Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   いのちの砂時計…
 すべての生き物には寿命というものがあり、避けては通れないもので、それぞれに与えられた時間は異なっております。
 一説には、どの生命も心臓の生涯心拍数は一緒で、その心拍の回数によって寿命の長さが変るということを聞いたことがあります。 例えは、ネズミの平均寿命と1分間の心拍数を掛け合わせた生涯心拍数は、私たちの平均寿命と心拍数を掛け合わせた生涯心拍数と一緒になるというのです。すべての生命の心臓生涯心拍数は一緒で、その心拍数によって寿命(時間)が調整されるというものです。
 まあ、それはさておき、私たちの愛するパートナーたちが亡くなった時に、“もっと長く生きて欲しかった…”、“もう一日でも一時間でも、一分でもいいから長く生きて欲しかった”と思うものですよね。
 例え平均寿命をさらに上回って生きても、数年で亡くなっても、数ヶ月で亡くなっても、みんな同じように“何でこんなに早く…”と悲しみに浸るものです。
 それを、煩悩の人である私たちは、彼らの生きた年数で命を判断しがちで、長寿で亡くなった子と過ごせた人には、「長生きして幸せでしたね。」、「うちの子は何歳だったから、それに比べたら〜」などと言い、短命で亡くなった子と過ごした人には「まだ若いのにかわいそうに…」、「もっと生きたかったでしょうね。」と言い、私たちの基準とする時間で幸せを評価しがちなものです。
 さて、本当に命の長さに応じて幸福の度合いは変化するのでしょうか?
 今回のコラムは、命の観点から寿命について観てみましょう。
 
 
 私たちもパートナーたちにも、すべての生ある者たちには命の砂というものがあり、時間は常に平等に流れていますので、その与えられた砂の量によって個々の生命の寿命という時間が異なってきます。
 ちょうど砂時計のようなものと考えると分かり易く、この世に生まれたときに砂時計はひっくり返され、上から下に落ちる砂のように生まれた瞬間から命を減らしてゆくのです。
 そして命の砂が尽きた時、この世での生は終わりとなり死を迎え、砂時計はひっくり返されてあの世での生が始まり、その砂が尽きる時、またこの世に生まれてくるのです。
 この砂時計には実相はありませんので、私たちが目にしている砂時計と異なり、両端の器が一緒とは限りませんし、砂の量すら一緒とは限らないのです。
 だから、多い砂の器がずっと長く生きるとは限らないということです。
 この世からあの世、あの世からこの世というように砂時計を置き換える時、予め砂の量の決まった生体を選択することになるのですが、量の多いものもあれば少ないものもあるし、器である生体もまたそれぞれなのです。
 そして、どの命を選ぶかとなると、必ずしも多い砂を選ぶとは限らないし、必ずしも人間とも限らないのです。
 
 私たちが旅行に行くときを考えてみましょう。
 その際に考えるのは、費用や日程・期間、誰と何をしに行くのか、個人的なのか団体的なのか、何を期待しているのか、などいろいろでしょう。
 店頭に行くと様々な旅行のプランがあり、目的や費用・行き先などに応じて様々なプランがあります。また、このようなパックではなく、自ら目的を選択したり、仲間と目的を選択したりして、旅の支度をすることもあるでしょうね。
 命も同じようにして学びの場であるこの世に、何の目的で、何を得るために、何を成すために、どれくらいの期間、誰と、誰かに出会うために、などとプランを設定してくるのです。
 ここに抜けているのが費用というものですが、それはお金ではなく、四苦八苦という辛苦の度合いといってもいいでしょうし、喜怒哀楽といった享受が費用とも言えますね。
 この学び場であるこの世というものがあり、この世に留学するのか研修するのか、旅行なのかはともかくとして、その学びが必要とする期間が短くても済む用件なのか、それとも長く滞在しないと達せられない目的があるのか、と学びの場での得たいことによって様々なコースになるのです。
 また、私たちが旅行に行く際に、仲間と並んだ席が取れなかったとしましょう。
 その際に席が並んでいなければ日程を変更してでも意味を成さないのなら、同じ人間として生まれて来られる時を待つことになるでしょうし、たとえ席が異なっていても目的や目的地が一緒なら、敢えて人間と動物という選択をすることもあるでしょうね。
 さらに、それぞれの事情によって、最初から最後まで一緒に旅行できないこともあったとしましょう。
 誰かが先に出発していて後から合流する約束をしていたとしたら、親子として、年の離れた恋人として、飼い主とペットとして、などなど、出会う約束をした絆ある者同士なら、出会いや別れは様々になってくるでしょうね。
 再会の約束をして、お互いに学びあう約束をしたソウルメイトなら、生態や主従、時代や寿命に関係なく、出会えるためなら条件を無視してでも、再会のためにする行動は自ずと決まってきますよね。
 だから、彼らは無条件なのですよ。
 私たちに再会することが目的であり、それに満たされる想いがあるから、私たちと共に暮らせることを幸せとし、彼らは生きていること自体を喜びとしているから無条件の愛情という好意に至れるのでしょうね。
 
