絶望というものから逃れたいと思っていても、生まれてきたものたちには決して逃れられない絶望があります。それは「死」です。
この死や死別を多くの哲学者や宗教者たちは絶望の原因と考え悩み探求してきました。
このように考えた人たちは、「死」という絶望を本来の自己との対面として捉え、本当の自分を探求するきっかけになると考えていたのです。
今回のコラムは、この絶望という旅の行き先になにがあるのかについてお話ししましょう。
これらの絶望について、哲学的、心理学的、宗教的、文学的、音楽的に思想してきた人は大勢いますし、私の好きな人たちも大勢おりますが、僧侶である私にとっては、お釈迦さんが一番身近な存在であり、生・老・病・死を四苦と、愛別離苦(愛するものとの別れる苦しみ)・怨憎会苦(嫌いなものと会わなければならい苦しみ)・求不得苦(求めても得られない苦しみ)・五陰盛苦(心身の欲からなる苦しみ)を併せた四苦八苦を苦しみの原因として悟りを開いたのです。
私は飼っていた猫を虐待されて、亡くなるまでの3日間はまさに「病」といえるでしょうし、最後のお別れはまさに「死」であり、この世の苦しみである四苦八苦を通じて想うこと感じることが多くありました。
この「死」をきっかけとして、人間とはなんなのか、自分とはなんなのか、何のために生まれてきたのか、死んだらどうなるのか、この世とはなにか、あの世とはなにか、宇宙の果てにはなにがあるのか、などいろいろと考えるようになりました。(10歳の頃から考えているなんて普通じゃないですね)
まさに、「死」が究極原因となって絶望という苦しみの迷路に迷い込んでしまったのです。
迷路だけになかなか出口に着かず、遠回りしたり、道草したりで、自分がどこにいるのか、何なのか分からなくなり、迷路に迷ってしまい絶望という名のラビリンス(迷宮)に陥ってしまったのです。
この迷宮に入った頃は、人は救いを求めてさらに奥に入り込んでゆきます。
(ちょうど、パートナーが亡くなったばかりで、この気持ちをどうすればいいのかと思うように。)
そして、出会う人に迷宮からの出口を尋ねる度に、いろいろな方向を示されてさらに迷ってしまうのです。
(ちょうど、周りの人にペットが亡くなった話をして、いろいろな反応があるかのように。)
そうして迷宮を進むにつれて、出口を探そうとしては様々な行き止まりとなり気が重くなってゆくのです。
(ちょうど、息苦しさや胸の痛み、食欲の低下や睡眠障害、不安や疲労感、後悔や恨み、悲しみや苦悩など、様々な心身の状態に生き止まり、この不安から脱することができるのかと気が滅入るように。)
この迷宮においては、様々な行き止まりを堂々巡りして、繰り返し同じ道を通ったり、似たような道に迷ったり、どちらに行けばいいのか分からない状態となり出口の見えない迷路に閉じ込められてしまうのです。
(ちょうど、心身の症状がいろいろと起こったり、繰り返し同じことに思い悩んだり、同じような経験をしている人を知って、これからどうすればいいのか分からなくなるように。)
この絶望のラビリンスと名づけられた迷宮に迷い疲れてくると、やがて「死」ということが頭に浮かんできて、この迷宮から脱出できないと思い歩みを止めてしまうこともあります。
(ちょうど、さまざまな想いや他人の言動、心身の状況などから疲れ、死にたいと思ったり、寂しさから一緒に行きたいと思ったりするかのように。)
こうして絶望のラビリンスから一人では抜け出せない、自分の力ではどうにもならないと思うと、理解と共感を求めて心は叫び助けを求めはじめます。困った時の神頼みのように祈るのです。
(ちょうど、同じ悲しみを知っている者たちを求めるように。ちょうど、信仰のあるなしに関わらず、何者に祈っているのかわからないけど、何故か祈っているかのように。)
すると祈りが叶ったのか、同じくして出口に向おうとしている同じ経験を持つ者に出会い、支えながら励ましながら共に歩み始めるのです。
(ちょうど、ペットロス掲示板で同じ思いをしている人を知り、一人ではないのだ、自分だけではないのだ、と知るかのように。)
そうして少しずつでも時間をかけて歩み続けると、何か出口のような明るい光を目にして、だんだんと出口に近づいていくのです。
(ちょうど、時間が悲しみを癒してくれるかのように。)
やっと出口に辿り着き、絶望のラビリンスを振り返って見ると、そこには鏡のように自分の姿しかなく、絶望を感じていたはずの迷宮はどこかに姿を消してしまっているのです。
(ちょうど、絶望と感じていたパートナーの死が姿を消して、そこに残っているのは生前の喜びや優しさという愛情で、その愛情に感謝している自分がいるかのように。絶望のラビリンスを経ているうちにパートナーは自分と一緒に歩み一体となっていることを表すかのように。)
そして気が付くのです。絶望と思っていた迷宮は様々な囚われに囲まれていた仮面の自分で、そこに見える自分の姿は本当の自分という裸の内面を旅してきた成長した姿なのだということを!
