Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   愛を表現しないでいることが…
 学術的にペットロスとは、愛情対象の喪失に伴う心身喪失状態とされており、生きていたときは愛情の対象先として愛されていたにもかかわらず、亡くなってしまうとその愛情の対象でないかのように扱われているように見受けられます。
 学術的とは理性の面だけから現象を捉えようとするので無理もありませんが、もし本当に亡くなってからは愛情の対象にならないとしたら、亡くなったパートナーたちがとても可愛そうでなりません。
 生きている時だけという物質的な感覚でモノとして所有されていただけだとしたら、亡くなったパートナーも飼い主さんにとってもとても不幸なことです。
 愛情対象の喪失に伴う心身喪失状態は、愛情の流れを堰き止めていることで生命エネルギーが行き場をなくし、行き場を無くしたエネルギーが心身喪失状態を生み出しているのですから、その愛情の流れを開放してあげれば心神喪失状態は改善されてゆきます。
 
 人間には触れ合いたいという温血動物としての本能が生まれながらに備わっており、今まではスキンシップを交わすことで憂鬱な気持ちも晴れ、体の疲れが取れて気分が良くなり、心が癒されて穏やかになっていました。
 それがスキンシップを失ってから、悲しみに心を占有されてしまい周囲への関心が薄れ、気分が落ち込み、食欲が低下して、生活全体の機能が低下してきて憂鬱な感じになっている。亡くなってしまって愛情を表現できなくなってしまい、悲しみと後悔が心を覆うようになって心理的な分離不安を増して憂鬱感を招いていると言ってもいい。
 パートナーを失った対象喪失による心理的な分離不安は、哺乳類全体に組み込まれている群れる本能の一部であり、愛する対象がいなくなってしまったために生命の反応が鈍くなり、新鮮な感情が湧き上がってこない状態であるとも言える。
 この分離不安とは他者との共存関係を志向する本能で、今までパートナーたちからいっぱいの愛情を与えられてきたので、愛は与えられるものであると思い込んでしまい、与えてくれる相手がいなくなるとそれを追い求めてしまうのであります。
 本来、愛とは与えるもので、与えられることに慣れてパートナーの愛の表現に甘えていたので、与えることを忘れてしまっているのではないでしょうか。
 与えられるだけの愛は幻ですから、その幻影を追っていては心が虚しくなるだけです。そして、このまぼろしの愛が手に入らないといっては嘆いているのが憂鬱状態にある現状です。
 幻に目を奪われて、本当の愛を見失い、愛を育む努力を怠ってしまっているのです。
 パートナーたちは亡くなってしまいましたが、魂は今も生きており、いつも側にいるにも関わらず、それを感じ取ることをしていないのです。
 この寂しい心を救う愛とは、概念的な愛という幻ではなく、想いと言葉と行動で愛を表現するという小さな愛です。
 
 「愛」という名詞はモノです。この名詞のままでは何の意味も持たない形だけの儚いものです。それを動詞にすることで「愛する」となります。愛は能動的なもので、受動的なものではありません。
 受動態のままの「愛される」ことを待っていては、本当の愛を受けることはできません。
 私たちが欲しているものは愛という名詞ではありません。名詞の愛をいくら所有したところで心が満たされることはありません。それはどんなに物に満たされていても心が満たされないのと同じです。
 本当の愛は動詞です。今も過去にも未来においても動詞なのです。
 生前は愛していたという過去の愛、もっと愛せたのにという未来の愛、過去と未来の愛という名詞(モノ)を両手に抱えていては、本当の愛が訪れてもそれを手にすることはできません。
 抱えている愛を手放す(表現する)ことで、はじめて愛を受けることができるのです。
 愛を表現することで、愛情を受けることになるのです。これは、「与えることは受けること」と同じです。
 自分からは何もせずに他人から好意を期待する受動的な心では、本当の愛を手に入れることはできません。
 本当の愛とは動詞であり、能動的だからです。
 
