Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   与えることは受けること…
 この世はギブ・アンド・テイクで成り立っていると言われておりますが、私たちはパートナーから多くもらっているのに、多くを与えていたのでしょうか。
 受けてばかりでお返ししていないのでしょうか。
 今回のコラムは、与えるものと受けるものの関係についてです。
 
 
 私たちはパートナーから多くの愛情を受けているにもかかわらず、与えてもらった愛情をどれだけ返してあげられたのかと思い悩むこともあると思います。
 「私の元で幸せだったのだろうか?」
 「こんな飼い主で幸せだったのだろうか?」
と彼らの愛情に対して、そのお返しなり、恩返しができたのだろうかと考えてしまうものです。
 そして、彼らの無条件の愛情の前では、どんなにいい関係を築いていても、受けること多くて与えること少なく感じることでしょう。
 彼らは側にいて欲しい時には側に居てくれたのに、私は一緒に居て欲しい時に一緒にいてあげなかったことや、辛い時にはそっと側で寄り添ってくれたのに、病気に気づいてあげられなかったこと、辛い時に側にいなかったことなど、多くの愛情を注いでくれたのに、それに見合う愛情を注いであげただろうか?いつも受けるばかりで与えることができたのだろうか?とね。
 そう考えると、ほんとに“自分の元で幸せだったのかな?”と考えてしまいますよね。
 
 私自身もそうでしたが、でも今は違います。
 自分の不甲斐なさを認めつつも、堂々と私の元で幸せだった、幸せでいると思えます。
 パートナーから多くの愛情を注いでもらえたことは、それだけ多くの愛情を注いでいたからであり、多くの愛情を受け取ることができたのは、多くの愛情を与えることができたからです。
 どんなに欠けたところがあっても、どんなに不甲斐ない私と思っていても、受けては与え、与えては受けて、受けると同時に与えており、与えると同時に受けているのです。
 それは、あなたが愛される特別の要件を満たしているからではなく、彼らが何か特別な期待に応えたからでもない。
 あなたがあなたであるが故に愛され、あの子があの子であるが故に愛しているのです。
 この無条件の愛情は意識するようなものではなく、呼吸するかのようなもので、息をするには息を吐かなければ吸えないのと同じです。このように、与えなければ受けることはできないし、受けることなければ与えることもないのです。
 私たちが受けた多くの愛情は与えていたからであり、彼らもまた多くの愛情を受けたから与えてくれていたのです。
 私たちは、こうして呼吸するように幸せな信頼関係を育んでいたのです。そして、今もこの信頼関係を意識することなく育んでいるのです。
この信頼関係を意識しないから、受けることばかりで与えること少ないと思ってしまうのです。
 この無条件の愛情に対して私たちが感じなければならないのは、「私の元で幸せだっただろうか?」と思い悩むことではなく、「私との出会いは幸せであった!」と思えるようになることです。
 この無条件の愛情に対してあなたがしなければならないことは後悔ではない。
 この無条件の愛情に対してあなたがしなければならないことは何もない。
 いや、あなたがしなければならないことは、あなたであることなのです。
 あなたに出会いたくて生まれてきて、あなたと共に暮らせたことが幸せで、あなたが好きで側にいて、欠点を含めても好きでいるのですから、彼らが大好きな自分でいることです。
 このような無条件の愛情関係を築けたことは、まさに運命の祝福であり、出会えたことそのものに感謝なのです。
 このHPに出会って感謝の気持ちを抱いたり、私とメール通じて感謝の気持ちを抱いたり、供養や話を通じて感謝の気持ちを抱くのは、私が高尚な僧侶で功徳があるからではなく、みなさんのパートナーたちからの感謝の気持ちを感じているからなのです。
 私が何かを贈ったのではなく、あなたの心にあるものを私という鏡で映して、自分自身の中にあるものを見ているのです。
 私は皆さんとパートナーの間に立つ鏡であり、皆さんの想いとパートナーたちの想いを橋渡ししたに過ぎないのです。
 私を媒介として、受けては与え、与えては受け、お互いの感謝の気持ちを感じ合って確かめ合っているのですよ。
 そのために、彼らは大好きなあなたをここに導いたのです。
 私はその想いを素直に伝えているにしか過ぎません。
 
