Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   安楽死について…
 パートナーたちとの別れ方に、事故によって急に別れとなったり、長い闘病生活を経て別れを経験したり、行方不明となってしまいちゃんとお別れができなかった人もいるかと思います。病院で看取れなかった人、自宅で看取った人それでも看取れなかった人、別れのエピソードはそれぞれであったことでしょうね。
 その中の一つに安楽死を選択された方もいると思います。
 今回は愛のある安楽死と愛のない安楽死についてです。
 
 
 ペットとして飼われている限りにおいて、パートナーたちの生命における決定権は飼い主さんが握っていると言っても過言ではありません。もちろん、パートナー自身に命の尊厳は委ねられているのですが、食・住という生活を飼い主さんに一任している点において、私たちの命に対する姿勢がパートナーたちの命を左右するのです。
 そうなりますと、愛情ある飼い主さんの許で暮らしてきた子たちは、安楽死が回復の望みのない延命治療や苦痛からの開放となり、最後の最後の苦痛の選択肢となるのですが、一部の愛情の薄い責任感に欠ける飼い主さんと暮らしてきた子にとっては、安楽死が飼育の煩わしさからの開放となり、安易な手段として選択されることがあります。
 とても遣り切れないことですが、年間に90万頭くらいの愛されるべく生まれてきた子たちが人の手によって殺されているのです。
 安楽死という名目のCO2窒息死によって殺処分されているのです。
 
 安楽死を決断することは、自分の判断で命を終わりにして良いのかという、とても辛く苦しい思いの果てに辿り着いた選択となります。この苦い思いは飼い主だけでなく、それを実行する獣医師や見守るスタッフも同じような思いをするのです。
 安楽死を選択するにおいて考えることは、苦しみから少しでも早く解放されて、安らかに眠るように亡くならせてあげたい!という消極的でも積極的でもある表裏が一つになった愛情からなのです。
 だから、愛のある安楽死を認めない人もいれば、安楽死を認める人もいるのです。
 すべては、パートナーの命を委ねられている飼い主さんの問題となってくるのです。
 
 僧侶として命の観点から反対することもあるでしょう。
 それは、飼えなくなったからとか、言うこと聞かないからとか、大きくなったからとか、身体に障害をきたしたから、…etc、いろいろあるでしょうが責任を放棄するような形の安楽死には絶対反対です。
 命を粗末に扱うものは、自らの命をも粗末に扱うことになり、自殺であれ殺生であれ安楽死であれ、他者の命を絶つということは自分の命の尊厳を認めないことになるのです。
 それ故に、仏教では戒律として殺生を禁じているのです。(近年は肉食が多くなり殺生を行っているのですが、食肉として殺められたものを食べるのも供養することになることから肉食思想へと変遷してゆきました)
 
 しかし、愛しているが故に苦しまずに楽にしてあげたいという愛情からの安楽死には共感するところがあります。
 この場合、最善の手段を尽くしても治療の効果が上がらないとか、延命させることで非常な苦痛を与えてしまうケースとか、無意味な延命措置が生活資産を失うような状況にあるときなどは、その命に対するすべての責任を自分に架す覚悟で安楽死を行うことを認めざるをえません。
 命を自分のものとして引き受けるのですから…
 その選択における苦しみを受ける覚悟があるのですから…
 その苦しみや辛さ、諸々の想いを自分の身に引き受けるだけの想いがあり、それだけ愛していることから行う行為なら、パートナーたちだってその気持ちを十分に理解して分かってくれるでしょうから許してくれると思います。
 愛情ある故に行う安楽死は、その代償とも言えるような複雑なペットロスを経験することになり、心に大きな傷跡を残すことになるかもしれません。
 大きな後悔の念が自分を苦しめるかもしれません。
 パートナーたちは無条件の愛情で私たちと接しており、すべてを許してくれることでしょうし、それが愛から発した行為であるなら尚のことで、すべての判断を飼い主さんに委ねているでしょうから、どんな選択肢でも全権を委ねた大好きな人のすることだから、すべてを受け入れてくれることでしょうね。
 “そんなに苦しまないでね”と心配しているでしょうね。
 