(ちょうど、たかがペットのことで…、また飼えばいいじゃない…、と言われて自分は異常なのではないかと悩み、ペットのことで悲しむ弱々しい人と思われるのではないか…、ペットとしか関係を築けない人間として欠落のある人と思われるのではないか…、と思い込まされて悲しみを抑え込み、パートナーとの愛情のある生活を知らない人たちから自分を守り、生前の愛情関係を公に堂々と認めない仮面をしていたことを知るかのように。
共に迷宮を歩んできた人たちとの交流で、自分の感情は正しいことなのだと知り、余計な自責の念に苛まれていたことに気が付き、素直にあるがままの自分を見るかのように。 悲しみは消えないものの、自己を見つめて気づいたことや学んだことにより、より思いやりのあるより優しい人になっている成長した自分を見るかのように。)
この絶望迷宮を迷っている段階で、理解と共感にあふれた優しさに出会うと迷宮からの脱出のルートが見えてくるのですが、「たかがペットで…」などの理解と思いやりを持たない不信感に出会うと、助けを求めても救いの手は偽者で、救い主などいないと思い希望の灯火は消えてしまい、この迷宮で動けなくなってしまいます。
迷宮から脱出する道を見つけた者は、その出口までの時間によって心を癒されて回復していくのですが、立ち止まり自分の世界にこもってしまうとエネルギーが停滞して鬱病のような心身喪失症状となって表に現れてきます。
こうなると、その後に出会う友人の助言や心を慰める言葉も、無意味であることと思い救いの手を掴もうとしなくなってしまいます。
この迷宮から抜け出すには、自分を支えてくれている人たちの理解や共感であり、迷宮を脱出したことのある経験者のアドバイスなどであり、歩みを止めずに行き止まりに詰まりながらも着実に歩みを止めないことが必要となってきます。
この苦しみがいつまで続くのかと思うかもしれませんが、心配することはありません。
その苦しみはあなたが乗り越えられる苦しみで、自分に与えられた苦しみは必ず乗り越えられる分しか与えられません。
先のことを心配しないで、どうぞ悲しみや苦しみを表現してください。
立ち止まらずに一歩を踏み出してください。
素敵な出口が待っていますよ。
そもそも、この迷宮は幼い時から培ってきた心そのもので、本当の自分が傷つかないように様々な障壁が迷宮のようになっていたのです。
この迷宮の中心で出口に向う通り道に本当の自分がおり、その自分に対面することはとても勇気のいることですから、それだけの勇気と忍耐を持ち合わせた者でないと、この迷宮から出るのは難しいことです。
しかし、それだけの勇気と忍耐を持ち合わせた完璧な人間はいないもので、迷宮を抜ける時に支えてくれた者がいることに気が付き、心ある者に支えられ支えながら生きていることに目覚めるのです。
そうして、周りの者に感謝することを感じることでしょうね。
どんな困難に遭遇しても、人にはそれぞれ問題を解決する能力が備わっており、手助けしてくれる者が必ずいて、傷ついた自分を回復する自然治癒力が備わっているものです。
悲しみを乗り越えた人はそのような時に、その人の側にいて支えてあげられる優しい人になっております。
その人本来の自然治癒力を損なわないように、そっと側にいて解決できるように支え続けてあげて下さい。
私たちのパートナーが、いつも、そっと、側にいてくれたように…
このペット霊園ソウルメイトのHPが、この僧侶としての私の存在が、
この迷路で迷っている人たちにとって出口への囁きとなることを祈っております。
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