 この心に愛を生じさせてくれた彼らの命は確かなもので、命は呼吸するかのように与えては受けることを意識することなくしていたのです。
 この心に愛が生じ抱いていることは、相手の中にも愛を生じ抱いているからです。
 多くを与えるものは多くを受けることになるのです。
 愛は心と心を結びつける活動的な力を有しており、新たな出会いの導きをもたらします。
 愛は受動的な感情ではなく活動的な感情であり、与えることは愛の潜在力を表現する最高の行為なのです。
 この高揚された愛の行為は生命力に満たされ、愛を与えることは奪われることではなく、与える行為の中に自分の命を表現することになるのです。
 自分自身の中にある最も貴重な命を大好きな人に与えることによって、大好きな相手は命豊かになり、そこで自分が生きていることを感じ、肉体的な命は尽きても精神的な命は共に生きることになります。
 愛とは、愛するものの生命と成長に積極的に関係することで、自分自身の命を真に与えるとき、与えられた者と与えた者の間には、より優しく強くなった新たな命が生まれます。
 それが心の中で共に生きるということです。
 この包まれた命を感じるから感謝するのですよ。
 
 与えることは受けることであり、受けることは与えることなのです。
 あなたが多くを受けていた、受けているのは、
 与えていた、与えているからです。
 
 自分の心に愛を感じているように、相手の中にも確かな愛が生じているのです。
 愛情の絆に、愛の多少はなく、あるのは平等です。
 バランスが取れているから、愛情の絆は切れることがないのです。
 
 今はわからなくても、
 どうか、あなたの心にある大切な愛の信頼関係を感じて下さい。
 今は感じられなくても、
 どうか、あなた自身を信じて下さい。
 
 愛の行為は思考を超越し、言葉を超越します。
 命が生まれるのも、命が亡くなるのも、
 愛の表れは涙しかないのかもしれないですね。
 
 いっぱい泣いて涙して下さい。
 
 思い想いの供養をして下さい。
 
 愛を表現してあげて下さいね。
更新日時:
2002/12/14
   百匹目の…
 今回のコラムはちょっとした理論の応用で、経済学を専攻し販売業・広告業を経てきた私としては、その理論を応用することで動物と人間がよりよく暮らせる社会を実現したいと心から思っているのです。
 さて、今回のコラムは『百匹目の猿』がキーワードでそれとどういう関係があるのでしょうね。
 
 
 『百匹目の猿現象』という現象のことをご存じですか。
 話を聞くと知っている人もいるかと思います。ちなみに私は小学生の時に国語の教科書で読んだ記憶があります。
 これは、ある日一匹の若い猿が海で芋を洗って食べるようになり、ほど良い塩味から美味しく食べられることを知り、他の猿たちも同じようにして食べるようになって、その群の半数以上が海で洗いをするようになったのです。
 その食べ方も、ただ洗うだけではなく、一口つけては食べたりと味付け行動も見られるようになったのです。
 単にそれだけなら、生理的行為から文化的行為なので真似して美味しい食べ方をしているというだけで、特筆する必要はないのです。
 それが、芋洗いをして食べる猿たちが、群の中である一定数に達したとき、この地域の猿以外にも同じ行為をする猿の群が、同時多発的に全国で見られるようになったのです。
 最初に芋洗いを始めた場所は離島なので、その情報は伝達する手段も個体が移動することも考えられないのです。
 接触の考えられない離れた集団に芋洗いの知恵が伝わったのです。
 これは、ある行為が集団個体数の一定数に達すると、その行為はその集団だけではなく距離や空間を越えて広がってゆくというのが「百匹目の猿現象」というものなのです。
 この百匹というのはあくまでも、数ではなく、変化するきっかけとなる一定数量を便宜的に示し数値化しているものですから、百匹になったらという訳ではありません。
 
 つまり、流行や思考などが社会に広く伝達するには、「あることを真実と思う人の数が一定数に達すると、それは万人にとっての真実になる」ということなのです。
 これは、情報伝達やマーケティング理論にも応用されていることなのですが、世の中の価値観が一割くらいに浸透すると一気に社会に伝達するのです。これは地域を追って広がるだけでなく、共鳴することにより飛び火するかのように広がっていく性質もあります。
 もっと詳しく説明しようと思えば、シンクロニシティーやユングの集合的無意識、経済シェア理論などからも説明できますが、論文ではないので要は社会の中でその価値観の占める割合がどれくらい占めるかによって、社会全体に大きな影響を与えるようになるかということです。
 (余談として、民主主義的に言えば過半数の51%を得た価値観は全体としての総意となります。その51%の賛成にも部分的に意見は異なるでしょうから、51%中の過半数26%の価値観を取りまとめたものが全体の100に対して主導権を得るようになります。となると、そのまた過半数の14%の価値観が浸透してくると時代の流れになると言っていいと思います。)
 