 それとは反対に、事情があってのことでしょうけど、パートナーの一生を共にして暮らすことを放棄するかのような、責任と義務を果たさない安楽死には反対です。
 動物好きな僧侶としても、個人としても、それは許されることではありません。
 愛情ゆえの行為は引き裂かれるような自責に苦しみを伴う安楽死もあるのに、責任放棄をした者はそのような苦しみを経験しないでいると思うと不公平な感じがします。
 この愛情のない安楽死や責任放棄がもたらす報いとはどんなものでしょうか?
 仏教では原因には結果が必ず伴うもので、善い行いには善い報いが、悪い行いには悪い報いが必ずもたらされます。
 しかし、その報いがすぐに訪れるのか、人生の後の方になって訪れるのか、次の転生先において報いを受けるのかはわかりません。
 ただ分かっているのは、その報いは必ず訪れるということだけです。
 また性善説を取る仏教の視点からは、本来は善い行いができるはずなのに、悪い行いしかできないという罰をその時点において受けているのですが、その考えを受け入れるにはとても時間のかかる思想なので、感情として納得のいかないことでもあります。
 
 たとえそこに愛がないとしても、そのあと動物実験による苦痛を受けるのであれば、保護センターにおいて安楽死(炭酸ガスによる窒息死)する方がまだ幸せなのではないかと思うのです。
 しかし現実には多くの子たちが、安楽死という選択肢すら奪われて苦しみのまま放置されているのです。
 そんな文化を豊かな社会とよべるのでしょうか。
 人間として成熟した社会とよべるのでしょうか。
 
『文明や国家が成熟しているかどうかは、
 動物の取り扱いによって判断される。』
 
 動物と人間という種族を超えた愛情を交し合った人たちは、社会との認知のギャップに苦しみペットロスになることも多いですが、人間の成熟の度合いとしてはペットロスになる人の方が進歩しているのです。
 人間だけでなく、その他の動物たちにも心を配れる優しさを備えているのですから…
 その悲しみを多くの人が知り、優しさを知る人が多くなれば、悲しい運命を辿る子たちも減るのでしょうね。
 
 少しでも多くの子たちが安らかな眠りにつけるように祈ることしかできない自分とはいったい何なのでしょう…
 
 もっと多くの人に命について優しさについて知ってもらいたいと僧侶になった自分にもっと力があったら…
更新日時:
2002/07/26
   動物実験について…
 みなさんは実験動物たちのことについてどれだけ知っていますか?
 何となくマウスを使った臨床実験ということくらいは知っていると思いますが、マウスだけではなく様々な生き物たちが実験のために死んでいます。
 書かなければと思いつつ、テーマとして半年くらいそのままになってしまいました。
 とても辛いことなのですが、これは現実なので敢えて知って欲しいと思ってコラムにします。
 
 動物実験の実態については、なかなかメディアの場で明らかになってこないので、知らない人の方が大勢いるかと思います。それは、テレビで放映できるものでないことと取材拒否からで、その姿勢そのものが残酷性を表していることと思います。
 実験動物で真っ先に思い浮かぶのがマウスでしょうが、それ以外にも犬や猫、猿やウサギなど、いろいろな動物たちが様々な実験のために命を絶たれているのです。
 よく言われることに「動物実験は残酷だけれども医学の進歩のために必要である」とか「実験によって人体に影響がないか安全性を確かめるため」、などと言っては動物実験を正当化してきました。
 いくら動物たちを実験にしても、動物と人間とでは基本的構造や免疫システムが異なる部分が多いので、安全性が確認されても弊害は起こります。
 それは、薬害エイズなどでも言えることなのですが、それを扱う人のモラルによって引き起こされます。
 それでも、動物実験は必要なのでしょうか?
 
 果たして本当にそうなのでしょうか?
 人間のために尊い命を犠牲にしていると解釈していいのでしょうか?
 
 医薬品や化粧品だけでなく、食品添加物や農薬など様々な化学物質の安全性を確かめるために動物実験が行われ、多くの動物たちが苦しんだあげくに死んでいます。
 日本では薬事法の点から、新薬の使用と新規原料を使用した商品を製造する場合について、動物実験をするように義務付けされております。
 その実験データを提出するように法律で定められており、安全性確認のために企業はそれに従わなければならないのです。
 しかし、これまでの検証結果から安全とされ使用許可が下りている物質は約3,000種あるにも関わらず、新薬の方が利益が高いという薬価制度の問題もあり、企業は利益を追求するために動物実験を伴う新薬の開発に力を注いでいるのが現状です。
 もちろん、そのような考え方ではなく動物実験に反対する国・企業もあります。
 国で言えばイギリスやドイツ、オランダは動物実験を全面的に廃止しているし、EU圏内では動物実験をした商品の販売を禁止しているのです。
 それなのに、日本では動物実験を義務としているし、正規・密輸を含めても動物輸入の最大国であり、虐待に対する罰則規定(以前に比べれば厳しくなったが、まだまだ…)も緩く、動物愛護の点からは全くの後進国なのです。
 以前のコラム(アニマルセラピー)の最後にもあるガンジーの言葉を思い出します。
 「国家が偉大であり、道徳的に進歩しているかどうかは、
  動物の取り扱い方によって判断される」
 
