さて、何で自由で束縛のない世界から、わざわざ肉体的に束縛され、悲しみや苦しいことのあるこの世に転生して生まれてくるのでしょうか。
そのあたりを前回、前々回のコラムなども考えながらお話したいと思います。
臨死体験や過去生への退行睡眠による精神療法などからも次第に明らかになってきているように、死後の生存に関するデータが蓄積されて客観的実証性を高めてきております。
宇宙には物質的な世界と心理的な精神世界の二つがあり、この二つの世界はお互いに影響しあって存在しているのです。
私たちが肉体を伴っているこの世では、あの世では体験できない経験をするために生まれてきて、この世での生を終えて肉体という制約から解放された精神は、またあの世である精神世界に戻ってゆくのです。
そのときの記憶を肉体という制約下のもとでは、心の働きも制約を受けるために通常では思い出すことができない。
それが非日常的な意識状態において、潜在意識に眠っていた記憶を思い出すことがあるのです。
この意思をもった精神のことを霊とも魂とも言うのですが、この精神は常に存在して肉体という衣を着替えながら、この世とあの世を行ったり来たりしているのです。
魂こそが永遠に存在する真実の姿なのであり、その姿は光のようであるとも喩えられます。正確に言うと光であるのですが、それは波動や波長というもので、その波長の強さによって輝きが異なってきます。
臨死体験者の語る眩しい光の存在とは、魂としての格が高まった霊的存在であり、すべてのものは本来的に光なのです。
光が波長によって輝きを異にするように、この本来的な魂も成長の段階によって輝きを変えてゆきます。優しさや愛を多く蓄えたものは強く眩しく輝きますし、まだまだ未熟な段階の魂の輝きはさほどでもありません。
臨死体験や宗教的神秘体験にあるような眩しい光の存在とは、霊性の高い魂のことを指しており、時には神として捉えられたり、宗教上の教祖などと感じたりすることがあります。
すべての者は生まれてから死ぬまで霊的な存在に導かれており、このような光の存在の指導者のことを守護霊とも言い、宗教や信条の如何に関わらずあの世から見守ってくれている者がいるのです。
もちろん、私たちの愛するパートナーたちも、この光の存在となって私たちをあの世から見守ってくれていることでしょう。
(話は脇道に逸れますが、昔の人は死ぬと星になって天に昇り、いつも私たちを見守ってくれる夜空の星になると信じておりました。手を伸ばしても届かなく、暗い夜空を照らして見守ってくれる星に魂とあの世を見立てていたのではないでしょうか。私自身も夜空の星々に向かってみんなと話をしている一人であるりますけど…)
そして、あの世という快適で自由な環境では大きな魂の成長は望めないので、この世で肉体的制約という試練の場で優しさという愛を学ぶために、この地上に舞い降りてくるのです。
この世での喜びや悲しみなどの出来事はすべて意味のあるもので、魂の成長に欠かせない予定してきたプログラムなのです。
宗教的真理を得ようとする宗教者や、道を究めようとする武道家が、敢えて規律や制約の多い修行という苦行を行うのも同じことが言えるのではないでしょうか。
自由で快適な環境下では強靭な意志と精神を養うことは難しく、目指すべき目標に到達するのも容易なことではありません。そこで、敢えて不遇な環境に身を置くことで成長を促そうとしているのです。
もちろん、自由で快適な環境下で自分を律していくことの方が、大きな精神的成長になると考えて、あの世に残り霊格を上げてゆく者もいるもの事実です。
“真の喜びは魂の成長にある”とも言われるように、私たちはより豊かな魂の成長を図るべく、あの世で指導役の魂や一緒の時代に転生する仲間とプログラムを組んでこの世にやってくるのです。
この問題と回答を知っていては意味がないので、この世にやってくるときにあの世の記憶を潜在意識の深いところに眠らせて生まれてくるのです。
この人生には問題集のようなものを予め伏せてあり、今回の人生で与えられた境遇は決して偶然ではなく、あの世において自分で選んできたことなのです。あの世において決めた試練なのであり、この試練や苦難の中から学び魂を磨いていくのです。
人間の真の喜びは魂の成長にあり、この世での成長にも個人差があって、早く学び終える者もいれば、ゆっくりと学ぶ者もおります。
それを現世では寿命というのです。
すべては自分に与えた課題が人生の最適なときに生じるように設定されており、その問題が派生したときに「良心的な愛のある解決方法」を選択したか、「良心的でない愛のない解決方法」を選ぶかという選択肢を用意しているのです。
