には、多いに泣きましょう。
涙が枯れるまで心のままに泣きましょう。
 
あなたの流す想いの涙は、水の記憶となって、愛情という想いを天に伝えるでしょう。
 
天に伝わる想いの涙に誘われて、天は恵みの涙を降らすでしょう。
 
恵みの雨が大地に命を育むように、恵みの涙は心に命を育むでしょう。
 
雨の後に空に虹が架かるように、涙のひとしずくが心に「虹の橋」を架けるでしょう。
 
目は口ほどにものを言うというように、あなたの涙はみんなに伝わる言葉。
詩人ハイネが「涙には詩がある」というように、あなたの涙は心の詩なのです。
 
この涙が詩にもある『虹の橋』で、この橋はみんなの「想いの涙」でできている。
 
 
 
ここからは私のこと。
幼い頃、お伽話で涙の一雫が深い眠りから目を覚ましたり、生き返らせたりというものがありました。それを信じて、涙に願いと祈りを託して死者に手向けましたが、現実は厳しいもので生き返ることはありませんでした。
そして、「ありがとう」という不思議な言葉を受け取ることにより、祈りは通じる言葉であることを確信したものの、私の中にいた人の形をした神さまはこの時点から姿を消したのです。
罪のない無垢な命を傷つけた人間が生きていて、この子は何も食べることができなく、何も飲むこともなく、この数日耐えて本能で戻ってきて、この3日間一生懸命に生きて息を引き取ったのに、「どうして、こんな理不尽なことがあっていいのか!」と心は叫び声を上げながら、同じ人間である自分すらも憎くて心は引き裂かれました。
すべてが無意味で、何が価値なのか、何が現実なのか、と理性は失われ、悲しみ、怒り、恨み、後悔、罪悪感、喜び、感謝とあらゆる感情が入り混じり、理性と感性は混沌となって流す涙は複雑なものでした。
この混沌という心から人の形をした「神さま」という囚われが無くなり、私の中にはその姿で見えなることができなかった命そのものが姿を現し始めたのです。
「そうか!神さまはいるかどうかはわからない。でも、すべてのものに同じ命はある。ならば、見たこともない神さまよりも、今ここにある命を大切にしよう。私は人として犯人と同じ力を持っているけど、力は心の在り方で良くも悪くもなる。ならば、人として与えられた命と力を動物たちのために使おう。」と動物たちの保護をするようになったのです。
無邪気に生きていたことが10歳の時に、命に違いのないことに目覚め、それまで以上に人も動物も植物も心から愛するようになれ、生きること、愛することが大切なことと小さいときに気がついたのです。
そして、命は形を変えても永遠に生き続けることを長い思索の中から感じ始め、命という姿に隠されていた魂という命の実相を知ったのです。
それから「心からの想いが何よりの供養である」と分かってはいても、心の片隅に引っかかる「お経」というものに力があるのなら、「動物たちの為に読んであげたい」と思うようになり、「動物たちの為にお経が…、きちんと供養できる僧侶に…」という想いから修行に行ったのです。
厳しい修行の中で「自分の想い」という囚われからも解き放たれ、『祈る』ことだけの「純粋さ」・「無(すべてはひとつ)」という自・他の差のない安楽な境地に達したのです。
そうして目が覚めてみると、今までと何ら変わりのない風景がそこにあるのですが、それまでとは異なりすべてのものが輝きはじめ、今まで見ていた世界が目に見えるものだけではなく、心の目で見なければならないものとで成り立っていることが明らかになりました。
そして、すべてのものは繋がりを持ち、命は網の目のように織り成して、世界を覆っていることを理解するようになったのです。
すべてはひとつで、自分も他人も傷つけてはならない。誰や彼の違いは目に見える山々のようなもので、その峰の名は異なってもすべてはひとつに続く大地あることを、目に見える理性と目に見えぬ感性で捉えるようになると、宗教や宗派などは山の峰であり、すべては大地という同じものが根底にあるとなってきて、自他の差のない「差取り(悟り)」となり、宗教の枠すら超えて無宗教になるのです。
無宗教というよりも、付き過ぎず離れずというように、釈迦や孔子が教えとした「中道」を歩むようになってくるのです。
 