 なんでこんなことを言っているかというと、私たちは共に暮らしたパートナーたちを愛してきましたが、未だに「たかがペットのことで〜」というような扱いを受けることも多々あります。
 社会的にはまだ動物たちとの間にある愛情関係がごく普通のことで、人間同士だけでなく特別な関係のある愛情の絆を動物たちとも結べ、心と心を通い合わすことができることを理解されていない面があります。
 故にペットロスという言葉も一人歩きをして、ペットの喪失体験という意味から、ペットが亡くなった悲しみから心身的症状が変化する脆弱な人、精神病みたいに扱われることすらあります。
 喪失体験としては何ら人の場合と変わらないのに、対象が動物というだけで特異なケースとして取り上げられることもあり、社会とのギャップによりパートナーを亡くした人たちはペットロスに陥れられているようなもので、本来は命ある者が亡くなれば悲しいのは当たり前のことであることを素直に受け入れられていない状況にさせられているのです。
 この悲しみを受け止めてくれる人が少なく、社会としては共感し得ない人がまだまだ多いのが現状なのでしょうね。社会に占めるペットロス経験者の占める割合がまだ少ないのでしょうね。
 
 現在ペットブームにより社会的にはペットの認知度が上昇してきていますが、まだペットである反面として、捨てられる子たちも数多く、愛される子たちとそうでない子たちがいるもの事実です。
 だから、認知度は高くなったものの社会に占める割合は、相殺されてしまい以外と低いのではないかと思うのです。そのために、パートナーを亡くした悲しみが、理解されないというのが伺えます。
 私たちは愛するパートナーを亡くして、特別でかけがえのない子であることを知っていますが、愛されるべくして生まれてきたのに、優しい人との愛情を受けることなく亡くなっていく子も多くいるので、ペット社会の占める割合も低いのではないでしょうか。
 
 私たちは自分の飼ってきた子が特別の存在ではあるものの、この子だけがかわいいのではなく、他の仲間たちも同じ命であることを分かり始め、不幸な道を歩む仲間たちがいることに心を痛めています。
 心優しい人は「共に暮らしたパートナーだけを愛して、この子の他の仲間を愛してあげたいけど〜」と自分の力の限界に心痛め苛まれる方も多いですし、手紙供養などでも「不幸になくなる他の子たちの為にもお経を挙げて下さい」と思いやりのある方たちも多くいるのです。
 亡くなったパートナーを通じて、本当の愛情に目覚めて、この愛が全体にまで及ぶようになり、人として深く優しくなればなるほど、優しさ故に一個人の力のなさを嘆き苛まれることになるのです。
 一人で世の中を変えようとするのはとても難しことです。でも、難しいからといって不可能なことではないのです。
 
 百匹目の猿ですよ。
 
 パートナーたちから愛とは何かを教えてもらった私たち一人一人が、共に暮らしたパートナーを今も愛してあげること、他の仲間にも愛情のお裾分けができることが全体の価値観につながるのです。
 私たち一人一人が、他の仲間たちをも思いやる気持ちを抱くことが全体の価値観を変え、社会の変革を促し、動物との関係をより良くし、ひいては愛した子の地位を確かなものにし、仲間を救うことになってパートナーたちは喜び、感謝の気持ちが霊格の向上にもなり、この世とあの世を問わずステータスを明確になり、よりよく暮らせる社会が実現するのです。
 私たちはペットロスを経験することで、同じく悲しむ人の気持ちを察するようになれ、パートナーたちから教えてもらった優しさを心に抱くことで、人としてもより優しくなり、地球に生きる他の仲間たちにも優しくなれるのです。
 心に優しさを抱く人が増えれば増えるほど、社会の中で占める割合が増えていくほど、愛される動物たちは増え、不幸な仲間たちは減り、動物と人間との愛情関係も理解されるようになり、ペットロスを共感で支えてくれる人も増え、人と人が天使(ペット)を通じて結ばれて、動物たちとの縁が人との新たな絆になり、社会は優しさに包まれた幸せな共同体になり、人と人も、人と動物も、人と自然も、人と地球も、優しさに包まれるようになるのです。
 
 私たちは決して一人ではありません。
 私たち一人一人は決して無力ではありません。
 たとえ小さな優しさでも、その想いを心に抱く限り、小さな愛の灯火は、大いなる愛の光となってすべてを包むようになるです。
 ある一定数になると全体に対して大きな影響力を及ぼし、私たちの抱く価値観は社会を変えるようになり、歴史の流れを加速する時代の潮流となることでしょう。
 
 その一定数になるためには、あなたの優しさが必要なのです。
 
 あなたの優しさがきっかけとなって社会が変わるのです。
 
 亡くなった子を大いに愛して下さい。
 今いる子を大いに愛して下さい。
 
 人と動物の間に愛情の絆を築いて下さい。
 その愛情の絆を表現してあげて下さい。
 
 そうして百匹目の愛されたパートナーにして下さい。
 そうして百人目の愛されたパートナーになって下さい。
 
 一つの本当の愛情が社会全体の愛情に通じるのです。
 
 知っておいて欲しいのは、
『個々の意識が変われば、社会全体の意識が変わる』
ということです。
 これは仏教の神髄である
『私が変われば世界が変わる』
と同じです。
 