 そんな彼らの想いを知らずに私たち煩悩の世界の囚われ人は、パートナーたちの命を人間の命の尺度で換算して計算しがちで、私たちの尺度が絶対ではないのに、これを基準にして考えるものだから、長く生きれば幸せで、短いと不幸という、安易な価値判断をしてしまうのです。
 そして、それに囚われてしまい、平均寿命を超えなかったことを、自分の所為にして後悔して、彼らの想いとは別に無意味に自分を責め立ててしまうのです。
 そもそも、パートナーたちは自ら生態と期間を選んでまで再会の約束を果たすために生まれてきたのに、それすら絶対の確証はなくても生まれてきたにも関わらず出会えたことに満足しているのに、自ら選んだ砂の量の多少で、この世での幸せを判断されては困ってしまうでしょうね。
 それよりも、この砂の量で大好きな人が辛く苦しい思いをすることになったとしたら、それこそどうしていいのか困ってしまいますよ。
 (そんな時には、ソウルメイトということに気づいて欲しく、その名のあるこのHPを訪れてみる事を導くでしょうし、パートナーたちとの絆を大切にする私と話をする縁を導くこともあるのでしょうね。)
 そして、パートナーとの別れのあと、私たちは再会したいと心で祈り、次の世での再会を約束した方は大勢いると思います。
 今度は、順序を変えて、立場を変えて、再び巡り会うべく者に、出会うために、この人生を精一杯生きなければなりません。
 そうして生ある命を一生懸命生きた時、命の尊厳は最後の願いに何を叶えてくれるでしょうね。
 また巡り逢えるという奇跡が起こるでしょうね。
 
 ちょっと長くなりそうなので、コラム:『命の砂時計』は、次回のコラム『続,命の砂時計』として続けましょう。
 
 この言葉を残して…
 
 出会うべき者は出会うべくして出会う。
  一瞬たりとも早からず、
  一瞬たりとも遅からず。 
 
 命の砂時計は一粒の差もなく、絆ある者を導くものです…
 
 貴方に必要な出会いを導くものです…
 
 そんな出会いを体験したはずです…
 
 そんな奇跡を思い出して下さい…
 
更新日時:
2002/09/01
   シンクロニシティー…
 シンクロニシティーとは共時性のことで、ある事柄が同時に起こることとか、不思議な偶然のような出来事などと考えられており、「意味ある偶然の一致」ということです。
 このシンクロニシティーとは心理学者ユングの造語なのですが、仏教には古くからその考え方が思想されておりました。仏教では、「因縁」とか「縁」という言葉として、その思想の中に古くからあります。
 不思議な縁によって2つの出来事がシンクロするというのは、それを感じる人の主観性におけるものかもしれないのですが、そのようなシンクロによって部分的であれ、何であれ、それにより宿命的なものや運命的なものを感じたとすれば、それは不思議な偶然の一致ということだけでは済まされないものとなるでしょう。
 日常生活の中でよく使われるシンクロニシティーとしては、「ピンとくる」「縁起がいい」「虫の知らせ」「ふとした拍子に」「夢」「グットタイミング」などがあり、敢えて言わなくても自然と使っている言葉で、普通のこととして身の回りに起きている現象なのです。
 そして、今もコラムを見るというシンクロをしているのです。
 
