Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   人と猫の交わり
 今回は人と猫が交わり始めた古代エジプトでの様子をみてみましょう。
 
 どうやら、家猫の祖先は古代エジプトから始まっているようです。紀元前2000年くらいから、猫は疫病をもたらすネズミや恐ろしい蛇を捕まえてくれる益獣として、また癒しをもたらす動物として家庭でも欠かせない一員になっていたようですね。
 そして、その独特の生き方(独立的)が他の家畜にはないものであり、太陽の運行に沿って変化する瞳の神秘などからも特別な生き物として崇められるようになり、猫は神聖な存在として崇拝されていったのです。
 その崇拝の様子はエジプトの美術展などに行けば見られると思いますが、猫の頭と人間の身体をもつ猫神は、歓喜と太陽の豊穣の温かさを示す女神バスト(バステト)とされています。
 また、有名なものでは太陽神の象徴であるスフィンクスで、頭部が人間で胴体がライオンの創造物などもあります。
 古代エジプトでは猫科以外の動物なども信仰の対象であったのですが、身近にいながら神秘的な存在感がライオン信仰の影響もあって次第に神と結びついてゆき、女神バステトは雌ライオンの頭部を持つ半神半人から雌猫の頭部を持つように変わっていったのです。
 この猫神バストはライオンの神テフヌトと同一視されることもあり、バストとテフヌトは太陽神ラーの娘とされ、太陽の左目として温かさを表す神とされる一方で月を表す神とされることもあるのです。
 ヨーロッパや中国でも、猫の瞳が太陽の運行や月の明かりに沿って変化してゆく変幻自在のものと考えられていたので、太陽や月としての二面性を持つ者として扱われていたのです。
 特に、中世ヨーロッパなどでは猫は魔女そのものであったり、魔女の手下であったりして、猫は良い意味でも悪い意味でも神秘性を備えた存在と見なされてきたのです。
 この猫の瞳の神秘性をアイルランドのケルト人は、「猫の目を入り口として人間は他界を知る」ことができると考えられていたので、ケルトに代表される渦巻き模様は、猫の瞳を象徴しているのです。
 この象徴は、生命の永遠性や輪廻転生のシンボルともされており、渦巻きが瞬間に湾曲したりする独特の風土と、瞳孔が中心に向かって収束したりする様子が猫の瞳の変化に似ていることから重なったものと考えられます。
 
 猫が太陽の神や月の神として同一視される表裏性と神として崇拝される反面、魔女や化け猫(中国から日本にかけて)とされたりする矛盾性は、その瞳に覆い隠されている知性に関係していると思われます。
 人間は知性を持っているが故に、様々な矛盾した心を持っていますが、自然界ではお互いに対立する力が自ずとバランスを取り合って成り立っているのです。自然の法則も宇宙の運行も、それぞれが自由に(本性)働きながらバランスを取っている時が最も良く輝くもので、猫の矛盾を整合して自立する姿と瞳の輝きの変化などから、人は猫に魂を見たのではないかと思います。(猫が心理療法の過程でも多く登場するので、ユング派の分析家も猫についてはいろいろと論じています)
 猫の目は太陽とも月ともされるように、世界の表と裏を表しているかのようで、太陽のような温かい優しさと月のようなしなやかな癒しの両面を備えた独立性、獲物を襲う時の獰猛性が表裏をなしており、その様子がまさに神の使者であるかのように感じられたのだと思います。
 私自身も猫の瞳(プロフィールにある子たち)によって、種族を超えた言葉や愛情、その瞳の奥にある魂について考えるようになっていったので、ケルト人が言うように、猫の目を通じて他界を知ったと言えるのです。(過去生においてケルトにいたのかもしれませんね)
 
 犬や猫にとどまらず様々な動物たちが神の使者として地上に使わされ、人間と自然(神)との関係性を回復させるために私たちと心の絆を深めて、それを感じるようにしているのです。
 古今東西を問わずパートナーたちは、私たちに癒しを与えてくれた目には見えない羽がある天使だったようですね。
 