 生きている子にも、亡くなってしまった子にも、
 祈ることは平等にしてあげられることです。
 みんなで一緒に祈りましょう。
 この祈りが一定数になったなら。。。
更新日時:
2002/11/13
   心の天国…
 天国と呼ばれる亡くなった者たちが訪れる世界はどこにあるのでしょうね。
 まだまだ、精一杯生きることを託されているから、その世界に足を踏み入れることはパートナーたちの願いを破ることになるので、再会したいけれども行かずにちょっと世界を見てみましょう。
 
 そもそも、天国というものはどんな世界観なのでしょうね。
 よく言われることには、病気や事故で亡くなった子たち、寿命で亡くなった子なども、みんな健康な状態に回復して、辛いことや苦しいことのない安楽な世界とされています。
 様々な宗教でもあの世の水は聖水とされ病や憂いを除くとされていますしね。
 イメージとしては、『虹の橋』という詩にある世界観が天国として概ね正しいように思われます。
 仏教においては、その世界観はいろいろな世界から構成され、それぞれの世界を管理している仏様がいて、それらすべてを統括している仏様が毘盧舎那如来(大日如来)と曼荼羅では示されています。
 この曼荼羅を地図に例えると、日本、アメリカ、フランスというように様々な国があり、その国にはそれぞれ代表者がおり、これらの国は地球という世界を構成しているように地球という神が管理している。更に地球の他にも、火星や金星というようにそれぞれの星を管理する神がいて、これらの星の中心となる太陽を統括する神とし、太陽系を曼荼羅にすると太陽は大日如来となります。
 さらに視点を大きくしたり、小さくしたりしても、曼荼羅という図は世界の構成を示している不思議な宇宙図となる。
 この曼荼羅の中心にいる神は、すべての化身とし分化していくとされており、全部で一つ、一つが全部ともされ、すべてのものがかけがえのない存在であるとされています。
 
 ちょっと余談ですが、最新宇宙理論では、宇宙は無数の銀河で構成されていることや拡大していることは知られていますが、ブラックホールやホワイトホールを通じて、異なる宇宙に繋がっており、宇宙は泡々のように分化しながら拡大している理論が中心になっています。宇宙は一つではなく、多くの宇宙から構成されているのが大宇宙であるとされています。
 この最新の宇宙理論も仏教では知っており曼荼羅として世界のすべてを表していました。
 
 話を元に戻すとして、『虹の橋』という世界は天国を構成する一つの国で、各国には独自の文化や価値観があるように、天国にはそれぞれを嗜好する者同士が集まる国々で構成されている別世界と言えます。
 さて、この別世界である天国とは、いったいどこにあるのですかね。
 それは、宇宙の彼方にあるのか、4次元なのか、5次元なのか、それとも平行しているパラレルワールド(次元の異なる同一世界)なのかとね。
 もし、宇宙の彼方ということでは、あまりにも遠すぎますので、どうも説明がつかないことを考えますと、この世のある3次元に干渉することができる世界と言えば、より高次元ということになりますね。
 となると、4次元以上の世界が天国と呼ばれる世界観になります。
 ちなみに、いろいろな文献によると、4次元が天国との中間世界で、5次元が天国、6次元・7次元・・・と高次元となり、最終次元には宇宙のすべてがあるアカシック・レコードという過去や未来のありとあらゆるすべてが詳細に記されている宇宙の記憶があるとされています。
 私としては、アカシック・レコードやサムシング・グレイトについてもお話したいとこですが、今回は天国について考察しましょう。
 
 次元の特性として低次元ほど物質化して、高次元ほど精神化するので目には見えなくなってきます。
 このことからも、天国とは目に見える世界でないことを考えても同次元でないことが伺えますし、物質でないことからも低次元でないことからも、より高次元の精神世界である“想い”の世界であることが導かれます。
 すると、天国はどこか遠くの宇宙にあるのではなく、もっと身近な宇宙でもある「心」という不思議な精神世界が天国に接している窓口になるのではないでしょうか。
 この心の中にこそ、天国があるといっていいかもしれません。
 そもそも、心(精神)というものがすべての現実や物質を作りだしていることを考えれば、心で思うことができる天国とは、実際にある楽園であるとも考えられます。
 様々な宗教観が示す天国のイメージや臨床体験から導かれる天国のイメージ、無宗教者が抱く天国のイメージなどは、一様に同じような世界観を構成しているようで、多くの心が創り出している天国とは、“思い(想い)”の中にこそあるようですね。
 心で思えば思い出し、心で想えば通じ合い、目には見えなく心で見る不思議な世界が、多くの人の心の中にある現実の心の天国のようですね。
 