 このシンクロニシティーを定義づけると「同じ基底上(プラットフォーム)の複数の事柄が、何らかの点で一致する同一感を持つこと」または「同じ基底上で、ある事柄が変化してゆくことやそれにおける結果」とされます。
 このシンクロについて分かり易く例を示すと、音の共鳴現象というものがあります。
これは、二つの音叉を並べて、その一方を鳴らした場合、周波数が同じであれば片方の音叉も触ってもいないのに自然と音が鳴り出します。それが周波数の異なる音叉だと、側にあっても影響を受けないのに、似たような周波数には影響されるのです。
 これは、出会いについても同じことが言えます。
 目には見えないけれども、同じような波長を持った者同士は「類は友を呼ぶ」というように引き合いますし、この世のすべてのものが何らかの波長を持っていて共鳴し、お互いを引き合わせているのです。
 この世のすべてということは、生命にも、物質にも、感情においてもそれぞれ固有の波長があり、同じ波動はお互いにシンクロして共鳴しあうのです。
 例えば、ブランド品のバックにも波長があり、それを制作したデザイナーの想い、ブランドを創業した人の想い、バッグ自体の波長などがシンクロナイズして、そのような波長と合う人はそれを欲しがりますし、興味のない人にとってはただのバッグとして影響を受けないので特に欲しいとも思いません。
 また、音楽や映画、絵画などにおいても、感動する人しない人、興味のある人ない人、と受け取り方は人それぞれです。
 それは感情においても同様で、悲しみや喜び、怒りなど、他人の出来事なのに共鳴し、パートナーを喪う悲しみを自分のことのようにシンクロする人と、「たかがペットのことで…」と全く理解を示さない人がいるように、すべてのものは何らかの波動をもっているのです。この波動と合わない者からはそれを全く理解してもらえないことは、もう十分に経験していることですよね。
 
 私たちが心惹かれたパートナーたち、不思議な出会い、巡り合わせなど、周りにあるすべては共鳴作用により出会っている縁が取り持つことで、多かれ少なかれあるその縁に気づき、それを特別なものと感じたら、それは特別な偶然として“運命”というような言葉で理解するでしょうし、そうでなければ“たまたま”という日常の偶然として気にせず処理することになるでしょう。
 すべては想うことから始まり、想いである想念がシンクロを引き寄せるのであり、想っていることや興味のあることに心はシンクロするのです。
 だから、亡くなったパートナーたちのことを想っていたり、一緒の人生を歩んでいると感じるようになったり、いつか出会えることを信じたりしている者には、何だか不思議な出来事が起こるものです。
 今回のコラムにシンクロを書いているのも、パートナーとの関係においても不思議なシンクロが数多くあるのに、みなさんはあまりにも不思議な出来事なので、それがパートナーたちからのメッセージであることに気づかず終いになっているのではないかと思っているからです。
 その人にとっては個人的な体験であっても、数多くの話しを聞いている私にとって、同じような不思議な体験をしている私にとって、それがたんなる個人的な体験なのではなく、単なる思い込みではない、愛情の絆ゆえにある不思議な“聖なる体験”であることを…
 
 この想いがシンクロすることで起こる不思議なことだから、私たちは個人的な思い込みや飼い主のエゴとして感じてしまい、それがパートナーたちからのメッセージであることを見失いがちになってしまいます。
 「なぜかその時に限って〜」、「ふと気が付くと〜」、「いつもはしないのに〜」、「不思議なもので〜」、「やけに傍にくる」、「新たな出会い」といったシンクロから、私がもらった不思議な言葉“ありがとう”など、私の聞いている個人的な体験などを書いているときりがないくらい、それぞれのメッセージが不思議な体験としてあるはずです。
 亡くなってショックの大きい時期には、なかなか感じることができないこともありますが、彼らは命の尊厳を使い最後の願いを叶えることができるのです。
 真剣に生ある命を生きてきたから、そして愛情を共にしてきたものに伝えられない言葉を伝えるために、偶然にしては過ぎている不思議な現象でそれを伝えることを、最後に命の尊厳として許されるのです!
 ちょっと不思議なことをしても…
 