 余談になりますが、
 徳川綱吉によって犬が寵愛され、生類憐みの令が出され“お犬様”となり、命を奪った者が処刑されたように、古代エジプトにおいても同様のことがありました。
 ペルシャの使節が誤って猫を殺してしまったときに、王様はペルシャとの関係が悪くなってはいけないので民衆を説得したのですが、王の命令よりも猫の命の価値が優先されて、民衆によって処刑されたこともあるそうです。
 世界的に有名な詩人や貴族においては、愛犬のために大きな石碑を立たり、お墓を作ったりしたように、古代エジプトでは愛猫のために丁重にミイラ(寵愛されていた表れ)にして一緒のお墓に入ったり、王族と同じくピラミッドを作るほどであったのですから、愛は時空を超えて存在する“愛は永遠である”というのが、何となく理解でる気がします。
 パートナーたちへの思い入れは、昔からのことで最近になって始まったことでないことが伺えますね。
 ペットロスだって同様に、今に始まったことではなく、過去においても存在していたが、心の時代ではなかったので、表に出てこなかっただけです。
 それを近年「ペットロス症候群」などと言って、人との関係を築けない人、特殊な人が陥る現代病などのように考えている人(知識人)が多いように思いますが、机の上でしか生きられない人たちで、何も分かっていないのと、そのようにしか考えられない特殊な人たちなのではないでしょうか。
更新日時:
2002/07/14
   人と犬のはじまり…
 どうやら、人間と動物の共存生活の最初は犬の祖先が最初のようですね。
 原始時代の人は、いつ大型の肉食獣に襲われるかという不安な状況で生活をしていました。
 人は二本足で歩くようになって獣のように早く走ることはできなくなり、嗅覚や聴覚においても他の動物より劣るので、大型の肉食獣に警戒して安心して睡眠することができなかったのです。
 その反面、火や道具を使うことにより、動きの遅い大型草食獣であるマンモスなどを捕食することで原始生活は潤うようになった。
 
 犬族の祖先は鋭い牙や爪を持ち、俊敏な足を備え、優れた臭覚と聴覚を使い、集団で狩をすることで生活を営んでいた。
 そして、獲物が取れないときには、草などを食べて飢えを凌いでいたことから犬の祖先は雑食性になったのです。
 この両者の生存にあたっての問題点は、人間においては肉食獣からの警戒における睡眠不足があり、犬の祖先においては食料の安定供給があったのです。
 犬族は中型草食獣を捕食しており、人間とは狩において競合することはなかったのですが、大型草食獣の減少により競合するようになってきて、競い合うことからお互いの欠けたところを補うパートナーとして共存するようになっていったのです。
 それは、こんなエピソードから始まったようです。
 
 原始時代の生活で、するどい牙や爪もなく、臭覚や聴覚に劣る早く走れなくない人間にとって、いつ肉食獣に捕食されるか分からない生活はとても危険で、心休まるときがない毎日を過ごしておりました。
 その警戒から深く眠ることができなく、常に睡眠不足状態に陥っていました。
 人間が狩猟生活で移動しながら生活していたときに、ジャッカル(トマークタスという犬属の祖先から狼やジャッカルなどの原型に進化した)は内臓や皮などの残飯を得るためにいつも人間の群れの後を付いて行動しておりました。
 いつも側にいるので平気で火に近づき、見え隠れしながら近寄って来ては食料を奪うジャッカルは、人間にとって邪魔者以外の何者でもなかったのです。
 そんな中で、ある若者がジャッカルは敵の襲撃をいち早く察知し、お互いの警戒音で危険から逃れているもの知って、わざと食料を与えることで側に置いておこうと考えたのです。
 このとき、近寄ってくるジャッカルに矢を射る者もいて、信頼関係を築くのは大変だったようです。
 それから、ジャッカルが側にいる時は安全で、警戒音を鳴らして近づかない時は危険であることを察知することができるようになったのです。
 そんな中で、たまたま親を失ったジャッカルの子を群れで育て、同じ社会性をもつ人間と犬の祖先が一緒に暮らすようになったのが始まりとなります。
 この偶然のような出来事から、人間はいつ襲ってくるかわからない大型肉食獣から安心して眠れるようになって、睡眠時間の増加に伴い脳も発達して知識を増やし、犬の祖先は食料の安定供給から子孫を増やすことができるようになったのです。
 そして一緒に暮らしているうちに、人間と動物の間に同じ仲間としての感情が生まれ、肉体的・精神的にも人間に安らぎをもたらした初めての動物が犬の祖先であったのです。
 その後、同じ大きさでも知能に優れ(20%くらい脳が大きい)、より近い社会性をもった狼が選ばれ、改良を重ねて犬という種族がパートナーとして一緒に暮らすようになったのです。
 原始時代においても現代においても、犬は人間に安らぎや癒しをもたらしてくれる最良のパートナーであったようですね。
 さらに、人間と犬の顔の筋肉の構造が似ており、喜ぶと耳がたれ唇の筋肉が引かれて笑っているような表情をするので、なおさら感情を共にして絆を深めていくことになったと思われます。
 
 このようなことからお互いに必要としていたという条件付きの共存から、親を失った子犬(犬の祖先)が可愛そうで育てたことがきっかけとなり、一緒に生活していくことで、心癒され心の絆を深めていったのです。
 そんなパートナーとの関係は歴史的にも長く、徐々に関係が成熟してきているので、亡くなって悲しいのは当然のことであるし、程度の差はあれ誰もがペットロスを経験するのです。
 これだけ時代を経た今でも、「たかがペットのことで…」と口で矢を放つ者がいるのは進歩していないのか、過去生でも同じように弓を放っていたのではないかと考えてしまいます。
 