 亡くなったパートナーたちに与えるだけの愛情は一方通行で、今までのような豊かな感情が持てないこともあるでしょう。しかし、愛情の対象を失ったまま沈んでいるより、たとえ報われないとしても愛情の対象を持っていれば、そのために行動する情熱が湧いてくると思います。
 他者の愛には代わりがあるかもしれませんが、自分の愛は自分からしかないので、他者からの愛を失うより自分の中にある愛を失うことの方がよっぽど寂しいことだと思います。
 天国にいるパートトナーたちが求めているものは、みなさんの心の中にある愛情です。
 それが亡くなってから表現してもらえないのでは、とても寂しくて辛いことでしょうね。
 それに自分の中に愛の灯火が燈っていれば心は輝き、どんなに離れていてもひときわ輝く光となって、天国にいるパートナーたちが帰ってくる道しるべとなることでしょうから…
 
 みなさんが寂しく辛く感じるのはどこですか。
 天国がどこか遠くにあるもので、祈りや想いが届かない場所だと思って、天国にいるパートナーたちへの愛情が滞ってしまっているのではないですか。
 愛情が滞ってしまってはパートナーたちも寂しく辛い思いをすることでしょう。
パートナーがいる場所はどこですか。
 宗教では魂は心に宿るとされていますし、キリスト教では天国は人の心の中にあるともされています。
 皆さんが寂しく辛い想いをしている場所は心ではないのですか。
 そこにパートナーがいるのではないですか。
 みなさんが愛情を表現しないでいることが、心に宿るパートナーたちに寂しさと辛さをもたらしているのです。
 その寂しさや辛さを天国(心)で感じているので、その心(天国)を通して私たちは知るのです。
 だから、私たちも心が寂しくて辛いのです。
 お互いの世界から心を共有しているので、そう感じるのですよ。
 それは愛情の絆で結ばれた仲だから…
 
 本当の愛とは、想うこと、言葉にすること、行動すること、によってのみ得られるのです。
 自分から生み出した愛は、永遠に自分のものになります。
 悲しみを抑えず、いっぱい泣いて感謝の涙に変えて、後悔の塊を解いて優しさにして、心に思っていることを言葉にして、その言葉を行動にして愛を表現してあげて下さい。
 
 経典にある言葉を唱えることが何も最高の供養なのではなく、心からの想いを言葉にして行動することが何よりで、愛を表現することが最高の供養となることでしょう。
 供養の形は人それぞれにあります。
 いろいろな形で愛を表現してあげて下さい。
 
 
 「天国にいるパートナーへの手紙」はいつでもお受けしますよ。
更新日時:
2002/06/08
   懺悔…
 私たちはパートナーを亡くした時、必ずと言っていいほど後悔をします。
 さて、後悔とはいったい何者なのでしょうね。
 私は知っています。
 後悔と感謝が同じものであることを…。
 
 「あの時〜してあげればよかった」「もっと〜すればよかった」「どうしてあの時〜してしまったのか」など様々な後悔をすることでしょう。
 そして、そのことをした自分を責め続けることでしょうが、自分を責めても亡くなったパートナーたちはちっとも嬉しくありません。
 自分の大好きな人が辛い思いをしていることも辛いし、それが自分が先に逝ってしまったことで辛い想いをさせているなんて…、悪気があって亡くなったのでもなく、苦しめようと思って亡くなったわけでもないのに、ただ命に遵っただけなのに…、と彼らの方こそ責任を感じてしまい、好きなパートナーたちに辛い思いをさせてしまうのです。
 亡くなってしまって悲しいのは当然のことで、泣いてくれることは嬉しいことでもありますが、辛い悲しみを求めているのではなく、安らかな悲しみになることを望んでいることと思います。安からな悲しみとは仏教では慈悲というのかもしれませんが、それは優しさと思っていいと思います。
 その安らかな悲しみになるために、一つは後悔という自責の念から開放されて欲しいと願っているのです。
 その後悔で苦しんでいる飼い主を見たくないし、さらにその後悔から「もうペットは飼わない」となってしまっては、これからの仲間の繁栄や幸せを奪ってしまうことになるので、大好きな人のためにも、自分のためにも、仲間のためにも、後悔から解放されて欲しいと思うのです。
 後悔しているだけでは常に後戻りしているだけで、なかなか前進することはできませんが、後悔してそれを省みて償う心を培えば、後悔が活かされ前向きな力に変えることができます。
 
