Column
 
みなさまの心に少しでも安らぎが訪れるように祈っております。
そして、ペットロスの癒しになればと想っております・・・
どれか一つでも心に響きますように。
   虹の橋…
 ご存じの方も多いと思いますが、「虹の橋」という詩です。
 
『虹の橋』
天国の、ほんの少し手前に「虹の橋」と呼ばれるところがあります。
この地上にいる誰かと愛しあっていた動物は、死ぬとそこへ行くのです。
そこには草地や丘があり、彼らはみんなで走り回って遊ぶのです。
食べ物も水もたっぷりあって、お日さまはふりそそぎ、みんな暖かくて幸せなのです。
 
病気だった子も年老いていた子も、みんな元気を取り戻し、傷ついていたり不自由なからだになっていた子も、元のからだを取り戻すのです。
・・まるで過ぎた日の夢のように。
 
みんな幸せで満ち足りているけれど、ひとつだけ不満があるのです。
それは自分にとっての特別な誰かさん、残してきてしまった誰かさんがここにいない寂しさのこと・・。
 
動物たちは、みんな一緒に走り回って遊んでいます。
でも、ある日・・その中の1匹が突然立ち止まり、遠くを見つめます。
その瞳はきらきら輝き、からだは喜びに震えはじめます。
 
突然その子はみんなから離れ、緑の草の上を走りはじめます。
速く、それは速く、飛ぶように。
あなたを見つけたのです。
あなたとあなたの友は、再会の喜びに固く抱きあいます。
そしてもう二度と離れたりはしないのです。
 
幸福のキスがあなたの顔に降りそそぎ、あなたの両手は愛する友を優しく愛撫します。
そしてあなたは、信頼にあふれる友の瞳をもう一度のぞき込むのです。
あなたの人生から長い間失われていたけれど、その心からは一日も消えたことのなかったその瞳を。
 
それからあなたたちは、一緒に「虹の橋」を渡っていくのです・・・。
 
 
 涙がでるほど感動的な詩ですね。
 作者の心が言霊(言葉に魂が宿る)となって心を揺らし、心の底に伝わってきます。
 この詩は海外のもので作者は不明です。
 これを誰が作ったかではなく、なぜこれほどまでに心を惹きつけるのでしょう。
 それが真実であるからだと私は言えます。
 多少の表現の差はあれど、ソウルな世界をよく理解した方が作詩したものだからです。
 私たちもその世界から来ているので、心の底の深い記憶(魂)が揺さぶられるので感動するのです。
 あちらの世界では食べ物も水も豊富で何不自由なく暮らしています。ただ、あるのではなくて、正確に言いうと世話をしている方々がいるからです。
 それは、この世で動物たちと深い交流をして亡くなった人たちが、転生せずにみなさんのパートナーに再び出会えるように世話をしてくれているのです。
 それは、動物好きの人や獣医さん、動物に救われた人などいろいろです。この世での想いや技術、管理や世話のプロフェッショナルな方々がボランティアをしているのです。
 あちらの世界の水は病気や障害を治し、元の健康な状態にしてくれるのです。私たち僧侶は、亡くなった者をその池までの道案内をするガイドなのです。
 もちろんガイドがいなくたってたどり着くことができるでしょう。
 それは皆さんのパートナーへの想いが彼らを導いくれるからです。
 そして一緒に虹の橋を渡り、共に暮らすこと、共に転生するためのプログラムをするのでしょう。彼らは常に一緒にいる成長し合うソウルメイトなのです。
 生前の愛情関係にあったものは必ずまた出会えます。
 こちらの世界でもあちらの世界でも。
 想いがあるかぎり…。
 
 私はこのボランティアの方々に敬意を表します。自分だってパートナーと一緒にいたいだろうけど、敢えてみんなのために留まり世話をしてくれているのだから…。
 現世においても他人のために何かをすることは素晴らしいことであり、死後も行いをする方々に感謝せずにはいられません。
 私は僧侶として、現世からの道案内をするガイドでもあり、死後はあちらの世界から現世へのパートナーを紹介するコーディネーターになりたいと思っています。
 このことを考えている時に、ふと思い出した言葉があります。
 私の尊敬する修行寺の副住職の言葉です。
 「僧侶はより豊かに暮らすための道案内人であり、生活のコーディネーターなのである」
 言葉の意味するところは、現代生活をより豊かにするために仏法を説き、心に安らぎという安楽の法を与える調整する役目を担っているというものだと思います。
 もちろん、この世のコーディネーターであることはもちろんですが、この世での経験はあの世でコーディネーターになるための修行なのではないか?
 現世での修行を円滑にするために調整するコーディネーターとなるために、現世での最後をよく見届けよと僧侶になったのではないか?と思うことがあります。
 