 イスラムの諺に「銃で撃たれた傷はやがて治るが、口で言われた心の傷はなかなか癒えない」というものがありますが、そのような心の傷をもパートナーたちは癒してくれるとても尊い存在なのです。
 
 犬も猫もその他のパートナーも、いずれも私たちにとって最良のパートナーであり、優劣などそもそも存在しないのですが、このように書くと猫ファンが「がっかり」するでしょうから、次回は猫と神の関係について古代エジプトでの様子をコラムにしてみましょう。
 
更新日時:
2002/07/14
   ソウルメイト…
 さて、何で自由で束縛のない世界から、わざわざ肉体的に束縛され、悲しみや苦しいことのあるこの世に転生して生まれてくるのでしょうか。
 そのあたりを前回、前々回のコラムなども考えながらお話したいと思います。
 
 臨死体験や過去生への退行睡眠による精神療法などからも次第に明らかになってきているように、死後の生存に関するデータが蓄積されて客観的実証性を高めてきております。
 宇宙には物質的な世界と心理的な精神世界の二つがあり、この二つの世界はお互いに影響しあって存在しているのです。
 私たちが肉体を伴っているこの世では、あの世では体験できない経験をするために生まれてきて、この世での生を終えて肉体という制約から解放された精神は、またあの世である精神世界に戻ってゆくのです。
 そのときの記憶を肉体という制約下のもとでは、心の働きも制約を受けるために通常では思い出すことができない。
 それが非日常的な意識状態において、潜在意識に眠っていた記憶を思い出すことがあるのです。
 この意思をもった精神のことを霊とも魂とも言うのですが、この精神は常に存在して肉体という衣を着替えながら、この世とあの世を行ったり来たりしているのです。
 魂こそが永遠に存在する真実の姿なのであり、その姿は光のようであるとも喩えられます。正確に言うと光であるのですが、それは波動や波長というもので、その波長の強さによって輝きが異なってきます。
 臨死体験者の語る眩しい光の存在とは、魂としての格が高まった霊的存在であり、すべてのものは本来的に光なのです。
 光が波長によって輝きを異にするように、この本来的な魂も成長の段階によって輝きを変えてゆきます。優しさや愛を多く蓄えたものは強く眩しく輝きますし、まだまだ未熟な段階の魂の輝きはさほどでもありません。
 臨死体験や宗教的神秘体験にあるような眩しい光の存在とは、霊性の高い魂のことを指しており、時には神として捉えられたり、宗教上の教祖などと感じたりすることがあります。
 すべての者は生まれてから死ぬまで霊的な存在に導かれており、このような光の存在の指導者のことを守護霊とも言い、宗教や信条の如何に関わらずあの世から見守ってくれている者がいるのです。
 もちろん、私たちの愛するパートナーたちも、この光の存在となって私たちをあの世から見守ってくれていることでしょう。
 
 (話は脇道に逸れますが、昔の人は死ぬと星になって天に昇り、いつも私たちを見守ってくれる夜空の星になると信じておりました。手を伸ばしても届かなく、暗い夜空を照らして見守ってくれる星に魂とあの世を見立てていたのではないでしょうか。私自身も夜空の星々に向かってみんなと話をしている一人であるりますけど…)
 
 そして、あの世という快適で自由な環境では大きな魂の成長は望めないので、この世で肉体的制約という試練の場で優しさという愛を学ぶために、この地上に舞い降りてくるのです。
 この世での喜びや悲しみなどの出来事はすべて意味のあるもので、魂の成長に欠かせない予定してきたプログラムなのです。
 宗教的真理を得ようとする宗教者や、道を究めようとする武道家が、敢えて規律や制約の多い修行という苦行を行うのも同じことが言えるのではないでしょうか。
 自由で快適な環境下では強靭な意志と精神を養うことは難しく、目指すべき目標に到達するのも容易なことではありません。そこで、敢えて不遇な環境に身を置くことで成長を促そうとしているのです。
 もちろん、自由で快適な環境下で自分を律していくことの方が、大きな精神的成長になると考えて、あの世に残り霊格を上げてゆく者もいるもの事実です。
 “真の喜びは魂の成長にある”とも言われるように、私たちはより豊かな魂の成長を図るべく、あの世で指導役の魂や一緒の時代に転生する仲間とプログラムを組んでこの世にやってくるのです。
 この問題と回答を知っていては意味がないので、この世にやってくるときにあの世の記憶を潜在意識の深いところに眠らせて生まれてくるのです。
 この人生には問題集のようなものを予め伏せてあり、今回の人生で与えられた境遇は決して偶然ではなく、あの世において自分で選んできたことなのです。あの世において決めた試練なのであり、この試練や苦難の中から学び魂を磨いていくのです。
 人間の真の喜びは魂の成長にあり、この世での成長にも個人差があって、早く学び終える者もいれば、ゆっくりと学ぶ者もおります。
 それを現世では寿命というのです。
 