 宗教では、後悔を悔い改めることを懺悔とも言い、仏の前で自分の罪を述べて改心することを意味します。そして、懺悔の心が起これば、罪は罪でなくなり許されて、自分の身に修まり今後の力になるのです。
 ここにある仏とは、キリスト教などが崇拝する神のような存在ではなく、仏とは亡くなった者のことも意味しますので、パートナーたちのことを意味しているのです。
 だから、亡くなったパートナーたちに自分の後悔を告白して懺悔し、その“後悔という学び”を与えてくれたことに感謝して、これからの生活において償うことを心に修めると、人はより優しくなりさらに絆を深める経験をすることになるのです。
 これからの生活において償うとは、新しいパートナーやその他の仲間たちに対して、より優しく接することを意味しており、すべてのものに優しさを持って接することを意味しているのです。それにより、パートナーが転生して再会した時や自分の仲間を紹介した時など、さらなる出会い広め絆を深めることにもなり、よりいい関係が保てるようになります。
 どのように懺悔したらいいかは人それぞれですが、私は天国にいるパートナーたちに手紙を書くことだと思っています。そして、その手紙を仏前に奉納し、お経に託してその想いを伝えることだと思っているのです。だから、“手紙にして供養しますよ”と言っているのです。そういう思いもあって、手紙供養をしているのです。
 
 後悔とは仏教で言うところの煩悩です。煩悩とは氷の塊のようなもので、そのままではゴツゴツとして物事に当たってしまいますが、この塊が解けて水になり水の性質にあるような方円に従う親和性となるとすべてのことに通ずるようになります。 そして、この塊が解けることを宗教では悟りと言います。
 悟りとはどこか遠くにあるものでもなく、辛い修行の果てに得られるようなものでもありません。
 悟りとは、氷と水のような関係と似ていて、同じものが姿形を変えているだけで、心のあり方を示しているのです。
 心のあり方で言うと優しさが固まった状態が後悔という塊をなしているだけで、それが解けると優しさになるのです。そして、優しさが昇華すると感謝となるのです。
 最初に言ったように後悔と感謝が同じものであるというのは、共に優しさという想いからのものであるからです。後悔→優しさ→感謝とは、氷→水→蒸気と同じように見た目は異なれども本質は変わらない、そういったものなのです。
 後悔とはパートナーたちがプレゼントしてくれたダイヤの原石のようなもので、そのままではゴツゴツした鉱石にしかすぎず、磨かなければ輝きを放ちません。
 磨くとは擦れることですから、心の粗を削れば擦れて心は痛むでしょうし、磨くには水が必要です。心を磨くには涙とうい水を多く流す必要がありますし、仕上げには肌理の細かい布で拭かなくてはなりません。この肌理の細かい布は温かい優しさで、優しさで磨かれた心はダイヤよりも輝く魂となります。
 
 いっぱい泣いたりした後に誰かに会う時、顔を洗ってから会ったりしますよね。
 氷で顔を洗うことができないのと同じように、後悔では心を洗うことができません。
 後悔の塊を解いて優しさにして、心を洗って何かに出会えるといいですね。
 後悔を懺悔して、償う心を修めて溢れる優しさに変えてゆきたいものです。
 