 日本における動物実験には、急性毒性試験、皮膚刺激試験、光毒性試験、眼刺激試験などの8種類の試験が義務付けられており、動物たちに対して様々な実験がなされています。
 それなのに、動物実験をしていない国や企業の商品などは、どのようにして消費者に対する安全性を確認しているかと言うと、すでに許認可のある3,000種の原料を使用したり、その原料を組み合わせたり、その確認のために動物実験に替わる代替法を採用しているのです。
 これまでの多くの命を犠牲にしてきただけに、人口細胞や培養細胞などの細胞学は進歩しているので、実際の動物を犠牲にしないでも済むだけの医学が発達しているのです。
 このような技術を用いて安全確認の実験をしているので、動物実験をしなくても安全性の高い商品を製造することができるのです。
 しかし、日本の化粧品や医薬品メーカーなどの大企業は、ほとんどが動物実験を行って新原料の開発や新薬の開発に力を入れているのです。
 私たちの生活を向上させるためにと看板を掲げ、利益のために動物たちの命を合法化して削り取っているのです。
 企業や研究施設では動物愛護の観点から、動物実験を最低限にとどめて苦痛のないようにしていると公には言っていますが、実際は麻酔もされず、治療やケアもされず、放置されて死なせているのが現状です。
 実験に使用した動物たちに手厚いケアをしないのは、実験に使用するのにちょうどいい、若くて健康で、人に馴れていて扱い易い、動物たちがいっぱいいるからなのです。
 それは、保健所や動物保護管理センター(名称だけは立派なんですよね)で保護された動物たちのほとんどが「殺処分」と言われるCO2による窒息死で命を落としていますが、その中の犬・猫の一部は製薬会社、病院、研究施設に実験用として払い下げられているからです。
 その一部とは、若くて健康である犬猫たちが、人になついており扱い易いから実験するのに最適とされ実験用譲渡とされるのです。
 最後まで責任を果たさないで動物を飼う人がいるので、捨てられたり、管理センターに引き取ってもらったりして、動物実験に最適とされる犬や猫を供給しているようなものです。
 
 彼らの気持ちになってみろ!!
 自分が嫌なことを他者にしない!
 
と思わず怒りたくなりますが、ここは僧侶として穏やかに話を進めましょう。
 
 もちろん、そんなこととは知らずに、誰かが飼ってくれるだろうと希望を託して捨てる人もいるでしょうし、保護センターで預かってもらえると幻想を抱き引き取ってもらう人もいるでしょう。また、安楽死というイメージから、安らかに死を迎えると考えて連れてくる人もいるでしょうね。
 とんでもない大間違えです!
 現実は幻想とは異なり、安楽どころか実験動物としての辛い時間を生き長らえるのです。
 いっそうのこと、安楽死させてくれた方が辛い思いをしないで済むので殺処分を認めたくなります。
 
 私たちの文明社会は、動物の犠牲の上に成り立っているだけでなく、私たちの欲望は限りなく、さらに多くの命を必要とした消費社会の享楽に浸っているのです。
 動物実験に反対することは、今のライフスタイルを否定することにもなり、反対を唱えつつも豊かな物質文明を享受するという矛盾に直面せざるをえないのです。
 しかし、替えられるものは替えた方がいいし、実験のために命を犠牲(ちょっと嫌な言葉)にする者たちを減らすようにし、苦痛の軽減やケアをするように努め、苦痛のない安楽死と丁重な供養を期待したいと思います。
 もちろん、反対運動はすべきで、私たち動物好きができることと言ったら、そのような動物実験をしている企業の商品を買わないようにする不買運動と、それらの企業に対しての反対表明を手紙・メールなどで抗議すること、署名運動などで反対を法律化する動きに賛同することです。
 企業にとっては、売上低迷と企業イメージの低下が最も恐ろしいことなので、広告宣伝費に莫大な予算を投じているのですから、イメージに傷がつくのを恐れているので、そこを突くのが最も効果があるのです。
 