 すべては自分に与えた課題が人生の最適なときに生じるように設定されており、その問題が派生したときに「良心的な愛のある解決方法」を選択したか、「良心的でない愛のない解決方法」を選ぶかという選択肢を用意しているのです。
 そして、この選択肢の如何によって、魂が磨かれるようになっているのです。
 愛のある解決をすると、不思議と助けてくれる人や支えてくれる人が現れ充実した人生を送れるようになります。 
 それに対し、愛のない選択をすると、争いや疑いに満ちた方向へ進んで苦難が付きまとう人生を送ることになるのです。
 そして、人生の課題を解決した者は次なるステップへと進み、未解決の者は依然として問題として残っており、今生または来世でさらに厳しい試練を受けることになります。
 未解決の者も人生のある時点で自分の姿に反省し、生き方を変えることにより人生が好転し、次なるステップに進めるように輪廻転生の仕組みが施されているのです。
 そうでなければ人生は失敗の許されないものになってしまい、失敗した者には絶望しか残されない過酷なものになってしまいます。だから、失敗してもまた挑戦できるように、輪廻の仕組みがあるのです。
 
 予め設定された課題のことを運命とも言うのでしょうか、人生はすべて決められたものではなく、無数に分岐する枝葉のようなものであり、すべての選択において自主判断をしており、不遇な現状を運命や運のせいにはできない自己責任を課せられたものなのです。
 そして、心理的精神世界で課題としてきた運命を変えられないと心で思えば変わりません。
 しかし、精神世界はイメージやビジョンの世界なので、その想いという心が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば人格が変わり、人格が変われば運命が変わってゆくように、精神世界での変化が現象世界に影響を及ぼし現実となるのです。
 
 すべての出来事、すべての時には意味があり、自分が自分に与えた問題集も一人では問題提起することができないので、共に学び合い、共に助け合う仲間が必要になってくるのです。
 今回の人生において出会う者すべてが、多かれ少なかれ共に学び会う仲間なのであり、
 
「出逢うべくして出会う、一瞬たりとも遅すぎず、また早からず」
 
同じ時代を共に生きる友達:ソウルメイトなのです。
 自分の周りにいるすべての者、好きな人も、嫌な人も、みんな理由があって自分の成長のために存在してくれているのです。
 人生は、親と子、兄弟と姉妹、パートナー、恋人や友人、会社の上司や同僚・部下など、色々な人々によって私たちの人生は支えられているのであり、すべての者の関係性の上に成り立っているのです。だから人という字は支え合っているのです。
 その中でも、より心の絆の深い関係にある者は、役割や関係を入れ替えながら共にグループ転生するソウルメイトなのです。
 だからこそ、仏教では慈悲と感謝を、キリスト教では隣人愛を、儒教では仁(人が二人と書いて、人は一人では生きてゆけないので、お互いに支え合い助け合う気持ちが必要とのことから)という思いやりを、すべての宗教が教えとしていることはこのことから派生しているのです。
 
 この世での優しさという愛を学び終えてきた者たちは、生前に関係した者や指導役の光の存在に温かく迎えられて、この世での学びの自己評価をし易いように生前のビジョンを省みさせてくれます。
 それをこの世界では走馬灯というのですが、それを追い体験する時に痛感する後悔や罪悪感・自責の念などの苦しみが地獄の様子を生み出しているだけで、地獄などというものはそもそも存在しないのではないでしょうか。
 そして、多くのものに愛情を与え、優しさや喜びを分かち合い幸せにしてきたときに感じる幸福感・満足感が天国のような満たされた様相を生み出しているのだと思います。
 この指導役の魂たちは、“すべての体験は魂の成長のためにあること”を教えてくれ、その評価により次の転生において何を学ぶかを話し合い、そのためのプログラムを組む助言と審査が、裁判を受けているように感じるから、七日ごとの裁判の思想などが生み出されたのだと考えます。
 そもそも、あの世とは天国も地獄もない安らぎの世界であり、愛情と癒しに満ちたソウルメイト(パートナー)がいるもう一つの世界なのです。
 あの世という心理的精神世界は、この世で言うような物質がない世界なので、すべてのものが物質ではなくイメージとして現れます。
 だから、あの世では時間や空間の観念が異なり、イメージというビジョンがすべてとなって、想いこそが現実となって表れてくるのです。
 