 優しさで心を洗ってから天国での再会を果たせたら、彼らは自分のパートナー(飼い主)を誇りに思い、瞳はより輝きに満ちることでしょう。
 そんな瞳が輝いたパートナーの笑顔を見たいと思いませんか。
更新日時:
2002/05/29
   パートナーとお布施?…
 お布施というと葬儀や法事の際に僧侶に渡すお金のことを思い浮かべる人も多いことかと思います。また、お布施の金額に悩んだり、トラブルを引き起こしたりしたことがあるのではないでしょうか?
 煩悩にどっぷりと浸かった欲深い僧侶たちが多いので、皆さんにご迷惑をお掛けしたことでしょう。同じ職に在る者としてお詫び申し上げます。
 という訳で、ちょっとベールに包まれたイメージの悪い「お布施」について、いったいパートナーとどんなことになるのか書いてみたいと思います。
 
 
 世間に貪欲な僧侶が多いので、お布施というものが本来の意味とは異なり、誤解されていることかと思います。世間一般にお布施とは僧侶に対し支払う金品のこととして扱われているように思われます。
 本来、「布施」とはお金や物を与えること(財施)、教えや心を与えること(法施)、怖れや憂いを取り除いてあげること(無畏施)を意味し、三施といって執着から離れ与えることを布施行とし修行していたのです。それがいつの間にか法施と無畏施は薄れ、財施が執着から離れて寺院に金品を奉納する意味に転じてお布施となりました。
 道を志す僧侶の布施とは金品を与えたり、仏教の教えを説いたり、人々の憂いを取り除いてあげたりしていたのですが、道を志す僧職ではなく見栄えを気にする装飾の方たちが多いために与えることから、いつのまにか自らを着飾るための要求することになってしまったようですね。
 布施というのは、要求することや見返りを求めることではなく、ただ与えることなのです。
 そして、布施の心とは「私がしてあげたこと」「誰かにしてあげたこと」「何をしてあげたこと」にこだわらず、お礼や見返りのためにするのではなく、自分ができることを心から親切にすることなのです。この3つの執着から離れた布施のことを仏教では「三輪清浄の布施」といい、布施のあるべき姿勢を示しています。
 また、布施には様々なものがあり、
慈眼施(優しさに満ちた眼差しですべてのものに接すること)
和顔施(和やかな微笑みですべてのものに接すること)
愛語施(思いやりのある優しい言葉で語りかけること)
捨身施(自ら進んで他者に尽くすこと)
心慮施(喜びや悲しみを共感し分かち合うこと)
など無財の布施もあります。
 このように財産や地位に関係なくできる無財の布施とは、私たちとパートナーたちとの間に交わしたことに、どれも当てはまるのではないでしょうか。
 お互いの地位(人間・動物、飼い主・ペット)や財産(所得・無所得)に関係なく、心から自分のできることを相手にしてあげたいという気持ちから、お互いに関係性を深めて絆を強めていったことと思います。
 仏教のいう布施とは、心からの気持ち、執着のない心、すなわち無条件の愛のことと同じことを意味しているのです。
 パートナーたちに宗教はないけれども、無条件に、心のままに、私たちに布施をしてくれていたのですね。だから、私たちも心を許し心から彼らに接していたのだと思います。
 
 何で「お布施」というコラムを書いているかというと、供養を通じて知り合った葬儀ディレクターの方との会話、HPを見て遠方より訪問される方々などが、私だからと話してくれる他のお坊さんとの金銭にまつわる話を聞いて同じ道にいる者として恥ずかしく思っているからです。
 また、先日の合同供養祭での「天国にいるパートナーへの手紙」による供養、交通事故死の動物の供養などを無料で受けており、その方たちが「こんなに良くしてもらって無料でいいのですか?」と不安な気持ちを抱いているかもしれませんので、それをクリアにするためにもどうしてなのかを記しておこうと思い書くことに致しました。
 