こうして、宗教の中にあるものを書物を通じて学んだのではなく、何も知ることなく命そのものから学んできたものが、たまたま宗教の中に多くあったにしか過ぎないのです。
神の中にも命があり、その命の中には魂があり、魂そのものでもある命を大切にし、命そのものを神仏の差もなく信仰し、それに仕える求道者でありたいと思う僧侶なのです。
そして、生きること、愛すること、楽しむこと、心を大切にできる命になろうとするただの人なのです。
この様々なことを教えてくれた命に、分け隔てなく感謝すべく経を捧げたいとの生きる道が僧侶という生き方だったに過ぎません。
神仏の像に神を見るのではなく、神仏の像にある石や木の形に神を見るのではなく、石や木そのものに命を見、それを作った仏師の心を見、神仏を求める心の姿を見、形に囚われることなく命と心を見ることを、出会えた多くの命たちが命を懸けて教えてくれました。
そして、どんなであっても一生懸命生きることの大切さを知るようになったのです。
 
私の涙がかわいたあとに残された宝物。
それは…
 
想いという心。
私という命。
 
更新日時:
2003/03/03
   涙がかわくまで(前編)…
 私たちはパートナーを失った時、色々な感情からとにかく泣きますよね。
 泣いて、泣いて、枕やシーツを涙で濡らしたことでしょう。
 タオルやティッシュで多くの涙を拭いたことでしょう。涙だけでなく鼻水もかなぁ。
 この時に流れる涙とは、いったい何でしょうね。今回は涙についてのコラムです。
 ちょっと長いので二つに分けます。
 
 私たちが流す涙には二種類のものがあります。
 一つは生理的なもので目の機能の維持するために流す身体的な涙で、もう一つは感情的なもので心の機能を維持するために流す心の涙です。
 さて、目の機能を維持する涙とは、瞳に潤いをもたらしたり、目のゴミを流したり、必要な栄養を運んだりで容易に理解できますよね。
 それにしても、心を維持するためにある涙とはいったいどんなものなのでしょうね。この心を維持するために流す涙も色々で、喜び、悲しみ、感動、悔しさなどがあり、同じ心の涙でもその感情は異なります。
 その中でも「別れ」というものほど涙を誘うものはありませんし、その中でも死という別離ほど多くの涙を必要とする別れはありませんね。
 この心痛む死という別離から心を癒すには時間と涙が必要で、様々な想いを涙にして流すことで心のバランスを維持するというのが心の機能を維持するための涙なのでしょう。
 
 日本語には「水に流す」という言葉があり、それまでの心のわだかまりを水に流して新しくやり直すという意味で、確かに涙には目に見えない心のわだかまりを水に変えて流す力があります。
 しかし、亡くなった時に流す悲しみ・後悔・罪悪感・感謝などの心の想いは涙にはなっても、流して終わりということにはならないことでしょう。
 亡くなった時に流す涙には、その他の心の「思い」と異なる「想」いがあるからなのでしょうね。
 その「想い」から流す涙には、いったいどんなものがあるのでしょうね。
 それは、涙の正体に隠されているのだと思います。
 涙とは血液の澄んだものであり、涙腺にある毛細細胞において赤血球が透過された透明な血液で、肉体が傷つくと血が流れるように、心が傷ついた時に流れる血が涙なのです。
 だから、見た目は異なっても同じ血液だから、どちらも痛みを伴うのですね。
 この血液には傷を塞ぐ機能があるように、流す涙にも心の傷を塞ぐ機能があります。
 想いから流す涙には傷ついた心を癒す回復力を秘めているので、心を抑え込まずに泣きたい時には泣くのがいいのです。
 そして、いろいろな想いの涙をいっぱい流して、心を元の状態に回復してゆくのです。
 
 しかし、涙を流して心が回復するという理由からでは涙なんて出ませんよ。
 涙が流れるのは、悲しみ、後悔、罪悪感、感謝、思い出などの理由からで、いろいろな感情から涙が出るのであり、その涙の一雫には様々な想いが入り混じっているものです。
では、なぜ涙で心が回復するのかということになりますね。
 この想いの含まれた涙は、今も愛しているから、今も大好きだからであり、愛していればこそ後悔もするのだし、大好きなればこそ別れが悲しいのだし、いい子だから罪悪感もあるのだし、共に暮らせた時が幸せだから感謝するのだし、すべての涙には愛があり、涙によって心の傷は心の絆に変わり、切れることのない愛情の絆になるのです。
 そうして、たとえ物質的には死によって離れ離れになっても、精神的な心という魂はいつも一緒でしっかりと離れずに側にいるようになるのです。
 共に暮らして心癒されていたように、心の中で共に暮らすようになると心が癒されるようになるのです。
だから、涙が心を癒すのに必要なのです。
 