そして、この選択肢の如何によって、魂が磨かれるようになっているのです。
愛のある解決をすると、不思議と助けてくれる人や支えてくれる人が現れ充実した人生を送れるようになります。
それに対し、愛のない選択をすると、争いや疑いに満ちた方向へ進んで苦難が付きまとう人生を送ることになるのです。
そして、人生の課題を解決した者は次なるステップへと進み、未解決の者は依然として問題として残っており、今生または来世でさらに厳しい試練を受けることになります。
未解決の者も人生のある時点で自分の姿に反省し、生き方を変えることにより人生が好転し、次なるステップに進めるように輪廻転生の仕組みが施されているのです。
そうでなければ人生は失敗の許されないものになってしまい、失敗した者には絶望しか残されない過酷なものになってしまいます。だから、失敗してもまた挑戦できるように、輪廻の仕組みがあるのです。
予め設定された課題のことを運命とも言うのでしょうか、人生はすべて決められたものではなく、無数に分岐する枝葉のようなものであり、すべての選択において自主判断をしており、不遇な現状を運命や運のせいにはできない自己責任を課せられたものなのです。
そして、心理的精神世界で課題としてきた運命を変えられないと心で思えば変わりません。
しかし、精神世界はイメージやビジョンの世界なので、その想いという心が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば人格が変わり、人格が変われば運命が変わってゆくように、精神世界での変化が現象世界に影響を及ぼし現実となるのです。
すべての出来事、すべての時には意味があり、自分が自分に与えた問題集も一人では問題提起することができないので、共に学び合い、共に助け合う仲間が必要になってくるのです。
今回の人生において出会う者すべてが、多かれ少なかれ共に学び会う仲間なのであり、
「出逢うべくして出会う、一瞬たりとも遅すぎず、また早からず」
同じ時代を共に生きる友達:ソウルメイトなのです。
自分の周りにいるすべての者、好きな人も、嫌な人も、みんな理由があって自分の成長のために存在してくれているのです。
人生は、親と子、兄弟と姉妹、パートナー、恋人や友人、会社の上司や同僚・部下など、色々な人々によって私たちの人生は支えられているのであり、すべての者の関係性の上に成り立っているのです。だから人という字は支え合っているのです。
その中でも、より心の絆の深い関係にある者は、役割や関係を入れ替えながら共にグループ転生するソウルメイトなのです。
だからこそ、仏教では慈悲と感謝を、キリスト教では隣人愛を、儒教では仁(人が二人と書いて、人は一人では生きてゆけないので、お互いに支え合い助け合う気持ちが必要とのことから)という思いやりを、すべての宗教が教えとしていることはこのことから派生しているのです。
この世での優しさという愛を学び終えてきた者たちは、生前に関係した者や指導役の光の存在に温かく迎えられて、この世での学びの自己評価をし易いように生前のビジョンを省みさせてくれます。
それをこの世界では走馬灯というのですが、それを追い体験する時に痛感する後悔や罪悪感・自責の念などの苦しみが地獄の様子を生み出しているだけで、地獄などというものはそもそも存在しないのではないでしょうか。
そして、多くのものに愛情を与え、優しさや喜びを分かち合い幸せにしてきたときに感じる幸福感・満足感が天国のような満たされた様相を生み出しているのだと思います。
この指導役の魂たちは、“すべての体験は魂の成長のためにあること”を教えてくれ、その評価により次の転生において何を学ぶかを話し合い、そのためのプログラムを組む助言と審査が、裁判を受けているように感じるから、七日ごとの裁判の思想などが生み出されたのだと考えます。
そもそも、あの世とは天国も地獄もない安らぎの世界であり、愛情と癒しに満ちたソウルメイト(パートナー)がいるもう一つの世界なのです。
あの世という心理的精神世界は、この世で言うような物質がない世界なので、すべてのものが物質ではなくイメージとして現れます。
だから、あの世では時間や空間の観念が異なり、イメージというビジョンがすべてとなって、想いこそが現実となって表れてくるのです。
最近、書店に出回っている人生読本や成功哲学本などでは、脳に眠っている潜在意識を活用して、強くイメージし明確なビジョンにすると現実もそうなってゆくと言っております。
まさに心理的精神世界のことをよく理解して把握しており、その応用を現象世界であるこの世に活かすための方法を説いているのです。