  ここからは私の“お布施”に関する感覚と思想です。
 
 今まで経験してきた販売や営業も同様なのですが、目に見える商品であれ、ゼロから創造していく広告であれ、いいものを提供した対価としてお金をもらうのは正しいお金の流れになりますが、不当なものや粗悪なものを偽ってお金をもらうのは正しいお金の流れではありません。
 人が社会的生活をする以上、経済活動としてどんなサービスにも対価としての付加価値が生じますが、それは僧侶が施すお経、葬儀、法事などでも同様のことが言えます。
 しかし、お坊さんにお布施の金額について尋ねると、「お気持ちで包んでください」と言い、はっきりとした金額を提示してもらえないことがあります。
 それは、お布施が名目上にしても「気持ち」のことを意味しているからであり、感謝の気持ちは人それぞれで、執着を離れて財布から出せる金額も異なり明確にできないから、僧侶の側からはっきりとした金額を明示しないのです。
 お布施とは気持ちのことで、その感謝の気持ちの表れとして言葉だけでは足りないとの思いからお金を包むという行為が正しいお金の流れになります。
 
 さてさて、私の場合はと言うと、
私自身は動物たちのためにお経が読めたらとの思いから発心して僧侶になったので、家系を継ぐ訳でもなく、お金儲けのためになったのでもない。
 ただ、道路で亡くなっている子たちを看取っていた時に、「心からの想いがすべてだ」と思っていても、「何百年も続くお経に供養する力があるのなら、彼らのために読んであげたい」とずっと思い続けていたことで、お寺を継ぐとか霊園をしようとか思って修行に行ったのではなく、ただお経を読みたいと思ったのでもない。ちゃんとお経を学び供養できる人間になりたい、そうすれば亡くなった子を供養するときにも心からの想いをすべてしてあげられるので私も満足できるから修行に行ったのである。
 無念にも道路で亡くなってしまった子たちは、どこで飼われていたのか、どこから来たのかわかりませんが、何かの縁で私は出会うのです。彼らは自動車に撥ねられ放置されたままで、さぞ人間を憎んでいることと思うと、“そうじゃないよ。自分みたいにその死を心から悼んでいる人もいるのだよ”と安心させてあげるためにも出会うのではないかと思うのです。
 そういう子たちを火葬・供養してあげても、経費や支出は増えるばかりで収入にはなりません。私はお金を得るためにしているのではなく、心から自分のできることをしてあげたいだけなのです。
 私の志の原点は「動物たちのためにお経が読みたい」なのです。
 
 そして皆さんとパートナーについて言うと、
皆さんのパートナーたちが愛している飼い主さんの気持ちを癒してあげたくて、私を頼ってソウルメイトに導いてくるのです。この時点で、私は皆さんのパートナーたちから「優しさ」という心をもらっているのです。
 そして、皆さんが愛しているパートナーたちのために何か供養をしたい!私に供養して欲しい!と思うこの時点で、私は皆さんから「優しさ」という心をもらっているのです。
 私が『皆さんの優しさという気持ちにお応えして心から供養します』と言っているのは、私は供養する前に皆さんとパートナーたちから「優しさ」という心をもらっているからであり、そのみんなの想いを叶えるべく私のパートナーたちは様々な死でもって私を僧侶へと導いてくれたのです。
 私が皆さんたちのために多く供養することは、同時に心の中で共に生きるみんなの死が活かされることになり、私のパートナーたちの供養にもなるのです。
 私を支持してくれる人やパートナーが多くいて心癒されると同時に、私自身とパートナーたちも皆さんと心を共にすることで心癒されているのです。
 皆さんには、「私が供養すること」だけが目に映って前後のことは見えていないことと思いますので、そのお礼に何かしなければならないのではないか?と思っているのではないでしょうか。
 その意味では、私の方こそお経を揚げさせて頂けることにお礼をしなければならないのですよ。
 どっちが先というのではなく、お互いに無財のお布施(気持ちを)をし合っており、心を共にする良い絆を与えてくれたのはパートナーたちで、私はいつもそれに感謝しているのです。
 私は供養を執り行うことができる人間で、私のできることを私なりにしているだけなのです。
 だから、一般的にいう感謝の言葉やお礼などがなくても、それに執着せずに自分のできることをただ心から親切にするのです。
 それが、布施の真の意味する「心を与えること」は、同時に「心をもらう」ことにつながり、世の中に優しさが広がりお互いに心豊かに生きようという愛に満ちた世の中になるのです。
 仏教では慈悲、キリスト教では愛、儒教では仁、表現は異なってもすべての宗教のメインテーマは「優しさ」です。この優しさを広めるためにも、優しさを感じたら独り占めしないで、それを他に伝えていくことで、回りまわってまた自分のところに訪れるのです。だから、他の人に施す幸せは同時に自らに施される幸せになるので、自分と他人、人間と動物といった違いを取り除いて心から与えることが悟り(差取り)でもあるのです。
 それを私は一匹の動物から教えてもらい、その一匹から発した優しさを途絶えさせないためにも、それを受け継ぎまた伝えていく役目を担うためにも、ペット(動物)のお坊さんになったのです。
 その意義の重要性を認識しているので、自分のできることをただ心からするのです!
 
