お布施というと葬儀や法事の際に僧侶に渡すお金のことを思い浮かべる人も多いことかと思います。また、お布施の金額に悩んだり、トラブルを引き起こしたりしたことがあるのではないでしょうか?
煩悩にどっぷりと浸かった欲深い僧侶たちが多いので、皆さんにご迷惑をお掛けしたことでしょう。同じ職に在る者としてお詫び申し上げます。
という訳で、ちょっとベールに包まれたイメージの悪い「お布施」について、いったいパートナーとどんなことになるのか書いてみたいと思います。
世間に貪欲な僧侶が多いので、お布施というものが本来の意味とは異なり、誤解されていることかと思います。世間一般にお布施とは僧侶に対し支払う金品のこととして扱われているように思われます。
本来、「布施」とはお金や物を与えること(財施)、教えや心を与えること(法施)、怖れや憂いを取り除いてあげること(無畏施)を意味し、三施といって執着から離れ与えることを布施行とし修行していたのです。それがいつの間にか法施と無畏施は薄れ、財施が執着から離れて寺院に金品を奉納する意味に転じてお布施となりました。
道を志す僧侶の布施とは金品を与えたり、仏教の教えを説いたり、人々の憂いを取り除いてあげたりしていたのですが、道を志す僧職ではなく見栄えを気にする装飾の方たちが多いために与えることから、いつのまにか自らを着飾るための要求することになってしまったようですね。
布施というのは、要求することや見返りを求めることではなく、ただ与えることなのです。
そして、布施の心とは「私がしてあげたこと」「誰かにしてあげたこと」「何をしてあげたこと」にこだわらず、お礼や見返りのためにするのではなく、自分ができることを心から親切にすることなのです。この3つの執着から離れた布施のことを仏教では「三輪清浄の布施」といい、布施のあるべき姿勢を示しています。
また、布施には様々なものがあり、
慈眼施(優しさに満ちた眼差しですべてのものに接すること)
和顔施(和やかな微笑みですべてのものに接すること)
愛語施(思いやりのある優しい言葉で語りかけること)
捨身施(自ら進んで他者に尽くすこと)
心慮施(喜びや悲しみを共感し分かち合うこと)
など無財の布施もあります。
このように財産や地位に関係なくできる無財の布施とは、私たちとパートナーたちとの間に交わしたことに、どれも当てはまるのではないでしょうか。
お互いの地位(人間・動物、飼い主・ペット)や財産(所得・無所得)に関係なく、心から自分のできることを相手にしてあげたいという気持ちから、お互いに関係性を深めて絆を強めていったことと思います。
仏教のいう布施とは、心からの気持ち、執着のない心、すなわち無条件の愛のことと同じことを意味しているのです。
パートナーたちに宗教はないけれども、無条件に、心のままに、私たちに布施をしてくれていたのですね。だから、私たちも心を許し心から彼らに接していたのだと思います。
何で「お布施」というコラムを書いているかというと、供養を通じて知り合った葬儀ディレクターの方との会話、HPを見て遠方より訪問される方々などが、私だからと話してくれる他のお坊さんとの金銭にまつわる話を聞いて同じ道にいる者として恥ずかしく思っているからです。
また、先日の合同供養祭での「天国にいるパートナーへの手紙」による供養、交通事故死の動物の供養などを無料で受けており、その方たちが「こんなに良くしてもらって無料でいいのですか?」と不安な気持ちを抱いているかもしれませんので、それをクリアにするためにもどうしてなのかを記しておこうと思い書くことに致しました。
ここからは私の“お布施”に関する感覚と思想です。
今まで経験してきた販売や営業も同様なのですが、目に見える商品であれ、ゼロから創造していく広告であれ、いいものを提供した対価としてお金をもらうのは正しいお金の流れになりますが、不当なものや粗悪なものを偽ってお金をもらうのは正しいお金の流れではありません。
人が社会的生活をする以上、経済活動としてどんなサービスにも対価としての付加価値が生じますが、それは僧侶が施すお経、葬儀、法事などでも同様のことが言えます。
しかし、お坊さんにお布施の金額について尋ねると、「お気持ちで包んでください」と言い、はっきりとした金額を提示してもらえないことがあります。
それは、お布施が名目上にしても「気持ち」のことを意味しているからであり、感謝の気持ちは人それぞれで、執着を離れて財布から出せる金額も異なり明確にできないから、僧侶の側からはっきりとした金額を明示しないのです。
お布施とは気持ちのことで、その感謝の気持ちの表れとして言葉だけでは足りないとの思いからお金を包むという行為が正しいお金の流れになります。
さてさて、私の場合はと言うと、
私自身は動物たちのためにお経が読めたらとの思いから発心して僧侶になったので、家系を継ぐ訳でもなく、お金儲けのためになったのでもない。