 私はそんな僧侶です。
更新日時:
2002/07/12
   かけがえのないプレゼント…
 私たちがパートナーから貰うかけがえのないプレゼントって何ですかね?
 それ自体が財産であり、どんなものよりも素晴らしいもので、どこにいようと心が満ち足りる。
 いつまでも幸せでいられる不思議なプレゼント。
 私たちが愛したパートナーたちが最後に気づかせてくれるプレゼント。
 そんな不思議なプレゼントって何でしょう。
 
 今を生きている命です。
 
 今を生きている瞬間瞬間の命(時)はかけがえのないもので、過去でもなく、未来でもなく、常に今こそがかけがえのないものなのです。
 今のあるがままの状態がすべてであり、完全でもなく、思い通りにならないことも多い、今の心が現在のすべてあるからこそ、かけがえのないものなのです。
 
 「何でもっと早く気が気づかなかったのか」「あの時、こうしていれば」と言うように、「なぜ…」と自分を自責して、至らなかったことに囚われていては過去を生きることになってしまい、かけがえのない今を失ってしまいます。
 
 「もしも〜だったら」「もっと〜」と言うように、未だ来ない未来を憂いていても、この辛さが続くのかと心配していては未来を生きることになってしまい、かけがえのない今を失ってしまいます。
 
 過去のことを振り返り教訓とするのはいいこと。
 未来のことを考え備えるもいいこと。
 ただ、過去や未来に生きることは現在の自分を否定することになり、かけがえのない今を否定するのはよくないこと。
 亡くなったパートナーと一緒にいたあの時の今の命を否定することになってしまいます。
 亡くなったパートナーが教えてくれた何よりも大切な今のこの命(時)を大切にすること。
 
 私たちがパートナーと過ごした時間は、その時いつも今を共に生きていたのであり、他のことなど考えず今の命そのものを感じていたので、とても楽しい幸せを感じていたはずです。いいことも、わるいことある、人生の瞬間をありのまま受け入れ、共に地球で生きていることのかけがえのないプレゼントを手にしていたのです。
 しかし、共にいることが当然であるかの幸せな時には、このプレゼントのことを忘れてしまっているのもです。
 亡くなってからは、どこにいても、どんな時も、いつの一緒にいるのに幸せを感じずにいるのです。
 あの時と同じ幸せなのに…。
 
  現在とはありもままということであり、かけがえのないものである。
  そうなるべくしてなった現在を受け入れ、今を生きること。
  過去の後悔をすること、未来を憂うことは苦しいこと。
  今を生きていないのは辛いこと。
  過去もその時は現在であったし、未来もやがて現在になる。
  現在の瞬間こそが大切なのであり、永遠も常に現在なのである。
 
 本当に愛するとは、好きな相手のありのままの全てを受け入れてあげることである。とゲーテの言葉にもあるように、生も死も含めてあいしてあげてこそ、本当に愛しているということなのではないでしょうか。
 亡くなって悲しいのは当然のこと、その悲しみも含め全て受け入れてあげることがパートナーを本当に愛することになるのです。
 亡くなったありのままを受け入れてあげて、それを活かすことが共に生きることになり、この想いが永遠の愛に繋がるのです。
 
 「活かす」とは、水と音を表す舌で構成され、勢いよく流れる意味になり、転じて「いきる」の意味に用いられます。この「いきる」には、生まれる、命を保つ、暮らす、命が助かる、生き返るなどの意味があります。
 水とは涙、舌の音とは泣くこと、いっぱい泣くこと、転じて元気になることがパートナーを活かすことになり共に「いきる」ことになるのです。
 いっぱい泣いて早く元気になることが供養にもなり、死を活かすことで死は死でなくなり、新たな生を育むこと(生まれる)になる。
 そして、これからの人生を一緒に生きること(命を保つ)になる。
 いつでも、どこでも、心の中で一緒にいること(暮らす)を感じ、感謝の気持ちで今という新たなお互いの命(命が助かる・生き返る)を「いきる」のです。
 いつまでも離れることなく常に一緒で、時間や空間を越えた愛情が心と一緒になり共に生きて行くのです。
 それ自体が財産であり、素晴らしいもので、いつも一緒の幸福を感じて下さい。
 このかけがえのないプレゼントをしっかり受け止めてあげて下さい。
 一人でないパートナーから貰ったこの命(時)を大切にしたいものですね。
 