 また、想いの涙が絆になるかには訳があります。
 いくら私たちがパートナーたちを伴侶や家族の一員と言っても、種族が違う以上実際には血の繋がりはないのです。
 それは当然のこととして、種族が違えば血は異なりますが、種族が違っても、習慣が違っても、食べ物や言葉が違っても、何ら変わらない命はありますよね。
 そして、共に暮らし愛情を分かち合い、心を交わして絆を育み、家族の一員となり、パートナーという伴侶になったのです。
 また、その死に想いの涙を流すことは、透明に澄んだ血液を分かつことになり、真の意味で血を分けた家族となるのです。
 物質的には血液を輸血することで命が回復するように、精神的には涙を流すことで魂は生き返り、流れた涙の源流を辿って私たちの心の中に戻ってくるのです。
 現実には流す涙では生き返りませんが、魂はしっかりと心に生きることでしょう。
 そして、私たちは流す涙により人としてより優しくなり、新たな自分として生まれ変わり、時の流れによって徐々に魂は一つのものになって共に同じ人生を歩みはじめます。
 そうして、想いという愛情の涙から後悔や罪悪感は押し流されて、涙の痕が残るように想いの涙の後には、その性質であった愛情だけが残ります。
 
 悲しみの涙がかわく頃、出会えたことに感謝し、共に暮らせたことに喜び、豊かな「思い出」が心に残るでしょう。
 
 消えることのない悲しみは、哀しみという切なさになって豊かな思い出をより芳醇な「想い出」にしてくれるでしょう。
 
 心にはとっても大切で素敵な
 愛情の絆という
 この世の何よりも輝く
 愛の宝物が贈られるでしょう。
 
 後編につづく
更新日時:
2003/02/15
   命の値…
 私たちは必ずと言っていいほど、何かにつけて点数を付ける癖があります。そして、比較してしまう癖があります。
 そのために、大切なものまでも見えなくなってしまうという弊害があるのです。
 それは、命についてです。
 ちょっと長めですが、これでも足りないくらいです。
 さて、今回のコラムは命と数値の関係についてのコラムです。
 