 このように聖人ぶることもできますが、私だって本音を言うとお金や物を欲しいと思いますよ。自分のためというよりも家族のために!
 でも、心という気持ちや想いが金品よりも大切であることをパートナーたちが私に教えてくれたのです。
 
  大切なことは目に見えない。
  心の目で見なくちゃ!ってね。
 
 何よりも大切なものが何であるかを知っているから、それに囚われずにいられるのです。
 お金に執着せずにお金と付き合うことが正しいお金の流れであり、執着から離れた気持ちからなるお布施(優しさ)なら頂きたいものですね。そうすれば、他でアルバイトせずに僧侶という本来の道のみに専念できますから…(笑)。
 まあそれは兎も角、辛くても自分の信じる道をひたすらに歩んでいれば、いつかは報われる時がくると信じているし、いつも様々なことで報われていることは私の人生が証明してくれています。
 
 そして最近、大きく報われつつあります!
 これは皆さんにとっても朗報・吉報・良縁となることでしょう。
 今後の私の活動に期待して待ってて下さい。
更新日時:
2002/05/20
   感謝
 本日、交通事故で亡くなっていた知らない猫ちゃんを遠くから時間をかけて連れてきてくれた方がおりました。
 その優しさにお応えし供養とお経は感謝の気持ちとして、連れてきた方を施主として葬儀をする方たちと同様のことをすべて無料にて供養させてもらいました。
 その優しさがとても嬉しくて、お経中に目がウルウルしてしまいました。
 感想を伝えずにはいられなく書いているところです。
 
 半年前のことになりますが峠の道路で交通事故で亡くなっていた犬ちゃんがいました。遊びに出たのか、捨てられたのか、は分かりませんが首輪をしていたので飼い犬だったことは確かな子でした。
 もしも、飼い主さんが現れて遺体を引き取るためにダンボールなどを取りに帰って、戻ってきたらわんちゃんがいないのでは良くないと思い少し時間を空けてから再度迎えに行きました。
 やはり飼い主さんんは現れないようでしたので、私が施主となり供養してお骨をいつでも渡せるように個別にして納骨しました。
 念の為にわんちゃんが亡くなっていた所に、名刺を置いて去りましたら、飼い主さんではないのですが、「わんちゃんのお見舞いに行ってもいいですか?」と同じ想いを抱いていた動物好きな夫妻から連絡がありました。
 
 私は昔から費用が掛かろうとも道路で亡くなった知らない子たちを引き取って供養してきましたが、どうしてお金を取られなければならないのか?いまいち腑に落ちないでおりました。
 だから、ペット霊園を始めるにあたり、道路で交通事故にあった動物と学校で飼育している動物については、経費は掛かっても私の気持ちとして無料で供養してあげようと決めました。
 自分一人では出会う子も多くはなく供養してあげられないけど、同じ優しさを持つ他の人を通じて供養できるのではないかと考えたのと、純粋にその優しさに応えたい、亡くなった子たちの感謝を何とか伝えたいと思ったからです。
 