更新日時:
2002/07/12
   祈りと想い…
 祈りとは、本来的には崇拝対象としての神や仏と信仰者との内面的な交わり、対話を意味し、懺悔、感謝、救済、神仏との合一、願望の達成などをその内容とする。
 一般的には、失望・落胆・失意・不安などの逆境や危機に直面したときに現れる人間の基本的な本能とも言うべき願心をさす。
 仏教語辞典にはこのように記載されております。
 
 一般的には、失意や不安などの逆境などに現れる人間の本能的な能力であるとされ潜在的な扱われ方をされています。
 この祈りが日常的でないのは、祈りを自己利益のために使いがちだからで、他者のために使えない心からではないでしょうか。
 自己のためではなく、他者のために純に祈ることは愛という日常的なことであり、本能的な心と心と交わり、魂と魂の交流であるから伝わる(叶う)のです。
 この祈りには、言葉や宗派、伝統・地域により無数の表現方法を持つが、共通する心理として、内面的な交わり・対話があげられます。
 この内面的な交わり・対話とは、思い出してあげることであり、心に思い浮かべ話し掛けてあげることであります。
 特別な儀式や言葉、呪文など必要ではなく、素直な心と感謝の気持ちがあればできる日常的なことなのです。
 亡くなったパートナーのことを祈ったり、思ったりすることは、一種の波動のようなものであり、どんなに離れていても伝わるものである。
 この波動には波長があり、その波長は人それぞれによって異なっており、この波長が相手と一致した時に、思いが伝わるのです。ちょうどラジオのように、周波数は目には見えないが、受信する側の周波数と一致すると伝わるのです。
 魂となった彼らは、心に愛情を抱いているだけで、生前と同じ愛の波動を感じ取ってくれているはずですよ。
 可愛がっていた彼らの毛触りや鳴き声はなくても、笑顔で過ごしたあの日々は私たちの心に宿っています。
 共に過ごした時間は確実に存在します。
 思い出して話し掛けてください。
 魂は想いに留まり、私たちの心に宿っています。
 亡くなったパートナーのことを思い出してあげることが祈りになり、相手が見えなくても確実に届く愛なのではないのでしょうか。
 
 波動の性質に同質の波長は引き合うことがあります。良い波長には良い出来事が起こり、感謝する波長には感謝せざるおえない出来事が起こるものです。
 亡くなったパートナーに「いままでありがとう…」と感謝の気持ちを想うとき、悲嘆に沈んだ心を支えてくれる家族や友人・恋人の存在に気づき、悲しみを共感してくれる仲間や優しい言葉に出会ったりするものです。
 そんな経験ありませんか?
 
 それは、パートナーの方も同様の気持ちを抱いているからで、同質の波長が引き合っているから感謝する出来事に出会うのです。
 
  素直な心で物事を受け入れ感謝するとき、
 人生は異なって見えてくることでしょう。
更新日時:
2002/07/12
   選択と後悔…
 パートナーとの別れで必ずと言っていいほど、私たちは自分の行いに後悔します。
 ペットとの別れで言うと、「何でもっと早く気づいてあげなかったのか」
という病気や死に対する自責の念。
 「こんなことなら、あの時こうしてあげればよかった。」という後悔の念。
 「最後を看取ること」についても、選択があります。
病院で死を迎えると「最後を看取ることができなかった」、
自宅で死を迎えると「病院に連れて行けば良かった」
と、どちらの道を選んでも後悔するのです。
 その時その時に最善と思った行動を選択したにも関わらず、後悔するのは愛するパートナーが亡くなったからであって、その選択肢には本来どちらも後悔はないのです。
 