 同じ現実が起こっていても、それをどう捉えるかによって世界が随分と変って見えてくるように、心の捉え方でこの心の天国も変ってきます。
 仏様がいる天国もあれば、神様がいる天国もあるし、動物と共に暮らす天国もあるしで、同じ思いを抱くものたちが生を終えて逝く先がそれぞれの天国になるのです。
 争い事もないのは同じ想いを抱いているからなのでしょうか…
 それとも魂は争いをしない純粋なものだからなのでしょうか…。
 私の抱く天国と皆さんの抱く天国が、共に暮らしたパートナーたちと一緒の世界で、人間と動物を差別することなく、同じ生き物(動物)として、同じ命(魂)として捉えている平等の世界だと思えば想うほど、多くの人が同じ思いを抱いて想うほど、それは現実の世界となって、必ず再会できる『虹の橋』のような天国を確かなものにします。
 天が雨を降らした後に稀に見えるレインボーブリッジは、私たちの心が涙を流した後に知る『虹の橋』のようでもありますね。
 さらにこの橋は、喜び・楽しさ・悲しさ・辛さ・後悔・優しさ・愛情という七色(人それぞれでしょうが)の感情を、同じくパートナーを亡くした人々の心に架けて、共感し合える心の橋渡しをしてくれます。
 私たちの心と心に架かる思いやりの橋は、必ず再会できるという『虹の橋』の天国を、優しさによって安らかな休息地として保障することでしょう。
 
 亡くなったパートナーたちは、この心の天国でもある『虹の橋』で、優しさという愛情に包まれて私たちの来るのを待っているでしょうし、そこで知り合った仲間たちと仲良く暮らしていることでしょうね。
 そうして仲良くなった者たちは、自分の好きな人同士も仲良くなって欲しいと思い、お互いの持つ愛情の絆を引き寄せて、この世に生きる私たちを出会うように導いてくれるのです。
 このソウルメイトという“魂の伴侶”なる名の付くHPに辿り着くのも、やはり同じ天国にパートナーたちがいるからであって、その導きゆえに何故かここに辿り着くのでしょう。
 パートナーの死後に出会う人たちや優しさは、私たちのパートナーからの贈り物であり感謝のしるしでもあるのです。
 残された私たちがこの世で幸せに暮らせるように、優しさに命を託しており、この世を去った後に出会う優しさには命の息吹があるのです。
 いろいろな人たちに優しくされるのは、優しさに命を託した彼らの意思なのでしょうね。
 
 自分を大切にできない者が他者を大切にできなく、
 自分を愛していない者が他者を愛せないものと同じように、
 心に優しさを抱く者は他者にも優しくなり、
 心に優しさを抱く者だからこそ、
 他者からも優しくされるのです。
 
 彼らから教えてもらった優しさを心に抱き続ける限り、人としてさらに優しくなります。
 
 彼らの命の息吹が託された“優しさ”を広げてゆきたいものですね。
更新日時:
2002/11/02
   時の流れ…
 久しぶりのコラムになりますが、前回の命の砂時計に続くのかな。
 命の砂の一粒が大切な命であったのですよね。
 その砂の量はそれぞれ違っても、すべての命に同じものに時の流れというものがあります。平等に与えられた時の流れがね。
 私たちがパートナーと過ごした時間も、その一つですね。
 また、命という与えられた時間も、その一つです。
 今回は、時の流れについてのコラムとなります。
 
 
 時というものには流れというものがあり、この流れが一致していると、とても快適で心地よく、そうでないと不快を感じてストレスになることがあります。
 ゆっくりとした自然の流れは、心を落ち着かせリラックスさせてくれますが、小刻みに時を刻む社会の流れは、時間に追われてしまい自分を見失いがちなのでストレスを感じることも多いことでしょうね。
 自然の一部でもある動物としては、ゆっくりとした自然の流れが心身にとって必要となるのですが、自然から自分たちを守るために創った社会という共同体は、それとは異なり心身に負荷がかかるような時の流れをしているものです。
 その点、人間という社会の中にあっても、自分の時の流れを失わずにいるパートナーたちは、どうして自分を見失わずにいられるのでしょうね。
 それは、自分の時の流れを生きており、今という時をしっかり歩んでいるからでしょうね。
 あの何とも言えない感触の肉球でね。
 