 不思議なことに目に見えない糸で結ばれ「縁」によって起こる出来事で、この「縁」は愛情のある関係が絆となっているから起こるのです。
 この絆という字は本来「絲半」と書くのですが、近くには寄り添っているものの離れている糸と糸が一つになって「絆」となったのです。
 パートナーとの関係で言うと、糸は自分とパートナーを表し、半というのはまさにお互いがかけがえのない存在であり、自分自身の分身でもあることからくる半分という意味で、「糸の半分」と「糸の半分」が出会って愛情を培うことで想いが重なり合うようにして「絆」となり、“離れていても傍にいる”いつも一緒ということを示しているのです。
 ソウルな世界で出会うことを約束し合った者たちが、この世で再会したときに交わす証でもあるのです。
 そうして、「出会うべくして出会った」、「出会いたくて生まれてきた」者同士であるからこそ、別れは悲しく切ないものなんですよね。
 それだけの絆があるから、それだけの愛情があるから、不思議なことで想いを伝えることもできるし、想いに気づくことができるのです。
 
 このシンクロニシティーという運命の波動を信じれば、自分の強く想っていることが運命を動かして引き寄せ、想いは通じる、願いは叶う、という想いを現実のものとさせてくれます。(私たちは脳の一部しか使っていなく、眠っている素晴らしい力があるのです。)
 何気ない出会いも、取るに足りない出来事もすべてはシンクロしており、今は微妙なものでも、その後において何らかの重要な意味を帯びてくることになるかもしれません。
それは過去から未来においてシンクロすることになります。
 また、将来において起こる出来事に必要な要素となるようなことや、いま経験することで将来の備えになることなどは、未来から過去においてシンクロすることになるのです。
 共鳴現象は現在だけではなく、過去や未来からも時間を超えて私たちに現れる宇宙の波動となりますし、この世だけではなく、あの世からも空間を越えて現れる大宇宙の波動となることもあります。
 私の場合は、亡くなったパートナーたちの時空を超えた愛情が私を突き動かして、「これからのみんなの為にも最後を看取るという僧侶になって、私たちと同じような想いでみんなにお経を挙げてね。」と将来の仲間たちの為にも、個人的にお経が読めるようになるのではなく、全般的にちゃんと供養ができる僧侶という道にまで導いてくれたのです。
 私が優しいものたちのお役に立ちたい、そんな優しいものに出会いたいという想いと、みなさんのパートナーたちを愛したその優しさという想いが同じ波動となって引き合うのと、わたしたちのパートナーたちがこの世での出会いを縁によっても導いているのですね。
 共に愛情の絆という同じ想いがあるから、パートナーともシンクロできるし、私たちもシンクロして出会うことになるのでしょうね。
 
 このシンクロから遠くても県外から多くの方がいらっしゃいますし、こちらから行くこともあります。最遠の方はニューヨークから飛行機で18時間かけて長岡までいらっしゃったほど出会いとは尊いもので、それを導いてくれる彼らの想い、彼らへの想いは純粋でとっても素晴らしいものです。もちろん、こうしてHPで出会えるのもその一つです。
(「出会い」とは不思議なもので、ソウルメイトが近くにあっても縁のないものとは出会わないし、遠くにいても縁のあるものとは、何らかの形で出会いがあるのです。一期一会というように、このような想いがシンクロすることから出会う、かけがえなのない出会いなので、これらの縁を導いてくれたものたちのためにも、その想いを抱く素晴らしい人との出会いにも、心から出会えた今を大切にして感謝しながら一緒の時を過ごしたいものです。)
 この『想い』は、その人に受け取るだけの純粋さ・素直さがあるからこそ、その想いを受け取ることができるのですし、その素直さがあるからこそ、その想いを伝えることができるのです。
 だからこそ、そういう人に逢いたくて出会いたくて彼ら私たちも生まれてきたのですけどね。
 
 優しさを学ぶために…
 優しさを教えるために…
 
 『想い』というものは、距離も時間も空間も越えるほどの純粋な力を持っていますので、心を素直にして目に見えない大切なものを感じて下さい。
 
 その目には見えない世界からのメッセージを
 あなたは感じることができますか?
 