 それ以前に、私たちは地球に生きる一員であるから、他の生命を傷つけ苦しめることは、自分たちの暮らしや健康を損なわせ、豊かになろうとして貧しくなる資本経済パラドックスに陥ることになるのです。
 動物や自然に優しい環境が私たちにとってもいい環境であり、命を大切にしようとする心から人も動物たちも共に幸せに暮らせるようになり、本当の豊かな文明が築けるようになるのではないでしょうか。
 動物と人間が共に幸せに暮らせる環境がとてもいいことを私たちは知っているはずです。
 大きな悲しみと心を痛める後悔で涙を流し、命の大切さを実感しているはずです。
 命の尊厳は共に暮らしてきた自分のパートナーたちだけではなく、同じように他の仲間たちにも愛されるべく命の尊厳があるのです。
 人間は生物の頂点として君臨しているのではなく、むしろ他の生命なしには生きられない存在で、様々な命を頂いて生きていることを知って、すべてに感謝しながら生活しなければならないのです。
 
 生活のすべての中に命の犠牲があるのです。
 その現実を知っておいて下さい。
 
 すべてにおいて、そこに愛がありますように…と、
 みんなで祈りましょう。
 想いがすべての現実となるのです。
 
動物実験についてのサイトがLinkにありますので見て下さい。
更新日時:
2002/07/17
   自由な心…
先日、師匠である住職が、「このお寺にやってくるペットちゃんたちは幸せだなぁ。心から手を合わせてもらっているし、人も寺も選ぶことができるのだから…」とつぶやいておりました。
 この長福寺は小さいお寺なので、葬儀や法事などがあっても私が参列するほどのことはなく、人の仏事はほとんど師匠が執り行っております。
 そういった人の仏事を執り行っている中で、ソウルメイトで葬儀・火葬する人々や、遠方から供養しに来る方々が、亡くなったパートナーたちに心から手を合わせている姿を見て言った一言です。
 
人の葬式において親戚や祖父が亡くなっても、たいした悲しみを経験しない人は多いし、付き合いで参列するような人も多いので、心から手を合わせている人がどれだけいるのだろうかと思ってしまう。
 人の葬式においては、祭壇や装飾、霊柩車などまでランクや金額が細かく設定されており、家族が心からしてあげたいと思っている範囲と、体裁や世間の評判・葬儀屋の案内などから素直に式の範囲を決めかねている場合が多く、何か腑に落ちない感じを抱いた方も多いと思います。
 それに較べて亡くなったパートナーたちについては、葬儀や供養に訪れた方が心から手を合わせ、自然と涙で瞳を潤わせています。
 供養の範囲においても無理をせずに自分の生活の範囲内で決めている様子を見ていると、できることを素直にしてあげるという最高の供養をしているのだと思ってなりません。
 そして、形骸化した檀家制度のような仕組みからお寺を選ぶのが難しい人間に比べて、パートナーたちはお寺も霊園も、自宅も散骨も選べるのは、心が自由だからでしょうね。
 その心を共にしているからこそ、パートナーのことについては自由な心でいられるのでしょう。
 だからこそ、一緒にいたときがとても幸せだったのしょうね。
 合同火葬でも立会い火葬でも、合同納骨でも個別納骨でも、合同供養でも個別供養でも、すべてにおいて自分にできる範囲でしてあげるという姿勢にはとても美しいものがあります。
 その手を合わせる姿勢はまさに仏さまや観音さまのような姿で、仏像に見られるような自然な美しさを感じます。
 亡くなった者たちも残った家族が負担になるような供養は望んでいないし、残った家族が亡くなった者に対し“もっとしてあげたいけれども…”という心の気持ちが、ピタリと一致したところで葬儀や供養の範囲を決めているので、力のバランスが取れたとても自然な美しさを醸し出すのです。
 そして、その無理のない至誠の心と、心から手を合わせる自然な姿勢が合わさり、みなさんの合掌している姿が仏さまや観音様などが示す合掌の姿と同じになるのです。(みなさんは自分が手を合わせている姿を気にしたことがないから知らないでしょうね)
 