 必要な時の流れと自分の時の流れが一致している時は、とてもリラックスできて精神的にも安定するのに、その流れに不一致が生じるとたちまち不快になりストレスを感じますよね。
 ペットロスにおいても一致しない時の流れってありますよね。
 パートナーが亡くなって悲しいのは当然のことですから、何も短期間で悲しみから抜け出す競争をしているわけではないので、ゆっくりと時間をかけて癒していくのがいいことなのです。
 しかし、「早く元気になって〜」というように、社会病とも言える“早いことはいいことだ”という考えが幅をきかしていて、悲しみが癒える時間がかかっていることを認めてあげられないのは、社会時間に馴らされてしまっている弊害と言わざるをえません。
 自然なこととして早く悲しみを乗り越えるのはいいことでしょうが、無理して早く乗り越える必要はないし、それでは本当に悲しみを乗り越えたことにはなりません。
 ただ避けて通っただけです。
 それでは、その悲しみの中にある大切なものを見失ってしまいます。
 深い悲しみの中にある優しさと強さを見つけずに時をやり過ごしてしまっては、パートナーたちが私たちに与えてくれた愛のすべてを受け取ったことになりません。
 生前の楽しい思い出や優しさという情愛は受け取っても、亡くなってからもある“気づき”や“学び”といった、これからの優しさになる愛情を受け取らなくては、私たちの心の中で彼らは居場所を失ってしまいます。
 
 多くの愛情を共にしてきたからこそ、深い悲しみと辛い気持ちがあるのであって、この感情を抱いていることも実は幸せなことなのですが、辛い時にあってはそう感じることはできませんよね。
 でも、後になって思い出しては涙することが幸せであったことをいつか経験することでしょうね。(泣かなくなったからといって愛情が薄れるわけではないですけどね)
 その時はまた、泣かなくなって楽しい日々の思い出が残る幸せと、より優しく強くなっている自分を感じていることでしょうけどね。
 そのようにどちらもの幸せを感じられるようになるには、ちゃんと悲しみという必要な時を必要な分だけ過ごさないと、甘く切ない芳醇なワインにはなりませんよね。
 
 学生の頃に勉強というものを通じて時間が大切なことを、みなさん経験していることと思います。
 必要な時の流れを共にしたものは、長く時の流れに乗ることを…
 
 私は出来が悪いタイプなので、常に一夜漬けで勉強に取り組んできましたから、試験が終ると、その瞬間に記憶してきたことを忘れてしまったものです。
 しかし、毎日ゆっくり積み重ねてきた勉強は試験が終っても忘れないものであったように、必要な時の流れをちゃんと共にしてきたものは、時というものに流されずに残るものですよね。
 それを建築に例えるなら、ピラミッドや木造建築最古の法隆寺などは、ゆっくりと時間をかけて必要な時を経て造られたからこそ、悠久の時を経ても現存しているのです。
 それが、産業革命から近代にかけて社会機構そのものが効率や時間に支配されるようになって、早い事がいい事になってしまって効率的に短時間のうちに造られた現代建築は、早くできるが長くは続かないものとなってしまっています。
 時の流れに従わずに無理して早くすることは、「効率的な短時間での建築」や「勉強の一夜漬け」のようなもので、そのときはいいかもしれないけれど、後に長く続かない、後に多くを残せないものでは、想い出というものにおいては意義が薄れてしまうのではないでしょうか。
 パートナーたちとの楽しい幸せなひと時を、辛い悲しみから短時間で乗り越えようと無理しては、豊かな思い出として長く残る大切な宝物になるのでしょうか。
 
 長く悲しみなさいとは言いません。
 長く辛い思いをしなさいとも言いません。
 
 ただ、必要な分だけ、泣きたいだけ、泣いてあげて、
 後悔すべきことは後悔して、その塊を解いて優しさに変えて、
 時の流れに沿った時間を過ごして欲しいと思います。
 
 そうして乗り越えた悲しみは、とても豊かな思い出となり、人生を彩る優しい心となって長く残るでしょう。
 すべてのものには必要な時の流れがあるのですから、悲しみを乗り越える期間が平均より長い短いではなく、すべてが自分に必要な与えられた時間なのです。
 
 「悲しみは時間が癒してくれうる」とよく言いますが、側面から言うと事実ですよね。
 同じく時間が過ぎるのであれば、ただ過ごすのではなく、自分や他人を責めて過ごすのでもなく、共に暮らせた出会いに感謝しながら過ごしたいものですね。
 
 同じ時間を過ごすなら、あなたは心に何を想って過ごしますか?
 
 死から自分を責める想いですか?
 
 出会えたことに感謝する想いですか?
 