現象世界と精神世界はお互いに影響し合っており、無宗教を自称する科学的思考の人ほど、このような人生哲学読本(潜在意識活用法)を読んで共感していることと思います。
これは裏を返すと、唯物論者も精神世界のこととも知らずに認めているのに、物質に囚われているために素直にそれを認めることができないだけなのです。
知識や理論に囚われて、心をがんじがらめにしてしまい、素直に感じる感性という、もう一つの知性を忘れてしまっているのです。
精神世界と呼ばれるあの世なんて存在しなく、輪廻転生なんてありえないこととして、人生は一回限りのものであると考えている唯物論者にとって、あの世は脳が作り出した“まぼろし”で物質世界こそがすべての現実であると考えられていることでしょう。
しかし、あの世から見ると物質に囚われている世界こそ実態のない“まぼろし”であり、意思が伴う精神世界こそが、この世とあの世のすべてに通じる実体であると悟るのです。
分かり易く言うと、家を建てるのに、ただ家ができるのではなく、まず建築家の頭の中で思い描いたものが図面となり、それを大工さんが見て、どれをどのようにしたらいいのかを思い描いて、脳から体に指令を送り体を動かして、家が出来上がってゆくように、心で思い描いたことが現実となるのです。
このことに気づいたお釈迦さんは、このプロセスを遡り囚われである煩悩から解放されることで、心に思い描くビジョンの段階に辿り着き、自由な心境を得ることを悟りとし、この自由な心を悟りを得たものを仏(本来の自己である魂に目覚めた者)と言っていたのではないでしょうか。
確かエマーソンか誰かの言葉ですが、このように言っていました。
「火が光の始めであるように、
愛が知識の始まりである」
人類は火の存在に怯え慄いていた時代から、火を扱うことによって便利になるという知識を得た。そして、原始時代の最初の争いの原因は“火種”の奪い合いから始まってしまった。
理想としては、火を分かち合い、より豊かに生活するために使うことで、愛が生まれ、この愛という知識をもとに文明を進歩させていかなくてはならなかったのだが、生活環境が厳しい時代では自分が生き残ることが最大の優先事項であった。
それが物質という火に囚われ、火をコントロールすることで文明は進歩を遂げ、ついには火によって生命を奪い合う戦争という火種に発展してしまった。その火はコントロールを超えて、今や地球全体を覆う温暖化という未曾有な事態にまで進展してしまったのです。
人類はこの最初の段階で大きな過ちを犯してしまいました。
本来は、「火」という物質世界において「光」である心理的精神世界の魂は磨かれ成長すること、「愛」という優しさの精神から「知識」という正しい世界観を理解して文明を進歩させてゆかなければならなかったのです。
しかし、知識の始まりは愛からでなければならないのに、火という物質に囚われたために光という魂の存在を見失い、愛を失ってしまった文明を進展することになってしまったのです。
もう一つの観点からすると、アダムとイブも禁止されていた「知恵の実」を食べてしまったことから、永遠の命である世界から追放されてしまったのですよね。
このエピソードにおいても、愛から知識が生まれなければならないのに、禁断の果実という物質に囚われてしまったがために、神の愛を失い地上に追放されることになってしまったのです。
この教訓からか、仏教は物質の囚われからの解放を悟りとして、キリスト教は愛を説くことで、共に失ってしまった精神世界を取り戻そうとしたのではないでしょうか。
両者のアプローチは異なっていても、共に求めていたものは同じことなのです。
私たちの愛するパートナーたちの存在価値は急速に高まってきており、彼らは現象界と精神世界の橋渡しをするために、遣わされた天使とさえ感じるほどです。
彼らは敢えて制約の厳しい肉体に宿り、この世で私たちと優しさという愛を学び合うべく、あらかじめ約束して共に転生してきたソウルメイトなのです。
それを産まれてきたときに、記憶の奥底にしまい込んでしまって、思い出すことができないでいるのです。
だから亡くなった時に、これほどの深い悲しみを経験し、約束を果たせなかったと後悔に苦しみ、心から何かをしてあげたいと想いを募らせるのです。
だからこそ、これほどまでに深い繋がり感じるのであり、パートナーとの交流という優しさのひとつひとつが積み重ねられて絆となって、見失ってしまった絆を再び紡ぎ、“気づき”を与えてくれる愛情の深さ故に、悲しく切ない想いするのではないでしょうか。
長くなりそうなので、またいつか…
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