 最近、書店に出回っている人生読本や成功哲学本などでは、脳に眠っている潜在意識を活用して、強くイメージし明確なビジョンにすると現実もそうなってゆくと言っております。
 まさに心理的精神世界のことをよく理解して把握しており、その応用を現象世界であるこの世に活かすための方法を説いているのです。
 現象世界と精神世界はお互いに影響し合っており、無宗教を自称する科学的思考の人ほど、このような人生哲学読本(潜在意識活用法)を読んで共感していることと思います。
 これは裏を返すと、唯物論者も精神世界のこととも知らずに認めているのに、物質に囚われているために素直にそれを認めることができないだけなのです。
 知識や理論に囚われて、心をがんじがらめにしてしまい、素直に感じる感性という、もう一つの知性を忘れてしまっているのです。
 精神世界と呼ばれるあの世なんて存在しなく、輪廻転生なんてありえないこととして、人生は一回限りのものであると考えている唯物論者にとって、あの世は脳が作り出した“まぼろし”で物質世界こそがすべての現実であると考えられていることでしょう。
 しかし、あの世から見ると物質に囚われている世界こそ実態のない“まぼろし”であり、意思が伴う精神世界こそが、この世とあの世のすべてに通じる実体であると悟るのです。
 分かり易く言うと、家を建てるのに、ただ家ができるのではなく、まず建築家の頭の中で思い描いたものが図面となり、それを大工さんが見て、どれをどのようにしたらいいのかを思い描いて、脳から体に指令を送り体を動かして、家が出来上がってゆくように、心で思い描いたことが現実となるのです。
 このことに気づいたお釈迦さんは、このプロセスを遡り囚われである煩悩から解放されることで、心に思い描くビジョンの段階に辿り着き、自由な心境を得ることを悟りとし、この自由な心を悟りを得たものを仏(本来の自己である魂に目覚めた者)と言っていたのではないでしょうか。
 
 
 確かエマーソンか誰かの言葉ですが、このように言っていました。
「火が光の始めであるように、
 愛が知識の始まりである」
 人類は火の存在に怯え慄いていた時代から、火を扱うことによって便利になるという知識を得た。そして、原始時代の最初の争いの原因は“火種”の奪い合いから始まってしまった。
 理想としては、火を分かち合い、より豊かに生活するために使うことで、愛が生まれ、この愛という知識をもとに文明を進歩させていかなくてはならなかったのだが、生活環境が厳しい時代では自分が生き残ることが最大の優先事項であった。
 それが物質という火に囚われ、火をコントロールすることで文明は進歩を遂げ、ついには火によって生命を奪い合う戦争という火種に発展してしまった。その火はコントロールを超えて、今や地球全体を覆う温暖化という未曾有な事態にまで進展してしまったのです。
 
 人類はこの最初の段階で大きな過ちを犯してしまいました。
 本来は、「火」という物質世界において「光」である心理的精神世界の魂は磨かれ成長すること、「愛」という優しさの精神から「知識」という正しい世界観を理解して文明を進歩させてゆかなければならなかったのです。
 しかし、知識の始まりは愛からでなければならないのに、火という物質に囚われたために光という魂の存在を見失い、愛を失ってしまった文明を進展することになってしまったのです。
 
 もう一つの観点からすると、アダムとイブも禁止されていた「知恵の実」を食べてしまったことから、永遠の命である世界から追放されてしまったのですよね。
 このエピソードにおいても、愛から知識が生まれなければならないのに、禁断の果実という物質に囚われてしまったがために、神の愛を失い地上に追放されることになってしまったのです。
 この教訓からか、仏教は物質の囚われからの解放を悟りとして、キリスト教は愛を説くことで、共に失ってしまった精神世界を取り戻そうとしたのではないでしょうか。
 両者のアプローチは異なっていても、共に求めていたものは同じことなのです。
 
 私たちの愛するパートナーたちの存在価値は急速に高まってきており、彼らは現象界と精神世界の橋渡しをするために、遣わされた天使とさえ感じるほどです。
 彼らは敢えて制約の厳しい肉体に宿り、この世で私たちと優しさという愛を学び合うべく、あらかじめ約束して共に転生してきたソウルメイトなのです。
 それを産まれてきたときに、記憶の奥底にしまい込んでしまって、思い出すことができないでいるのです。
 だから亡くなった時に、これほどの深い悲しみを経験し、約束を果たせなかったと後悔に苦しみ、心から何かをしてあげたいと想いを募らせるのです。
 だからこそ、これほどまでに深い繋がり感じるのであり、パートナーとの交流という優しさのひとつひとつが積み重ねられて絆となって、見失ってしまった絆を再び紡ぎ、“気づき”を与えてくれる愛情の深さ故に、悲しく切ない想いするのではないでしょうか。
 
