今回のコラムは前回の『いのちの砂時計』の続きにあたりますので、前置きはなしにしてお話しましょう。
私たちがこの世に生を受け、比較的長い時を過ごせる命の砂を得ているために、彼らと出会った時に、命のサイクルが異なることをあまりにも考えずに接しているので、命の砂が多いうちは、砂が減ってゆかないように感じていることでしょうね。
いや、肉体の成長という影に隠れてしまい、大切なことを見失ってしまうのかもしれませんね。
やがて肉体の老化が進み変化の兆しが現れてから、私たちは彼らの命の砂が少なくなっていることに気が付きます。
命の砂が多いうちは生命力もそれに伴ってあるので、病気などにも抵抗して健康に過ごすことができますが、砂が少なくなるにつれて生命力も衰えてくるので、病気や老化には抵抗することができなくなってきて、“あっという間”に衰えたり、亡くなったりしてしまうものです。
それは、砂時計の砂がなくなる時が、“あっという間”に吸い込まれるようにしてなくなるように、時間の経過は同じであるはずなのにも関わらず、そのように感じることでしょう。
それだけ、私たちは視覚に囚われていて、大切なものを見て見ずにいるのですね。
また、寿命を迎えるにはまだまだ早い、数年しか経っていない若い子が体調を崩してから、あっという間に亡くなってしまうのも、命の砂を使い果たしていることに変りはありません。
ただ、常識としての肉体の成長点からは、まさか命を使い果たしているとは思いも由らないので、「またね」と相手をしなかったり、「まったく」と手を抜いたり、いろいろでしたね。
あのとき、忙しいからと言って適当に挨拶したことが、まさか最後の別れになるなんて…
あのとき、いつもより妙に違った感じで、別れを惜しんで甘えて来たこととは知らずに…
パートナーたちは、今という時を大切にしていたから、私たちが時間に追われている時ほど、気づかせるためにも寄って来ては甘えるのでしょう。
「ねぇ、かまってよ〜」「今じゃなきゃ、ダメなの〜」と言って、今に心を向けさせようとね。
彼らは命の砂の量を心得て生まれてくるので、命を精一杯生きており、その生ある喜びを心から体中から表現しており、今という命の出会いを大切にしていたのです。
少ないから大切なのではなく、多いからどうでもいいのではなく、命があることを大切にしていたのです。
命があるから出会いがあることを、出会いがあるから幸せもあるのです。
人類は55億人くらいおりますが、生涯のうちで出会う人の数は多くはありませんし、歴史が続いていることを考えると、今出会っている人とは、天文学的な確率になる奇跡的な出会いなのです。
その中でも、好きになる人、心を通わせる人はどれだけいるかと考えると、その確率ときたら計り知れることではありません。
それだけ出会いの確率は稀少なのです。
だから、仏教では「一期一会」といって、今回の出会いを最初で最後の巡り合わせと思い、出会っている今を大切にしなさい!と言っているのです。(「一期一会」は知っていても、仏教語だとは一般には知られていないことですね。)
まして、それが動物というパートナーだとしたらどうでしょう…
それだけの運命の出会いなのですから、好きになれる相手や心通わす相手に会えただけでも十分に幸せで満たされるはずなのですが、私たち煩悩の人ときたら、相手にいろいろな条件をつけてしまい困ったものです。
幸せについては、パートナーたちから学ぶべきことが多くあるようですね。
ここでちょっとBreakして、仏教世界観を覗いて見ると、仏教には命の命分以外にも様々な名分があり、例を挙げると食分と命分の関係があります。
それは、最初に与えられた命の砂の量みたいに食分という食べ物の量を与えられているにも関わらず、私たちは欲から自制することができずに飽食し、食べ残したりし、あるものを無駄にし、食を粗末にしてしまいがちです。
すると、命分はまだいっぱいあるにも関わらず食分を使い果たしてしまうこととなり、それ以上の食を認めては他人の分まで奪うことになってしまい、他の者に食が行き渡らなくなってしまうから、食分を使い果たした時点で命分があっても命を終らせるようにするのです。
(命の蝋燭を管理する者がいて、蝋燭が尽きると新しい蝋燭にしたり、火を点けたり消したりする役目を帯びており、蝋燭の火を消すとこの世の生命にあたる者は亡くなるというものです)
現代社会で例えると、食分を飽食によって使い果たすことで、成人病・糖尿病という病になり、命分はまだあるものの食分を使い果たしてしまい、命分を残したまま命を終わりにされてしまうと仏教では考えられたりします。
また、食分を使い果たしているのにも関わらず、他人の食を奪ってまでも命分を得た者たちは、亡くなってから餓鬼界に堕ちて、食べることに苦しみ餓えるという地獄を味わうようにもなっているのです。