実のところ、私は仏教信仰者としてはちょっと欠けているところがあり、仏像や彫像、仏画などにはあまり興味がありません。それを造った人の気持ちなどは分かるのですが、そのような仏を模った物に自分の信条を捧げる気にはならないからでしょうか。
 それは、河原の石と仏の像を刻んだ石とを差別することができないのです。本質は同じ石であるにも関わらず、仏を刻んだ石だけを大切にするような思想を抱いていないからなのです。
 これは私がよく言っている『差取り』であり、すべてのものには仏性が宿っており、すべてのものに同じ尊厳があるからで、見た目に囚われずに本質を見るようにしているからでもあります。
 幸いなことに仏教には、このような考え方を思想哲学として有しているので、私は仏教と接点があったのかもしれません。
 禅宗で有名な問答に、
 修行僧:「仏とは何ぞや」
 高僧:「仏とはクソかきべらじゃ」
というくだりがあるのです。
修行僧は仏様のことを「ウンチを取るへら」とは、神を侮辱していると非難して去ってしまうのです。この修行僧は仏様の像に神を見出しており、偶像崇拝を戒めるべく、高僧はそのようなことを言ったのです。
 高僧の言いたかったことは、仏を刻んだ木とへらの表面に気を取られ、同じ木である本質を見失うな!そのようなすべての中に仏の性があるのだと言いたかったのです。
 これは、「たかがペットのことで〜」とか、「人間とは違うのだから…」ということにも同じことが言えます。
 このことを、私は亡くなったパートナーたちからいっぱい教えて貰ったのです。
 私が愛したパートナーと同じように、すべての子たちが“かけがえのない者”で命の尊厳をもっていることを…。
 だから、自分のパートナーたちだけにお経を挙げるだけの人ではなく、すべての子たちにちゃんと供養してあげられる僧侶になったのですし、「私たちにお経を唱えてくれるように、みなさんのパートナーたち、その他の仲間たち、これからのみんなのために経を唱えてあげてね。」との想いを受け継いだからで、亡くなった子たちがなるべくしてなるように僧侶への道を示し導いてくれたのです。
 
 (ちょっと話がそれたので、元に戻します)
 
私は仏像や仏画に仏を見出しているのではなく、みなさんの手を合わせる姿に仏を見出しており、その内なる神聖を映し出すパートナーたちに仏を見出しているのです。
 私はそうした生きた仏の姿を両者の中に見ているので、自然と手を合わせるようになるのです。
 そのような優しい心を持った人に出会いをくれたパートナーに感謝して手を合わせ、
 “そのような人に出会えてよかったね”と労い供養すべく手を合わせ、
 悲しみから心を癒して欲しいと思い手を合わせ、
 自らに宿る仏の性質に気づいて欲しいとの祈りからも手を合わせるのです。
このように、すべてに対して手を合わせるのですが、私が合わせているのではなく、自然と手を合わせてくれるのです。
 
太陽のような光を前にして自らの姿を映す影には気づかないもので、生きているパートナーを前にしては見えないものがありますよね。
 でも、太陽の光も後ろにくると自らの影に気づくように、パートナーが亡くなって後ろの方で見守ってくれるようになると、見えていなかったものに気がつくことがあります。
 
「天は汝を気づかせるために、世話させるものを遣わす」
 
自らの仏の姿を見失った私たちを気づかせるために、パートナーたちは天から遣わされた者なのですよ。
 尊い使命を託され、すべての命を使い私たちに命の尊さを教えてくれているのです。
 
 だからこそ、命を使い私たちに出会うのでしょう。
 だからこそ、命を使い私たちと別れるのでしょう。
 だからこそ、自分を責めることもあるでしょう。
 だからこそ、その尊さを悼み涙するのでしょう。
 だからこそ、かけがえのない者なのでしょうね。
 
「天は汝を気づかせるために、世話させるものを遣わす」
いったい私は何を宗教としているのでしょうね。
仏教でしょうか、儒教でしょうか、キリスト教でしょうか…
ペットでしょうか、自然でしょうか、地球でしょうか…
 
それもすべて自由な心が許してくれているのでしょうね。
 
きっとパートナーたちが無条件の愛情で接してくれたから、
 自由な心で触れ合ってくれたからなのでしょうね。
 
 宗教者でありながら、宗教に囚われたくないと思っている私の自由な心と、みなさんの自由な心を求める気持ちと、パートナーたちの自由な心(魂)が結びつけるから出会えるのですね。
 まさに彼らはソウルメイトですね。
更新日時:
2002/07/16
   美しい言葉…
 最近、「美しい日本語」、「声に出して読みたい日本語」など、日本語に関する書籍に人気ありますが、美しい言葉とはどんなものですかねぇ。私はこのような本を読んだことがないので、どのような主旨で書いてあるのか知らないですけど興味はあります。
 今回は、言葉の持つ力とその美しさについてのコラムです。
 
 私が感じる美しい言葉とは…
 みなさんの悲しみや感謝の言葉です。
 
 それは、パートナーに対する気持ちを聞いたり、手紙やメール、掲示板などで読んだりするときに、その美しさと秘められた力を感じているからです。
 そして、その美しさとは心からの愛情という想いに溢れているからです。
 そして、秘められた力とは悲しみによってさらに優しくなれる心を感じているからです。
 