 長くなりそうなので、またいつか…
更新日時:
2002/07/14
   この世とあの世…
 仏教という視点だけに囚われていると視野が狭くなるので、様々な視点から観察することで本質が見えてくると思います。
 あの世のことについて記してある書としては、チベットの「死者の書」や古代霊(シルバーバーチが有名かな)との霊言を記した書などがありますが、どちらも臨死体験者の経験したことに非常に類似しているので、今回は宗教的な観点ではなく、科学的な観点の臨死体験からあの世の世界観を見てみたいと思います。
 
 臨死体験とは、医学的臨床の観点から死を宣告された者、もしくは亡くなったと思われた者が後になって蘇生した時に語る体験のことを言います。
 この体験の中で多くの方が、肉体から解放された感覚やトンネルを通過すること、光の存在や生前に関係した者、川や門、お花畑や心地よい音楽などの類似した経験を語っております。
 この間は臨床的には脳、心臓などの臓器も停止しており、蘇生するまでの間はこの世にはいなくあの世に行っていたわけで、その間に体験することが全世界において類似している共通していることはとても不思議なことで、魂の世界には違いがないことが見受けられます。
 
T.
 亡くなった最初の段階で肉体から解放され、非常に心地よい感覚になり体の痛みなどは消えて、安らぎや満足感のある快適な感じがすると言います。
 →これは、肉体から解放された自由な魂の感覚を捉えているものであると考えられますし、あの世では病気や身体的障害は取り除かれ健全になることを示しています。
 ちなみに、仏教の世界観では、天界の水は病気や障害を癒すとされていますし、その他の宗教においても聖水として同様のことを述べています。
 
U.
 その後、傍観者のごとく自分の生前の肉体を見ていることに気づくそうです。そのとき自分の体はフワフワと宙を浮いていて、周囲に起きたていることを自ずと理解でき、自分の意識が時間や空間の束縛を超えて広がっていくそうです。
 →これは、魂の世界が3次元とは別の次元(上位次元)であることや、あらゆることが一瞬にして理解できるような性質を帯びている物質的肉体とは異なる霊的肉体を有していることを体験するのです。
 まさに、これが魂であり、死後も魂は存続し生き続けることを示しています。
 仏教やヒンズー教がいうように魂は存在するし、キリスト教が物質的肉体を失い霊的肉体を得るというように、この世の死はあの世の生の始まりであることを示しております。
 
V.
 それから、暗いをトンネルを通り光に満ちた世界に辿り着き、すでに亡くなった者や大勢の見知らぬ魂たちに迎えられ再会を果たし、この光に満ちた世界で素晴らしい色彩を見たり、美しい音楽を聴いたり、宮殿や庭園を見るそうです。
 →このトンネルは生前の地域・風習により表現は異なり、川(東洋で有名なのは三途の川)や門(西洋的には天国の門)を通るといいます。
 そして、すでに亡くなった者たちとの再会を果たすそうで、すでに亡くなってしまった家族や友人、守護霊や指導霊、中にお釈迦さんやキリストさん、神や仏、光の存在とはっきりと感じた人もいるように様々な者が登場するそうです。
 ということは、私たちの愛してやまないパートナーたちもここで再会できると言うことですね!
 
W.
 その後は、光の存在と出会いテレパシー的なコミニュケーションを図るといいます。この光の存在は愛情に満ちた明確な個性を持っており、完全に受け入れてくれて愛情を感じるそうです。
 ここでの会話を敢えて言葉にすると疑問形のようなものだそうで、質問されているのに相手には初めから答えを分かってしまっているように見透かされているので、自問自答のようでもあるそうです。
 →死者の書やその他の霊言などにもあるように、あの世には3人、5人、7人の光の存在(高級霊)がいるようで、このような指導霊や守護霊の方々と生前における質疑応答をするといいます。
 仏教においては、前回のコラムでも書いたように7人の裁判官がおりますように、人それぞれの守護霊や指導霊のことを指すものの現われと考えると、人数の違いについても容易に考えられます。
 
X.
 これらの光の存在が現れるのと同時に、自分の生涯を走馬灯のように必ず振り返るそうです。
 この際に見る映像はとても鮮明で、実際の感覚や動作まで体験するほどリアルなものであり、楽しかったことや苦しかったこと、辛かったことなど人生の瞬間映像とも呼べるナマの感覚を追体験するそうです。
 そして、「人生とは何か」ということを考えさせられ、“他人を愛することを学ぶこと”と悟るようにわかると言われます。
 →この際に見る映像を、仏教では閻魔王の元にある浄玻璃の鏡としているし、その他の宗教では映画館のようなスクリーン映像であるともされております。
 そして、西洋的な宗教においては良心の呵責ともいうべき償いを懺悔し、東洋的には地獄の業火に焼かれる苦しみを経験するのは偶然の一致なのでしょうか。
 共に終えたばかりの生涯での後悔や罪悪感、自責の念が沸き上がってきて、他人に対して行ってきた苦しみがあたかも自分の苦しみであるかのような良心の呵責の念に苛まれ、人生とは愛することを学ぶ場であったことを悟るのです。
 