 この後悔は人間側のものであって、パートナー側から見てみるとどうでしょう。
 自分の好きな飼い主が自分のためにいいと思って選択してくれたことで、たとえ病院で死を迎えても淋しいことではなく、自分のためにしてくれたことなので感謝しているでしょうし、自宅で死を迎えても、もっと長生きできたかもというより、自分のことを考えて一緒にいてくれたので、感謝していることでしょう。
 形ある物はいつかは壊れ、辛いことではありますが、生ある者には必ず死があります。
 後悔しても始まらないことを死でもって教えてくれているので、「後悔すること」を教えてくれた教師であり、その役目を果たした彼らは今回の生での最後の課題をクリアすることになます。
 それにより、さらに魂の霊格をあげることができるのです。
 彼らは、後悔しないように今を生きることを教えてくれたはずです。
 
 生前は精一杯生きることで…
 
 死後は想いを残すことで…
 
 生も死も関係なく命を表現しているのです。
 
 「後悔しても始まらない」と言うのも事実ですが、
 “後悔して始まる”真実もあります。
 
  だから、彼らのためにも前向きに後悔して人生の幅を広げたいものですね。
更新日時:
2002/07/12
   火葬と土葬…
 ペットが亡くなってペット霊園で、火葬する方が増えていますが、まだまだ地域てきには土葬する人も多いようです。(私のいる栃尾とかね。)
 火葬と土葬とどちらを選ぶかは、飼い主さん次第ということになりますが、私は火葬をお薦めます。
 ペット霊園としては経営上の理由からそのように薦めていると思われるかもしれませんが、理由は他にあります。
 まず、疫病や病原菌など衛生法上の観点から土葬は良くありません。
 次に、土葬するにあたっては、深く掘らないと他の生き物に掘り起こされる可能生があるので、それだけは避けたいと思います。もし、土葬するなら臭いが上がらないくらい深く掘ることを薦めます。
 
 ここからが、僧侶としての見解です。
 
 土葬する心情を考えると、思い出の場所や庭に埋葬してあげたい気持ちと、自然に帰してあげたいという考えも十分に理解できます。
 これらの点については、同感するところがあるので、異存はありません。
 ただ、そのまま土葬するとなると、遺体はやがて腐敗して虫がわいてきます。この感情論もありますが、派生したバクテリアや微生物、虫などは、一時的に派生したもののその後は拠り所をなくして、死んでしまうことも多いのです。
 そのような諸生物たちをむやみに誕生させて、死を迎えさせることは、命の点からどうなのかな?と疑問を感じてしまいます。
 もちろん、それを糧に生物はまた派生していくので、どこを取っても自然のサイクルの一つであり、正論で疑いの余地はありません。
 
 ず〜と以前のことなので正確なことを憶えていないのですが、チベット僧の葬儀法に鳥葬、河葬、土葬と区別され、生前の行いによって葬儀法が決まるそうです。
 徳の高い人は鳥葬といって、遺体を鷹に食べさせて天空に昇り、次に河葬では遺体を川に流し、生き物に施しを与え大海に戻り、土葬においては虫に食べられた上に、拠り所がなくなった虫たちは共食いをし、ほとんどが成体になることなく死んでいく不本意な葬儀法で、生前の行いが悪い人は死しても報われないというようなものでした。
 また、身近な所では、家や工事をする際にお祓いをして安全を祈願します。この時に土地を清めますが、これはその土地にいた諸生物などの住処を奪い、殺めてしまうこともあるので、事前に諸生物たちの供養をして、祟られないようにすることが、ひいては工事の安全に繋がるのです。
 これらの考え方からも、小さな生き物のことを考えると、そのままの土葬には賛成できません。
 
 だから、土葬するのであれば、まず火葬してお骨にし、埋葬する土地に塩を播いて、その場所にいた生き物たちに供養をし、遺骨を土葬することをお薦めます。
 お骨は水分に溶けやすいので、この方がより早く自然に帰してあげられます。また、骨の成分は植物の育成を促進させますので、思い出の場所にある土・水・空気の循環に馴染むのではないでしょうか。
 このようにして土葬・埋葬することが、生き物を愛するペットのお坊さんとしてはいいのではないかと思っています。
 
 一寸の虫にも五分の魂があると言いますように、小さな命にも想い配れる人になりたいなぁと思う僧侶です。
 考え方の問題ではありますが、それならちょっと考えてみてはいかがでしょうか?
更新日時:
2002/07/12

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