 それとも取るに足りない偶然、思い込みとして
 気が付かずに見過ごしますか?
更新日時:
2002/09/01
   絶望のラビリンス…
 絶望というものから逃れたいと思っていても、生まれてきたものたちには決して逃れられない絶望があります。それは「死」です。
 この死や死別を多くの哲学者や宗教者たちは絶望の原因と考え悩み探求してきました。
 このように考えた人たちは、「死」という絶望を本来の自己との対面として捉え、本当の自分を探求するきっかけになると考えていたのです。
 今回のコラムは、この絶望という旅の行き先になにがあるのかについてお話ししましょう。
 
 これらの絶望について、哲学的、心理学的、宗教的、文学的、音楽的に思想してきた人は大勢いますし、私の好きな人たちも大勢おりますが、僧侶である私にとっては、お釈迦さんが一番身近な存在であり、生・老・病・死を四苦と、愛別離苦(愛するものとの別れる苦しみ)・怨憎会苦(嫌いなものと会わなければならい苦しみ)・求不得苦(求めても得られない苦しみ)・五陰盛苦(心身の欲からなる苦しみ)を併せた四苦八苦を苦しみの原因として悟りを開いたのです。
 私は飼っていた猫を虐待されて、亡くなるまでの3日間はまさに「病」といえるでしょうし、最後のお別れはまさに「死」であり、この世の苦しみである四苦八苦を通じて想うこと感じることが多くありました。
 この「死」をきっかけとして、人間とはなんなのか、自分とはなんなのか、何のために生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、この世とはなにか、あの世とはなにか、宇宙の果てにはなにがあるのか、などいろいろと考えるようになりました。(10歳の頃から考えているなんて普通じゃないですね)
 まさに、「死」が究極原因となって絶望という苦しみの迷路に迷い込んでしまったのです。
 迷路だけになかなか出口に着かず、遠回りしたり、道草したりで、自分がどこにいるのか、何なのか分からなくなり、迷路に迷ってしまい絶望という名のラビリンス(迷宮)に陥ってしまったのです。
 