ただ、道路で亡くなっている子たちを看取っていた時に、「心からの想いがすべてだ」と思っていても、「何百年も続くお経に供養する力があるのなら、彼らのために読んであげたい」とずっと思い続けていたことで、お寺を継ぐとか霊園をしようとか思って修行に行ったのではなく、ただお経を読みたいと思ったのでもない。ちゃんとお経を学び供養できる人間になりたい、そうすれば亡くなった子を供養するときにも心からの想いをすべてしてあげられるので私も満足できるから修行に行ったのである。
無念にも道路で亡くなってしまった子たちは、どこで飼われていたのか、どこから来たのかわかりませんが、何かの縁で私は出会うのです。彼らは自動車に撥ねられ放置されたままで、さぞ人間を憎んでいることと思うと、“そうじゃないよ。自分みたいにその死を心から悼んでいる人もいるのだよ”と安心させてあげるためにも出会うのではないかと思うのです。
そういう子たちを火葬・供養してあげても、経費や支出は増えるばかりで収入にはなりません。私はお金を得るためにしているのではなく、心から自分のできることをしてあげたいだけなのです。
私の志の原点は「動物たちのためにお経が読みたい」なのです。
そして皆さんとパートナーについて言うと、
皆さんのパートナーたちが愛している飼い主さんの気持ちを癒してあげたくて、私を頼ってソウルメイトに導いてくるのです。この時点で、私は皆さんのパートナーたちから「優しさ」という心をもらっているのです。
そして、皆さんが愛しているパートナーたちのために何か供養をしたい!私に供養して欲しい!と思うこの時点で、私は皆さんから「優しさ」という心をもらっているのです。
私が『皆さんの優しさという気持ちにお応えして心から供養します』と言っているのは、私は供養する前に皆さんとパートナーたちから「優しさ」という心をもらっているからであり、そのみんなの想いを叶えるべく私のパートナーたちは様々な死でもって私を僧侶へと導いてくれたのです。
私が皆さんたちのために多く供養することは、同時に心の中で共に生きるみんなの死が活かされることになり、私のパートナーたちの供養にもなるのです。
私を支持してくれる人やパートナーが多くいて心癒されると同時に、私自身とパートナーたちも皆さんと心を共にすることで心癒されているのです。
皆さんには、「私が供養すること」だけが目に映って前後のことは見えていないことと思いますので、そのお礼に何かしなければならないのではないか?と思っているのではないでしょうか。
その意味では、私の方こそお経を揚げさせて頂けることにお礼をしなければならないのですよ。
どっちが先というのではなく、お互いに無財のお布施(気持ちを)をし合っており、心を共にする良い絆を与えてくれたのはパートナーたちで、私はいつもそれに感謝しているのです。
私は供養を執り行うことができる人間で、私のできることを私なりにしているだけなのです。
だから、一般的にいう感謝の言葉やお礼などがなくても、それに執着せずに自分のできることをただ心から親切にするのです。
それが、布施の真の意味する「心を与えること」は、同時に「心をもらう」ことにつながり、世の中に優しさが広がりお互いに心豊かに生きようという愛に満ちた世の中になるのです。
仏教では慈悲、キリスト教では愛、儒教では仁、表現は異なってもすべての宗教のメインテーマは「優しさ」です。この優しさを広めるためにも、優しさを感じたら独り占めしないで、それを他に伝えていくことで、回りまわってまた自分のところに訪れるのです。だから、他の人に施す幸せは同時に自らに施される幸せになるので、自分と他人、人間と動物といった違いを取り除いて心から与えることが悟り(差取り)でもあるのです。
それを私は一匹の動物から教えてもらい、その一匹から発した優しさを途絶えさせないためにも、それを受け継ぎまた伝えていく役目を担うためにも、ペット(動物)のお坊さんになったのです。
その意義の重要性を認識しているので、自分のできることをただ心からするのです!
このように聖人ぶることもできますが、私だって本音を言うとお金や物を欲しいと思いますよ。自分のためというよりも家族のために!
でも、心という気持ちや想いが金品よりも大切であることをパートナーたちが私に教えてくれたのです。
大切なことは目に見えない。
心の目で見なくちゃ!ってね。
何よりも大切なものが何であるかを知っているから、それに囚われずにいられるのです。
お金に執着せずにお金と付き合うことが正しいお金の流れであり、執着から離れた気持ちからなるお布施(優しさ)なら頂きたいものですね。そうすれば、他でアルバイトせずに僧侶という本来の道のみに専念できますから…(笑)。
まあそれは兎も角、辛くても自分の信じる道をひたすらに歩んでいれば、いつかは報われる時がくると信じているし、いつも様々なことで報われていることは私の人生が証明してくれています。
そして最近、大きく報われつつあります!
これは皆さんにとっても朗報・吉報・良縁となることでしょう。
今後の私の活動に期待して待ってて下さい。
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