 本日来訪した方はHPで何かないか探していたら、ペット霊園ソウルメイトを見つけて連絡してくれたそうです。
 このHPにより、私は多くの人の優しさに接することができて、非常に嬉しく思いますし、僧侶になって良かったなと感謝しております。
 これも、僧侶へと導いてくれた関わりを持ったすべての者たちのお陰であり、HPや霊園を通じて出会うのも、すべてはパートナーたちの導きという縁からである。
 この縁とは、亡くなったこととも取れますが、この出会いがもたらす縁は“優しさ”です。
 私が自他の境をできるだけなくし自分同様に他を大切にしたいと思っていること、優しい愛情を受けてきたパートナーたちの感謝を何とかして伝えたいと思っていること、動物と人間の間にも心の絆があると思っていることなどが強い想いの縁となり、それを亡くなったパートナーたちが天国で知る縁となり、飼い主さんたちに自分たちの感謝や想いを伝えたい、恩返ししたいという願いが縁となり、飼い主さんがパートナーを想う祈りと気持ちが縁となり、縁が縁を結び、縁が講じて絆となり、優しい気持ちを持つ皆さんに巡り会うのです。
 この縁に感謝せざるおえないからこそ、私の愛した子たちと同様に心から供養し、明日も感謝の気持ちを込めてお経をしたいと思うペットのお坊さんでした。
更新日時:
2002/05/06
   アニマルセラピー…
 アニマルセラピーとは、正確にはアニマル・アシステッド・セラピーという名のとおり動物を介在させて治療を援助することで、日本語に訳すと動物介在療法となります。この活動はいろいろな老人ホームや障害児施設、病院などで行われております。
 このアニマルセラピーのきっかけは、精神病院に入り込んだ一匹の犬です。
 いつもはじっとしていて動かなく、他人に無関心だった人たちが、犬を触ろうと手を伸ばしたり、顔を微笑ませ世話をしようとしたりしたのです。
 いつも妄想の世界に閉じこもり他との関わりを閉ざしてきた患者たちに不思議な変化が起こり、動物たちが人の心に影響を与えることに気づき研究が進むようになったのです。
 現在認識されている主なもので、ペットを飼育している人とそうでない人を比較すると、
・医学的には
延命率向上、血圧低下、コレステロール低下、神経筋肉組織のリハビリ
・精神的には
 安心感、気力増進、不安低減、社会的相互作用、感情表現、協調性
などが認められ身体的には健康度が高く、精神的には安定度が高い傾向にあります。
 
 では、動物たちのどの部分がセラピーに役立つのかというと、「撫でる」と「笑顔」がキーワードになるのかと思います。
 「撫でる」ことにより安心感や他者との感触が増し、何気ない仕草に「笑顔」することで幸せになり心癒されているのです。(「撫でる」については、コラム:ペットの語源…をどうぞ)
 私たちが動物を見るとき、顔の筋肉は緩み、とても和やかな表情をしていることを自分で見たことはあまりないことでしょうし、それと同様に心もリラックスしていて穏やかな安らぎに包まれているのも感じていないことも多いのではないですか。
 よく言いますよね「笑う門には福来る」って。(人は不器用なもので笑いながら怒ることはできないし、幸せを感じると自然と笑顔になってしまう、辛いことがあっても笑顔を作っていると自ずと心もそれに従ってしまう)
 べつに大笑いすることだけが意味するものでもなく、微笑みに見合った平穏な幸せが訪れている。この平穏な幸せは、木々や川のせせらぎ、鳥の声や虫の音などからも日々もらっているのですが、それに気づき感謝している人は少ないのではないでしょうか。
 動物を飼うと健康になるというコンパニオン・アニマルの効用、水槽の観賞魚、観葉植物などから癒されるのも、みんなが備えている自然性(何気ない仕草)からではないでしょうか。
 動物介在療法(アニマルセラピー)による血圧低下、血液中コレステロールの減少の理由は、人間同士では得られない感情の不足を補うからだと考えられ、心の充実が体の健康につながっているのです。
 