Y.
 この体験の後には、ある種の境界ともいえるような境(川や霧、扉や門、柵など)に接近するにつれて、その先にある世界が奇麗な草木が生える牧場や虹色の世界、一面の花畑や宮殿を見るそうです。
 そして、この先には話が進まなくなるのも、全員が臨死体験から蘇生してこの世に戻ってくるからです。
 死の世界に足を踏み入れた体験者たちは、安らぎと愛に満ちた世界で、この世に戻ることを忘れているにも関わらず急に引き戻されると言います。
 その理由を体験者に語ってもらおうとしても、ほとんどの人がわからないと答えております。中には、自分で決めたとか、お世話になった者に「まだ来てはいけない」とか、愛や祈りのような磁石に引き戻されたと感じている人もいるそうです。
 →この境の先に見えるのが次の転生先であり天国であり、この境界を越えると転生する世界に行くことになるのでしょうね。前回のコラムでの“最後の鳥居”になるわけですよ。
 以上のことが臨死体験における一般的な流れであります。
 
 このことからも、亡くなった時に見る世界は、各自が所属していた文化によって決まり、そうすることであの世に戻ってきたことを自覚するのに最適なビジョンとしてあらわれるのであると思います。
 洋の東西を問わず死後も生命は存続し、「天国」や「天界」、「冥土」や「極楽浄土」など名称の違いや文化・習慣の違いはあるものの現世と来世があること(ひいては過去生があること)、この世とあの世があることがうかがえます。
 
 話はちょっと逸れるが、西洋宗教では人工中絶を認めていないし、中絶にしろ流産にしろ東洋宗教ではその魂を慰めるべく供養(仏教では水子供養)をするのは、生命の尊さ・魂の存在を理解しているからであり、臨死体験やすべての宗教が示す教えは「愛すること」、「感謝すること」に尽きると言っても過言ではない。
 そして、宗教を持たない私たちのパートナーも同様に、「愛すること」、「感謝すること」を私たちに教えてくれており、言葉や形態、地域や習慣、宗教や無宗教を問わず私たちに大切なことであると言っていい。
 それらのことを悟らせてくれる(私流には他者と自己との差を無くす“差取り”かな)パートナーたちは私にとって神の使い、目には見えない羽のある天使である。
 
 前回は仏教の観点から、今回は科学の観点(もっと深くするなら物理法則と宗教法則の接点の思想もあるけど、それはまたいつか「宗教と科学の接点」とでも題してコラムにします)からソウルな世界を覗いて見ましたが、何でそんな快適な世界からこの制約のある世界に転生してくるのか?という疑問が発生してきますので、次回は転生の仕組みについて「ソウルメイト」と題してコラムにしてみます。
更新日時:
2002/07/13
   天国と地獄…
 亡くなったパートナーたちは、この世での生命を終えて天国(一般的に言われる)に行くと私たちは考えています。
 よく天国とか地獄と言いますが、天国と地獄って何でしょうね。
 もし、天国と地獄があり全く対照的な世界だとしたら、パートナーたちは必ず天国に行っているのでしょうか。
 今回はちょっと天国と地獄についてのお話です。
 
 仏教の世界観では、世界を大きく二つに分けております。
 それは、「輪廻する世界」と「輪廻しない世界」とです。
 この二つの世界の違いは“輪廻”するかしないかであり、生き変わり死に変わり、魂が転々と他の生を受け継いでこの世界を巡ることが輪廻転生で、この世での迷いから悟りを得ると転生しない天上界(仏教的には極楽浄土と言うのかな)へ行けるようになるのです。
 転生をしない天上界と、輪廻転生する世界の二つに分かれ、転生の世界は6つに分けられており、下から地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道となっております。この6つの世界のことを六道輪廻世界と言います。
 亡くなった魂は、この6つの世界を生まれ変わり死に変わり転生し続け、どの世界に生まれ変わるかは、生きている間にした所業(功徳)によって決まります。
 悪をなした者はその度合いによって地獄などに、善をなした者は天に生まれ変わるのです。
 この所業の因果により転生先が決まることを因果応報とも言います。
 