 私たちは自分を少しでも美しく良く見せるために、男性も多少はしますが、女性の方のほとんどが化粧をしますよね。
 それも美しさの一つなのですが、言葉についてはどうでしょうか。
 言葉に化粧をすると、「言葉の上塗り」と言って決して美しいものにはなりません。わざとらしくなったり、仰々しくなったり、いやみのようにさえ感じることが多いように、美しい言葉とは美辞麗句を並べたてることではなく、心からの素直な言葉であるように思います。
 この心からの素直な言葉を、私たちは様々な社会的環境という観念から、心を縛り、言葉に装飾を施し、言葉は発しているものの相手に伝わらない虚しい言葉をいっぱい使っています。
 そうして、美しい言葉を失ってしまうので、得られる幸せも少なくなってしまうのでしょうね。
 だからこそ、美しい言葉に触れたとき感動し、心からのものを感じ共感するから幸せを感じるのでしょうね。
 
 何の本で読んだのかは忘れましたが、
「幸せとは自己の存在に関わることで、その感情は生の否定、生の肯定に関わりを帯びてくる。それは言葉と行動によって表され、それにより自己の存在を認識して、生を肯定することで幸せを感じるのである。」
というような一説を何かで読んだことがあります。
 つまり、幸せとは言葉と行動によってもたらされるというものです。
 そして、その言葉と行動を生み出しているのは心(想い)です。
 その想いの感情が生を否定するか肯定するかによって大きく変わってきます。
 
 生の否定とは、ネガティブなことと受け止められますが、亡くなった子の魂や天国を否定し、死んでしまったら愛情関係はそれまでと終止符を打つことで、まさにネガティブな思想となります。
 その反対に死後の生を肯定することにより、愛情関係が形を変え、役割を入れ替えているに過ぎず、交わした絆は失われることなく、形を変えても愛情関係は想いのある限り続いていくのだという思想は、より人をポジティブにすることになります。
 パートナーの死を受け入れるか否定するか、後悔なのか感謝なのか、学ぶのか逃げるのか、魂を否定して何もしないのか、魂を肯定して何か供養するのか、どちらを選ぶかによっても幸せの度合いは大きく変わってくるのです。
 
 パートナーたちが私たちに語りかけてきた言葉は、領域が異なるので完全に理解することはできないが、それを補完するかのような行動(しぐさ)によって補われ、皆さんもコミュニケーションをしてきたかと思います。
 言葉と行動でみなさんも心を通い合わせ幸せを感じてきたことでしょう。とっても愛嬌たっぷりに…
 彼らは心からの言葉を声と行動で十分に表しており、“ねぇ〜見て見て!”と満足そうに自分の存在をアピールし、生きていることがすごい幸せということを表現してきました。
 まさに、言葉と行動で生を肯定する生き方を表し幸せを心から感じており、その喜びを素直に大好きな人に見てもらいたいと思い心を開いていたのです。
 
 私たち人間は理性によって本能や感情を抑えよることを善しとしてきました。
 しかし、本能や感情によって影響を受ける心は、様々な社会的環境という観念から縛り付けられることになり、人間社会では行き場を無くしてしまい救いを求めていました。
 その心を救うために天から遣わされたのが、みなさんの出会ったパートナーたちです。
 だからこそ、自然のままに、あるがままに振舞っているパートナーたちに、自分には失われかけている「そのままの自分で百点満点」という満足げな様子に心を癒され、人間社会から見ると「ペット」とされる飼育動物に心を奪われてしまったのです。
 社会的な観念とは、まさにペットのことでもあります。
 人間は理性に優れているという点から自分たちを最高の存在として、他者を劣等なものとして捉え優越感に浸って驕っているのです。
 本当に理性に優れているなら、人間とペットとの間に交わされる愛情を理解できるはずでしょうし、人間と動物の命の尊厳について違いはないことを理解できるはずです。
 それが理解できないのは、理性に劣っていて他者を貶めて自分を相対的に高めることによってしか自己の地位を築けない努力をしない悲しい者です。
 そのことを認めまいと、弱い自分を守ろうとするあまり、「たかがペット…」と他者を貶めるのです。
 いろいろな社会的観念によって縛られて、自己の存在をも認められず、生を肯定しないから幸せが乏しいのです。
(乏しい自分を知ってはいるが、それを否定して認めようとはしないので、いつまで経ってもパートナーとの幸せな時を共有することができないし、貧しい心に化粧をして言葉の上塗りとなり、そういうことを言うのですね。実に美しくない言葉ですね〜。仏教にある畜生とかも!スポンジを潰した状態は確かに理想の状態ではありませんが、それを認め吸収しようと思ったら、良いものをいくらでも自分のものにできる素質を秘めているのに自分に気づかないとはもったいないことです。)
 