 
 私たちの身の回りには数値化されたものが溢れております。商品やサービスは細かな数値で設定されており、すべてのものごとは数字で平均化されて、数値の値によって比較・判断することができるようになっております。
 それは、物だけではなく人に対しても同じです。身長や体重、年収や偏差値などによって、人格を有する者であっても、数値化されて比較・対象の物と化してしまうのです。
 こうして、私たちの判断基準は数値となり、何事においても数値で計算し、数値がプラスになることを幸福として、いろいろなことについて選択基準としているのです。
 この数値に囚われ馴れるあまり、比較・対象をする際に自分を通じてではなく、一般的な数値を主軸として自分をも評価するようになり、自分のことを卑下してしまい、大切な自分にすら良い点を付けないでいます。
 また反対に、人間という生物は知性ある“万物の霊長”だから100点、犬や猫はかわいいから90点、他の野生動物たちは60点、鳩は平和の象徴だから70点、でもカラスはゴミを荒らすから10点、ハムスターは可愛いから70点だけどネズミは10点、ゴキブリは気持ち悪いから−100点などと、自らが神にでもなったかのように驕り高ぶることもあります。
 そして、数値の付け方は若干違うにしても、ペットショップではハムスターは3千円、猫は7万円、犬は10万円と価格を設定していることが、あたかも命の値であるかのように置き換えて考えてしまう人も数多くいます。
 そのいい例が、「たかがペットで…」という、私たちの最も嫌いな言葉に代表されることとなるのですが、すべてを数値化して判断するようになってくると大切なものは見失われ、命の重さや大切さは価格の数値に取って代わり、とても軽いものになってしまうのです。
 だから、悲しみから涙していても、“たかが7万円のことで、そんなに悲しみ、涙を流すのはおかしいのではないか?”と思い、「たかがペットのことで…」と言うのです。そして、“たかが7万円なのだから、そんなに悲しんでいないでまた買ったら…”と思っているから、「また飼えば(買えば)いいじゃない」となるのです。
 生命という計り知れない命をも数値化して標準化しているので、数値の値でしか物事を判断できなくなってしまっているのです。
 また、この数値の弊害は、動物好きの間にも温度差として表れます。
 例えるなら、生きた年数や共に暮らした時の長さで“幸せ”を判断してしまうこともあります。「何歳なんだから、いいじゃない。うちの子なんて…」と命の重さは時として期間という数値に成り代わってしまうこともあるのです。
 自分にとって、かけがえのない子で、命を数値や金額には換算できないことを身に沁みているにも係わらず、命を数値に換算して幸福の度合いとしてしまうのです。
 この幸福の度合いですらも、みなさんは気づかずに自然と数値化しているから、「この子は私の元で幸せだったのであろうか」と出会えたことにすら疑問を感じてしまうのです。
 自分という人間を100点とするなら、もっと早く病気に気づいてあげられなかったから−40点、もっと相手してあげたかったのにしなかったから−20点、死に目を看取ってあげられなかったから−30点などと、自分のことをマイナスして評価しているので、文句なしに100点満点を付けているパートナーに対して引け目を感じることでしょう。
 “はたして私と一緒で幸せだったのであろうか?”と思い悩むものですよね。
 いやそれ以上に、生きていてくれることで100点満点であったのに、与えてくれたものが多いから100点満点+αになっているから、それと比較して至らない自分をなおさら責めてしまうものです。
 
 みなさんはお金さえあれば、どんな高価な治療を施してでも生きて欲しい、少しでも長く生きて欲しいと思いますよね。
 手術のときなど生き延びる確立からではなく、回復する希望から選択をしてきましたよね。
 少しでも痛みを取り除いてあげたいと、数値ではなく気持ちを心を思いやりましたよね。
 命の大切さをお金や数値に置き換えずに、代わりのいないかけがえのない子であることを知っていますよね。
 この子がこの子であるが故に愛したのであって、この子が自分に利益(金額)をもたらすから飼っていたのではないですよね。
 
 もし、命に点数を付けるとするならば、すべての生き物は地球に生命を授かり生まれてきた時点で、100点満点であり、命そのものが100点満点なのですよ。
 それは、私もあなたも、愛した子たちや他の子たちも、地球に生きる命すべてにおいて同じで100点満点なのです。
 それなのに、私たちは今の自分には満足していないので100点満点を付けてはいません。
 「もっと背が高かったら」、「もっと痩せていたら」、「もっと綺麗だったら」、「もっと頭が良かったら」、「もっと収入があったら」、“もっと、もっと”と言って自分の価値を思い描く理想像からマイナスして点数を付けているものです。
 今の自分が今において100点満点であることを知らずに、命があることが幸せであることを忘れて、幸せを求めて彷徨う「青い鳥」のチルチル・ミチルと同じです。
 動物たちのすべては今の自分の有り方に100点満点で、生きていることが100点満点なので、与えられた命を精一杯に生きています。
 犬は犬であることに100点満点、猫は猫であることに100点満点、カラスはカラスであることに100点満点、ゴキブリだってゴキブリであることに100点満点を付けていて、他人の評価を気にする私たちとは異なり、誰からかその価値観を与えられるものではなく、自分が自分であることを自ら認めて満点な生き方をしています。
 そうして自分自身に100点満点を付けているパートナーたちは、生きていることに満足して感謝しているから、共に暮らす私たちと一緒にいることはプラスαなのです。
 心が満たされている上に、共に暮らせる幸せをプラスのこととしているから、自然と愛情が溢れ与えてくれるのです。だから、彼らは無条件の愛情を私たちに示すことができるのです。
 自分が幸せで満たされているからこそ、心の内側から溢れ出るものがあり、その自然と溢れ出る愛情を私たちは受けているから、彼らはみな優しいのです。
 