 何を想っても同じく時間は過ぎるのですよ。
 
 
 文章にも「。」や「、」が必要なように、人生にも句読点(苦闘点)が必要なのではないですか。
 その「くとうてん」が人生を充実してくれるものかもしれませんよ。
 いつかきっと心から感謝できる時がくることでしょうから、その時のためにも、ゆっくりと必要な時を過ごしてくださいね。
 
 辛く悲しくとも・・・
 
 必ず時が見方してくれますよ。
 あなたは大好きな者に守られているのですから…
更新日時:
2002/10/13
   続、命の砂時計…
 今回のコラムは前回の『いのちの砂時計』の続きにあたりますので、前置きはなしにしてお話しましょう。
 
 
 私たちがこの世に生を受け、比較的長い時を過ごせる命の砂を得ているために、彼らと出会った時に、命のサイクルが異なることをあまりにも考えずに接しているので、命の砂が多いうちは、砂が減ってゆかないように感じていることでしょうね。
 いや、肉体の成長という影に隠れてしまい、大切なことを見失ってしまうのかもしれませんね。
 やがて肉体の老化が進み変化の兆しが現れてから、私たちは彼らの命の砂が少なくなっていることに気が付きます。
 命の砂が多いうちは生命力もそれに伴ってあるので、病気などにも抵抗して健康に過ごすことができますが、砂が少なくなるにつれて生命力も衰えてくるので、病気や老化には抵抗することができなくなってきて、“あっという間”に衰えたり、亡くなったりしてしまうものです。
 それは、砂時計の砂がなくなる時が、“あっという間”に吸い込まれるようにしてなくなるように、時間の経過は同じであるはずなのにも関わらず、そのように感じることでしょう。
 それだけ、私たちは視覚に囚われていて、大切なものを見て見ずにいるのですね。
 また、寿命を迎えるにはまだまだ早い、数年しか経っていない若い子が体調を崩してから、あっという間に亡くなってしまうのも、命の砂を使い果たしていることに変りはありません。
 ただ、常識としての肉体の成長点からは、まさか命を使い果たしているとは思いも由らないので、「またね」と相手をしなかったり、「まったく」と手を抜いたり、いろいろでしたね。
 あのとき、忙しいからと言って適当に挨拶したことが、まさか最後の別れになるなんて…
 あのとき、いつもより妙に違った感じで、別れを惜しんで甘えて来たこととは知らずに…
 
 パートナーたちは、今という時を大切にしていたから、私たちが時間に追われている時ほど、気づかせるためにも寄って来ては甘えるのでしょう。
 「ねぇ、かまってよ〜」「今じゃなきゃ、ダメなの〜」と言って、今に心を向けさせようとね。
 彼らは命の砂の量を心得て生まれてくるので、命を精一杯生きており、その生ある喜びを心から体中から表現しており、今という命の出会いを大切にしていたのです。
 少ないから大切なのではなく、多いからどうでもいいのではなく、命があることを大切にしていたのです。
 命があるから出会いがあることを、出会いがあるから幸せもあるのです。
 
 人類は55億人くらいおりますが、生涯のうちで出会う人の数は多くはありませんし、歴史が続いていることを考えると、今出会っている人とは、天文学的な確率になる奇跡的な出会いなのです。
 その中でも、好きになる人、心を通わせる人はどれだけいるかと考えると、その確率ときたら計り知れることではありません。
 それだけ出会いの確率は稀少なのです。
 だから、仏教では「一期一会」といって、今回の出会いを最初で最後の巡り合わせと思い、出会っている今を大切にしなさい!と言っているのです。(「一期一会」は知っていても、仏教語だとは一般には知られていないことですね。)
 まして、それが動物というパートナーだとしたらどうでしょう…
 それだけの運命の出会いなのですから、好きになれる相手や心通わす相手に会えただけでも十分に幸せで満たされるはずなのですが、私たち煩悩の人ときたら、相手にいろいろな条件をつけてしまい困ったものです。
 幸せについては、パートナーたちから学ぶべきことが多くあるようですね。
 
 ここでちょっとBreakして、仏教世界観を覗いて見ると、仏教には命の命分以外にも様々な名分があり、例を挙げると食分と命分の関係があります。
 それは、最初に与えられた命の砂の量みたいに食分という食べ物の量を与えられているにも関わらず、私たちは欲から自制することができずに飽食し、食べ残したりし、あるものを無駄にし、食を粗末にしてしまいがちです。
 すると、命分はまだいっぱいあるにも関わらず食分を使い果たしてしまうこととなり、それ以上の食を認めては他人の分まで奪うことになってしまい、他の者に食が行き渡らなくなってしまうから、食分を使い果たした時点で命分があっても命を終らせるようにするのです。
 (命の蝋燭を管理する者がいて、蝋燭が尽きると新しい蝋燭にしたり、火を点けたり消したりする役目を帯びており、蝋燭の火を消すとこの世の生命にあたる者は亡くなるというものです)
 現代社会で例えると、食分を飽食によって使い果たすことで、成人病・糖尿病という病になり、命分はまだあるものの食分を使い果たしてしまい、命分を残したまま命を終わりにされてしまうと仏教では考えられたりします。
 また、食分を使い果たしているのにも関わらず、他人の食を奪ってまでも命分を得た者たちは、亡くなってから餓鬼界に堕ちて、食べることに苦しみ餓えるという地獄を味わうようにもなっているのです。
 食だけではなく、すべてのものに分を与えられているので、その度を越えた行いをすると命分があっても命の炎を消されてしまうのです。
 