 この迷宮に入った頃は、人は救いを求めてさらに奥に入り込んでゆきます。
 (ちょうど、パートナーが亡くなったばかりで、この気持ちをどうすればいいのかと思うように。)
 そして、出会う人に迷宮からの出口を尋ねる度に、いろいろな方向を示されてさらに迷ってしまうのです。
 (ちょうど、周りの人にペットが亡くなった話をして、いろいろな反応があるかのように。)
 そうして迷宮を進むにつれて、出口を探そうとしては様々な行き止まりとなり気が重くなってゆくのです。
 (ちょうど、息苦しさや胸の痛み、食欲の低下や睡眠障害、不安や疲労感、後悔や恨み、悲しみや苦悩など、様々な心身の状態に生き止まり、この不安から脱することができるのかと気が滅入るように。)
 この迷宮においては、様々な行き止まりを堂々巡りして、繰り返し同じ道を通ったり、似たような道に迷ったり、どちらに行けばいいのか分からない状態となり出口の見えない迷路に閉じ込められてしまうのです。
 (ちょうど、心身の症状がいろいろと起こったり、繰り返し同じことに思い悩んだり、同じような経験をしている人を知って、これからどうすればいいのか分からなくなるように。)
 この絶望のラビリンスと名づけられた迷宮に迷い疲れてくると、やがて「死」ということが頭に浮かんできて、この迷宮から脱出できないと思い歩みを止めてしまうこともあります。
 (ちょうど、さまざまな想いや他人の言動、心身の状況などから疲れ、死にたいと思ったり、寂しさから一緒に行きたいと思ったりするかのように。)
 こうして絶望のラビリンスから一人では抜け出せない、自分の力ではどうにもならないと思うと、理解と共感を求めて心は叫び助けを求めはじめます。困った時の神頼みのように祈るのです。
 (ちょうど、同じ悲しみを知っている者たちを求めるように。ちょうど、信仰のあるなしに関わらず、何者に祈っているのかわからないけど、何故か祈っているかのように。)
 すると祈りが叶ったのか、同じくして出口に向おうとしている同じ経験を持つ者に出会い、支えながら励ましながら共に歩み始めるのです。
 (ちょうど、ペットロス掲示板で同じ思いをしている人を知り、一人ではないのだ、自分だけではないのだ、と知るかのように。)
 そうして少しずつでも時間をかけて歩み続けると、何か出口のような明るい光を目にして、だんだんと出口に近づいていくのです。
 (ちょうど、時間が悲しみを癒してくれるかのように。)
 やっと出口に辿り着き、絶望のラビリンスを振り返って見ると、そこには鏡のように自分の姿しかなく、絶望を感じていたはずの迷宮はどこかに姿を消してしまっているのです。
 (ちょうど、絶望と感じていたパートナーの死が姿を消して、そこに残っているのは生前の喜びや優しさという愛情で、その愛情に感謝している自分がいるかのように。絶望のラビリンスを経ているうちにパートナーは自分と一緒に歩み一体となっていることを表すかのように。)
 そして気が付くのです。絶望と思っていた迷宮は様々な囚われに囲まれていた仮面の自分で、そこに見える自分の姿は本当の自分という裸の内面を旅してきた成長した姿なのだということを
 (ちょうど、たかがペットのことで…、また飼えばいいじゃない…、と言われて自分は異常なのではないかと悩み、ペットのことで悲しむ弱々しい人と思われるのではないか…、ペットとしか関係を築けない人間として欠落のある人と思われるのではないか…、と思い込まされて悲しみを抑え込み、パートナーとの愛情のある生活を知らない人たちから自分を守り、生前の愛情関係を公に堂々と認めない仮面をしていたことを知るかのように。
 共に迷宮を歩んできた人たちとの交流で、自分の感情は正しいことなのだと知り、余計な自責の念に苛まれていたことに気が付き、素直にあるがままの自分を見るかのように。 悲しみは消えないものの、自己を見つめて気づいたことや学んだことにより、より思いやりのあるより優しい人になっている成長した自分を見るかのように。)
 
 この絶望迷宮を迷っている段階で、理解と共感にあふれた優しさに出会うと迷宮からの脱出のルートが見えてくるのですが、「たかがペットで…」などの理解と思いやりを持たない不信感に出会うと、助けを求めても救いの手は偽者で、救い主などいないと思い希望の灯火は消えてしまい、この迷宮で動けなくなってしまいます。
 迷宮から脱出する道を見つけた者は、その出口までの時間によって心を癒されて回復していくのですが、立ち止まり自分の世界にこもってしまうとエネルギーが停滞して鬱病のような心身喪失症状となって表に現れてきます。
 こうなると、その後に出会う友人の助言や心を慰める言葉も、無意味であることと思い救いの手を掴もうとしなくなってしまいます。
 この迷宮から抜け出すには、自分を支えてくれている人たちの理解や共感であり、迷宮を脱出したことのある経験者のアドバイスなどであり、歩みを止めずに行き止まりに詰まりながらも着実に歩みを止めないことが必要となってきます。
 この苦しみがいつまで続くのかと思うかもしれませんが、心配することはありません。
 その苦しみはあなたが乗り越えられる苦しみで、自分に与えられた苦しみは必ず乗り越えられる分しか与えられません。
 先のことを心配しないで、どうぞ悲しみや苦しみを表現してください。
 立ち止まらずに一歩を踏み出してください。
 素敵な出口が待っていますよ。
 