 亡くなった魂は現世と来世の間の中陰(ちゅういん)という世界で、どの世界に転生するのか裁判のような審判を受けます。
 この期間は49日間で、7日ごとに7人の方々から審判を受けるのです。
 亡くなってから7日目に泰広王から審査を受け、ここを過ぎると有名な三途の川にさしかかります。
 この三途の川には3通りの渡り方があり、橋を渡れるのは善をなした者だけで、それ以外の悪人は川を渡らなければなりません。
 悪人でも軽い者は浅瀬を、重罪の者は濁流を渡らなくてはならないことから3つの途(みち)『三途の川』と呼ばれる。
 次には初江王から殺生についての審判を受け、その後は宋帝王から邪淫の審判を受けます。さらに7日後には五官王から言動についての審判を受け、その後は有名な閻魔王の審判なるのです。
 ここには“浄玻璃”という水晶でできた鏡があり、生前の悪業のすべてが映し出されてしまうので審判が下るのですが、遺族の追善供養や懇願に応えて最終審判を次の変成王に委ねることになります。
 変成王の下では、五官王と閻魔王の報告に基づいて再審するのですが、念には念を入れて49日目の泰山王に最終判決を委ねることになるのです。
 最後の泰山王の審判はちょっと変わっており、6つの鳥居を示してくぐることを最後の審判としております。
 この鳥居の先には六道輪廻の世界に通じており、どの鳥居を選ぶかは選択眼にかかっており、この選択眼こそが生前に培った所業(功徳)の結果にほかなりません。
 こうして冥土の旅を終えて因果が反映された輪廻先が来世になるのです。
 
 さて、私たちのパートナーは動物ということでどんな転生先が待っているのでしょう。
 まずは、動物ということで裁判上の殺生・邪淫・言動についてはほとんど通過していると言ってよいでしょうね。
 そうなると、最後の鳥居の選択まですんなりきてしまいますので、審判をすることなく特例で49日を経ずに転生する可能性もあるのですが、結局は最後の選択眼という因果応報の理に従わなくてはなりません。
 そこで、どれだけ家族や仲間を愛してきたか、どれだけ家族や仲間に愛されてきたか、何か気づきを与えることができたのか、動物としての本分を全うしてきたか、などが選択眼の基準になってくるのではないでしょうか。
 まず悪いこと(人間の都合上ではなく本能に従っているだけ)なんてしていないのだから、下の地獄、餓鬼には落ちないし、真ん中の畜生(私の大嫌いな言葉です!だから動植物と言い直せばいいのに)、修羅にもならないでしょうね。
 となると、人間か天道に進むのが妥当と考えざるおえません。
 彼らは、私たちに優しさや喜びを多く与えてくれたのだし、私たちにいっぱい愛されたのだし、私たちに優しさを教えて善行を積めるように手助けしてくれているのだから、当然のごとく天国に行けるはずだと思います。
 
 今度はいろいろと話がしたいと考えて人間の道を選ぶこともあるでしょうし、天国に進み私たちを見守り守護する道を選ぶこともあるでしょう。
 また、私たちがまたパートナーとして再会したいと強く願う時には、パートナーもまた再会したいく敢えて動物の道を選ぶこともあるでしょう。
 それも生前の愛情関係によって培われた選択眼によるもので、どの道を選ぶかは私たちとの心の絆による因果応報と言うことになるのですね。
 でも、私たちが出会ったパートナーたちが善行の少なさからペットを選んだとは考えられないのは私だけではないと思います。
 
 私の考えでは、天国に行った善行ある者も輪廻の世界にある限り、その生を終えて輪廻の鳥居をくぐらざるおえません。
 そこで、この輪廻の世界から脱し(ほとんどが満たされている天界の生を終えるのは地獄の16倍の苦しみとも言われます)、輪廻しない世界である天上界に転生して神(一般的に思われる)となるべく修行をするためにペットの道を選ぶのだと思います。
 それ故に容姿・言動を抑制され、本能に従いながら生きているにも関わらず、愛情や優しさを伝えること・受けることを学ぶために私たちに接するのです。
 私たちに接する動物たちは昔から神の使いとされておりましたのも、神になるべく修行している者だから神の使い(西洋的にはエンジェルかな)なのであって、名代を任せられるほど心が澄んでいる者だからこそなのだと思います。
 私がパートナーたちに純な魂を、ピュアな心を感じているのはこの聖なのだと思いますし、亡くなった時の悲しみや後悔が大きいのもこの聖と自分の罪の差が大きいからでしょうね。
 また、亡くなってから魂や神や仏、天国や来世や転生などいろいろなことを考えさせられるのは、まさに神の使いである天使なのだからであって、あの世の一端を垣間見させてくれるのではないでしょうか。
 
 あなたのパートナーは天使なんですよ。感じたことありませんか?
 
 今回は仏教的な観点から大まかに眺めてみましたが、次回はこの続きで『あの世とこの世』と題し、更なるソウルな世界について話したいと思います。
更新日時:
2002/07/13

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