 いつも心の扉を閉めたままでは、籠の中の鳥と同じように大空を高く舞う力を失ってしまいます。
 心の扉を開き高く舞い上がれる魂は、亡くなった子たちがいる天国にも行くことができるし、どんなに遠くてもすぐに行くことができるし、他の人の心にも届く天使の翼を得ることができます。
 この翼を得た言葉は真実を語る本音となり、自分の心と他人の心をつなぐ縁となり、新しい絆を結ぶきっかけとなります。
 このように意識をもった言葉は、まさに魂の分身であり言霊とも呼ばれ、どんなに時間が経過しても、決して色褪せなることがないでしょう。
 みなさんがパートナーたちのことを語るその言葉は、心からのものであり、ありのままの自分を素直に語る純粋な美しさがあります。
 そして、その言葉は涙に彩られ、さらに美しさを際立たせてくれる。
 この涙には、今まで生きる力になってくれた、心を支えてくれた想いから流れ、涙で洗われた心はより美しくなり、人はより優しくなれる。
 優しくなった心は自分と他者を支える生きる力となり、毛皮や鋭い牙で守られている他の動物たちとは違い私たちを守ってくれます。
 優しさは弱々しいものではなく、私たち人間を守ってくれる強い力なのです。
 
 心を開いて愛情を言葉にして下さい。
 どうぞ、心からの美しい言葉を使って愛を表現してみて下さい。
 そして、美しいと思える言葉にいっぱい触れてみて下さい。
 言葉はすごい力を持っており、その言葉を使う者、その言葉を受け止める者に力を与えてくれます。
 心から言葉を使うことで、きっと心に幸せが訪れますよ。
更新日時:
2002/06/25
   キツネと葡萄…
 このタイトルからイソップ物語にある「キツネと葡萄の房」というお話を連想される方がと多いかと思います。
 この話の大筋は、こんな感じです。
 お腹を空かしたきつねが、美味しそうな葡萄が実った葡萄の木を見つけました。その美味しそう葡萄を取って食べようと、飛び上がりましたがうまくいきませんでした。何度も繰り返したのですが、どうしても葡萄には手がとどきませんでした。
 そこでキツネは立ち去るときに、こう独り言をいいました。
 「まだ、この葡萄は熟れていない。この葡萄はすっぱいんだ」
 今回はこのキツネと葡萄についてのコラムです。
 
 その後の話として、確かにこの葡萄はすっぱかったそうです。
 でも、この葡萄も時が来ればやがては熟して美味しい葡萄になると思いますが、期が熟していない時はどんな果実もすっぱいことでしょう。
 ちょうどパートナーを亡くして死を受け入れていない状況や、自責の念から辛い思いをしている方、パートナーのいない喪失感に苛まれている方にとって、葡萄は確かに熟れていないのでとてもすっぱいものだと思います。
 この葡萄と同じように、パートナーの死も時間が経過すれば人生を彩る豊かな思い出となることでしょうが、悲しみは完全に消えることはないでしょうから甘酸っぱい葡萄となるのでしょうね。
 ペットロスは誰しも通る道ですが、何とか脱しようと試みてもうまくいかないこともあると思います。ちょうどキツネがジャンプするように…。
 例えジャンプして得ることができても、それはまだ熟していない酸っぱい葡萄であると思います。
 葡萄が熟するのに時間が必要なように、悲しみや寂しさ、辛さなどが癒えるのにも時間が必要で、必要だからこそ時間が与えられているのです。
 努力することはいいことですが、無理をする必要はありません。
 寂しいからといって無理に新たなパートナーを迎えてもすっぱい想いを経験することになります。
 まだ熟していない葡萄のように…。
 寂しさや辛さと向き合わずに逃げしまっては、時間が経ってもすっぱい想いをすることになります。
 それは熟していない葡萄を収穫しただけだから…。
 泣くことを恥ずかしいことだと思い、泣くことを抑え、悲しみを表現しないでいることは、見栄を張ってやせ我慢しているのと同じです。
 「あの葡萄はすっぱい」と言っているキツネのように…。
 だからと言って、何にもしないでただ時間が過ぎるのを待っていては、葡萄は熟するでしょうが芳醇な葡萄にはなりません。
 この実った果実を芳醇な葡萄にするためには手をかけてあげなければなりません。
 芳醇な葡萄を育むには、太陽の光と新鮮な水、豊かな大地と爽やかな空気が必要です。
 心にも、いつかは再会できる希望の光といつも愛しているという新鮮な水、楽しさや苦しみなどいっぱい経験してきた豊かな心と、その心の扉を開いて新鮮な空気を送ってあげることが必要です。
 さまざまな愛の表現の仕方があると思います。いっぱい愛情を表現してあげて下さい。
 そして、この想いを自分だけの心に閉じ込めず扉を開いてみんなに語って下さい。同じような想いをする方たちからの優しい言葉が心に爽やかな風をもたらすこともあるでしょう。
 さまざまな愛情の表現をしてあげて芳醇な葡萄になったら、その葡萄に自然と手が届くでしょうし、口にしてみても辛い涙のようにすっぱいものではないと思います。
 口にすると思い出が広がり、その味わいからの涙がでるような、豊かな思い出に感謝できる涙になることと思います。
 