 宗教とは、「この世で幸せに生きるための方便」であり、何も見たこともない神や想像上の神を信仰するかのようなものではないのではないでしょうか。(信仰論については機会があれば述べるとして)
 宗教というものが殊更、命の大切さについて述べているのも、命の砂の量や生体の違いに関係なく砂の質が同じだからだろうし、愛を学ぶために生まれてきた目的に気づかせるためにも、与えられた命には限りがあり今がとても大切なことを気づかせるためにも、宗教とうものがあるのではないでしょうか。
 この大切なことを人はつい忘れがちなので、宗教というものが必要欠くべからざるものとして、すべての人間の潜在意識の中に絶対的な存在観(神)や、宗教というものが刷り込まれているのではないでしょうか。
 どんなに無宗教を自負する人でも、最愛の者や自らの死に直面して宗教というものを感じない人はいないし、「私は無宗教です」と言っていること自体が禅的には宗教というものが心にあるからこそ、そのように言わせることとなり、「無宗教」という宗教を信仰している何らかの属さない宗教観を抱いているのです。
 もし、本当に無宗教ならば、「無」もなければ、「宗教」という言葉もないのですが、既存の宗教というものが、どこか陰気で、透明性に欠け、悪質な隠れ蓑として利用されたり、カルト教団が社会的大事件を起こしたりしているから、また宗教に関わる者たちの驕りや怠惰、見返りばかり求めるために、その資質に対する不信感からの拒否反応で“無宗教”と言うのであって、この投げかけられたアンチテーゼは宗教を求めている姿勢でもあると思うのです。
 現に愛するパートナーが亡くなると、「天国で幸せにね」とか「虹の橋で再会しようね」などと、宗教を持たないはずなのに何らかの宗教観を私たちは抱くものです。
 どんなに無宗教といっても、既存の宗教に属さないだけで、心には宗教を抱いており、どこかに安らぎを求めているのでしょうね。
 これを政治に例えるならば、無党派層と呼ばれる市民は、「無党派」という政党を支持しているのであって、政治腐敗を起こしている政党政治に対するアンチテーゼであり、正しい政治を求めているからこそ、無党派を支持して世の中を変えようとしているのであり、同じ思想が根底に流れているのだと思うのです。
 
 私たち知性ある人は、動物たちに宗教がないのは知能が少ないから、脳の構造が人に比べて単純だから、本能のみで心がないから、として自らの地位を高めて言いますが、そんなことではなく、ただ単に必要がないから宗教がないのですよ。
 無条件の愛情という宗教の求めて止まない境地を心得ているから、敢えて述べるまでもないし、必要ないから存在していないのでしょ。
 命の砂時計を分かっているから、出会いが大切なものであるかを知っているから、今がどんなに大切かを感じているから、命あることを喜んでいるから、宗教が伝えたいことを概ね得ているから必要ないのですよ。
 それに、パートナーたちに他人には言えない言わないような悩みや秘密を打ち明けており、他人が知らない多くの秘密を知っていて他者に漏らさないという点からいうと、すでに偉大な宗教者でもあるのです。
 真の宗教者であるからこそ?心癒される存在なのではないでしょうか。
 そのあたりが天の使いたる何たるかですね。
 (おっとっと、休憩が長すぎたようですね)
 
 とにかく、パートナーたちが命の砂時計を選択してきた姿勢を、私たちが短い長いという狭い観点から判断しては、彼らの選択に対する尊厳を否定することになり、選択を否定することは出会いを無視することになり、会わなくてもよかったと、生を否定することにもなってしまいます。
 パートナーたちの命の時間を認めてあげられないのは、飼い主(人間)のエゴであり、パートナーを自分の所有物としているから、命ではなく物であると心の片隅で思っているから、先に逝ったことを許せないのではないだろうか…。
 彼らは彼らとして、十分に命の尊厳ある者で、従属されるべき対象ではなく、確立した命の尊厳を有する者であり、そのことを素直に認めてあげて、先に逝ったことを認めてあげようではないですか。
 
 そうまでして出会いに来てくれたことに感謝したいものです。
 
この世に生きた長さではなく、そこにある想いが見えてくると、幸せが何か見えるかもしれませんね。
 
 命の砂時計の一粒の中に幸せと感謝があり、粒の多さではない出会いの幸福があることを…
 命の砂の一粒一粒がかけがえのない今であることを…
 
 彼らから学ぶべきことは、いっぱいあるようですね。
更新日時:
2002/09/02

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