「たましい」があるのか?ないのか?と聞かれることがありますが、私はあると思いますし、信じています。
これは宗派としてではなく、私個人としての見解なのですが、魂の存在を実感をしているからなのです。
小学生の時から、動物を保護したり、死に目を看取ったりで、最後に「寂しくないから、僕の心においで」と魂の存在を信じ心に引き込んできた。周りに話してもなかなか理解してもらえないので、私しか知らないことなのです。
それがお祭りの夜に、人相占いの前を通りかかると、「あなたの後ろには動物がいっぱいいる。興味があるからいらっしゃい」と言われたことがありました。
私を知らないはずの第三者から、私しか知らないはずのことを言われたことで、目には見えないけれど私が信じて行ってきたことは正しかったのだと確信しました。
そして、最後を看取るときいつも“動物たちのために心からお経が読めたらいいのに…”“彼らの為にちゃんと供養してあげたい…”と思っていました。
その後、好きになって結婚した人がお寺の娘さんで、僧侶への道が開き僧侶となった。
きっと彼らは、これからのみんなの為にも、私の為にも僧侶になってと導いてくれたのである。
教義で「因(要因)・(縁)・果(結果)」という教えがあり、私の人生にそれは当てはめることができる。
動物の死を看取ることやお経への想いが因となって、妻との出会いが縁となり、僧侶になったという果に至った。
これは、まさに魂の導きであり、事故で亡くなった動物たちや、保護したが自然に帰せなかった者たち、私の飼ってきたパートナーたちの魂が、私を導いてくれたのだと感じざるおえない。
そして、この私の生き方が魂の存在を証明しているようなものである。
すべての死には意味があり、意味を持たせることで生を意義あるものにすることができるのではないか。そうして受け入れてあげることが亡くなった者たちにとって嬉しいことなのではないであろうかと僧侶になって感じることである。
私の信じてきた魂の存在、目に見えぬ魂の存在、因果律などからも、私は魂というものを人生として実感しているのである。
亡くなったパートナーたちには魂があり、その魂に導かれる出会いなどがあることをみなさんも実感しているはずです。
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