 人の優しさも同じですね。
 
 今の自分を認めて生きていることに感謝し、自ら幸せを見出して満たされるからこそ、心の内側から溢れ出る優しさや愛情を誰かに与えることができるのであり、心から溢れ出た優しさには利害や損得もありません。利益からする優しさには偽善を感じ、損得からする優しさには誘導を感じるものです。
 心からの優しさは人肌に温められているので、温かさを感じることでしょうね。
 そのような優しさを抱くあの子たちは、あなたを愛したのであり、あなたの望む理想のあなたを愛したのではありません。
 大好きなあなたが、あなたでいることがいいのです。
 そして、亡くなってから「気づき」があり、自分に足りないこと(欠けていたことではなくてね。)を自責の念として自分を省みることのできる人だからこそ、その奥にある深い優しさに触れたくて、出会うために生まれてきたのですよ。
 そんな会いたい人に会えて共に暮らせて幸せでないはずがありません。
 運命を賭けて生まれてきて、共に暮らせて幸せだから、100点+αとなって愛情を受けてきたのでしょ。
 大好きな100点満点のあなたに愛されて、100点満点の自分は+αとなって、この祝福に感謝しているから、彼らには迷いがないのです。
 だから、大好きな人に無条件の愛情を注ぐことができたのです。
 
 あの子たちが大好きな100点満点のあなたを、いろいろなことでマイナスしてはいけません。
 あなたを愛する子たちが悲しみます。
 敢えて強く言うなら、みんなの愛した100点満点のあなたを卑下してはいけません。あなたを愛する子たちに失礼です。
 せっかく自責や後悔で、その奥底にある優しさに気づいたのですから、出会えた時の100点満点より、共に暮らした時の100点満点より素敵な人になって、あの子たちが選んでくれた出会いをより素敵にしてあげましょうよ。
 そうして、より素敵な人になって、いつか再会しましょうね。
 そうなれたなら、自分から会いたいと求めなくても、より素敵になったあなたなら、会いたくて喜んで駆け寄って来てくれますよ。
 より素敵になったあなたなら、出会えたように再会もできますよ。
 
 人間なんだから長所や短所があるのは当たり前。
 人間なんだから良い心も悪い心もあって当たり前。
 人間なんだから完璧なんてありません。
 
 自分の求める理想像に向かって努力する人は素敵な人です。
 でも、自分を変えようと苦しみ、変わらない自分を否定しては辛くなるだけです。
 まずは自分を認めましょ。
 今の自分に100点満点を付けよう。
 過去がどうであれ、そのままの自分が100点満点。
 それを認めた上で、変えるべきところはプラスαのこととして、より素敵な人になるために100点プラスαにしよう。
 
 間違えに気づいたら素直に謝ろう。
 生命や心は間違えを許してくれます。
 科学や数値は間違えを正しますが生命は違います。
 だから、生命や心を数値に置き換えてしまうと、伝える・伝わるメッセージが異なってしまいます。
 数値化できる物は時が経てば陳腐化してゆきますが、数値化できない命や心は時が経っても色褪せることがなく、時が経つほど生き生きとしてきて、かけがえのない価値を帯びてくるものです。
 私は出会いに導かれ、心を重んじ、時を大切にし、命の尊さ知り、自他の命を認め、素直でいるから彼らからのメッセージを感じることができます。
 そのメッセージは、あなたの心にもありますよ。
 このHPにもあります。
 
 愛する子たちの為にも素敵な人になりましょう。
 100点満点のプラスαの愛情を誰かに与えられる人になりましょう。
 
 あの子たちの与えてくれた無条件の愛情のように、
 大きな、大きな、プラスαの愛情を天に届けよう。
 
 より素敵に生きることで、
 彼らの分まで命を生きることで、
 大きな、大きな、プラスαを誰かに届けよう。
 
 そして、あの子たちに愛された自分を素敵な人にしましょう。
 きっと、みんな喜びますよ。
 
  あなたに出会えて幸福でした。
  あなたと暮らせて幸福でした。
  あなたに愛されて幸福でした。
  そして、今も幸福です。
  あなたが愛してくれるから。
  愛するあなたがそこにいるから。
 
 より魅力的で素敵になったあなたとの再会は、
 じっとしていられないくらいの至福です。
 
 あなたに伝えたいメッセージとは何でしょうね。
更新日時:
2003/01/01

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