 人間関係においては、他人によく見られたい、よく思われたい、というような虚栄心、さらに出世したい、いろいろなものを得たい、というような支配欲、書き始めるときりが無い108の煩悩が、“今のそのままがすべてである”という自然性を見失わせ、そのままの自分を受け入れることが自他共にできなくなってしまっている。
 この人間同士ではなかなか得られない感情とは、自然ということで言葉を分けると「自ら然る(おのずからしかる)」となり、ひとりでにふさわしい「そのままの自分」となる。
 身にまとっている心の鎧を脱いで素直な自分を再発見したとき、人は本当の安らぎの境地を得る。この安らぎの境地をパートナーたちは、無条件の愛情でいつも私たちを包んでくれていたので、私たちは素直に鎧を脱いで心のままに接することができたのです。
 このような安らぎの境地なども宗教などでは「悟り」と言いますが、私流では「差取り」であり、他者や自然との隔たりをなくし本来ある繋がりという絆を回復し得られたからこそ、理性と感性のバランスを回復し、心と体が充実して、両者の間にある魂が絆を得ることで、円満な人間となりえるのであり、幸福感が得られるのである。
 その自然(自分である自然と環境としての自然の両方)を失いかけている現代において、ペットブームからペットを飼育したいとブームになるのではなく、自然との絆を回復するための時代の要請、地球から要請なのである。
 その要請を伝えるべく使命を遣わされた者たちが私たちのパートナーなのです。
 
 アニマルセラピーとは、一般的には治療のアシストをすること意味しますが、広義的にはパートナーとの生活そのものなのです。
 パートナーと一緒に生活することで、散歩により運動させてもらえ、食事の用意により意欲を増し、触れ合うことで安心感を得、共に遊び暮らすことで喜びと愛情を分かち合い、いるだけで笑顔や会話をもたらし、パートナーの環境を向上させたいとすることが自分の生活環境の向上につながるように、パートナーとの生活そのものがセラピー:癒しなのです。
 今度はこのパートナーの生活向上を広義的に捉えると、私たちを取り巻く自然環境となり、その他の動物たちや植物たちにとっていい環境が、人類にとっても最も良い環境になる。
 反対に、他の動物たちや植物たちを傷つけると、環境の悪化を招き自分やパートナーへと降りかかってくる。それは動物の虐待が怪奇的犯行に及ぶように、乱伐が災害や干ばつ、温暖化に及ぶように、すべての関係は網の目のように繋がっているのです。
 このように、私たちの周囲にあるものはすべて自分の一部であり、すべての関わりがかけがえのないものであることを、地球の健康が自分の健康であることを、他人の幸せが自分の幸せであることを、気づかせてくれるのである。
 つまり、身近にいるパートナーや動物、自然を大切にできないということは、周囲のすべてのものに対する感覚を粗暴にし、人間関係や社会、国や世界、地球の安定にまで影響を及ぼすのである。
 彼らは私たちのセラピストであると同時に地球のセラピストでもあるのです。
 
 最後にインド独立の父であるマハトマ・ガンジーの言葉で締め括るなら、
「国家が偉大であり、道徳的に進歩しているかどうかは、
動物の取り扱い方によって判断される」
 
人も国家も道徳的に進歩しているかどうかは、
動物との関係性によって決まるのですね。
ん〜、さすがに偉人の言葉は私の長いコラムより含蓄を含んでいる。
 
好きな言葉に触れるとき、
志を高く生きようと思う幸せな瞬間が訪れるペットのお坊さんであった。
 
更新日時:
2002/05/06

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