食だけではなく、すべてのものに分を与えられているので、その度を越えた行いをすると命分があっても命の炎を消されてしまうのです。
宗教とは、「この世で幸せに生きるための方便」であり、何も見たこともない神や想像上の神を信仰するかのようなものではないのではないでしょうか。(信仰論については機会があれば述べるとして)
宗教というものが殊更、命の大切さについて述べているのも、命の砂の量や生体の違いに関係なく砂の質が同じだからだろうし、愛を学ぶために生まれてきた目的に気づかせるためにも、与えられた命には限りがあり今がとても大切なことを気づかせるためにも、宗教とうものがあるのではないでしょうか。
この大切なことを人はつい忘れがちなので、宗教というものが必要欠くべからざるものとして、すべての人間の潜在意識の中に絶対的な存在観(神)や、宗教というものが刷り込まれているのではないでしょうか。
どんなに無宗教を自負する人でも、最愛の者や自らの死に直面して宗教というものを感じない人はいないし、「私は無宗教です」と言っていること自体が禅的には宗教というものが心にあるからこそ、そのように言わせることとなり、「無宗教」という宗教を信仰している何らかの属さない宗教観を抱いているのです。
もし、本当に無宗教ならば、「無」もなければ、「宗教」という言葉もないのですが、既存の宗教というものが、どこか陰気で、透明性に欠け、悪質な隠れ蓑として利用されたり、カルト教団が社会的大事件を起こしたりしているから、また宗教に関わる者たちの驕りや怠惰、見返りばかり求めるために、その資質に対する不信感からの拒否反応で“無宗教”と言うのであって、この投げかけられたアンチテーゼは宗教を求めている姿勢でもあると思うのです。
現に愛するパートナーが亡くなると、「天国で幸せにね」とか「虹の橋で再会しようね」などと、宗教を持たないはずなのに何らかの宗教観を私たちは抱くものです。
どんなに無宗教といっても、既存の宗教に属さないだけで、心には宗教を抱いており、どこかに安らぎを求めているのでしょうね。
これを政治に例えるならば、無党派層と呼ばれる市民は、「無党派」という政党を支持しているのであって、政治腐敗を起こしている政党政治に対するアンチテーゼであり、正しい政治を求めているからこそ、無党派を支持して世の中を変えようとしているのであり、同じ思想が根底に流れているのだと思うのです。
私たち知性ある人は、動物たちに宗教がないのは知能が少ないから、脳の構造が人に比べて単純だから、本能のみで心がないから、として自らの地位を高めて言いますが、そんなことではなく、ただ単に必要がないから宗教がないのですよ。
無条件の愛情という宗教の求めて止まない境地を心得ているから、敢えて述べるまでもないし、必要ないから存在していないのでしょ。
命の砂時計を分かっているから、出会いが大切なものであるかを知っているから、今がどんなに大切かを感じているから、命あることを喜んでいるから、宗教が伝えたいことを概ね得ているから必要ないのですよ。
それに、パートナーたちに他人には言えない言わないような悩みや秘密を打ち明けており、他人が知らない多くの秘密を知っていて他者に漏らさないという点からいうと、すでに偉大な宗教者でもあるのです。
真の宗教者であるからこそ?心癒される存在なのではないでしょうか。
そのあたりが天の使いたる何たるかですね。
(おっとっと、休憩が長すぎたようですね)
とにかく、パートナーたちが命の砂時計を選択してきた姿勢を、私たちが短い長いという狭い観点から判断しては、彼らの選択に対する尊厳を否定することになり、選択を否定することは出会いを無視することになり、会わなくてもよかったと、生を否定することにもなってしまいます。
パートナーたちの命の時間を認めてあげられないのは、飼い主(人間)のエゴであり、パートナーを自分の所有物としているから、命ではなく物であると心の片隅で思っているから、先に逝ったことを許せないのではないだろうか…。
彼らは彼らとして、十分に命の尊厳ある者で、従属されるべき対象ではなく、確立した命の尊厳を有する者であり、そのことを素直に認めてあげて、先に逝ったことを認めてあげようではないですか。
そうまでして出会いに来てくれたことに感謝したいものです。
この世に生きた長さではなく、そこにある想いが見えてくると、幸せが何か見えるかもしれませんね。
命の砂時計の一粒の中に幸せと感謝があり、粒の多さではない出会いの幸福があることを…
命の砂の一粒一粒がかけがえのない今であることを…
彼らから学ぶべきことは、いっぱいあるようですね。
|