 そもそも、この迷宮は幼い時から培ってきた心そのもので、本当の自分が傷つかないように様々な障壁が迷宮のようになっていたのです。
 この迷宮の中心で出口に向う通り道に本当の自分がおり、その自分に対面することはとても勇気のいることですから、それだけの勇気と忍耐を持ち合わせた者でないと、この迷宮から出るのは難しいことです。
 しかし、それだけの勇気と忍耐を持ち合わせた完璧な人間はいないもので、迷宮を抜ける時に支えてくれた者がいることに気が付き、心ある者に支えられ支えながら生きていることに目覚めるのです。
 そうして、周りの者に感謝することを感じることでしょうね。
 どんな困難に遭遇しても、人にはそれぞれ問題を解決する能力が備わっており、手助けしてくれる者が必ずいて、傷ついた自分を回復する自然治癒力が備わっているものです。
 悲しみを乗り越えた人はそのような時に、その人の側にいて支えてあげられる優しい人になっております。
 その人本来の自然治癒力を損なわないように、そっと側にいて解決できるように支え続けてあげて下さい。
 
 私たちのパートナーが、いつも、そっと、側にいてくれたように…
 
 このペット霊園ソウルメイトのHPが、この僧侶としての私の存在が、
 この迷路で迷っている人たちにとって出口への囁きとなることを祈っております。
更新日時:
2002/09/01
   虐待と報い…
 最近インターネット上で動物の虐待をネット中継するような悪質かつ残忍な行為や、それに刺激された異常者たちが多くの動物たちを虐待しております。
 そのニュースを事実として報道して欲しいのと同時に、報道されるから犯人は喜び、その報道を見て模倣犯が続出するので何とも不憫な社会です。
 この悪循環のパラドックスをなくしたいと思うのですが、どうしたらいいものやら…。
 
 このような事件を知る度に、私の心はひどく傷つきます。
 この傷の痛みをどのようにしたらいいのかわかりません。
 私のパートナーは同類である人間に虐待されて殺されたから、このニュースの度に私の心は過去に舞い戻り辛く切なくなります。
 もっと自分に力があれば…と感じたあの時の無力感に苛まれます。
 殺されてゆく子たちの苦しみや痛み、裏切られた思いなどを思うと自分の心は修羅のごとくなって力の矛先に戸惑いを感じざるをえません。
 僧侶としては、まったく悟っていないのですね。
 どんな時も平常心でいられる安楽の境地を説く立場なのですが…。(でも、そのような心の波があってもいいと思っているので、結局は平常心ということになるのです?)
 先ほど私は“修羅のごとく”と言う表現を使ったように、さっき私は転生しなくても生きながらにして、6界の3番目にある修羅界に奈落したのです。
 人はなにも死んでから報いを受けて、地獄や天国に行くものではありません。
 生きたまま転生しなくても地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界をさまよっているのです。
 私もそうなのですが、虐待するような人間は地獄に落ちろ!いや、私が地獄への引導を渡してやろう!と思ってしまうこともあります。
 そうなると私は生きながらにして、争いの世界である修羅界に落ちてしまうのです。
 その時々の感情によって私たちの心は左右されて、生きながらにして様々な世界の住人となってしまうのです。
 
 善悪の報いとは転生してから受けるだけでなく、すぐにその報いを受けることもあるでしょうし、少し後になって報いが訪れることもありますし、この人生でなくて次の生命でその報いを受けることもあるとされています。
 この報いの時について仏教では、順現報受(すぐに受ける)、順次生受(あとで受ける)、順後次受(次の世で受ける)と経に記してあります。
 通常はいずれかの然るべき時に報いを受けるのでしょうが、虐殺するような行為はすべての時において報いを受けるのでしょうね。
 今の報いとしては、人間として愛や優しさを学ぶべく生まれてきたはずなのに、残虐な行為をしてしまっている・残虐な行為しかできない自分がいるという、あるがままの姿がすでにその報いとなります。
 後の報いをしては、そういったことでしか自分を表現できないので不幸であるし、警察に捕まり罪を償うことになったりすることが考えられます。
 その次の生での報いとしては、まさに地獄に落ちて苦しむことになるでしょうし、転生しても報われることはないでしょうね。
 そうして、すべての段階で罪を償わなければならないのですから、こういった罪悪はとても多くの代償を払うことも知らずに罪を犯してしまう無知という報いをすでに受けていることになる訳ですね。
 表現を変えると政治が分かり易いかもしれないですね。
 政治家の本性は国を良くしようと志を高く持っているはずなのに、その本性と一致することができず、賄賂や収賄、利権や口利きで自らを汚すのが今の報いで、それが後日発覚して逮捕されたり追放されたりするのが後の報いで、地獄に落ちて次の生で報われないのが次の報いとなるのです。
 腐敗しているのは政治だけでなく、宗教や医療、教育、警察など様々な分野でも同様のことが伺えます。
 このようにして社会や人類全体に悪影響を及ぼしているのも、今を生きている人類の総和としての報いであり、環境破壊が将来に及ぼすもの後の報いであり、人類の絶滅という将来の報いを受けることにもなるのです。また、それぞれの段階の報いも今を生きている人類の報いではなく、その一つ前の世代の報いでもあるかもしれないのですね(責任転嫁してはいけませんね)。
 