 いったいこの葡萄は何でしょうね。なぜ葡萄が栄えているのでしょうね。
 
 私たちの心は畑と同じで、パートナーと出会う前から様々な経験により心を耕してきました。いろんな種を植えては花が咲き、実が成り、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならないことを学びながら心を耕してきました。
 この心の土地を耕して豊かにしてきたからこそ、出会いというパートナーとのすばらしい葡萄の苗を植えることができたのです。
 この苗に喜びや優しさという愛情の水を共に注ぎ、共に支え合いながら時間をかけて大きな樹に育て、何度もこの樹に実った葡萄を食べては芳醇な時間を共に過ごしてきたはずです。
 そして最後に実ったこの葡萄はどんな葡萄となるのでしょうか。
 それを、後悔で土地を痩せさせ、辛い涙で葡萄をダメにしてしまうのですか。
 何もせずに葡萄をそのままにしておくのですか。
 最高の葡萄になるはずなのに…。
 葡萄の苗を植えて共に育ててきたのに、死を境に葡萄を腐らせてしまうのですか。
 それとも、イソップ物語に出てくるキツネのように、ジャンプしても届かないからといって、「まだ、この葡萄は熟れていないのだ」と言うのですか。
 亡くなってしまって触れることができないから、天国は遠く手の届くところではないから、今の心境から、「この葡萄はすっぱい」と言うのですか。
 この一緒に育ててきたこの葡萄を…
 
 どんなに愛情を表現して注いでも、この葡萄を一人で味わうとしたら、きっと甘酸っぱい半面のすっぱさだけが感じるのでしょうね。
 でも、みんなで持ち寄って分かち合ったら、どんなに美味しい葡萄となることでしょう。
 
 ちなみに、私は欲張りなのでこの葡萄の一部をしっかりと摘み取って、思い出として心で熟成させてワインにしますよ。
 いつかパートナーに再会した時のお祝いに乾杯できるワインとして一緒に味わえるようにします。
 天国に地位や財産は持っていけないけど、心は持って行けますからね。
 あっ、そうそう!
 ワインを熟成するには貯蔵庫で温度を一定に保ちしっかりと管理しなくてはなりません。
 同じように人生において優しさでしっかりと管理しなくてはいいワインにはなりませんよ。
 心の温度は肉体的な影響も受けますから、貯蔵庫である身体もしっかりと保たなくてはなりませんし、温度である心も常に一定に保たなければなりません。
 ワインの貯蔵庫である自分を修め整え、パートナーの分まで精一杯生き、風雨や災難から守らなければなりません。
 一定の温度と湿度を保たなければならないように、心を愛情と感謝で一定に保つよう努力することがいいワインを作る秘訣でしょうかね。
 こうして共に育てた愛情という果実を取って、心で熟成させて、芳醇あるワインにすると、その透き通ったワインは輝く水晶のようになり、どんなに離れていてもひと目で分かる光を放ち始めます。
 たとえ天国が遠くにあろうともパートナーにとってひと目で判る輝く光となるでしょう。
 
 ここで、ちょっとだけギリシャ神話の逸話を要約して紹介しますね。
 
 神々に叱られて機嫌の悪かったディオニュソスは、月の女神アルテミスの神殿に向かおうとしていた少女アメジストに虎をけしかけて憂さ晴らしをしようとしました。
 そのことに気付いたアルテミスは、アメジストを透明な水晶に変えてしまいました。
 ディオニュソスは自分の行為を恥じて、この水晶に葡萄酒を注いで罪を詫びたそうです。
 すると透明な水晶は美しい紫色の宝石に変わったのです。
 それからディオニュソスにずっと愛されたこの石は、ワインストーン、バッカスストーン等とも呼ばれ、縁結び・護身等の効果があるとされています。
 
 再会の祝福酒として心に抱く透き通ったワインは、水晶のようになって縁結びと護身の効果があるとされるワインストーンになることでしょうね!
 
 ずっと愛することで…。
更新日時:
2002/06/14

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