 ちょっとBreakして、心の持ちようで天国へも地獄へも落ちるという禅の話があります。
 戦国の世が終わり自らの行いから地獄に堕ちるのか、それとも経を唱えれば天国に行けるのかと迷った浪人が寺を訪ね、そのことを老僧に問いただしたのです。
 しかし、老僧は何も答えずにただ座っているだけで、いくら質問しても答えようとしませんでした。
 それに業を煮やした浪人が答えねば切るぞと威すのですが、いっこうに答えようとしませんでした。
 ついに浪人は刀を抜いて切ろうと構えた時に、「それが地獄じゃ」と老子は言い放ち、はっと自己と心に気が付かされ刀を納めた時、「それが天国じゃ」と言いました。
 そうして一瞬にして天国と地獄を悟ったのです。
 老僧はいくら言っても分からないだろうし、分かったところで表面だけのことだから、体で教えて気が付かせて分からせるように仕向けたのです。
 私も同じように優しさに迷っていた時、愛情や優しさについて教えてもらっても表面だけのことになるので、パートナーたちは心と体で分かるように最後の時に死をもって示してくれたのです。
 (話をもとに戻しましょう)
 
 動物虐待をする者は動物たちと同じ苦しみを痛感すべきだし、それでも足りないくらいとも思っているのですが、その反対に、そのような哀れな者だからこそ、罪を許し救済しなければならないとも思っているのです。
 この相反するような力の統一こそが仏の大慈悲なのですかね。
 左手に掲げた厳しさ(慈)と右手に掲げた優しさ(悲)、この心が一つに合わさると合掌手となり、慈悲という愛を表す形になります。
 無条件の愛情というのもパートナーたちから教わったことですから…、そのような者たちにも愛情を持って対応しないといけないですね。
 その意味では、愛や優しさを学ぶために生まれてきたはずなのに、それに出会えず気づかず学べず、とても可哀想な人生です。何とかしてあげたいものです!
 
 その点、愛や優しさを学ぶために生まれてきて、みなさんに出会えたパートナーたちは幸せ者で、愛や優しさを教えてくれたパートナーたちに出会えたみなさんも幸せ者です。
 
 動物実験、殺処分、虐待などによって命を落とした他の仲間たちの分まで、みなさんのパートナーたちにいっぱい愛情を注いであげてください。
 そうすることで、彼ら全体が愛に報われ魂の霊格を上げることになって全体の底上げとなり、不幸にして命を落とす仲間たちが少なくなるのです。
 さらに、そんな子たちにも想いを馳せてあげて下さいね。
 そのようにしてすべてに優しさを与えられるような人が多くなると、人類も魂の霊格を上げることになって全体の底上げとなり、虐待するような人も少なくなるのです。
 
 『Think Globally Act Locally』
 −地球規模で考え、足元から行動する−
という地球環境問題のスローガンをパートナーたちに当てはめると、
 
『すべての仲間たちに想いを馳せて、
 私たちのパートナーから愛情を注ぎましょう』
 
とでもなるのでしょうね。
 ですから、生きている時も、亡くなってからも、いっぱい愛情を注いであげて下さい。
 
 動物たちの運命も、人類の運命も、地球の運命も、
 すべては私たちの心の想いにかかっています。
更新日時:
2002/09/01

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